if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
後書きには作者の振り返りとお知らせが載せてあります。
静かな図書室に、ページを捲る音が僅かに広がる。
奥まったオレたちの定位置は他利用者の気配が届かない場所にあり、普段彼らの立てる音は遮られているかのようだが、今日だけは鋭敏な聴覚が、誰かの囁き声や椅子を引く音を拾ってしまう。
図書室のいつもの席、習慣となっている放課後の読書、それなのにいつもとは違う時間。今日はひよりが病欠のため、一人で図書室に来ていた。
変わらないのは、どこか甘いような、古書の匂いだけだ。
(……つまらないな)
彼女に貰った栞を挟んでいた昨日の続きは、無機質で無感動で、語り手のいない紙芝居のようだ。章の変わり目で突然駄作になることなど、ありえないはずなのに。
ひよりは今、何をしているのだろうか。
病院ではただの風邪と診断されたらしいが、三十八度後半ともなれば症状も辛いだろう。
お見舞いに行き、少しでも楽ができるように食事の用意やらを代わろうと思っていたが、断られてしまった。西野にも「気を使わせるから、絶対に、止めろ」と凄まれたので、さすがに引き下がらざるを得ない。
出来ることなら、代わってあげたかった。オレは体調不良など気にも留めないのだから。
ひよりのことを思う。つい先日は、彼女らしからぬ強引さでオレに踏み込んできた。
聡い彼女は、オレがクラス間競争について色々手を回していることに気付いているのだろう。打算と謀略から離れ、本当の意味で平凡な学生になって欲しいと求められた。
その一方で彼女は『変わらなくていい』と許しを与えてくれた。オレの後ろ暗い本質を垣間見てもなお、その善性を信じてくれているのか。
まったく新しい生き方ではあるが、オレはそれに魅力を感じている。他ならぬひよりの隣なら、そんな時間でもかけがえのないものになるだろうから。
同じ日には一之瀬とも会った。
彼女も同様に『変わらないでいい』と囁く。しかし、それはひよりとは真逆の意味。
オレの冷酷な本性を見透かした上でそれを否定せず、むしろ高育で鈍ったオレの牙を研ぎ直し、更なる高みへ歩ませようとしているのかもしれない。
彼女を利用すれば、従来想定していた以上の人材を作り出せるはずだ。彼女の手を取り、『共犯者』として共に未知へと挑むことに、オレの本能は強い渇望を訴えている。
坂柳との一幕も印象的だった。
彼女は誰よりもオレの人間的な欠陥を知っていながら、変わる、変わらないといった問題には踏み込まなかった。
無条件の肯定、無償の愛と言っていたか。正直、オレにはまだ理解し難いものではあるが、父親と対峙する場合は彼女の傍にいるのが最も有効だろうな。
彼女が進んで買って出た『庇護者』としての立場に甘んじることにはなるが。
そして何より、堀北と対峙したあの瞬間だ。
まさか彼女があんなことをするとは思いもしなかった。さすがに煽り過ぎたのかもしれない。
堀北はオレを『変える』と宣言してみせた。オレが堀北に負ける時が来れば、彼女とは対等な関係になれるのだろうか。
(考え事ばかりしている……)
幾度目かのため息を噛み殺し、オレは文庫本を机に伏せた。
おかしい。この静謐な空間で活字に没頭する時間は、高育での生活における数少ない娯楽のはずだった。だが、今のオレを支配しているのは、如何ともし難い退屈と微かな虚無感だ。
小説とはこんなにもつまらないものだったのか。もちろん、本には合う合わないがある。世間で持て囃される傑作でも、人によっては道徳の読み物以下にしか思えない、という事態も全くあり得る。
そんな時は感想を愚痴ったりして、せめて元を取ってやろうとするものだ。――生憎、今日のオレにそんな相手はいないのだが。
窓越しに外を眺めた。降りしきる春霖が絶え間なく葉桜から垂れ落ち、一粒、また一粒と水たまりに吸い込まれていく。
しとどに濡れる花壇のパンジーは予測不能に揺れていた。
――まったく、人のことは言えないな。
オレの退屈は原因を探るまでもない。隣の席にひよりがいない。ただそれだけのことだった。
ひよりと過ごす時間は特別ではない。読んだ本の感想を交わし、時に無言でページを繰る。それだけの日常。しかし、その『それだけ』の積み重ねが、オレの中でどれほど大きな割合を占めていたのか。
思えば一年生の秋冬ごろからの付き合いだ。違うクラス、それもオレを標的に据えていた龍園のクラスでありながら、今日まで友人関係を続けられたのは、偏に幸運以外の言葉では言い表せない。
そうして、次第にひよりの存在はオレの中で大きくなっていったのだろうな。
ホワイトルーム生に狙われるようになった二年生でも、彼女の傍で安らぎを求めた。いつしか、オレは無意識下で彼女を計略に利用することを忌避するようになった。そして、ひよりのために計画を曲げてまでクラス移籍を決意した。
――明日も、その先も、ひよりの隣で、同じ時間を少しでも長く過ごしていたい。
そう強く願っている自分がいることに、オレは気付かざるを得なかった。
単なる友情か? いいや違うだろう。では何だ?
机に肘をつき、額に手をやり、目を閉じる。ひんやりとした机の感触が、思考に没頭させる。
脳裏に浮かぶのはやはり、ひよりの顔。
彼女の笑った姿が見たい。いや、彼女がぷんすかと怒った表情も良い。
そうだ、彼女の傍で、その一挙手一投足を見ていたい。願わくば、それが向けられる相手はオレであってほしい。
――そして、ひよりには幸せであってほしい。特別試験の合間に時折見せていた憂いの表情は、見たくない。どうか、彼女が涙を流すようなことだけは、あってほしくない。
いくらだって言葉にできる。だが、そのせいで肝心な本質に届かない。
持てる力で彼女に向ける感情の正体を探る。
知りたい、近づきたい。その一心がオレを駆り立てている。
思い出したのは三つ。
一之瀬の凍えるような色香を漂わせる仕草。
坂柳の不慣れな抱擁。
そして、堀北の真っ直ぐな瞳と、一瞬の、口づけ。
オレへ向けられた好意、それすらも躊躇なく分析の道具にする。
だが、確実に近づいている。
そして突然、確かな手ごたえを感じた。
――そうか、そうだったのか。
オレは、ひよりのことが好きなんだ。
思い至ってしまえば、後はすんなり腑に落ちた。
一之瀬らがオレを好いているように、オレはひよりが好きなのだ。
動揺はあった。まさか、自分が恋をするなんて想像もしていなかったから。
しかしそれ以上に、自らに眠る未知を解き明かせたことによる満足感のほうが大きい。
不思議なものだ。恋など、目の前にある文庫本の中にあるような、抽象的なものでしかなかったはずなのに、今では確かにオレの裡に息づいているという感覚が。
つまらない人間。ひよりの前でどこか申し訳なくなるほど底の浅いオレ。その中で眠っていた、一つかみの人情。
カリキュラムをクリアしたとき、父親の元から離れたとき。そのどれとも違う充足感がオレを満たしていた。
――だが、その感覚に浸っていられたのは、恐らくほんの数十秒に過ぎなかったのだろう。
気づけば、オレの中で何かが静かに鎌首をもたげ始めていた。名前をつけるとすれば、それはきっと――好奇心、とでも呼ぶべきものだった。
人間性に欠けたオレが抱く、人らしい感情を知り尽くしたい。丁寧に解剖し、その細部をつぶさに観察したい。
彼女と付き合えたら、オレはどれほどの喜びを感じるのだろう。特別な関係となった彼女との日々は、どれほど満たされているのだろう。
――そして、彼女を失ったとき、オレはどのような反応を示すのだろうか。
知りたい。経験してみたい。
悲しみに暮れ絶望するか? それとも我を忘れ怒りに呑まれるか?
どれもオレらしくない反応。それを引き起こすひよりへの恋心。
知りたい。経験してみたい。
陽だまりのような彼女を思う。
ひよりがいれば、オレはさらに多くの知見を得ることができる。
探求心のまま彼女を利用し尽くした末に、オレはより高みへと至れるだろう。
知りたい。経験してみたい――。
ぐしゃり。
――待て。
――オレは今、何を考えていた?
熱に浮かされた思考に、冷や水がかけられる。
気が付けば栞を握りしめていた。白とピンクのカスミソウの押し花にシワがつく。
すぐにそれを伸ばそうとするが、もう、元には戻ってくれなかった。
不快な感情が湧き立ってくる。悍ましい思考に身を浸したオレ自身に対してか、それとも彼女の贈り物を台無しにしたことに対してか、定かではなかった。
人目も憚らずため息をつく。吐き出しきれない淀みが肚の底で存在を主張するかのようで、それを振り払うように、もう一度深く息を吐き出す。
オレはひよりを実験サンプルにしようとした。
意図せず、自然な思考のまま脳内で算段を立てていた。
分析のために彼女と付き合い、そして観測を続け、その先に、自ら彼女を手放そうと企ててしまったのだ。
その事実が自分の本質を表しているかのようで、尚のこと腹立たしい。
かつてのオレなら気にも留めなかったはず。だが、彼女のくれた日常が思いとどまらせてくれた。
ひよりと食べたキッシュの温かさ。彼女のいない今、この時間に感じる物寂しさ。
陽光に照らされた、まるで吸い込まれそうになるほど綺麗な髪に、思わず手を伸ばしたくなる微笑み。
全部が手放し難く、そしてオレの中で一等大切なもの。
それらがなければ、衝動のまま全てを台無しにしてしまったかもしれない。
オレは悪人ではないと、そう寄り添ってくれた彼女に対する仕打ちがこれか、と自嘲する。
――故に、彼女の言葉をひとつ、破ることにした。
オレは、変わらなければならない。
堀北が誓ったように、誰かに迫られてではなく、自分自身の手で。
ホワイトルームの呪縛を断ち切り、胸を張ってひよりの傍にいるために。
柔らかで侵し難い彼女を、引き裂いてしまう前に。
オレは静かに文庫本を閉じて立ち上がった。
そして、外した栞をもう一度伸ばし、折れ曲がらぬよう胸ポケットに仕舞う。
胸の奥に灯った小さな芽を、今度こそ握りつぶしてしまわないように。
雨はまだ、止みそうにもない。
もう一度オレは胸に手を当てる。
そして、小さな折り畳み傘を取り出し、冷たい雨下へと歩み出した。
《お礼とお知らせ》
皆様の閲覧、感想、評価等、厚く御礼申し上げます。
次章については、プロットなど詰め切れてきないこともあり、少々お時間を頂くことになります。それまでは週1、2ペースで綾小路クラスの日常や第一章で出番のなかった人たちの幕間を投稿しつつ、本編を執筆していく所存です。差し当たり、次回投稿は8/29を予定しています。
さて、今後の展開についてですが、本作は第三章、つまり無人島サバゲー試験にて一度完結となります。現段階で着地点は決めているため、年内の完結を目標に進めていくつもりです。
以下私事ではありますが、流行り要素もなく、原作未読どころかアニメ勢まで置き去りの本作を読んで下さる方が予想以上に多く、小説執筆は初めてということもあって、驚きやら嬉しさやら緊張やらでいっぱいでした。エピローグの内容が一番書きたかった場面だったので、この節目を迎えられたことには感謝しかありません。
元々自給自足のつもりがほとんどで、完結をあまり見据えていない状態だったのもあり、慌てて再構成したことは記憶に新しいです。実は坂柳回と堀北回は二章の予定だったので、結構改変の影響が出ています。
皆様のご期待に沿えているか正直不安ですが、どうか最後までお付き合い頂ければ幸いです。
最後に、いくつか疑問のありそうな部分についての補足で締めさせて頂きます。
Q:結局、誰ルートなの?
A:元々はマルチエンディングの予定で、四人分のルートを用意していますが、本作では一人のエンドを書く予定です。原作ストックが十分に溜まり、道筋が見えたらリメイクして全員分書こうかな、と薄ぼんやり思っています。なお、四人はそれぞれ、ノーマルエンド、グッドエンド、トゥルーエンド、隠しエンドの設定です。
Q:坂柳のキャラ変わりすぎてない?
A:畜生成分は変わってません。あくまでクラスの身内や綾小路に優しくなっただけで、舐めたことされたらちゃんと陰湿な報復をしますし、山内は退学させます(綾小路を守るためでもあるけど)。一之瀬への親切も、身の回りに手を出されるのが嫌だったという理由が大きいので、彼女が単身事故を起こすだけなら、放置していたでしょうね。
彼女の優しさは幼年期の描写と橋本の告解を下敷きにしています。根は善良寄りだが後天的に捻くれたタイプじゃないか、と解釈した結果です。
本編中でも彼女の変わらぬ一面を差し込もうとしましたが、技量不足で至らず、申し訳ない……。
Q:一之瀬強キャラすぎない?
A:彼女にはそれだけポテンシャルがある、と考えています。貧乏家庭出身で恵まれた教育を施されていないにも関わらず入試は一位だったり、船上試験でも頭脳の片鱗は見せていたり、デバフさえなければ相当強いのでは、と解釈しています。それに、彼女には綾小路を怪物の本能へと引きずり込む役目があるため、その成長を遺憾なく発揮してもらいました。
Q:ひよりとの日常パート少なくない?
A:個人的にはもっと書きたいのですが、ずっとイチャイチャしているせいで話が進まず、大幅にカットしました。第三者も挟みづらいから変わり映えしないのが悪い……。