if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
内容次第では第十三話の修正、ひいてはプロット全体の調整が必要になりますので、次回更新は暫定10/31とさせて頂きます。
朝のホームルーム前、いつも通り十分前に学校へ着いたオレは、手持無沙汰のまま頬杖を突いて窓の外を眺めている。
巻雲が塗りムラの目立つ油絵具のように、空にまばらに散っている。オレはそれらの形を目でなぞっていった。
当然、数秒後には忘れてしまっているのだが。
少しだけ右腕が痺れてきた。手を休ませるため、オレは頬杖をやめてドアの方を見遣る。
待ち人は、まだ来ない。
几帳面な彼女は元々余裕をもって登校していたが、オレと弁当を交換するようになってから、彼女の登校時間はまちまちになっている。
まだ何の日にもなっていない朝の時間。そこで彼女と話すことが、オレは好きだ。
内容は何だっていい。時間も短くたって構わない。とにかく、今日が始まりきらないうちに、彼女と話せることが大事なのだから。
それにしても今日は穏やかな朝だ。
初夏の気配に花は咲き乱れ、窓の外では小鳥が囀っている。
こんな日には……
「おい! 綾小路! お前今月のOAAは見たか!?」
……石崎がやってきた。
一瞬で巻雲が蹴散らされたかのような雰囲気になった。ほんと、朝から元気なやつだ。
晴れ晴れとした笑顔のまま、自らの端末を差し出してきた。
座ったまま彼の方を向いて、画面を見る。
綾小路清隆
学力 A+(96)
身体能力 A-(81)
機転思考力 B(72)
社会貢献性 B+(76)
総合 A-(82)
「更新されているな」
「反応薄すぎだろ! 今まで総合A-に到達したのは南雲前会長とお前だけなんだから、もっと喜べよ」
喜べよ、と言われてもOAAに興味などないため特段思うこともない。
唯一気になるのは機転思考力の伸びだ。対人関係を主とする評価がここまで向上するとは、ここ最近の動向が数字になって表れているのかもしれない。
「相変わらず凄まじい能力値だな。しかし、これでもお前の実力を完全に表しているとは思い難い」
石崎の声に寄ってきた葛城がそう訝し気にこちらを見る。
そんな目で見られても困るんだが。OAAに関してはオレが査定しているわけではないのだから。
「そうだな。身体能力がA-ってのは俺でも過小評価だってわかるぜ。お前ならアルベルト位あってもいいだろ」
「それに機転思考力だってもっと高くてもいいと思いますよ。綾小路くんは人と関わるとき、見かけ以上に考えていますから」
いつの間にか近くにいたひよりが、端末を手に口を開いた。
「おはよう、ひより」
「おはようございます。綾小路くん、石崎くん、葛城くん」
そう言って、彼女はいつも通り流麗な所作で会釈をする。同時によく手入れされた銀髪がはらりと揺れた。
それを目で追っていると、葛城が一度咳払いをして話しかけてくる。
「お前が一年生の時から本気を出していれば、当時の堀北クラスだろうがAクラスになれたはずではないか? なぜ中途半端に手助けをするだけだったんだ?」
「石崎には度々言っているが、Aクラスに興味は無かったし、何より目立ちたくなかったからな。ここに移籍してきたのだって、オレ自身に目的があったからだ」
「――目的? それはなん、だっ……」
途端に尻すぼみになる葛城。手のひらを口元に当て、どこか気まずそうに視線を左右し始めた。そこに呆れた表情で、石崎が軽く肘打ちをする。
「それは言わせんなよ……。どうすんだこれ」
「……すまん」
ひそひそと話し始める葛城と石崎に、ひよりまで顔をピンク色に染め、よそ見をしている。
微妙な空気のまま、二人は席に戻っていった。あまりひよりとの仲をからかわないで欲しい。オレもどう反応していいかわからないからな……。
しかし、中途半端に終わった会話がささくれのように気がかりだった。
――オレが始めから全力を出していた堀北クラスはどうなっていたのか。
少なくとも、今クラスを回している人間は大きく変わっていただろう。移籍の日、決別した平田の顔が浮かびかけて、オレはそれを意識の外へと押しのけた。
なぜこのような些事が気にかかっているのか、自分でも判然としない。それでも、そんな益体もない『if』が脳内で確かな存在感を持っていることを、オレは自覚していた。
何が気になっているのだろうか。上手く言葉にできず、ただ、うっすらとした据わりの悪さだけが意識の隅に残っている。
また窓の外へ顔を向けた。巻雲はいつの間にか薄く引き伸ばされ、太陽の輪郭を滲ませている。
最近、空を見上げるのが癖になっているのかもしれない。そう思いつつ、オレはいつも通りの時間に入ってきた坂上に視線を戻した。
◇
夕暮れ時の風が砂粒を巻き上げて去っていく。目に入った砂埃の鬱陶しさに、オレは思考を中止せざるを得なくなった。
ひよりと別れた後――いつもより上の空だったせいで、ひよりが早めの解散を切り出した――オレは校内を行く当てもなく散策している。
もしかして、今朝の茶々のせいか? まったく、葛城も余計なことをしてくれたものだ。
また、思案に沈む。
そういえば、一之瀬がそろそろ特別試験が始まると言っていたな。職員の間で季節外れのインフルエンザが流行っているせいで先延ばしになっているようだが。
一つ気がかりなのは先日図書室で会った時、一之瀬の様子が少しおかしかった点だ。女子の不調にずけずけと首を突っ込んではならないと恋愛の教科書から学んだが、特別試験が絡むとなるとデリカシー云々は言ってられない。
場合によってはオレが動いて解消してやる必要もあるかもしれない。まあ、今の一之瀬ならば心配いらないとは思うが。
そんなことを考えながら、尚も歩き続ける。
何時になったら、とかどこまで行ったら、とかの区切りもなく、ただふらついているだけ。まるで、今のオレの思考のようだった。
今日の朝、堀北クラスの話題が出てから、喉奥に刺さった小骨のように何かが引っかかっている。もっとも、それによって思い悩んでいるとかではない。ただ、自分の把握していない感情を抱いているとすれば、それを分析しておくべきだと好奇心が働いているに過ぎない。
寮の裏手――宝泉と一悶着あった場所――や普段使われていない建物――龍園が軽井沢を脅した現場――を通り過ぎても、何の感慨も湧かなかった。
オレはあのクラスに未練があるわけではない。思い入れも、敵意も、何もない。ただオレの目的を果たすために不適だったから離れた古巣、という認識でしかなかった。
ふらふらと歩いていると気付けば視界は開け、西日に思わず目を細める。ここは確か部活に使われるグラウンド群だったはずだ。
そこに一人と一つの影が動いている。交互に両足を動かし、それと同時に球体の物が宙を舞っていた。オレがそれを認識して間もなくその動作をやめ、こちらを向く。
距離はそこまで離れていない。オレの優れた視力が、その存在が誰かを特定する。
しかし、それより早く、彼が声を掛けてきた。
「やあ、綾小路くん、久しぶり、だね」
「――ああ、久しぶりだな、平田」
平田洋介。決別したオレの元友人、だったはずの男。
激しい西日に眩んだ視界では、彼の表情まで窺うことはできなかった。
一往復の会話の後、オレたちの間には沈黙だけが広がっていく。それは砂粒が転がる音さえ拾えるのではないか、というほどだった。
裏切ったオレと裏切られた平田。今更、何を話すことがあるというのか。オレの冷静な思考は今すぐ立ち去ることを勧めてくる。
オレが踵を返そうとした瞬間、少しざらついた声で平田が呼び止めてきた。
「よかったら、少し付き合ってくれないかい」
「――本気で言ってるのか……?」
「ああ、もちろん」
平田の意図が読めない。彼は以前、オレの移籍の原因に心当たりがあるかのような口ぶりをしていた。堀北のように問いただしたいことがある、というわけでもないだろう。
少し迂回してグラウンドに入る。そこは乾いた土の匂いで満ちていた。
平田は足元でサッカーボールを転がしながら待ち構えている。
「今日の練習は早めに終わったんだ。今学校ではインフルエンザが少し流行っているみたいだからね」
「そうみたいだな。うちのクラスでも一人病欠している」
平田はボールを軽く蹴る。速度を殺した、緩いパスだった。
オレはインサイドで、ボールの勢いを吸収するように止めた。まるで靴に吸い込まれるかのように静止する。
「ローファーのままだけど大丈夫かい」
「問題ない。どうせ今日磨いておこうと思っていたところだ」
オレは平田の右足にぴたりと収まるよう、パスをする。回転はかけず、取りやすいものだけを返した。
これを何度か繰り返す。サッカーは体育の授業で複数回やっていたこともあって、問題なく熟せていた。
平田とパスを回しながらも、少しずつ自分が上達している手ごたえを感じる。
「綾小路くんは、サッカー経験者だったんだね」
「いや、体育の授業でやったことあるだけだぞ」
「……そっか」
会話はそこで途切れ、ぱすりとボールを蹴る音だけが残った。
突然、平田はボールを足の裏で止め、左隣を指さす。そこにはラインパウダーで長方形の線が引かれていた。
「攻めは奥の線を越えたら勝ち。線から出たら、取られたのと同じ。守りは最初に奥の線の前に立つ。交代で、どうだい」
「正直、そんな乗り気じゃないんだが」
「一回だけでいいから」
有無を言わせない語気。珍しく、押しが強い。
オレがラインの少し手前に立つや否や、平田が攻める。
ボールを運ぶ平田を観察し、間合いを測る。オレは線の四歩手前で、膝を軽く曲げて待っていた。半身で、足は肩幅より少し広い。構えはそれだけで十分。
三メートル。平田は速度を落とし、右足の裏でボールを引いた。次に外から跨ぐ。
咄嗟に動けば引っかかってしまいそうになるフェイント。だが、オレには通用しない。
見るのは足ではなかった。オレの目は、平田の腹のあたりに向けられている。足は嘘をつく。反対に腰と体の重心は誤魔化しにくい。
平田が右へ出すと見せて、左足を踏み込んだ。しかし、重心は最初から左にあった。
一歩目でボールが足から離れた。オレは右足を伸ばして、爪先で触れる。ボールは横線の外へ転がっていく。
「今度は逆で、もう一回」
オレはボールを転がし、歩くように進んだ。平田が距離を詰め、体を低くして待つ。足を出さない。出したら負けると思っているのが分かった。
この短い時間で実力差を見抜いている。いい判断だと評価できる。しかし、だからこそ、そこにつけ入る隙がある。
足の裏をボールに乗せる。平田の目が足元に落ちた。ボールを足の外側で流し、体だけを逆に動かす。平田の足が何もない場所へ出た。オレは一歩で横をすり抜け、走らずに線をまたいだ。
流れでやらされた二本目も、三本目も、結果は同じだった。平田の攻撃は三回止まり、オレの攻撃は三回通った。息が上がっているのは平田だけだった。
四本目、そろそろ切り上げようとする。だが、予想に反して平田は足の裏でボールを踏んだまま動かなかった。
「あの日から、ずっと気になっていたんだ。――君は僕たちを、僕をどう思っていたんだろうって」
来た、と思った。視線を上げ平田の顔を見る。
西日は既に落ちきり、ナイターが彼の顔を照らしていた。そこからはオレの知る感情を窺うことはできない。
「それを知ってどうするんだ」
「それはわからないかな。ただ知りたいだけ」
ここで取り繕うのは容易い。そして、それこそが正解だとわかっている。
だが、この時この場面においては、それではいけないと思った。
そう、オレは清算しなくてはならないことが山ほどあるから。それは、この学校で多くの人間を自分のいいように操ったことだ。
これからではなく、これまでの話。『変わる』ためには避けて通れない、オレの負債。
立っているのは石灰粉で区切られた長方形。差し詰め、即席の精算所と言えるかもな。
いや、もしかしたら平田にとってはオレを断罪する法廷に見えているのかもしれない。意図せず浮き彫りになった価値観の相違に自嘲を漏らし、口を開いた。
「オレは、お前たちのことは何とも思っていなかった。敵でも味方でもない、ただの駒。それは平田、お前も例外ではなかった」
「……」
十メートルは離れているはずなのに、平田が息を呑んだのがはっきりとわかった。
足の裏で押さえていたボールからじゃり、という音が聞こえてくる。
「そう……だったんだね」
いつもの穏やかな声音、クラス内投票で見せた激情、そのどれとも違う。こんな平田の声を聞いたことがなかった。
突然、平田がボールを蹴り出した。触れる強さがさっきまでとまるで違う。大きく出たボールに、走って追いつく。ドリブルというより、突進だった。オレは半身のまま下がる。その胸に、平田の肩が入ってきた。
だが、渾身のタックルでも、オレの体は動かなかった。
平田が跳ね返されて体勢を崩す。それでも足は止まらない。
もう一度当たってくる。もう一度。もう一度。
幅八メートルの中を、平田は出鱈目なくらい速く動いた。フェイントも入れている。入れたはずだ。にもかかわらず足元が荒れて、ボールは体から離れていく。
技術が追いついていない。それがはっきりと見て取れた。見えているのに、目を逸らせなかった。平田が、自分に向かってきている。
突如、右へのカットイン。この一歩目には意表を突かれた。オレの重心が、わずかに遅れる。
抜かれる、と思った。
膝が線に届く直前、オレの爪先が下から入った。ボールは跳ねて、線の外に落ちた。間に合ったのは反射神経頼り。身体スペックで技術的な敗北を誤魔化したにすぎない。
平田が膝に手をついた。肩が大きく上下している。汗が整った鼻筋から、地面へと滴り落ちる。
「……どう、してそんな平然としていられるんだ」
「どうして、か。……それはオレも知りたい」
「それはどういう……」
あえて返さない。平田の足先から零れていたボールを拾い上げ、背中を向けたままこう答える。
「位置につけよ平田。今度はオレの攻めだ」
平田は顔を上げ、ややあってから奥の線の手前まで戻った。
ナイターで照らされた平田の顔がよく見える。逆に、真下にいるせいで照らされていないオレの顔は、平田からはよく見えないだろう。
「オレには、人との対等な付き合い方がわからない。思いやりも、良心も知らないし、教わってもいない。だから、逆にお前に、『善人』のお前に聞きたい。普通の人付き合いってなんだ? どうしたらお前みたいになれるんだ?」
オレの嘘偽りない本音だった。
もし、オレが平田洋介のような人柄だったら、ひよりを傷つけてしまう心配もないはずだ。それなら、できる限り早く想いを告げて、彼女に振り向いてもらえるようになって、それから――
オレが自由でいられる時間はもう長くない。だからせめて、この高育にいられる間だけは、ひよりと満たされた時間を過ごしたかった。
「一応断っておくと、今言ったことを免罪符にするつもりはない。ただ純粋に、知りたくてしょうがないんだ。だから、教えてくれ」
「綾小路くん、――君は」
それっきり、口を閉ざしてしまった。
だからオレは、ボールを蹴りだした。
最初から運びを速く、最短で距離を詰める。そして平田に体を当てにいった。そのまま拮抗状態が生まれる。背中を向け、ボールを足の内側に抱え込んで、平田の体を背負った。平田が押してくるが、その程度でオレは動かせない。
そこで疲れからか、平田は右足を大きく右に動かしてしまう。その隙を見逃さない。後ろ向きのまま、瞬時にボールを平田の左側に蹴り、そのまま反転して平田を抜き去る。
そのまま白線を越えた。平田はもう追ってきてはいなかった。
その代わり、息を吸う音を僅かに拾う。そして振り返ると、平田は地面に寝転がってしまった。
「少し、疲れたんだ。大丈夫、すぐ起き上がる」
そして、そのまま沈黙が広がった。だが、そこに気まずさはなかった。
オレは空を仰ぐ。視界に入ったのはひと際大きな宵の明星と、それを横切っていく飛行機の灯りだった。
額を伝う汗をワイシャツの袖口で拭った。ボタンの冷ややかさが、オレの熱を浮き彫りにさせた。
それはきっと、身体を動かしたせい、というわけではないだろう。
平田が息を吸う。オレはそれを見計らって、平田に手を差し伸べた。
「立てるか」
「……助かるよ」
平田は上体を起こす。その顔つきには、いつもの柔和さが戻っていた。
「もう少し話そうか」
◇
「お茶でよかったか」
「うん、助かるよ」
寮にほど近いベンチに並んで座る。座面はそれなりに大きかった。
オレは自分の缶コーヒーを開けないまま膝の上で転がし、右手はベンチのへりを掴むようにする。
草むらからはジーッという何かの虫の鳴き声が聞こえてきた。
「覚えているかい。ここは、一年生のクラス内投票の後、君が僕を立ち直らせてくれた場所だよ」
オレは少しばかり驚く。確かにそうだ。言われるまで気が付かなかった。
「そんなこともあったな。――だが、オレがただお前が心配でやったわけではないことを、お前は既にわかっているだろう。オレがそうしたのは、クラスを円滑に回していくためのピースが必要だったからだ」
「……そうかもね」
平田は両手に持ったペットボトルに視線を落とす。同時に半分ほどまで減っている緑茶が、僅かに揺れた。
「それでも、僕はあの時の君に救われたんだ。それがたとえ君にとって裏のある行為だったとしても、それを理由に僕が受けた恩を無かったことにしていいわけじゃないと思う」
懐かしむように、一方でどこか悲し気な顔で語る。
恨んでもいいはずだ。だって、自分が友人と思っていた人間が、他人を何とも思っていない人でなしだったのだから。
しかし、彼の声音は緑茶の水面ほども揺れていなかった。
「だから、ありがとう。――今日、改めて伝えておきたかったんだ」
上半身を捻り、こちらへ目線を向けてくる。
その時、今日、初めて目が合ったような気がした。もちろん、気がしただけでそれは事実ではないのだが、そう感じたのだ。
「なぜ、感謝する。聞いたはずだろう。オレにとってお前はDクラスの調整弁でしかなかった。そこに善意はなく、あったのはオレの打算だけだ」
「本当に君はただの『悪人』なのかな? 僕は、そう単純な話ではないと思うんだ」
平田はオレの瞳孔の更に奥を覗き込み、じっとこちらを見つめてくる。
しかし、そこに訝しげな様子はなく、ただ何かを確信している落ち着きがあった。
「須藤くんも軽井沢さんも、君が手を伸ばしたことがきっかけで変わったんだ。Dクラスに配属された欠陥品の僕たちが、確かに前へ進むことができた」
有無を言わせぬような、それでいて優しく諭すような語りに、オレは自然と聞き入ってしまっていた。
座面に後ろ手をつき、体重をかけていた身体をやや起こす。
「君がさっき言っていたこと、『普通の人付き合いがわからない』って話、よかったらもう少し詳しく聞けないかな」
そう言うなり、ずいと身体ごとこちらに向けてきた。
一度平田から視線を逸らし、空を仰ぐ。鉄紺色を羽織った東の空は、自分の呆けた顔すら映し出す深みを湛えていた。
カラスのだみ声が空を劈く。やがてそれらは二重になり、どこかへと飛び去っていった。
「他人の感情を推し量ることも、適切な行動を推測することも、オレにはできる。だが、それらに価値を見出すことができない。人を利用すること、人に配慮すること、どちらもオレにとっては同等の行為でしかない」
オレには当然のように他者を利用する選択肢がある。――だからこそ、無意識のうちに、平然とひよりすら使い捨てようと考えてしまった。
手元で何かが軋む音で我に返る。無意識のうちに缶コーヒーを握りしめていたようで、スチール缶が僅かに凹んでしまっている。
平田はその仕草を興味深そうに見つめていた。
「本当に無価値と思っているなら思い悩んだりはしないはずだ。冷静で思慮深い君が、必死になって考えていること自体、矛盾していると思うよ」
平田は一口、お茶を飲む。先ほどより嚥下音が大きい。
「それに、自分を人でなしと言って憚らない君が、椎名さんにだけは割れ物を扱うように接していたからね。――彼女は、君にとって特別な存在なのだろう?」
親指の形に凹んだスチール缶を数度指で撫で、ややあってから頷いた。
普通の動作のはずなのに、なぜか不出来なブリキ人形のようにしか首が動かなかった。
「綾小路くんが真剣に悩んでいることは伝わっているよ。その場しのぎの演技でもないと確信している。まあ、その気になれば君は僕に構わずさっさと帰るくらいはするだろうから、その心配はしてないけどね」
平田は少しおどけたように笑ってみせた。オレはにこりともしなかったが、それに気分を害すこともなく、彼は続ける。
「前も言ったけど、人に優先順位をつけるのは仕方のないことさ。君が椎名さんを特別扱いしていること自体、何ら不思議なことではないよ。――でも、過去を無かったことにするべきじゃない」
ここで平田は緑茶を脇に置いてから真剣な表情に戻る。ペットボトルと缶コーヒーが隔てていた距離を詰めてきた。
平田は膝の上に揃えていた両手を組み、そしてふっと息を吐く。
「君が切り捨てた佐倉さん、それに前園さんのこと。もし綾小路くんが変わりたいと思うなら、自分がしてきたことから目を背けるべきではないと思う」
「そうだな。どれだけオレが変わろうと、そしていつか己の行動を悔いようと、彼女たちの退学は変えようがない」
佐倉を生贄にすることで櫛田を残すことができた。前園には裏切り者という落ち度があった。いつか良心を会得したオレであっても、同じ行動をしないとは限らない。
しかし、問題なのは、オレがまったく良心の呵責なく彼女らを突き落としたことだ。これが『正しくない』ことは理解できる。普通の人間であれば、無感情のままオレと同じ選択をするはずがない。
「……正直、僕は完全に君を許すことはできない。それでも、クラスが違う敵同士であっても、君が懸命に変わろうとする限り僕は君を助けたいと思う。かつて僕がそうしてもらったようにね」
平田は柔らかく微笑んだ。
誰だって自分がいいように利用されていれば怒ると、オレは経験上知っている。だからこそ、打算のある施しを善意として受け取り直されていることが、整然と並んだ書架に一冊だけ判型の違う本が紛れ込んでいるようで、どうにも落ち着かない。
そうだ、この男はこうやって打算もなく人助けをする、掛け値なしのお人好しなのだ。
彼に向き合いながら、オレはふと朝に感じていたひっかかりの正体に気付いた。気にしていたのは仮定の戦績ではなく、あのクラスに置き去りにしたままの案件、平田洋介との決別だ。
罪悪感、というのは正確ではない。オレが抱えていたのは、未処理のまま放置されたタスクへの据わりの悪さに近い。
「ああ、オレはもう非道な手段を使うつもりはない。もちろん、クラス間競争には全力で臨むつもりだがな」
「それは……。なんというかびっくりだよ。――正直、二年生のころは綾小路くんと椎名さんが仲良くしていることはあまり良く思ってなかったんだけど、君をここまで変えてくれたことには感謝しなくちゃいけないかもね」
平田は口を半開きにして呆ける。
サッカー場で滲ませていたような敵意は、完全に霧散していた。
きっと、切り出すなら今だろう。
「だから――改めて、オレと友達になってくれるか」
初めて口にする言葉。多くの人間が未就学児の時点で何度も聞いたであろう言葉を、オレは初めて使った。
「っ! ――もちろんさ、清隆くん」
「ありがとう――洋介」
満足そうに笑う平田に、オレは無表情のまま。だが、心中では確かな達成感を噛みしめていた。
「クラスでも三年生に入ってからの君が気になっている人は多い。幸村くんとか長谷部さんとかね。できることなら、彼らにも今度会ってくれないか」
「是非そうさせてもらおう。もっとも、向こうがオレに会いたがっているかはわからないがな」
缶コーヒーのプルタブを起こし、一気に呷る。少しカフェインが怖いが、今日くらいはいいだろうと努めて気にしないことにした。
「そしたら、今度はリベンジに付き合ってもらおうかな。サッカー部として負けっぱなしはさすがに悔しいからね」
「ああ、受けて立つ。お前が根負けするまでな」
そう言って、どちらからともなく手を差し出し、固い握手を交わす。
――これで、また一つ近づけた。
学力 B+(78)
身体能力 B+(77)
機転思考力 B(74)
社会貢献性 A-(84)
総合 B+(77)
堀北クラスの中心人物。文武両道、容姿端麗、温厚篤実と絵に描いたような好人物であり、入学して間もなくクラス学年問わず人気者となった。
そんな彼がDクラス配属となったのは中学時に起こした暴力沙汰が原因。いじめが横行するクラスを友人が苦になり、自死を選んだことがきっかけで恐怖政治を敷いた。
もっとも、櫛田のように裏の人格があるわけではなく、閾値を超えた際の行動に制限がないタイプ。元の善性のまま何もかもを手段に秩序を保とうとする彼は、ある意味Dクラスでも屈指の歪さを抱えているとも言える。
平田の善性は疑う余地を持たないが、友人をいじめで亡くした経験からか人間関係の不和に過敏なきらいがある。それがクラス内投票において爆発したが、綾小路が手を回したことにより解決した。それ以降は佐倉の退学などにも折り合いを見せるなど精神的な成長が見られる。現在の彼はただの平和主義ということではなく、三年生の無人島試験ではひよりを綾小路に対する人質として使うことに反対せず、かつ篠原を意図的に退学させた綾小路にも戦略の一環として理解を示していた。
他方、綾小路のクラス移籍を画策した橋本に対し、戦術的な挑発にも関わらず殺意に似た激情を抑えられなかったことから、綾小路に対する感情は複雑なものがある模様。
本作において、綾小路の移籍に椎名ひよりの影があったことから感情的な面はともかく、その理由には一応、納得している。ホームページの台詞から窺えるように、綾小路に対し心中で違和感を覚えていたこともあって、彼の高校生らしい一面を見れたことに安堵に似たものを感じていたこともあった。
なお、平田と和解した綾小路は後日、早速女子との自然な接し方についてご教授賜ろうとしたが、平田自身恋愛経験は乏しく、悩める男子高校生が二人並んだだけになった。