豪華客船「ゴールデンフリース号」での大騒動が幕を閉じ、洋上の熱気がゆっくりと冷めやらぬ中――キヴォトス本土の各学園行政の中枢では、その「アフターケア」と「ツケ」の処理という名の恐ろしい現実が押し寄せていた
ミレニアムサイエンススクールの行政中枢、「セミナー」の執務室
午後の静かな日差しが差し込む室内で、タチカはいつも通り積み上がった書類の山と向き合い、黙々とペンを走らせていた
セミナーの副会長として、連日の過密な行政業務や各部活からの予算申請の処理をこなす日々。黒崎コユキが持ち逃げした資金とデータの件でここ数日は生きた心地がしなかったものの、現場には優秀なC&Cと先生が向かっている
タチカは彼らを信じ、自分にできる行政作業を整えることで胃の痛みに耐えていた
カチャリ、とドアが開く音が響く
「タチカ副会長、お疲れ様です。……たった今、C&Cのネル先輩から連絡が入りました!」
入ってきたのは、会計の早瀬ユウカだった。端末を手に、どこか晴れやかな、しかし若干疲れの混じった表情で報告を口にする
「コユキの身柄ですが……無事に現地で確保されたとのことです! 持ち出されたセミナーの一部の活動資金および持ち出されたファイル等も、全て無傷で回収に成功したそうですよ!」
その言葉を聞いた瞬間、タチカはふっと肩の力を抜き、手に持っていたペンをデスクに置いた。胸の奥に支えていた重い泥のような塊が、スッと溶けていくのを感じる
「……そうですか。よかった……。本当に、無事に回収できてよかった……。これでミレニアムの予算にも穴を開けずに済みますし、セミナーの信用問題も間一髪で踏みとどまれましたね……(よ、良かったぁ……これで下手に外交問題とか考えずに済む……)」
胸を撫で下ろし、穏やかな安堵の笑みを浮かべるタチカ
しかし、ユウカはそこで言葉を区切ると、何やら気まずそうに、手元の端末の画面を慎重に読み上げた
「あ、あの……タチカ副会長……。実は、その……報告には続きがありまして……」
「え? 続き……ですか?」
タチカが首を傾げると、ユウカはゴクリと唾を飲み込み、冷や汗を流しながら言葉を続けた
「はい……。コユキが持ち出したデータの中に、実はネクストライスクールとの極秘共同開発に関する機密データが含まれていたようなのですが……。あちらの生徒会長である西条ハレカさんに……その、ほぼ全ての事実が把握てしまったとのことです……」
ピタッ
タチカの動きが、完全に停止した
部屋の中の空気が一瞬で凍りつき、時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く
「……え?」
タチカは静かな声で、静止したまま呟いた
「あ、あの……タチカ副会長……?」
「ユウカさん……すみません、私の聞き間違いかもしれません。もう一度……もう一度だけ、おっしゃっていただけますか?(え?聞き間違いじゃないよね?う、嘘だと言って欲しいなぁ……?)」
タチカの顔から、完全に血の気が引いていく。その瞳は焦点が定まっておらず、声は微かに震えていた
ユウカは申し訳なさで身を小さくしながら、ゆっくりと、しかし容赦なく現実を言い直した
「……はい。コユキが持ち出したUSBの中に、ネクストライと共同開発していた『新規格特殊弾薬』の初期データが入っていまして……船内でハレカ会長本人に直接追跡され、現場で全て露見いたしました……。ハレカ会長は大変ご立腹だったそうで……後日、正式に『お話し合い』の場を設けるとおっしゃっていたと……」
「――っ!?」
その瞬間、タチカの脳内で何かが激しく弾け飛ぶ音がした
西条ハレカ。ネクストライスクールの生徒会長であり、外交・政治・行政において一切の妥協を許さない、キヴォトスでも屈指の凄腕の交渉役
ただでさえミレニアムの問題児が迷惑をかけた上に、彼女たちの学園の重要機密にまで自校の失態で危機を及ぼしたのだ
もしこれが正式な外交問題として突かれ、賠償や制裁を要求された場合、セミナーがどれほどの地獄を見ることになるか――タチカの優秀な頭脳は、コンマ一秒でその最悪の未来予想図を弾き出してしまった
「あ……が……っ」
「タチカ副会長!? お顔が真っ白ですよ!?」
タチカは胸のあたりを両手で強く押さえ、ガタガタと膝を震わせた。視界がぐにゃりと歪み、天命が尽きたかのような凄まじい衝撃が胃袋をダイレクトに破壊していく
「あ……ハレカさんが……お怒り……っ……ミレニアムの行政が……ネクストライとの外交が…………っ」
「タチカ副会長! しっかりしてください! タチカ副会長――っ!?」
ユウカの悲鳴のような叫び声も虚しく、極度のストレスと胃の激痛によって限界を迎えたタチカの意識は途切れ、彼女はその場に崩れ落ちるように倒れ伏すのであった
それと、ほぼ同時刻――
ネクストライスクール本館 生徒会室
「……ふう」
赤坂レイカは、ボーイッシュな黒髪のウルフカットを軽くかき揚げながら、デスクの上に山積みになった書類を片付けていた
ハレカ達がいない分もレイカはそれを補う為に必死に頑張っていた……
「ハレカたちも、豪華客船でのバカンスからそろそろ戻ってくる頃か……。あいつらが留守の間、トラブルが起きなきゃいいんだが……」
そんな独り言を漏らした直後、デスクの上に置かれた外部直通の固定電話が、ジリリリリ! とけたたましい音を立てて鳴り響いた
「ん……? 外部からの直通か?」
レイカは受話器を取り、いつも通りの男らしく砕けた口調を少しだけ抑え、応答した
「はい、ネクストライスクール生徒会です」
『あ、あの……っ! ネクストライスクール、赤坂レイカ様でしょうかっ!? オデュッセイア海洋高等学校、警備本部および乗船管理統括責任者でございますっ!!』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、血相を変え、今にも泣き出しそうな悲鳴交じりの声だった
「……? ええ、そうですが。オデュッセイアの方ですか? 一体どうされました――」
『この度はっ! 誠にっ! 誠に申し訳ございませんでしたぁぁぁーーっ!!!』
受話器が割れんばかりの大音量で響き渡った平身低頭の謝罪
レイカは思わず受話器を耳から遠ざけ、片眉をピクリと跳ね上げた
「……は? 謝罪……? ちょっと待ってください、一体何のことです?」
『は、はいっ! 実は本日、我が校の誇る超大型豪華客船「ゴールデンフリース号」におきまして……我が方の警備組織の重大な手違い、および独断専行による暴走により……貴校の生徒会役員であられます街肩カリネ様、立火ジュカ様に対し、極めて不当かつ理不尽な身分剥奪およびCクラスへの強制降格処分を行ってしまい……っ!』
「――は?」
レイカの瞳から、一瞬で温度が消えた
受話器を握りしめる手にキュッと力が入る
『さらにはっ! その失態を隠蔽しようとした警備主任が、正式なAクラスゲストであられる西条ハレカ生徒会長様をも不法侵入者として威嚇射撃し……貴校の皆様をテロリスト扱いして拘束しようとするという、あってはならない暴挙にまで及びました……っ!』
「……………………」
レイカは無言になった
脳裏に、理不尽に追われ、銃弾を浴びせられる部下たちの姿が浮かび上がる。そして何より、あの完璧主義で外交のプロである西条ハレカが、どれほどの怒りを覚えてその場に立ち塞がったかが目に見えるようだった
(カリネとジュカが不当降格……? ハレカに銃口を向けただと……? オデュッセイアの警備陣、正気か……!?)
「……っぐ……」
突如として、レイカの胃の奥からズキリとした鋭い痛みが突き上げてきた
あまりの理不尽なトラブルのスケールと、ハレカが持ち帰ってくるであろう外交問題の重圧を想像し、胸がムカムカと苛まれ始める
だが、ここで取り乱せばネクストライの生徒会としての威信に関わる。レイカは胸を強く押しつけ、冷や汗を流しながらも、どうにか冷静で男らしい声を作って返した
「……状況は理解しました。我が校の役員たちに対して、そこまでの暴挙を働いたとなれば……これは単なる現場のミスでは済みませんよ。我が校としても、正式な抗議と相応の対応を検討せざるを得ません」
『ひっ……! お、おっしゃる通りです! ぐうの音も出ません……! ですのでっ!』
電話の向こうの相手は、ガクガクと震える声で言葉を続けた
『今回の件は完全に我が方の100%の落ち度であり、貴校との外交的破綻を避けるため……我がオデュッセイア海洋高等学校より、正式なお詫びの品として、最新鋭の“船”を1隻、貴校へ無償譲渡させていただきたく存じます……っ!』
「……船?」
レイカは少しだけ拍子抜けした
不祥事のお詫びに小型の巡視艇や連絡船を譲渡するというのは、海洋学校であるオデュッセイアとしてはあり得る手打ちの形だ。ネクストライとしても、水上での移動手段が増えるなら悪くはない
「……まあ、船くらいなら、こちらとしても受け取らないわけではありませんが。……ちなみに、どのような規模の船ですか? 小型警備艇か何かで?」
『いえっ! 誠意を示させていただきますため、我が校が保有する大型警備艦――排水量5,000トンクラスの艦艇をご用意いたしました!』
「……はい?」
レイカの手が、ピタリと止まった
「すみません、ちょっとノイズで聞き取れませんでした。排水量、何トンとおっしゃいましたか?」
『あ、失礼いたしました! 訂正いたします! 正しくは排水量8,000トンクラスでございます!!』
「……は?」
レイカの思考が、完全にフリーズした
(は……? 8,000トン……? 8,000トンって言ったか、今……?)
レイカは前世の記憶と、ミリタリーに関する記憶を猛スピードで検索した
排水量8,000トン
それは、ちょっとした小型船や連絡艇などというレベルでは断じてない
現代地球における軍事基準で言えば、「イージスシステムを搭載した大型ミサイル駆逐艦」や「大型巡洋艦」に匹敵する、紛れもない巨大軍艦のサイズだ
(待て待て待て! お詫びに船を贈るってレベルじゃねえぞ!? なんで一学園のお詫びで、実質的な軍艦クラスの大型艦艇が丸ごと一隻ポンと譲渡されてくるんだよ!? メンテナンス費どうすんだ!? 係留する港は!? 操艦人員は!? 連邦生徒会への登録申請は不法武装で引っかかるだろ!!??)
「あ……あの、オデュッセイアさん……!? 8,000トンって、それは流石に――」
『では! 書類と譲渡手続きの詳細は後ほど送付いたします! この度は本当に申し訳ございませんでしたぁぁぁっ!』
プチッ、ツーツーツー……
相手はレイカが反論する隙を与えることなく、恐怖から逃れるように一方的に電話を切ってしまった
受話器を持ったまま、レイカは固まった
(8,000トン……。大型船……。ハレカの怒り……。オデュッセイアとの不祥事……。連邦生徒会への書類仕事……。維持費……。操艦要員……)
怒涛のように押し寄せる現実の数字と、今後発生するであろう地獄のような事務処理、そして外交摩擦の恐怖
ハレカ抜きで頑張っていたレイカの過密日程で元々弱っていた胃袋が、ついに限界突破の悲鳴を上げた
「あぐっ………………っ」
言葉にならない呻き声が漏れ、レイカの視界から色が失われていった
「リーダー! AIRFLY部の到着予定時刻の連絡が入ったっすよ~!」
バタンと威勢よく執務室の扉を開けて入ってきたのは、生徒会補佐の霧状ヘルタだった
「あれ? リーダー?」
応答がない。デスクの奥で、レイカは背もたれに深く寄りかかったまま、受話器を耳に当てた状態でじっと静止していた
「なんすか、集中して書類読んでるんすか?……リーダー?」
不思議に思ったヘルタが、トコトコとデスクの脇まで歩み寄り、もう一度声をかけようと顔を覗き込んだ――その瞬間
「えっ……!? り、リーダーぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
ヘルタは凄まじい悲鳴を上げた
そこにいたのは、受話器を握りしめたまま、両目を完全に白目にして口から魂を吐き出すように気絶している赤坂レイカの姿だった
――数日後
ミレニアムサイエンススクールの医務室、およびネクストライスクールの救護センター
奇しくも同じタイミングで「胃の破滅」を迎えたミレニアムの八金タチカと、ネクストライの赤坂レイカ両名は、医師から「急性ストレス性胃炎および重度の過労」との診断を受け、強制的にすべての業務から離脱・絶対安静を命じられることとなった
倒れてから目が覚めた後も、二人のダメージは深刻を極めていた
胃壁がボロボロに荒れ果てた二人が、安静期間中の三日間にまともに口にすることができたのは、固形物など一切入っていない、極限まで薄められた「胃に優しいお粥」ぐらいしかなかった
「……うぅ……お粥の味しかしない……。固形物が食べたい……ハンバーグが食べたい……」
ベッドの上でゲッソリと頬をこけさせ、スプーンでお粥をすくいながら力なく呟くレイカ
一方、ミレニアムの医務室でも――
「……うぐ……ハレカさんの笑顔が……夢に出てきます……。お粥すら……胃に染みます……」
同じく涙目でお粥を口に運びながら、精神的トラウマと胃痛に震えるタチカの姿があった
その後、なんとか体調を持ち直して業務への復帰許可が出たものの、二人の受難はまだ終わっていなかった
レイカは今回オデュッセイアから譲渡されることになった8,000トン級大型艦艇の登録・受入手続き、連邦生徒会との調整、タチカは不祥事に関する外交的処理やコユキのやらかしの処理など、山のような特大案件が待ち構えていたためである
そのため、レイカは本校の執務室ではなく、行政や連邦生徒会との協議がスムーズに行えるDUに位置するネクストライの管理ビルにしばらく詰めて仕事をこなすことになったのだった
「はぁ……DUのビルに缶詰めか……。起き上がって早々、お粥腹のままでこの書類の山と戦うことになるとはな……」
DUのビルでデスクに向かい、未だに少し痛む胃を押さえながら溜息をつくレイカ
豪華客船でのバカンスと裏での大立ち回りは無事に幕を閉じたものの、その裏で巻き起こった真の犠牲者たちは、DUのビルやセミナーの執務室でお粥の後味と激務に耐えながら、己の胃の完全回復をただひたすらに祈るのだった――