if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
※来週末は私用のため、次回投稿は10/10にさせて頂きます。
《一之瀬帆波は知っている》
特別試験の結果が出てから一週間ほどが経っていた。クラス間の情勢はひとまず落ち着きを見せている。
一之瀬は変わらず、いつもの笑顔でクラスメイトたちと接していた。あの日、櫛田に向けた言葉など、既に忘れてしまったかのように。
――忘れたわけじゃない。意識しておく必要がないだけ。
片付けるべきことは片付けた。今はまた、次に意識を向けるべき段階。
一之瀬にとって、何よりも知りたかったこと。いや、噂としては既に把握していたが、それでも自分の目で確かめずにはいられなかったこと。
窓を打つ音に目を向ければ、薄暗さを齎すほどの雨天。
春驟雨が早咲きのマリーゴールドを揺らし、しとどになったストロベリーブロンドの花弁は絶えず雫をこぼす。
――なんで、今日、よりによってこんな天気なの。
一縷の気丈さすら覆い隠してしまうような荒天。それから目を逸らすかのように、一之瀬は先日の櫛田との一幕を思い返していた。
◇
「やっほ~、櫛田さん、偶然だね」
夕暮れ時、目が眩むような西日を背に一之瀬帆波は櫛田桔梗に声を掛ける。
もちろん偶然などではなく、周囲から人が離れ、彼女が一人になる瞬間――仮面を被り続ける彼女が必ず確保する時間――を見計らっていた。
これから寮に帰ろうとしていた櫛田はやや緩慢な動作で振り返る。しかし、強烈な逆光に思わず目を細めてしまった。眼前を半ば覆うようにした手によって、一之瀬は彼女の目元を窺うことはできない。
ただ出くわした友人に声を掛けただけ。そのように繕った声と佇まいの中に、櫛田には伝わる程度の違和感を織り交ぜる。
人の機微にとりわけ敏感な彼女だからこそ気付ける、ほんの僅かな違和感。
完全にこちらへ向かないつま先は、一之瀬の狙い通りの効果を齎したことを雄弁に物語っていた。
「一之瀬さん、久しぶりだね、元気してた?」
「私は元気一杯だよ! 櫛田さんはショッピングの帰りかな?」
「そんなところかな」
投げ返さない会話のボール。
しかし、櫛田が言外に引いた線を一之瀬は一息に飛び越える。
「もしかして、うちのクラスの子の相談だったのかな? ありがとうね、力になってくれて」
「全然大丈夫だよ。頼りにされてるって伝わってくると、むしろやる気がでるから」
櫛田は遂に、こちらへ完全に向き直った。しかし、それは友好とは正反対の、猜疑心の表れ。
一之瀬は櫛田の評価を改める。綾小路から計算高い人物、ということだけ聞いていたが、事前の予想以上に一筋縄ではいかないと悟った。
「櫛田さんって、本当に色んな人の頼りになってるよね。……頼られるのって、素敵なことだけど、時々疲れちゃわない?」
「そんなことないよ、私は慣れてるから」
「そっか。――でも、無理して抱え込むタイプの人は、案外気づかないところで、大事なものを見落としがちだったりするから。私も他人事じゃないから気をつけなくちゃ、って思うんだ」
「お前の裏の顔は知っている」そう仄めかすような言葉選び。それでも彼女の仮面は外れないが、その双眸に宿る視線に異質なものを纏い始めたことが見て取れる。
――それでも、私の方が上手かな。
冷静に機を窺っていた一之瀬は遂に本題を切り出す。
全てを言葉にする必要はない。一之瀬は二歩ほど距離を詰め、妖しげな光を帯びた目で櫛田を射貫く。
「それに、綾小路くんも心配してたよ? ――そういえば、櫛田さんは修学旅行で綾小路くんと親しげだったよね? 二人は仲のいい『友達』なのかな?」
「――うん、そうだよ!」
「そっか。――櫛田さんが元気そうで何よりだよ。ごめんね、呼び止めちゃって」
瞳の奥に、明確に滲んだ敵意。背中に隠された両手は、もしかしたら握りしめられているのだろうか。
溶岩のような激情を、一之瀬はあくまで涼やかに受け止める。
むしろ、目的が達成されたことの証左にもなる。一之瀬にとっては好都合だった。
一之瀬は我ながら性格の悪いことをしているな、と自嘲する。――奇しくも、目の前の彼女と同じように――自分の対人能力を都合の良いように使っているからだ。
完璧に取り繕われた上辺と、人に見せられない醜い内面。
もしかしたら、ここで唇を嚙みしめていたのは自分だったのかもしれない。しかし今回、櫛田には一之瀬と真正面から敵対する覚悟がなかっただけのこと。
この学校は狩るか、狩られるか。
それを、一之瀬帆波は知っている。
◇
一之瀬がつい数日前のことを思い出していると、いよいよ目的地に着いた。
外は相変わらずの荒天。だが、窓を打ち付ける音など、もはや一之瀬に届いていない。
――図書室。二人が、いるであろう場所。
引き戸のステンレスに触れた瞬間、ありもしない静電気を感じた気がした。
一瞬の逡巡ののち、思い切って開け放つ。ガラッと音を立てて入ると、そこはしんと静まり返っていて、入ることさえ、どこか躊躇われる。
カウンターで司書が揃いの悪くなった複数の本の地を下に向け、垂直に構えて机の天板へ数回、コトコトと軽く叩きつけている。僅かばかり響いた音がやけに耳に残った。
目的の場所――奥まった閲覧席まで向かう。
毛足の短いカーペットが彼女の足音を容赦なく飲み込んで、入った時と同じような静けさに均していった。
――いた。やはり、二人だ。
丁度、百科事典などが収められた本棚の影になっている場所、こじんまりしたテーブルの閲覧席を見下ろす。
目的の人物は隣り合って読書に没頭しているようだ。
喉につっかえそうになる言葉を、必死で絞り出した。
「あ、綾小路くんに、椎名さん。――偶然だね」
「……ん、一之瀬か。すまん、緊急の用でもあったか」
「そういうわけじゃないよ。――今日は図書室に用があったから」
綾小路らしくない、まったく油断していたような返事に一之瀬の心中で何かが軋む音がした。
根本的に誰かを『信頼』することがない彼が気を許せる場所、相手。それが自分ではないという事実に、幾重にも重ねた仮面が剝がれかける。
悟られないように、努めて平静を装ったまま、一之瀬は問いかけた。
「二人とも読書? 仲が良いんだね。もしかして、いつもこうやって過ごしているのかな?」
「そうだな。用事がないときはここに来ている」
「ええ。私も同じです。――ところで、一之瀬さんの用事はもう、済まされたんですか?」
椎名は読みかけの本を閉じて、綾小路の手元の本を、やおら自分のもとへ引き寄せた。
その際、肩口の袖が触れあって僅かに揺れる。
パーソナルスペースの遠接相。許された関係以外が踏み込めない距離のはずだ。しかし、彼女にとってそれが日常であるかのような自然さを見せつける。
そして、机に手をついて少し身を乗り出し、綾小路の隣からこちらをまじまじと見つめてくる。その表情にはいつもの打ち解けた気安さでも、好奇心でもなく、はっきりとした警戒の色が燻っていた。
――ここは、私の場所です。
言葉にせずとも、そう告げているかのようだ。――いや、もしかしたら一之瀬の思い違いかもしれない。
しかし、一之瀬の様子から何かを感じ取ったのか、普段の温和な雰囲気は鳴りを潜めている。
恐らく他人と正面から対峙することに慣れていないのだろう。隠しきれない緊張が透けて見える。それでも、確かな意志の強さを感じさせる瞳が、一之瀬を正面から捉えて離さない。
そんな椎名を綾小路は不思議そうに見つめていた。「どうした?」と掛ける言葉には、ただの確認にはありえない、確かな気遣いが込められている。
たった数分の間に打ちのめされるほど目の当たりにした、一方的な感情ではない、完成された関係性。
心中の仄暗い底から、形容し難い衝動が湧き上がってくる。
自分も相手も、見境なく傷つける暴風に、一瞬、流されかけた。
――だが、一之瀬はそれを制御してみせた。
「ふふっ、そんなに警戒しないで。邪魔するつもりはなかったから」
全てを柔和な笑みの下に押し込め、悠然と笑って見せる。
強く噛みしめた口内から血の味が滲む。その痛みだけが、確かな感覚だった。
そうしてゆるりと手を数度振ってから踵を返す。余裕を崩さない泰然とした動作は、単に手を動かすことさえ億劫だったからに過ぎない。
綾小路は最後までただの偶然だと思っていたのだろうか。それとも、単に興味が無かったからだろうか。特に呼び止めることもなく、読書を再開しようとしていた。
貼り付けた笑みのまま、早足で図書室を去る。
カーペットを踏みしめる感触が耐えがたい程に不快で、無我夢中に、逃げるように、引き戸を開け放った。
強く蹴り出したリノリウムの床の感触、息継ぎの合間に見えた、普段は見慣れない場所の校内掲示板。
――気付けば、一之瀬は階段の手すりに寄りかかり、項垂れていた。
どうやってここにたどり着いたのか、記憶が定かでない。乱れ切った呼吸と、ぎゅっと痛む肺から、自分が走ってきたことだけは辛うじて認識できた。
手すりに体重をかけて、一之瀬は上体を起こす。あたりを見渡すと、ここは特別棟の中。
綾小路と初めて関わった場所。ダミーカメラも疾うに撤去されており、二年の歳月を感じさせる。それでも、一之瀬にとっては思い入れのある場所だった。
現実から目を背けるため、無意識に思い出に逃げ込もうとしたのかもしれないと、一之瀬は自嘲する。
先ほどの光景が再度脳裏を過る。綾小路がひよりへと向けた目線、声色、全てが他の誰とも異なっていた。
一度立ち上がったにも関わらず、壁を背に再度ズルズルと寄りかかってしまう。荒くなる息を抑えることができない。下唇を噛みしめてなお、苦悶の表情を繕うことはできなかった。
――あの場所に、入り込める余地はない。
脳はとっくにそれを理解している。それでもなお、胃の腑で蜷局を巻く嫉妬心がグツグツと煮立つような感覚は止まらない。
いつも変わらない仏頂面に浮かぶ感情の込められた眼差し、普段は無機質で抑揚のない、定規で引いたような言葉には、感情の機微が漣のように揺れ動いているようだ。そして一挙手一投足を注視せんとばかりに注がれる関心、そのどれもが、椎名ひよりというただ一人に注がれている。
――綾小路くんは、椎名さんのことが、好き。
ただ、彼のためにしてあげられればいい。見返りなんて、求めていないはずだった。けど、そんなものは虚勢にすぎないと、痛いほどに思い知ってしまった。
本当は、ずっと欲しかった。彼の目に、自分だけが映っている未来を。
――嘘つき。
自分自身に向けた、弱弱しい嘲笑。
『無償の愛』だなんて、綺麗な言葉で覆っていただけ。虚飾を剝いでしまえば、そこには誰よりも欲深い、底なしの独占欲が隠れていた。
コールタールのような感情の中に沈む、たった一つの澄んだ願い。それはただ、思い人の隣にいたい。ただそれだけだった。
しかし、その思い人には別の思い人がいて、望む未来は、きっと訪れない。
それでも、一之瀬は立ち上がる。
焦らなくていい。そう言い聞かせながら。
――推測が正しければ、私には『勝ち筋』が、まだある。
具体的な策は、まだ言葉になっていない。ただ、自分にはまだやれることがある、そう信じられるだけの根拠が、これまでの積み重ねの中にあった。坂柳を上回ってみせたあの日のように。堀北の心を動かしたあの時のように。
それに綾小路はこう言っていた「お前の『想定外』に期待している」と。
――綾小路くんすらも、出し抜いてみせる。
人を騙すのも傷つけるのも、決して好きなわけじゃない。けれど、もう、迷わない。譲れないもののためには手段を選ばないと、そう決めたはずだから。
誰も知らない、私の本性。欲しいものは、奪ってでも手に入れる度し難い女。だから、今はまだ、雌伏の時。
深呼吸をひとつ。
この短時間で経験したあらゆる感情を押し込め、ぎゅっと一度だけ目を瞑った。
――今日の出来事は、私だけの秘密。
矛盾を抱えたまま、それでも前を向く。それが、今の私にできる、唯一のことだから。
一之瀬は制服の裾を整え、そして――いつもの、あの完璧な笑顔を、もう一度作った。夕日が差し込む階段を、彼女は迷いのない足取りで降りていく。
特別棟を出ると、雨はすっかり止んでいた。夕立雲の隙間から薄明光線が雲の合間を照らす。一之瀬が何気なく仰いだ空には、二重虹が微かにかかっていた。
──少しだけ、縁起がいいかも。
一本でないのが良い。誰もが抱える矛盾を背負っていくには、一本の軸だけでは足りないから。
あの虹が消える時は、せめて二本同時でありますように。そう願って、一之瀬は湿ったアスファルトの上を歩み出した。
学力 B(75)
身体能力 B-(61)
機転思考力 B+(78)
社会貢献性 B(74)
総合 B(72)
原作ヒロインの一人。
かつては誰にでも人気な学年のマドンナとして、クラスの中心人物だったが、綾小路らの退学を目論んだ『満場一致試験』において本性をばらされ、その地位は失墜した。もっとも、事情を知るクラスメイトらとも、秘密の暴露という相互確証破壊において絶妙な緊張感を保ちつつ、他クラスの生徒たちとは良好な関係を維持している。
その性格は表面上、誰にでも分け隔てなく優しい善人だが、その内に秘められた本質は承認欲求の権化そのもの。他人を内心で度々見下す一方でその賞賛を何よりも欲しがり、そのための努力は種類を問わず惜しまない。計算高く、人間関係の構築において抜群の機転を見せるが、衝動的に綾小路を攻撃しては返り討ちに遭うなど、その内実は複雑極まりない。なかなか難儀な性格をしていると評価できる。
原作においては、自分の本性を認めてくれた堀北と伊吹の交流から変化の兆しが見られたり、綾小路に対する好意を仄めかす描写も見られる。今後の活躍に期待。
本作においては、ヒロインとしての予定はない。しかし、極めて重要な役割を担う予定。人心の機微に聡い、そして人格の歪みを抱えた彼女だからこそわかることもある。
綾小路とひよりがただならぬ関係であることは知っていた。その上で堀北の背中を押したのはそっちの方が面白そうだから。
彼女には借りもあり――という照れ隠しも含まれている――フラれて落ち込んでいたらそれとなくケアを試みるだろうが、それはそれとして迷惑はかけたい。やはり、難儀な性格をしている。