if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
※次回投稿は10/17を予定しています。
第十一話
「『其の善なる者は偽なり』とは……」
オレは教員の説明を聞き流しつつ、小さく欠伸を嚙み殺す。そして『人之性悪、其善者偽也』とタブレットに書き写した。
こんなものはとっくに学習した範囲だが、体裁だけでも真面目に受けなくてはならない。授業態度でクラスポイントが減らされてはたまらないからな。
今はゴールデンウィークの明けた五月の上旬。
窓越しには青々とした新緑が映え、時折走り抜ける薫風に靡いている。教室に吹き込んでくる風も、溌剌とした清涼感をもたらしてくれた。その一方で全身を包む暖気は春の心地よさを多分に纏い、連休で鈍った脳に毛布を掛けるかのようだった。
教員ですら教卓に寄り掛かり、タブレットを操作する指もどこか緩慢な動きを見せる。
「人の本性は悪である。善なるものは、偽――つまり後天的な作為によって成り立つ、という意味です。荀子は、人間は生まれつき未完成であり、野放しのままでは利益を求め、争ってばかりの生き物だと説きました」
闘争という人間の宿痾。
終わりのない競争と脱落。
思い出すのは、あの白一色の天井。
「しかし、だからこそ礼儀や規範を学び、努力によって自らを正すことができる。悪であることは絶望ではなく、むしろ成長の出発点なのだと荀子は主張します」
この考えに則れば、オレが『悪人』なのも自明だな。あの実験場に、善意といったものは存在しなかった。
いや、正確ではない。善意を持った者は生き残れなかったと言った方が正しいか。
オレが手を下した彼女のことが脳裏を過る。
「これと対置されるのは、先日取り扱った孟子の性善説ですね。人の善性とは先天的なものであり、悪行は境遇によって後から生じる、と解釈しています」
これもまた、オレの現状を表していると言える。
オレの人格形成にホワイトルームの偏った教育が寄与しているのは考えるまでもない。
他者を操り、利用し、蹴落とす。オレが教わってきた対人関係とは、凡そがこのようなものだった。
「どちらが正しいか、というのは今も議論の分かれるところですが……皆さんは、どちらの考え方に近いですか?」
そう言うなり、教員は答えを聞くこともなくスクリーンの画面を切り替えた。
オレは頬杖を突いて前を見ているふりをしながら、思考に没頭する。
性悪説か性善説か。
人間を二元論で語ること自体がナンセンスと言わざるを得ないだろう。
もっとも、唾棄すべき愚説とは思わない。論の正しさはどうあれ、教育におけるアプローチとしては含蓄がある話だ。
悪であることは成長の出発点。
皮肉なものだ。二千年以上前の思想家が説いた理屈が、こんなにも今のオレを都合よく後押ししてくるとは。
『偽』という字は『人が為す』と表す。まったく良く出来ていると感心してしまうほどに。度し難いオレの欠落すら『偽』――後天的な学び、積み重ね、努力によって上書きできるものと言うのか。
ならば、オレにもまだやりようはある。
常人離れした欠陥を抱えたままここまで生きてきたのだとしても、それを塗り替えるための時間と行動さえあれば、いつかは辿り着ける場所があるはずだ。
オレは視線だけを動かし、左隣のひよりを見遣る。
彼女は視線を教室前方のスクリーンと机の上に往復させていた。忙しなくタッチペンを走らせ、タブレットに書き込んでいるようだ。
オレの視線は彼女の指先に吸い込まれる。
白魚のような指が緩くペンを握り込み、行ったり来たりしていた。
それを見て、オレも机上に置いたタッチペンを手に取ってみる。添えた親指で校章のロゴがすっぽり隠れてしまった。
――あのカフェで、オレの手を包むのに両手を要した指だ。
ひよりの隣にいるため、オレは変わってみせる。
あの雨の図書室で抱いた決意が静かに、しかし確かな熱を帯びていく。
善とは、人の営為によって成り立つ。
『偽』――人為。すなわち、意識的な努力の積み重ねだ。
ならば、何を積み重ねればいい。
答えはそう難しくない。オレに欠けているものは、他人という存在そのものへの関心であり、そして、その接し方だ。
ごく限られた人間以外に対して、オレはこれまで真っ当な関係を築いてこなかった。
以前の堀北クラスの人間のほとんどは――オレを友人と思っていた平田や『綾小路グループ』の長谷部たちさえも――オレにとっては有象無象でしかなかったからだ。
最後にオレが勝ってさえいれば、それでいい。そんな考えのもと、多くの人間を利用してきた。他者への徹底した無関心と、良心の欠如。それがオレの根本的な問題だ。
故に、打算でも観察でもなく、ただ純粋に誰かと関わろうとする姿勢が必要だ。それは今まで欺瞞で覆い隠してきた本性を、抜本的に書き換えることを意味する。
再度、先ほどの言葉を反芻した。
善なるものは、人の作為によって成り立つ。
遠回りに思えるが、それ以外に道はなさそうだ。
今までは他人のキャンバスに手を入れることばかり考えていた。そのせいで自分のそれがほとんど真っ白なままだということに、ようやく気付いた。
◇
サク、と軽やかな音が口内に響く。ヒレカツの断面からは、閉じ込められていた肉汁が滲み出ていた。
冷めてもなお衣はべっちゃりしておらず、肉の旨味を感じられる。やはり美味い。
これを彼女が作ってくれたことを思えば、腹より先に心が満たされるようだ。
「綾小路くん、今では私より料理上手いですよね。ちょっと、自信がなくなってしまいます……」
「そんなことないぞ。オレだってひよりの弁当の方が美味く感じる。きっと人の作った料理だからじゃないのか?」
すっかり馴染みとなってきた、ひよりとの昼食。
五月分のポイントが振り込まれたことから、オレも彼女のために弁当を作るようになっていた。
当初、交互に作る日を決めた方が良いのではないか、と疑問に思ったものだが「そういうことじゃないです」と彼女にむくれられてしまったことから、結局、毎日相手の分の昼食を用意するようになっている。
そして、今ではひよりの言った「そういうこと」も理解できるようになっていた。
相手の一口に合わせて料理をカットしておくこと、できるだけ見栄えの良い出来になるよう、形にまで気を使うこと、普段は手に取らないような少し上質な食材を使ってみること。
何より、それを食べた相手の表情を見たいと思うこと。
これを思いやり、と言うのだろうか。
彼女との日々は、オレが触れたことのない情緒を引き出してくれる。
「それに、お弁当の見た目にだってこだわるようになってますし……。本当に多芸なのですね」
「とはいえ見よう見まねだけどな。まだまだ見習いの身だ」
「ふふふ、私も負けてはいられませんね」
ここ最近は随分と料理にリソースを割いたものだ。堀北から教わり始めたこともあって、以前とは比べ物にならないほど上達したはずだ。
もっとも、堀北に教わっていることは、ひよりには言っていない。なぜだか怒られそうな気がしたから。
彼女が今摘まんでいる人参の煮物は星型に成形されているが、これが煮崩れしないようにするには苦労した。食材が動かないようにしないと、簡単に角が取れてしまうからな。
とはいえ、まだまだ修練が必要だろう。もしかしたら、趣味は料理だと言えるようになる日も近いかもしれない。
それっきり、わずかな沈黙がオレたちを満たす。
突然のことではなく、昼食をとり始めた時からあったぎこちなさが今になって表出したに過ぎない。
ひよりの箸は中空を彷徨い、やがて弁当箱の端で止まった。そして、それから一向に料理へと向かうことはない。
オレは彼女の言葉を待っていた。
僅かに息を呑む音。
そして、彼女は顔を上げ話し始めた。
「先日から綾小路くんは今までにも増して色んな人と関わるようになりましたね。……何か心境の変化などあったのでしょうか」
内容自体は明確でありながら、芯を食わない質問。おそらく、彼女の聞きたいことではない。
オレは一度頷き、もう一度彼女の言葉を待った。
「綾小路くんが少しずつ変わっているように思えまして。何か、きっかけがあったのかなと……」
「少しずつ変わっている」との言葉に、オレは内心驚く。
人付き合いに際して意識するようにはしていたが、染み付いた習慣がそう簡単に塗り替わるとは思っていなかったからだ。
あくまでいつも通りを装う。表情にも仕草にも、動揺は表れていないはずだ。
瞬間、吹き込んだ清和の風がオレの前髪を持ち上げた。
「ひよりは、どうしてそう思ったんだ?」
「あくまで何となくです。普段から、どこか気遣うような接し方になっていると感じまして」
彼女は手元へと視線を落とした。
小ぶりで保温機能のついた弁当箱は、オレが彼女と過ごす昼休みをきっかけに新調したものだ。おかずを分けるプラスチック容器も、飾りのついた弁当用の爪楊枝も、初めて買ったもの。
しかし、穏やかな口調に反して、彼女はどこか気後れしたような雰囲気を見せている。
指先が忙しなく、後れ毛をくるくると弄んでいた。
「もしかしたら、私の言葉が重荷になってしまっているのでは、と思ってしまいまして。以前、私が踏み込んだのは、あなたに何かを求めていたからではない、ということは伝えておきたかったんです」
そう言うと、ひよりはオレの顔を覗き込んでくる。両手は膝の上に置かれ、シワ一つないスカートの布地を小さく握っていた。
まるで嘘偽りは見逃さないとばかりに、その視線はオレの目の奥底まで見通すかのような真剣さを帯びている。
もっとも、そもそも嘘をつくつもりはない。自分を偽ってばかりいるのは不誠実だからだ。適度に自己開示は行うべきであると、オレは決めている。
「ひよりの言葉に触発されたのは確かだ。だが、これはオレ自身が望んだことだからな。――オレも少しは社交的にならないと、と思ったから」
「今でも綾小路くんの交友関係は広いと思いますよ?」
「それだけじゃなく、もっと打算のない関係性というのにも触れておきたかったんだ」
もちろん、動機はひよりのためではある。しかし、それを言えば彼女の『変わらなくていい』という言葉が逆効果だったと感じさせることになりかねない。
これはオレ自身の問題だ。彼女の手を借りるわけにはいかない。
そこにオレの意地が一さじ混ざっていることは否定できなかったが。
「……そういうことだったのですね」
「だからひよりがそう気を揉む必要はないぞ。……まあ、らしくないことをしている自覚はあるからな」
「うふふ、確かにちょっぴり、ぎこちない時はあるかもしれませんね」
マジか。自分としては、結構上手くやれていたと思っていたのだが。
コミュニケーションの奥は深い。一般生徒初心者のオレは、まだまだ不出来のようだった。
「こうもボロが出るのが早いとは想定外だ。こんなことになるなら、石崎にコミュニケーション術でも教わるべきだったな」
「綾小路くんには、綾小路くんの良さがあるんですから、誰かの真似なんてしなくていいんですよ」
そう言うと、ひよりはまた、弁当の中身をつまみ始めた。
先ほどとは打って変わっての上機嫌。
何故彼女が嬉しく思っているのかはわからなかったが、そうか、見破られているのだろうな。
そう思うと、表情は変わらないはずなのに、顔に熱が集まるようだった。
誤魔化すかのように、白米を少し多めに頬張る。
――だから、隠しておきたかったんだ。
ひよりのために努力する、なんてオレが彼女を好きだと言っているようなものじゃないか。
どこも痒くないのに、腕やら首やらを掻きむしりたくなるようだった。
これが……気恥ずかしさというやつか。
結局、ひより相手にもコミュニケーションの失敗をしている。
高育に入学して早二年。回り回って、目下の悩みは入学当初と同じものに回帰していた。
その事実がどうにもおかしくて、不思議な感情を抱いた。
「……フッ」
「――え……」
ひよりが口を開けたまま呆ける。
箸は中途半端に開かれ、オムレツを取り落としてしまっていた。
「綾小路くんが声を出して笑っているところ、初めて見ました」
「そうか? ……いや、思えば声に出ることは滅多にないかもしれない」
「本当に珍しいことですよ。……もしかして、私が初めて、だったりして?」
「さすがにそうではないぞ。……そういえば、堀北に見られた時も大層驚かれたような」
二年生の時の一幕を思い出す。
堀北に笑みを見せた理由は、終ぞわからず仕舞いだった。相手がひよりなら理解できる。彼女はオレから初めての感情を引き出した、特別な存在だから。
一つ確かなのは、オレはオレ自身が考えているより、堀北に気を許しているのかもしれないということだけだ。
思えば彼女との繋がりは、オレが高育において形成した中でも特異なものと言える。オレにとって堀北鈴音は――
そんなことを考えていたせいで、目の前の彼女がジト目を向けていることに気付けなかった。
「……ひより、もしかして、オレは何か気に障ることを言ったか……?」
「……それは、綾小路くんが考えてくださいっ!」
つーん、とそっぽを向いてしまった。
やはり、コミュニケーションは難しい……。
◇
放課後を告げるチャイムの音。
坂上が退室した途端、クラスメイトたちは三々五々に談笑をし、まとまって教室を出ていく。
同時に喧噪が一瞬で遠ざかっていく。残されたのは夕方の解放感と、肩にのしかかる倦怠感だけ。
「……ふぅ」
昼食の後、ひよりの気を取りなすのは大変だった。
何故彼女の気を損ねてしまったのか、理解できていないのだから当然だろう。
こういった女子の機微についても、学んだ方がいいのかもしれないな。
しかし残念ながら、その辺りについて聞ける相手というのは心当たりがない。
いや、本当は一人だけいる。――平田洋介だ。
もっとも、彼とはあの日決別して以来それっきりであり、今更自分都合の相談を持ち掛けるなど、不可能に違いない。
――平田ともいつか、向き合わなければならないかもな。
手前勝手に裏切ったまま、というのは『正しくない』。とはいえ、その機会が来るかはわからないが。
「それでは、綾小路くん。また明日」
「ああ。また明日な、ひより」
思考に没頭していたオレに、ひよりが声をかける。
彼女は今日、別件の用事が入ってしまったらしく、久しぶりに放課後に図書室で集まらないこととなった。
突如として生まれた自由時間。一体どうしたものか。
座ったまま、窓の外へ視線を向ける。
未だ五月の上旬であり、日はまだ高い。
だが、午前に感じていた春晴の心地よさは、いつの間にか鬱陶しい日差しにも思えてくるようになっていた。
白い綿雲が広がる晴天を、大きなカラスが甲高い鳴き声を上げながら渡っていく。
不釣り合いなはずなのにどこまでも日常に溶け込んだそれは、やがて窓枠から見切れてしまった。
「よっ、どうしたんだよ、そんなシケた面して」
「石崎か。いや、急に暇になってしまってな」
話しかけてきたのは石崎とアルベルト。
「暇だってんなら、これから俺たちと遊びに行かねえか? 一之瀬クラスの奴らと行く約束してんだ」
聞けば、柴田や渡辺たちも来ると言う。最初はあれだけ衝突していたというのに、いつの間にか仲良くなっているようだ。こうもすんなり人を集められるとは、やはり石崎の為せる人徳のおかげか。いや、一之瀬クラスの社交性もあるのだろうな。
正直、彼らと交流することにメリットを感じられない。
むしろ自クラスと一之瀬クラスが必要以上に親密になれば、同盟の解消後に支障が出る可能性も考えられる。
(いや……そういうことではないだろ)
いつもの悪い癖だ。
また損得勘定を働かせている。同級生と関わる際に、まず利益を見積もる行為は普通ではないはずだ。
ひよりの言葉で自分を過大評価していたと自戒する。やはり、人間の性根などそう簡単に変わるものではないな。
ここは一つ、石崎の誘いに乗っておくべきだろう。
「そうだな、是非参加させてくれ」
「おお! 付き合ってくれるか! ちょっと待ってろ、あいつらにも連絡するからよ」
聞くと、一之瀬クラスの男子と親睦を深めるため、渡辺と石崎が集めたものだという。本当は近藤らも呼ぶ予定だったが、部活で来られなかったらしい。
しかし、行くと言っただけで随分な喜びようを見せてくれる。本当に気のいい男だ。
オレを勧誘したあの日のことを思い出す。ひよりの気持ちに気付けたのも、オレが自分の将来に向けて努力していられるのも、遡れば石崎のおかげかもしれない。
そう思うと、先ほどの逡巡もばかばかしく思えてくる。
「ああ、今日は楽しもう」
「……! おう! お前が来てくれて嬉しいぜ!」
そう言うなり、力強く肩を組んでくる。
いつも通り、いやそれ以上に暑苦しい。
だがオレは、それを振り払おうとはしなかった。
そのまま連絡を待つこと数分、承諾の返事をもらってオレたちは指定の場所へと向かった。
「まさか、綾小路が来てくれるとは思わなかったよ」
集合場所にいたのは渡辺紀仁だった。
こちらも右手を上げて答える。
修学旅行ではアクの強いメンバーの中で、唯一常識のある男子だったこともあり印象深い。向こうも親しみを覚えてくれているはず……多分。
同じく待っていた柴田颯にも挨拶をしようとしたが、気まずそうに目を逸らされてしまった。
隣の渡辺に目線で問いかけると、慌てて申し訳なさそうな顔をしながら人差し指を口元で立てる。
(……?)
まあ、いい。
こういう人間の機微に口を出すと碌なことにならない、というのはオレの乏しい経験でもわかる。
しかし、それ以上に気になるのは話に出ていなかった三人目の存在だ。
「神崎も来るとは驚きだ。こういう遊びに顔を出すタイプではないと思っていたんだがな」
「それはお前もだろう、綾小路。俺はお前が来ると聞いたから参加したんだ」
「オレはただの口下手だぞ。楽しませてくれる、なんて期待はしないでくれ」
「まったく……。思ってもないことを……」
これは冗談のつもりだったのだが。
自虐を交えたジョークはウケが悪いのか、それともタイミングの問題なのか。雑談の奥は深い。
「この人数ならボウリングでもやるか。アルベルトも得意なんだろ」
「Of course」
「オレはこういった場は慣れてないから、石崎に任せるぞ」
「俺も賛成だ」
石崎の提案に、全員が賛同する。
「ビリだったやつが今日の晩飯奢り、ってことでどうだ?」
「おいおい、交流会で罰ゲームか? もちろん、乗ってやるよ! ビビってるやつはいねえよなあ!?」
渡辺の提案に、石崎が乗っかった。
「……はあ。綾小路、お前はどう思う」
「良いんじゃないか? もしかして、神崎は勝つ自信がないのか?」
「なっ……! ――お前がそっち側に行くとは想定外だ」
梯子を外された神崎には悪いが、今日はそういう『ノリ』で行くつもりだ。
提案するなり周囲の反応を窺っていた渡辺は、誰がビリになっても角が立たないよう、言い出しっぺの自分が真っ先に場を茶化す役を買って出たのだろう。石崎とはまた違う、優れた対人知覚の表れと言える。
オレの冗談に、石崎も渡辺も楽しそうな表情を浮かべている。
これが『正解』なのだろう。
また一つ進歩したことに、オレは確かな達成感を得た。
◇
「ゴチになりま~す!」
「ちくしょう、俺の奢りだ! みんな存分に食いやがれ!」
ファミレスの六人掛けテーブルに座り、各々好きなメニューを頼む。
店内はドリンクバーの鈍い作動音と、隣の利用客たちの姦しい談笑が対照的なまま、混ざりあって響いている。
結局、オレたちは夕食時になるまで遊び、最終的に最下位スコアだったのは柴田だった。
初心者は柴田とオレと神崎の三人。
この中で負けたのが彼だったのだ。
「というか、お前ら慣れてるの隠してたな! 石崎お前、次はサッカーで勝負しろよ!」
「へへっ、俺の分は綾小路親分が代わってくれるらしいぜ?」
「任せろ、可愛い子分のために一肌脱いでやろう」
一瞬、テーブルの空気が止まった。
石崎が目を丸くし、次いで渡辺が吹き出す。
「最悪だ! 勝てるわけないだろ!」
どっと盛り上がる一同。
ここも『正解』だ。
オレがしそうにもないことを、あまり突飛になりすぎない範囲で乗ってやるとウケる。いいことを覚えた。
皆の反応を見て、オレは確かな満足を感じている。
周囲の人間による評価。それらは全て、オレが積み上げてきた行動に対する結果に他ならない。
――上手くいっている。
目標設定、実行、そして検証。
誤学習やバグを一つ潰すたび、動作が安定していく。そんな感覚に近い。
まるで、精度を上げていくプログラムの調整過程を見ているようだ。
(他の連中も、こうやってコミュニケーションを学習しているのか?)
――順調な学習の最中、少しだけ違和感を覚えた。
「もう経験者とか関係ないもんな。ボウリングだって、この数時間で誰よりも上手くなってやがる」
「俺は綾小路と修学旅行で一緒だったんだけどな、こいつ最初初心者区分だったのに、すぐ上級者コースを滑ってたんだよ。目を疑ったね」
「まあ、運動は得意なんだ」
「運動『も』だろ? ほんと、チートってこういう奴を言うんだろうな~」
オレが『チート』か。
生憎とオレは自分が天才とは思っていないのだが。何より、この現状がそれを物語っている。
隣を見れば、つい一ヶ月前にはいがみ合ってた石崎たちが、今や普通の友人として笑いあっていた。
今だけはそちらの能力の方が、オレは羨ましく思う。
「それにしてもよ、綾小路、お前キャラ変でもしたのか? あんま冗談とか言うタイプじゃなかっただろ」
「それは思った。前に修学旅行で一緒になった時とは、半分くらい別人になったと言われても不思議じゃないぞ」
和気藹々とした雰囲気のまま、オレに尋ねてくる石崎と渡辺。
ひよりにも指摘されたが、そんなに分かりやすかったかと我ながら不思議に思う。
いや、以前石崎らと学食に行っていた時と比べれば、格段に違うだろう。今までは投げられた言葉に面白味のない返答しかしてなかったからな。
あの集まりも、石崎や小宮たちが会話を回していたからこそ、盛り上がっていたにすぎず、オレはそれに乗っかっていただけだ。
「社交性は今まで疎かにしていたからな。移籍の件で怖がられることも増えたし、少しは払拭したかったんだ。……そんなに変か?」
「あんま似合ってねえけどな」と茶化しながらも、二人はやんわり否定する。全体的に好印象だと知れたのは、今日の大きな収穫だろう。
対角側に座る柴田を見ると、またも視線を逸らされてしまった。
「おい柴田〜。いい加減いつも通りにしてくれよ〜。さすがに印象悪いぞ?」
「いや、それはわかってるよ……。綾小路が思ってたより良い奴だとわかって、なんというか、さすがに諦めもつくというか」
ばつが悪いような、それでいて抑えられない表情に込められた含意。
柴田の様子から、気まずそうな理由も見当がついている。
おそらく一之瀬についてだろう。しかし、こればかりはどうしようもない。コミュニケーションを阻害する要因について、お互いに改善点がない以上、歩み寄れるようなものではないからな。
それに、恋愛感情は本質的にコントロールできるものではないと、オレは身をもって知っている。
利害も理屈も超えた衝動。軽井沢恵の事例はたまたま上手くいっただけにすぎない。
そして、それは一之瀬にも当てはまる。
重ねられた両手の体温、オレの内面に踏み込んできたあの日の、こちらの奥底まで見通すかのような、それでいて逸らすことを許さない瞳。オレはそれらをまだ、鮮明に思い出すことができる。
正直、彼女をどうするかについては決めかねている。しかし、近いうちに結論を出さなければならないとはわかっている。
『誠実』とは、そういうものなのだろうから。
「もうこんな時間か。そろそろお開きにしようぜ」
石崎が提案する。
全員が同意し、それぞれ帰り支度を始めた。
賑やかだった空気が、潮のように静かに引いていく。
その内、神崎だけがどこか探るような目つきでこちらを見ている。
それは、このメンバーで集まった時と同じだった。
「オレは神崎と少し話があるから、お前たちは先に帰っててくれ」
「なんだ? クラスに関する話か?」
「そんなところだ」
「それなら仕方ないな。じゃあ、また明日な」
そう言って何ら詮索することなく、彼らは寮へ向かっていく。
柴田と渡辺は一度だけ振り返ってきたが、それは付き合いの短さ故か。
そして、オレと神崎は何も言わず来た道を戻り、街灯の下で向かい合った。
等間隔に並ぶそれらは、暗い新月の夜さえ明瞭に照らしている。
日中より白く映る神崎の表情から窺えるのは疑念と不信感。
引き寄せられた蛾が、視界の端で羽ばたいた。
「綾小路、お前は一体何を考えている? お前が急に人付き合いがよくなったのは知っている。……もし、仮に俺たちのクラスに影響されてそれをやっているのなら、今すぐやめるべきだ。お前は、そんな人間ではないだろう……?」
「一体何が不満なんだ?」
「お前が俺たちのクラスのように腑抜けになることを危惧している。お前の異質なまでの冷徹さ、それこそがこの学校で誰にも比肩し得ない強さの理由じゃないのか?」
神崎からは強い憤り――いや、恐れが伝わってくる。
拳は強く握りしめられており、僅かに見える指の関節は白くなっていた。
「言っていることは間違いじゃない。手段を選ばず、損害を厭わない人間は強いからな。だが、形振り構わず成果のみを求めるリーダーに付いていく者もいないとは思わないか? オレがオレだけの勝利を求めるのであれば、クラスの連中が従う道理はない」
「それは……一理ないわけじゃないが……」
神崎の威勢が削がれていく。
彼が恐れているのは、オレがかつてのBクラスと同じ轍を踏むことだろう。龍園やかつての坂柳のような非情さこそが勝利に繋がると、思い込んでいるようだ。
だが、彼らもクラスの統率には気を揉んでいた。このリーダーは自分たちに成果を齎してくれない、もしくは自分が切られる側に回る、と思われれば謀反が起きるのは必然だ。
とりわけ、オレには前園を退学させた前科もある。
――しかし、これは取り繕った言いくるめにすぎない。
「最後に一つ、これだけは聞いておきたい。お前は、親しい友人の誰かを切り捨てることになったと仮定して、リーダーとして決断できるのか?」
今までのオレなら、即答できた。
だが、今はそうじゃない。――正確には即答してはいけない、だろうか。
親しい友人とは大事にしなければならないから。
それでも、避けられない犠牲であれば、当然受け入れられる。
「ああ、それが必要なことならな」
「……そうか。それなら、次の特別試験で見せてもらおう」
神崎はそう言って踵を返す。
きっと、本心では腹落ちしていないのだろう。一瞬だけ振り返った双眸には、消火されていない疑念が埋火のように燻っていた。
オレはもう少し考え事をしようと、反対方向へ歩みを進める。
後ろを歩く神崎の足音とオレの足音は、不思議と重ならなかった。
時刻は20時過ぎ。視線を上げると、空は既に紺色に染まりきっていた。
ひとり歩く慣れ親しんだ道。街灯の光が点々と道筋を照らしている。ポケットに手を入れ、今日一日の出来事を、順に思い返してみた。
ボウリング場での歓声。ファミレスでの軽口。そして、神崎の問いかけ。
再び、彼に指摘されたことを考える。
オレが今の道を行くのであれば、オレは今までより弱くなることは避けられないだろう。
守るものが増えれば、捨て駒が使えなくなれば、二年生のような戦略を採ることは難しくなる。
これから激化していくクラス間競争において、自ら枷を嵌めた状態で、一度も負けることなく勝ち上がれるだろうか。
親しい人間を犠牲にしなければならない状況。――オレの身近な人間。
暗がりの中、脳内でシミュレーションを回す。
もし、冷酷な決断を迫られた時――ひよりを切り捨てる未来を。
瞬間、鋭く弾けるような音と共に、誘蛾灯に近づきすぎた虫がはらりはらりと地面に落ちていく。枯れ葉のようなそれは、路傍に紛れた途端、もう生命だったとは認識できなくなっていた。
ふと、眉間に皺が寄っていたことに気付く。無意識だった。
――胸の奥に生じたのは明らかな抵抗感。
論理や利害を超えたその感覚は、もはや隠しようもない。
彼女の能力はクラスの役に立つ、と建前を立てることはできたが、それが本音でないことはとうに自覚していた。
ひよりはオレにとってとりわけ大事な、特別な存在の一人。
では、その他の者――オレが重要視している人物――についても考えてみる。
例えば――堀北や一之瀬はどうだろう。……いや、それについてはまだ、答えを出すべき時ではないのかもしれない。
ならば、単に友人である石崎やアルベルトならどうだ?
違うクラスでありながら親しくしてくれた二人を、今日も笑顔で肩を組んできた彼らを、自ら切り捨てる未来を思い描く。
静寂が夜道を支配していた。
思考の海をどれほど深く探ってみても、胸中にはさざ波一つ起こらない。
歩道へとはみ出た草をくしゃりと踏みつけ、折り曲げてみる。足をどけても、それらはもう、元には戻らない。
――良心は、驚くほどちっとも、痛まなかった。
いつか、オレの『心』がその痛みを知る時は来るのだろうか。
今はまだ、それを知りたいとは思わない。積み上げてきたもの、そしてこれから積み重ねるものを、疑ってかかる必要はないはずだ。
オレは思考を切り上げ、帰路へと就く。
死んでひっくり返った蛾と折れ曲がった雑草だけが、街灯の輪の外、夜の底に取り残された。
学力 A(88)
身体能力 C+(59)
機転思考力 B(72)
社会貢献性 A-(81)
総合 B(74)
元坂柳クラスのリーダー候補。二年生の時に龍園に引き抜かれ、彼の補佐役を担っていた。
豪胆かつ強引な手段も辞さない龍園と、慎重な保守派を地で行く葛城は存外に相性が良く、前のめりになりがちな龍園のストッパーとなり、時には彼とクラスメイトの橋渡しとして重要な貢献を見せた。また、学力も高くクラスメイトの勉強をサポートして、戦力の補強にも務めている。まさしく龍園クラスの陰の功労者と言えるだろう。
人柄は公明正大で実直、かつ冷静な判断力を持ち、三年生無人島試験で伊吹相手にしたような、大胆な策に打って出ることもある。そして龍園のやり過ぎに毅然として否を突きつけられる意思の強さを持つ一方、身内には寛大で面倒見の良さを見せる。多分実社会で一番必要とされている人材。高育との相性が悪かったことが悔やまれる。
本作では前もって綾小路のクラス移籍を知らされており、綾小路の『仕込み』に協力することになった。龍園から綾小路について、一年生の無人島試験以降の暗躍を詳らかにされており、彼の実力には信頼を置いていた。
また、クラスの調整役を担っており、金田の感情に折り合いを付けさせるため、あえて綾小路に反対した。彼の能力なら難なく結果を残せるはず、そして金田もそれを公平に評価すると踏んでいた上、もし期待に応えられなければそれまでと判断してのこと。
綾小路をリーダーとして認める一方、その冷徹な一面を警戒しており、クラスメイトに危害を加えるようであれば反旗を翻すことも辞さない。実は坂柳からは戸塚弥彦の件で謝罪を受けており、それに合わせて綾小路の監視を依頼された。未だ完全に許すことはできていないものの、綾小路がクラス間競争の粋を超え、徒に退学者を出すようであれば、クラスの利害を超えて協力することで合意している。