if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
※次回投稿は明日、第一章エピローグになります。
ある日の放課後、堀北鈴音はコーヒーを片手に、中庭のベンチに腰掛けていた。
特に用事があるわけではなく、すぐ寮に帰る気にはなれなかったからだ。遮音性に優れた鉄筋コンクリート製の部屋は、ここ最近やけに耳鳴りがするようで、どうにも居心地が悪い。
かといって賑やかなカフェもどこか場違いな感じがして、結局わざわざテイクアウトを頼み、ベンチで物思いに耽っているふりをしている。
特別試験も丁度一週間前に終わり、これといって考えることもないのが、彼女には好都合だった。
残り少なくなったコーヒーを飲み切るため、蓋を外す。
カップを覗き込むと、また彼との記憶が脳裏をよぎった。綾小路が初めて見せた笑顔。あの店のコーヒーを買うたびに、なぜか思い出してしまう。
もっとも、今もなお彼の移籍を嘆いているわけではない。特別試験で負けたことも含め、時間とともに少しずつ癒えてゆく。
一之瀬に気持ちを吐き出したことや、綾小路との破局で自分以上に傷ついている軽井沢と話したこともあって、今は前を向いていられる。
ただ、治りかけの瘡蓋が気になるだけ。彼女はそう考えていた。
「……帰りましょう」
空っぽになったカップは、もう中庭に居座る大義名分を与えてはくれない。あえてスクールバッグを置いたままゴミを捨てに行った。
片隅に置いてある小さなゴミ箱には、同じ容器がふたつほど見える。彼女はいつものようにフタとカップを分けて、それぞれ投げ入れた。
ベンチに戻ると、伊吹澪が腕を組み、仁王立ちで待ち構えていた。左手は右の上腕を掴んでおり、その部分がヨレている。
「堀北、こんな所で何してたの?」
「別に何でもないわよ。あなたこそ何か用かしら」
事もなさげに話す堀北に、伊吹は舌打ちを返す。
ブレザーの皺が一段と深くなった。
「毎日毎日、飽きもせず黄昏てるくせに『何でもない』ですって。バッカみたい。あんたがいつまでもうじうじしてるの見てるとイライラすんのよ」
「人間観察の趣味があったなんて驚きね。もっと生産的な活動をおすすめするわ。例えば、勉強とかね」
「この前の特別試験でうちらに負けた奴の台詞? 冗談だけは上手くなったみたいね」
「あなた全体戦のお荷物だったでしょう? 他人の褌で勝ち誇ってる方がお笑いよ」
いつも通りの軽口の応酬。だが、特別試験の話が出た途端、堀北の言葉には熱が籠りだしたようだった。
伊吹は再度舌打ちをし、不満をぼやく。
「……ったく。なんだってあたしが……。あんたがやれば良いじゃないの」
「何か言ったかしら」
「なんでも! 堀北も、いつまでも綾小路に過保護にされてないで、さっさと立ち直りなさいよ。あとそろそろ飯食わせて」
「あなたって人は……」
堀北はあまりに傍若無人な伊吹の振る舞いに頭を抱えるしかなかった。
しかし、無視できない言葉があったため、ハッと顔を上げる。
「ちょっと待ってちょうだい。今、綾小路くんに『過保護にされてる』って言ったわよね? どういう意味なの」
「それを聞きたいなら……わかるでしょ?」
途端に勝ち誇る伊吹に再度頭を抱える。
彼女との付き合いはかれこれ一年弱になるが、子供っぽい所は本当に変わらない。無人島試験でスパイをやってた時の方がマシだったのではないか、と堀北は思っている。
これ見よがしにため息をつきつつ、スクールバッグを引っ掴む。口元を曲げたままの伊吹はそれを待っているようだ。ここでようやく、堀北も彼女が気遣ってくれていたのかと気付く。
だが、あまりに幼稚な要求と、ちょっとの気恥ずかしさから、礼を言うのは止めておいた。
彼女が調子に乗り出すのは目に見えていたから。
◇
伊吹を伴っていつものスーパーへ向かう。
最近は櫛田や伊吹に料理を振舞っておらず、また気乗りしないこともあって、食材は切らしがちだったためだ。
伊吹のリクエストは唐揚げ。何とも『らしい』料理に「はいはい」と返す他なかった。
要求だけを突きつけ、彼女はイートインスペースにどかりと座り込み、スマホを触りだす。どうやら、買い物に付き合ってくれるわけではないらしい。もっとも堀北自身、期待していたわけではないが。
いつも通り、野菜売り場から回る。順路を通って付け合わせのレタスやトマトを選び、合わせてレモンや生姜も手に取っていく。レモン果汁やチューブで代用すれば良いと頭ではわかっているが、どうにも料理は凝り性になってしまう。しかも、これらは日持ちしないこともあって、買い足す度にこだわりを捨てられなくなっていくのだ。
頭の中でリストにチェックを入れながら歩いていると、背後から声を掛けられた。
「私の分もご馳走してくれるなんて優しいね、堀北さん!」
「……あなたまで呼んだつもりはなかったのだけれど」
櫛田桔梗は人の良い笑みを浮かべる。周囲の目もあることから、今は猫を被っているようだ。
正直、手間を考えればひとり分増えるのに気乗りしなかったが、この状態の櫛田に反対するのは後々面倒だと、堀北は経験上知っている。後になってストレスを倍返ししてくるからだ。
「はあ……。まあ、あなたは小食だし別に良いわよ。それじゃあ献立は唐揚げだから、買い物手伝ってくれるわよね」
「もちろん! じゃあ私はお肉の方見てくるね」
あくまで親切を装っているが、どうせ高い肉を持ってくるに違いない、と堀北は呆れを隠さない。
内実はこんな振る舞いでも彼女は目を引くようで、近くにいた後輩の男子は櫛田を目で追っているようだ。
味噌汁の茗荷や豆腐も手に取り、精肉コーナーまで行くと、彼女は待っていた。
持っているのは国産のブランド物で、堀北が目を細めると、周囲を一瞥してから一瞬、ニヤニヤとした表情を見せる。
「それで、あなたは伊吹さんとグルだったの?」
「半分正解かな。……正直ここじゃ都合悪いから、後にしてもらえる?」
『半分正解』との言葉が気にかかる堀北だったが、有無を言わせない櫛田の様子に、大人しく引き下がる。
少し早足になって残りの買い物を済ませることにした。幸いなことに基本的な調味料は切らしていない。櫛田から鶏もも肉を受け取り、レジへ向かう。
「あなたたちと一緒だと、出費が嵩んで仕方ないわね」
「Aクラスの収入なら問題ないでしょ。十万よ十万。まさか入学当時より増えるなんてね。……ま、それも綾小路くんのおかげだったわけだけど」
櫛田の口から綾小路の話題が出たことが、堀北は少し意外だった。今まで彼女は彼について触れることを避けているように見えていたためだ。
レジに並ぶと同時に彼女の方を見遣る。その表情はどこか面白くなさそうで、堀北は綾小路絡みで話すことがあるのだと推測した。
「櫛田も来たの。あたしの取り分が減るじゃない」
「えー? 伊吹さんは私が来るの……嫌?」
「今のあんたは本当に嫌」
「家主からすれば、あなたたちふたりとも嫌よ」
三年生以前なら嘆息しつつも手料理を振舞ってあげていたが、どうして今なのか、と堀北は僅かに不満を覚える。
だが、ふたりとも何か綾小路と接触したであろう口ぶりだった。特に伊吹は彼と同じクラスでもあり、その情報の価値は高いと見積もる。
個人的にも、またクラスのためにも、できる限り情報は欲しいと堀北は考えていた。
スーパーから寮までの道のりを三人で並んで歩く。側から見れば友人付き合いのように見えるだろうが、実態はただ飯をたかられているだけ。
そんな構図が我ながらおかしくて、少しだけいつもの調子に戻っていた。
「もしかして、伊吹さんも頼まれた口?」
「そ、綾小路にね。そういうあんたも?」
「私は綾小路くん『たち』かな」
「……私は何も聞いていないのだけれど」
彼女らは案の定、綾小路に何か伝えられていたらしく、堀北そっちのけで情報交換をしている。櫛田が荷物を半分持っていなければ、置いてけぼりな状況も相まってフラストレーションが溜まっていたかもしれない。
結局、本題に掠る程度の雑談をしつつ、堀北の自室まで向かった。
いつも通り、堀北がエプロンを身に着け調理に集中する一方で、ふたりは各々自由に過ごす。無論、手伝いはしない。
「ふたりとも、出来たわよ」
「私が一番大盛りのやつ!」
「全部変わらないでしょ」
形式的な「いただきます」の直後、伊吹は唐揚げにがっつく。落ち着き払った仕草で付け合わせから食べる櫛田とは対照的だった。
唐揚げはベーシックな醤油味にさっぱりした塩麹、そして市販のパウダーを使ったスパイス味の三種類。
一種類でもいいはずなのに、結局こんな手間をかけたのはなぜだろうと、堀北はふたりを見回して思う。
答えが出なかった腹いせに、せめて元は取ってやろうと口を開いた。
「それで伊吹さん、私が『綾小路くんに過保護にされてる』って話はなんだったのよ」
「んー、それ? あいつに言われたのよ」
「あいつって……綾小路くん?」
「そ。堀北が落ち込んでるから蹴り上げて立ち直らせてこいって。」
「なんで? 私と彼はもう敵同士のはずよ」
「さあ? 私はあんたらのタダ飯目当てだし。ただ、あいつは自分が関与したことを喋るなとは言っていたわね」
約束を破っておいて悪びれもしない伊吹に、堀北は思わず半目になる。櫛田も愉快そうに笑っていたが、さすがの軽挙に若干笑みが引き攣っていた。
「櫛田さんの方は?」
「私も同じで綾小路くんに頼まれたから。あと、私の方は口止めされてないよ。恐らく、伊吹さんが喋っちゃうのを予想していたんだろうね」
綾小路に読まれていたとわかった途端、伊吹は面白くなさそうな顔をする。顰めっ面のまま塩麹唐揚げを掴み、一口で頬張った。
「『半分正解』って言ったのは、彼に言われなくても堀北さんに協力するつもりだったから。他でもない私のためにね」
「……どういうこと?」
「意趣返しだよ」
一度言葉を区切り、音も立てずに味噌汁を啜る。相変わらず内面の苛烈さとは程遠い、上品な所作だと堀北は感心する。
そのままスパイス唐揚げを小さく一口齧り、たっぷり咀嚼した後、飲み込んでから話し始めた。
「……彼女にはね、私の得意分野でも勝てないってわかってる。だからって下に見られて良い気分はしないんだよ? 私じゃ勝てないと高を括って舐めたちょっかいかけてきたこと、後悔させてやろうと思ったの」
「……もしかして、一之瀬さん?」
「せいかーい。私の精神衛生のためにも、それに
何とも彼女らしい言い分だが、櫛田が一之瀬と敵対を選んだことには驚きを隠せない。
櫛田桔梗は学年一の世渡り上手と言っても過言ではない。あの『聖人』に刃を向けることがどれだけリスクを伴うか、理解しているはずだから。
だからこそ、クラス間競争を一枚挟むことで攻撃に正当性を持たせようとしているようだ。
「堀北には渡りに船でしょ。足りない心理戦、情報戦を私が代わってあげようって言ってるんだから。他三人のリーダーに勝つためには大人しく協力されときなよ」
「いえ、あなたの助力はとても心強いわ。ただ、一之瀬さんにそこまで悪感情を向けるとは思わなかったから」
「綾小路に半ば脅される形で頼まれたのもあるけど。あいつは堀北に期待してるからね。Aクラスリーダーとして戦っていけることを望んでいるみたいだから」
綾小路が期待しているという言葉を聞いて、意識に反して頬が緩んでしまう。そんな自分を誤魔化すために、醤油味の唐揚げを口にする。
適度に効いた生姜と塩気を感じる衣が、鶏もも肉のジューシーさを引き立たせていた。アクセント程度に香るにんにくもいい仕事をしている。正当派の唐揚げとはこうでなくては、と堀北は一人得意げになった。
冷静になると、彼がなぜ自分を育てようとしているのか疑問に思った。同じクラスならともかく敵同士となった今、彼に利などない筈だ。
「そういやあんた、一之瀬の件には気付いてないのね。──なら好都合。いい事思いついちゃった」
「あなた、何を企んでるの」
途端にニヤリと口角を上げる櫛田に身構える。この表情の彼女は碌なことをしないと、堀北は嫌というほど知っているからだ。
「堀北あんた、――綾小路のこと好きでしょ」
「? ……? ──ッッ!!? ちょっと何言ってるの櫛田さん!?」
あまりに衝撃的なひと言に堀北は食ってかかる。普段の彼女からは想像もできない動揺を見せ、食器でガチャンと音を立てた。
「私が……綾小路くんを……?」と譫言のように繰り返す堀北を見つめ、櫛田は彼女が落ち着くのを待っているようだ。その表情はただ面白がっているだけでなく、冷静に何かを考えているかのようでもあった。
「……協力を申し出た途端、こんな質の悪い冗談を口にするなんて思わなかったわ。もしかして、私で遊んでいただけ?」
「残念ながら本気だよ。私がどんだけ他人の恋愛模様見てきたと思ってるの。それにふたりを退学させようとずっと目を付けてきたんだから。堀北は私の目がまったくの節穴だって思う?」
「そこまでは言ってないわ。……けど、そんなことない……はずよ」
櫛田はなおも続ける。堀北が綾小路といる時の様子が徐々に軟化していったこと、少しずつ特別試験以外でも綾小路を目で追うようになっていたこと、綾小路の移籍に誰よりもショックを受けていたこと、学校の廊下で、ケヤキモールで、しょっちゅう綾小路の姿を探していたこと。
どれだけの理論武装を前にしても、堀北が思うのは「認めたくない」の一心だった。
仮に、仮にそれが事実だったとして、今更何ができるというのか。綾小路とはクラスの隔たりがあり、その上お互いクラスのリーダーを務めている。付き合うなど以ての外だ。
それに、綾小路は自分を冷たく突き放した。彼に気がないことなど、火を見るより明らか。
芽生えた初恋がこんな形で終わってほしくない、そう無意識に思った彼女の防衛反応だった。
「……櫛田さんはそれを私に突きつけて、一体何が目的なわけ?」
「堀北がウジウジしてる根本原因が綾小路への好意が燻ってることだと思ったから、私はそれに対処してるだけ。それに、綾小路は相当堀北を気にかけてるわけだし、そう悲観しなくてもいいんじゃないの」
思ってもいない言葉に堀北は二の句が継げなくなった。綾小路の今までの行動とはまったく矛盾しているように思える。
気にかけているなら、どうしてあんな物言いをしたのか、こっちがどんだけ気に病んだと思っているのか。そんな文句も噴きあがってきて、堀北は慌てて蓋をした。櫛田の言うことを認めるも同然で不服だったためだ。
「大方、特別試験のために大袈裟な立ち回りをしたけど、やりすぎて堀北が不調になったからせっついてやろうという魂胆だろうね。仮に落ち込んでるのが私なら、綾小路は何もしないと思うよ」
「それは同感。あいつ最近倹約してたのに、あたしが報酬を要求したら気前よく奢ってくれたわよ」
今まで食事に夢中だった伊吹も同調する。どうやら興味なさげに見えたのはふりだけで、今まで耳をそばだてていたらしい。
「あと、何で私が助けてやったって質問だったね。そりゃあ一之瀬への嫌がらせに決まってるじゃない。ご丁寧に牽制までしてきて鬱陶しかったんだから。ライバルが増えていい気味」
「あなたね……。とにかく、私が彼をどう思っていようが、クラスも違う私たちにできることなんかないでしょ」
「その辺りは堀北が自由にすれば良いんじゃない? 私はあくまで自分のためにやったわけだし、後のことまで面倒見られないから。けど、彼女ができてからまた落ち込むのだけは勘弁してよ。あいつモテるんだし」
堀北にとって、綾小路がモテるというのは腑に落ちるような、そうでないような話だった。客観的にはそうなのだろうが、一年生当初のボヤっとした一面が尾を引いており、どうにも似合わない気がしたからだ。
「一之瀬なんかそうだし、あとうちのクラスじゃ椎名と宜しくやってるわよ。……あの空気に入っていくのは、あたしでも無理」
「それに坂柳さんとも噂があるみたい。ま、『何もしない』って堀北が言うなら関係ない話だけど」
奇しくも二人はクラスのリーダーだ。龍園も綾小路には大層御執心だったこともあって、彼の意外な人気がどこかおかしかった。
「ともかく、今度の休みに会って話してみるわ。あなたたちを焚き付けたことも含め、気になることが多すぎるもの」
「あっそ。綾小路のやつ、午後は大抵図書室で椎名といるから、呼ぶなら午前の方がいいわよ。あいつ、椎名といる時は絶対に連絡返してこないから」
話し込みすぎてしまったと思ったのか、伊吹と櫛田は食事に集中し始めた。もうもうと立ち上がっていた味噌汁の湯気も、すっかり消えてしまっていた。
唐揚げと白米を咀嚼しつつ、彼女らの言葉を反芻する。未だ自分でも腹落ちしないことばかりだったが、『綾小路がモテる』という部分だけが、どうにも彼女の奥底をなぞるように存在を主張していた。
認めたくないことばかり。それでも、自分の冷静な部分は既に結論を出しているかのようで、ただ感情のまま見ないふりをしているだけ。
(何を……今更)
堀北は排気ガスのように、不快な熱を含んだため息を吐き出した。
――でも、このまま曖昧にしておくのは、一番性に合わない。
向き合わなければならないことだと理解している。どう彼と接すればいいのか、体面のいいあり方がわからないだけ。
それでも答えが見つからないなら、見つかるまで足搔いてやればいい。今までだって、そうしてきたのだから。
覚悟を決めるかのように、彼女は味噌汁を呷った。
◇
新緑が映える広い通路に、鵯の鳴き声が響く。
まだ高く昇りきらない太陽が木陰を作り出し、そよそよと風が動きを作り出している。
オレは堀北に呼び出され、指定場所へと赴いていた。
チャットアプリのピン留めが刺さったまま――返信が遅いと彼女の小言がうるさいから――のトークには、『土曜の九時半に南の広場まで来て』と簡潔な文章。少し遡れば似通った文章がずらりと並んでいる。オレも今までと同じく『わかった』とだけ返してある。
今日の呼び出しの意図は大方予想がついている。クラス間競争についての宣戦布告、あるいはつい先日、櫛田たちをけしかけたことへの小言と、遠まわしの感謝か。いずれにせよ、オレの想定を超える展開にはならないはずだ。
――そう、高を括っていた。
「来たわね、綾小路くん」
「久しぶりだな。休暇は楽しめたか? リーダー」
「あなたね……」
まずは軽く挑発をする。今回の目的は堀北が本当に立ち直っているかテストしてやること、そしてオレへの情を捨てさせ、全力でクラス間競争に挑ませることだ。
櫛田のように利害をかなぐり捨てて攻撃してくるようなら話は別だが、彼女に限ってそれはないはずだ。いつも通り、遠慮なく煽らせてもらおう。
一見すると普段と同じ堀北だが、予想以上に効いているようで、少しだけ違和感を覚える。
「あなたを呼び出したのは宣戦布告のためよ。私は、クラスみんなの力で綾小路くんを倒してみせる。これ以上、あなたの手助けは不要」
「随分大きく出たな。今までオレの助け無しでどうにかなったことの方が少ないんじゃないか」
「それには感謝をしなくちゃいけないわね。でも、あなたにも目的があったからじゃないのかしら」
堀北は探るような目つきをする。
彼女にしてみれば敵同士になってなお、お節介を焼くオレの行動は意味が分からないだろうな。オレ視点では途中で目的がすり替わっていることが理由だとわかるが、そんなこと知る由もない。
「そうだな。オレはお前のためだけに動いていたわけじゃない。オレにものっぴきならない事情があったし、お前の才能に好奇心を唆られたのもある」
「いつもいつもあなたは上から目線ね。全員を俯瞰して、何でも思い通りって言い草」
「事実そうだからな。堀北、お前はオレの思ったように踊ってくれた。今回お前がとった行動もオレが仕組んだようなものだ。伊吹と櫛田を使ってな」
挑発を重ねながらも、オレの頭の一部は冷静に堀北の変化を記録していた。
声の上ずり、視線の逸らし方、腕を組むタイミング。二年間で蓄積したデータに、また新しい行が追加されていく。
いつも通り、彼女を推し量る。これがオレの、変えようのない性分だ。
「あなたは私のことをお見通しだとでも言うつもり?」
「堀北鈴音という個人の分析は概ね済んでいる。実際、お前はオレの想定外の行動を見せていない。逆にお前はどうだ? オレという個人を何一つ知らないだろう」
「本っっ当に癪に障る言い方をするわね! あなたの秘密主義のせいじゃないの」
それはそうだ。オレの幼少期について彼女は度々探りを入れてきているが、その都度オレは警告をしている。ホワイトルーム生を除き、父親のような裏社会の人間に関わる余地を残すべきではないからだ。
フェアではない自覚はある。オレは彼女の弱さも強さも、二年間かけて丹念に採寸してきた。だが堀北は、オレの表面をなぞることしかできていない。
それを歪だと思う気持ちが、果たしてオレの中にあるのかどうか。今はまだ、判然としない。
「オレはただの『事なかれ主義者』だろ? そう躍起になる必要もないはずだ」
「思ってもないことは言うべきじゃないわよ。今学校で一番注目されている人のどこが『事なかれ主義』ですって?」
つい、二年生のような調子で会話を続けてしまった。
最近ひよりと頻繁に関わるようになって、人の機微に少しは明るくなった自信がある。その経験からすれば、多分オレは彼女に気安さを覚えているのだろう。
かつて彼女の前で無意識の笑顔を見せたことがある。オレは知らない内に随分と絆されてしまっていたようだ。
初めてオレの感情を表出させた相手。正直これは『想定外』と言えるが、彼女には黙っておくことにしよう。
「それは、お前にそれ以上伝えることもなかったからだ。オレがクラス移動をするまでは円滑に回っていただろう?」
「あなたっていつもそう。誰と関わっても常に一歩引いた位置にいて、好き勝手人を見積もって動く。誰もがあなたの物差しで測れると思いあがっているのかしら」
いよいよ憮然とした表情を隠せなくなってきている。キッと吊り上がった眦は、今にもビンタをしてくるんじゃないかと思うほどだ。
「事実お前が『想定内』から外れたことはない。悔しかったらオレからAクラスの座を守り切ってみせるんだな。そのときが初めての『想定外』になるんじゃないか?」
「人の気も知らないで……。私がどんな気持ちだったと思っているの」
「怖気づいたのか? ここ一番で日和る逃げ腰にリーダーは務まらないぞ」
最後に敵意を煽ってやる。オレからの施しはこれで終わりだ。
堀北は、何も言わなかった。
ただ、それまで忙しなく動いていた視線が、ぴたりと一点――オレの目だけを見据えて止まる。
オレの発言の直後、堀北の纏う空気が、明確に変わった。
これまでの苛立ちとは質の異なる、静かな圧のようなもの。オレは無意識のうちに、続く言葉を飲み込んでいた。
堀北は今日一番の鬼相を見せていた。
いつもの堀北であれば、ここで一歩下がり、冷静さを取り戻そうとするはずだ。売り言葉に買い言葉で熱くなることはあっても、最終的には理屈で自分を制御する。それが二年間、オレが観測してきた堀北鈴音という人間の型だった。
だが今日は違う。
苛立ちを隠そうともせず、彼女はむしろ一歩、こちらへ踏み込んできた。
そのまま一歩半あった距離を詰め、オレに密接してくる。本当にビンタでもしてくるのかとも思ったが、身構える程ではない。逆に余裕を見せつけてやればいい。
堀北がオレの胸倉を掴む。力の差からオレは前屈みにはならず、依然として彼女を見下ろす身長差。
彼女の顔は興奮のせいか紅潮しているようだ。
掴んだ襟元を、彼女はぐっと引き寄せた。同時に、踵が浮く。爪先立ちになった彼女の重心が、僅かに前へ傾く。
オレが状況を飲み込むより早く、変わるはずのない身長差が縮まる。
気づけば、視界いっぱいに堀北の顔があった。
──その刹那
──彼女の唇が、オレの唇に重なった。
「……は?」
僅か一秒にも満たない時間。オレは完全に機能停止していた。
感覚的には何も覚えていない。ただ衝撃的すぎて、キスをされたということ以外の全てが吹き飛んでしまった。
唇に残るかすかな感触に、思考が追いつかない。
いつもなら、こういう時は真っ先に自己分析が働く。この反応は何に起因するのか、どの程度の生理的変化を伴っているのか。だが今は、その回路そのものが丸ごと沈黙していた。
ただ、触れられた場所だけが、やけに存在を主張している。
「――ッ! ……これも、これもあなたの『想定内』かしら?」
彼女の声は震えていた。顔は耳まで赤く染まり、瞳は僅かに潤んでいる。見たことのない表情のまま、オレの目から視線を外さない。
オレは何も返せなかった。
珍しく面食らったオレを見て、堀北は気恥ずかしさを隠すかのように得意げな顔をしてみせた。
「ほら、あなたにも読めていなかったじゃない」
「……おい待て、突拍子もないことをしでかして『読めなかった』なんて卑怯だろうが。読み合いとして成立してない」
「ムキになるなんてよっぽど不意打ちだったようね。ほんと気分が良いわ」
「悔しいも何もあるか。意固地になってるのはお前だ。仕返しにしたってもう少し手はあっただろう」
勝ち誇った堀北がどうにも鼻について、つい捲し立てるように反論してしまう。
これからはあくまで敵同士と理解している筈だが、つい以前までのような気安さで接してしまっていた。
「いいえ、あなたは読めてなかったの。――私が、綾小路くんを好きだってことが」
今度こそ言葉に詰まってしまう。
あの堀北が、オレを?
そんな兆候はあっただろうか。いつから、なぜ、と思考は回っても一向に答えは見つからない。
「悔しがったり、恥ずかしがったり、あなたらしくないわね。珍しいものを見れたわ」
「恥ずかしがってるのはお前もだろう。……何故いきなりキスなんてしたんだ」
「それは! あなたが散々煽ったからでしょう!? 私の気持ちも知らず『想定内』だの大したことないだの言い放つ綾小路くんが許せなかったからよ!」
意気揚々とからかってきた様子から一変、彼女は再度顔を真っ赤にした。
両手で顔を覆い、天を仰いで深呼吸をする。
向き直った彼女は、至極真剣な表情をしていた。
「私は気に食わなかったの。隣にいると思っていたあなたが、想像よりずっと遠くから私を見ていたことが」
決意の籠った瞳。見慣れたようで、どこか違う色を漂わせている。
「いつからかはわからない。けど少しずつ、あなたとの距離を感じる度に踏み込みたい気持ちが強くなっていった。それはきっと、私があなたを」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込む。その代わりに、人差し指を真っ直ぐに差し向けてきた。
「だから、私は変わってみせる。あなたと肩を並べられるくらい強くなるわ。――そして綾小路くん、
先生面、という言葉に、オレは思わず苦笑しそうになる。
思い当たる節はいくつもある。彼女が壁にぶつかる度、オレは一歩引いた場所から助言めいたことを口にしてきた。それが彼女の成長のためだと、疑いもなく思っていた。
だが、それは同時にオレが常に『教える側』、彼女が『教わる側』という構図を、無意識に固定し続けてきたということでもある。
その眼差しに込められていたのは、一年生とは見違えるほど真っ直ぐな成長を果たした、彼女らしい力強さ。オレが教えていないもの。
思わず、オレの顔の強張りまで緩んでしまう。
「返事はあなたを負かした後で聞くから。そうじゃないと意味がないもの」
「……ああ。お前がオレを超える存在になること。それを望んでいるのは確かだ。……一之瀬よりも、坂柳よりもな」
オレの返事を聞くなり、堀北は踵を返して早足に去っていく。
潮が引くように、思考の冷静さが戻ってくる。コンディションを取り戻してもなお、記憶の中の彼女と、現実の彼女がうまく像を結ばなかった。
『恋愛の教科書』は読破したつもりだったが、やはり恋愛感情とは未だ理解できていないのだろうな。もう少し分析が必要だろう。
それに、あの発言だ。
一之瀬よりも、坂柳よりも。なぜあの二人の名前をあの瞬間に出したのか。オレの目的など明かす必要もなかったのに。つい漏れ出た本音がオレ自身の無意識の優先順位を暴露しているようで、どうにも据わりが悪い。
自分でも不意打ちの衝撃から目を背けているだけだとわかりつつ、堀北に出し抜かれたことを妙に直視しづらくて、オレは別の思考に勤しんでしまう。
堀北はオレを変えてみせると宣言していた。だが、そんな日は訪れるのだろうか。
オレの本質は高育に入って以来、何一つ変わっていない。それも一之瀬にも見破られるほどの筋金入りだ。
だがオレを変えて見せる存在がいるとすれば、恐らく彼女しかいないだろう、という予感はある。あの日、オレの心中に足跡を残した堀北ならば、という期待がないわけではない。
遠ざかる背中を見送りながら、オレはしばらくの間、その場から動くことができなかった。
堀北鈴音(一章時点)
学力 A(88)
身体能力 B(74)
機転思考力 B(66)
社会貢献性 A-(84)
総合 B+(77)
原作ヒロインの一人にしてもう一人の主人公。堀北クラスのリーダーを担っている。
綾小路とは入学当初からの付き合い。当初はビジネスライクな関係だったものの次第に心を開き、気づけば初恋の相手になっていた。もっとも、本人ははっきりと自覚していない様子。
彼のクラス移籍の際には裏切られた悲しみ、不安、自己嫌悪が湧きあがって不安定になってしまったが、周囲からのサポートやクラスの期待を背負い、必ず綾小路を見返してやると決意を新たにして立ち上がってみせた。ヒロインとしても主人公としても、今後の進展が期待される。
本作でもヒロインを務める。
綾小路が笑顔を見せた初めての相手であり、原作ではその時の心情を『真っ白なスケッチブックに一滴の色が付いた』と表現している。余人を踏み込ませない心中に一筆下ろすことを許された彼女もまた、『特別な存在』と言えるだろう。
堀北にとって綾小路清隆とは自らを教え導いてくれた相棒、Aクラスを巡って争うライバル、そして憧れの異性。これらを矛盾なく両立させており、彼に恋慕する一方で、クラス間競争では全力で綾小路を打ち倒そうとする。それこそ彼が望んでいることを理解しているから。
作中でのファーストキスは完全にやっちゃった系であり、ここしばらくは黒歴史に悶えている様子。しかも決定的瞬間を茶柱に見られていたという痛恨のミス。ポイントを提示してまで口止めを迫る錯乱ぶりを見せた。
現在はごく普通に接しており、時折伊吹と櫛田が居ない時に手料理を振舞っていたり、彼に頼まれて料理を教えている。「わざわざ教わらなくても言えば作ってあげるのに」とは本人の談。
元々はツンデレ属性だったが、精神的な成長に伴い現在は一応、素直に好意を伝えるようになった。もっとも経験が浅く耐性は紙っぺらのため、踏み込まれると元のツンデレが露呈する。
彼らはお互いにとって遠慮は要らず、取り繕う事なく向き合える存在と言える。綾小路の『あり方』に最も近づけるのは、きっと、彼女に違いないだろう。