if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
※次回投稿は11/7を予定しています。
「ありがとうございました~」
アッシュブラウンに髪を染めた若い女性店員の、やや間延びした声を背中で受けながらオレは雑貨店を後にした。
手元の紙袋の中には青紫色のスープジャーが入っている。真空断熱で朝入れた汁物を、温かいまま昼に食べられる優れモノだ。
今は五月らしく心地よい春晴れの続く気候だが、六月になれば梅雨冷えの日もあり得る。そこまで体が強くないひよりに温かいスープを振舞おうと思っての買い物だった。
自分用なら名も知れないメーカーの安物でよかったが、ひよりが使うものであれば粗悪品を用意するわけにはいかない。そこそこ値はしたが、象印のフラッグシップモデルを手に取った。
無難に味噌汁にするか、それとも、せっかく大型のものにしたのだから、思い切ってポトフにでもしようか。ああでもないこうでもないと脳を働かせていると、控えめに向けられた視線を察知する。
紙袋を確認するふりをしながらそちらを窺うと、そこにいたのは長谷部だった。彼女の尾行であれば気付けないわけがない。大方、偶然こちらを見つけ接触するかと悩んでいるのだろう。
去年の今頃は堀北クラスで一番関わりのあった綾小路グループの一人、それが今ではあのクラスの中でも特段気まずい関係性になっている。
確か最後に話したのは学年末試験のころ、付き合うのも面倒だからと天沢にわざと邪魔をさせて話を切り上げさせたのだったか。あれは『正しくない』振る舞いだった。
あえて歩調を緩める。先ほどより接近しているようだ。
ここで接触しておくべきか。――まただ、ここは損得だけで考えるべきではないだろう。
先日の平田との一幕を思い出す。彼と約束したこともある、ここで長谷部と蟠りを解いておくべきと判断した。
「久しぶりだな、長谷部。大体二ヶ月ぶりか」
「あ……きよ、綾小路、くん」
「すまん、驚かすつもりはなかったんだ。何か用があるのかと思ってな」
両手を慌ただしく動かし、どもりながらも長谷部は答えた。
オレは彼女が落ち着くのを待ってから目線で話の続きを促すと、彼女は深呼吸を一つ挟み、唇を舌で湿らせてから口を開いた。
「この前は話せなかったから――愛里のこと。綾小路くんにも聞いてほしくて」
「佐倉、か。オレはてっきりクラス移籍についてかと思っていた」
「実は、平田くんが少し話してくれたんだ。何でわざわざDクラスにまで行ったのかとか聞きたいことは沢山あるけど、それよりも愛里について知ってほしくて」
自主退学を企てるほど佐倉と仲が良かった長谷部は、きっと退学後の動向には目を光らせていたはずだ。
退学した生徒の中で今はアイドルをやっている者がいると風の噂で聞いたことがある。以前は然程興味も無いので調べようともしなかったが、今は聞いておきたい気持ちもあった。
椿との接触から、落伍者の行く末に好奇心が湧いたのもある。しかし、それ以上にオレが気にしているのは、佐倉が退学をどう受け止めていたか、という点だ。
堀北の采配が発端とはいえ、それを後押しし、佐倉を追いやったのはオレだ。その事実を彼女はどうやって乗り越えたのか。是非聞いておきたい内容だった。
「わかった、立ち話もなんだ。カフェにでも寄っていくか?」
「……うん、そうしよっか」
オレの誘いに、長谷部ははにかむ。柔らかく下げられた目尻に、少しだけ以前の面影を覗かせる。
こうして連れ立って放課後を歩くのも約一年ぶりか。オレが何の未練もなく手放した綾小路グループとの日常を思い出す。彼らも平田と同様に打算のない友人関係を持ち掛けてくれていた。
『敗者はいつも、手遅れになってから自分の惨状を振り返って後悔する』とは昔からの経験則だが、オレ自身いつの間にか敗者に片足を突っ込んでいたのかもしれない。
放課後ということもあり、やや人気の多いケヤキモールの中を歩く。まだ会話はぎこちなく、まるでエンストを繰り返すかのように度々途切れてしまう。もう少し着くのが遅ければ、長谷部は気まずさに耐えかねていたかもしれない。
店に入り席に着くと長谷部を残し、オレは注文へ向かう。ここはカウンターでドリンクを購入するタイプだ。
そして、初めて綾小路グループが集まった勉強会の場所でもある。店はあの日のように賑わっていて、変わったのはオレたちの関係性だけだった。
だが、それ以上にオレにとって印象深いのは、ここで初めてひよりと会ったことだろう。当初は『印象に残りにくい顔』のようなことを言われたか。図書室で意気投合するまで、まさかここまで親しくなるとは思いもしなかった。
受け取ったコーヒーとカフェオレを置き、テーブル越しに長谷部と向き合う。僅かにコーヒーから立ち上る湯気が、不安げな長谷部の顔を霞ませていた。
「それでね、愛里のことなんだけど……」
そこから、長谷部は語りだした。退学してすぐ佐倉がアイドルとして活動を始めたこと、着実にフォロワーを増やし、今は深夜枠ながらテレビ出演をするにまで至ったこと。それを聞いてオレは素直に驚いた。
あれだけ手酷く見捨てられたというのに気丈にも立ち上がってみせたのは、偏に彼女の精神的な頑強さによるものだろう。
「……そうか。佐倉は元気にやっているんだな。彼女の強さは尊敬に値する」
「本当に強い子だよ……。でもね、愛里は、最初からこうじゃなかった。愛里は、好きな人がいたから変われたんだよ」
好きな人、すなわちオレのことだ。
無意識のうちに背筋を伸ばし、少し前のめりになってしまう。
「愛里が綾小路くんに向けていた気持ちは本物だった。――ちょっと羨ましく思っちゃうくらいにね。あんな恋ができたらなって。前はあんなに引っ込み思案だったのに、今は見知らぬ大勢に向かって立ってる。それはね、いつか卒業した君に成長した姿を見せたいからなんだよ」
相槌さえ出なかった。涙を堪え、笑って別れを告げた彼女に、そんな覚悟があったとは思いもしなかったからだ。
初めて関わったときのことを思い出す。須藤の一件で証言をすることにも及び腰で、そしてストーカーに追い詰められてなお誰にも相談できなかった彼女。それが今はステージ上で、誰に頼るわけでもなく笑顔を振りまいている。本当に見違えるほど成長したのだろう。
「あはは、さすがにびっくりしちゃった? 愛里、テレビで初恋の人がいるって話しちゃうくらいなんだから。……誰のことを言ってるのか、すぐにわかっちゃった」
穏やかな顔で嬉しそうに語る長谷部に、もうオレへの恨みは見受けられない。
手元にはまだカフェオレが並々と入ったカップ。その縁を指でなぞりながら、かすかに揺れるまろやかなベージュ色の水面に視線を落としている。
「――そこまで、だったのか」
彼女の好意について聞かされて脳裏に浮かぶのは、あの夕日の差し込む廊下での別れ。最後まで涙と嗚咽に崩されなかった、とびきりの笑顔。
あの日より柔らかい夕焼けを、レースのカーテン越しに見る。まだ、日没までは時間があった。
――オレにも、同じことができるだろうか。
ひよりが退学になったと仮定してみる。そこで、オレは平静を保っていられるのだろうか。そして、経緯はどうあれ、笑って別れを告げることはできるだろうか。
その時の自分を知りたいという好奇心と、彼女との別れを拒む自分が共に存在していた。
ブレンドコーヒーを一口含む。深煎り豆の豊かな苦味と、後味の華やかな酸味が混ざり合って口内に広がっていった。
一つ確かなのは、それはオレという人間を変え得るほどの衝撃を伴うということだ。
そんなターニングポイントを経た彼女がどうなっているのか、自分の目で確かめてみたかった。
そして、佐倉には謝罪をしておくべきだろう。櫛田を制御できなかったオレと堀北の手落ちを、彼女の退学という形で清算させたのだから。
「許されるのであれば、彼女に卒業後会ってみたい。今はそう思っている」
「そう、なんだ。――綾小路くんは愛里の動向に無関心なんじゃないかって思ってたから、それが聞けただけでも嬉しい。きっと、喜ぶだろうから」
そう笑って、彼女は初めてカフェオレを口にした。オレもカップを傾ける。
少し冷めて湯気は立たなくなっていた。対面の長谷部の顔を遮るものは何もない。
「長谷部、すまなかった。――満場一致試験でのこと、お前には不本意な選択を強いてしまった」
「――本音を言うとあの日のことは今でも消化しきれてない部分がある。でも、恨み言一つ言わずあの子は許したのに、私が引きずったままなのも筋違いな気がしているんだよね。それに、私たちには一年近く過ごした時間もあったから……。きっとどこかで仲直りできる機会を探していたんだ」
伏し目がちだった目線を持ち上げ、オレを正面から見据える。
少し茜色に照らされたその表情は、コンビニで買い食いをした時のそれと同じだった。
「だから、聞かせてよ。移籍してから今までのことをさ。また、きよぽんと仲良くしたいんだ」
「そうだな――って、きよぽん?」
「あっ……つい」
無意識に零れたかつてのあだ名。口元を押さえているが、もう訂正も利かない。
だから、仏頂面ながら精一杯穏やかな表情を試みつつ、「そのままでいい」と言ってやる。
そこからまた、話し始めた。
今度は、一度もエンストなどしなかった。
「あ、もうこんな時間。すっかり話し込んじゃったね」
「そうだな。また別の機会もある、今日はこの辺りにしておこう」
空っぽのカップをテーブル端に追いやってしばらくした後、オレたちは解散することになった。
今日もひよりは別件の用事があるらしく、オレ自身堀北クラスの様子を知りたかったこともあって、つい長話をしてしまった。
オレはもう少し残ってから帰ると長谷部に伝える。彼女は少し不満そうな顔を見せたが、別れ際には心底嬉しそうな顔で手を振っていた。
手持無沙汰で居座るのも決まりが悪いので、カウンターでもう一杯コーヒーを注文する。限定らしいマンデリンに口をつけると、舌に残る重厚な苦味と複雑なコクで満たされていく。鼻に抜ける芳醇なフレーバーは、少し浮ついた気分を切り替えるのに最適だった。
今日一番の収穫、それは自らの行いに成功例を見つけられたことだ。
佐倉愛里は恋によって変わってみせた。この事例により、恋愛感情に由来する強力な目的意識は己の性分すら上書きする動力を有していることがより説得的になった。
正直、オレが時間を割いている試みに、果たして効果はあるのか少し疑問を抱いていた。『変わった』と再三言われていたが、それは対外的な行動であり、オレの本質を指している言葉ではない。
会ってみたい、か。先ほど自分の口から出た言葉をもう一度なぞってみる。似た言葉を、オレに向けた者がいたから。
――かつてのホワイトルームの同期、ユキだ。
オレの最後の記憶では、彼女は簡素な患者衣に身を包み、消耗した様子を隠しきれていなかった。そんな中でも、あの時彼女は心底嬉しそうに『会いたかった』と言っていた。あの過酷な環境に身を置かれながらも、誰かを思いやる心を身に付けた彼女。それと同じ気持ちを、オレは今抱いているのだろうか。
それなら、オレは正しい道を進んでいる。そう確信をもって言える。
それだけでも、長谷部と接触した価値があった。
手荷物の中から文庫本――空き時間に暇を潰すために大体は携帯している――を取り出す。そこに挟まれた、ミモザの押し花があしらわれた栞を丁重に摘まみ取った。
ひよりがくれた、もう一葉の贈り物。オレに与えられた、もうひとつの機会。
それを数度指の腹で撫でてから、同じ場所に挿し戻して文庫本を仕舞った。
一息にコーヒーを飲み干し、席を立つ。
いつの間にか日は落ち、西の端にだけ茜を残した空が澄み渡っていた。
一人きりの読書。胸ポケットの栞。
今はあの日とは対照的な晴れ空だ。
当然、傘は必要なかった。
◇
オレはカフェからの帰り道、スーパーへと寄っていた。
結局、今日買ったスープジャーを使ってポトフを振舞うことに決めたからだ。初めて作る料理をぶっつけ本番で出すわけにはいかない。何度か試作する必要があった。
確かポトフに豚ロースなどを使う場合、一晩塩漬けした方が良いのだったか。ひよりはあまり塩辛いのが好きではないから、塩分量の調整は実際に試してみるしかない。
すっかり馴染みとなった店内へと入り、淀みのない足取りで青果コーナーへと向かう。そういえば今日は青葱が安かったはずだ。合わせて買っておこう。
脳内であれこれ考えながら物色していると、予想外の人物に出くわした。
「ひよりと……王か」
「あっ……」
「あら、綾小路くん。お夕食の買い出しですか?」
自然と浮かべていたであろう笑顔を凍り付かせる王と、嬉しそうに目尻を下げるひよりの対比が印象的だ。
あくまで害意はないと両の掌を上げ、降参のポーズを取る。
「そうだ、ひよりは……もしかして最近の用事というのはこれのことか」
「そうです! みーちゃんに料理の練習を手伝ってもらっているんですよ」
そう言うとズッキーニを片手に持ったまま、得意げに胸を張って見せる。
微笑ましさに、自分の仏頂面が緩むのを感じた。
そのとき、王はオレに視線を向けると、オレが現れた時以上に驚いた顔を見せる。
「それなら一緒に回ろう。王は構わないか?」
「あっ、はい、大丈夫、です」
「そんな警戒しなくても大丈夫ですよ。最近の綾小路くんはとっても優しいですから」
「最近の」とは、何というか、なかなかひどい言われようだな。事実だからしょうがないが。
だが、嬉しそうに買い物カゴを揺らしながら先に進むひよりに一切の悪気は見受けられない。思わず王と顔を見合わせてしまう。
彼女のこわばっていた表情が解けていく。贅沢を言えば、これが苦笑でなければもっと良かった。
「最近、平田くんから綾小路くんについて聞いたんですよ。決して悪意を持っていたわけじゃないって」
「そうなのか。長谷部も平田から聞いたと言っていたな」
先日の和解を掻い摘んで話しているのだろうか。
特別試験以降、堀北クラスからの反感が大分高まっていたから、それへの対処と推測できる。
オレへの配慮という側面もあるが、恐らくはクラスメイトの軽挙を戒めるのが目的だろう。お人好しだが存外に抜け目のない、平田らしい行動だ。
「とりあえず、今はひよりちゃんを追いかけましょう」
「そうだな、多分置いていったことに気付いてないだろうから」
豚ロース肉を手にしていたひよりは、案の定追いついたオレたちを不思議そうに見ていた。
それぞれ必要なものを買って会計を済ませる。
レジ袋を両手に自動ドアをくぐると、少し生ぬるい夜風が頬を撫でた。冷蔵ケースの冷たさに晒された体温があっという間に元に戻る。
移り変わっていく季節。毎日じりじりと高くなりつつある気温が、否応なく迫るタイムリミットを突きつけてくる。
あと、一年もない。そう思った途端、寒くもないのに冷や汗が背筋を伝った。
前を歩いていたひよりと王が歩調を緩めて振り返る。
「どうかしたのですか?」
「いや、もう少しで夏になると思ってな。ここ数年ですっかり春は短くなったなと、少し嫌な気分になっていた」
「そうですね……もう図書室の涼しさが恋しくなります」
右手に持ったレジ袋は彼女たちのもの。その負い目もあってか、特に王はしきりに目線だけこちらへ向け、気を配っている様子だ。
「春と秋が短くなって、夏冬がどんどん長くなってますよね」
「そうだな、春が終わっても、長い、長い夏がある」
そうだ、夏は長い。特にここ数年は。
今だけは、その長ったらしい夏が少しだけありがたかった。
きゅっとレジ袋を握り直す。ずっしりと重量のある内容物のせいで、その持ち手はビニールが伸びているようだ。
そのまま三人で寮までの道を並んで歩いていると、街灯に凭れ掛かった、大柄な影が身じろぐのを見た。
赤色の双眸はオレの左側にいる彼女たちを順番に捉え、そしてやがてオレの目を射貫く。
「やあ、綾小路ボーイ。奇遇じゃないか」
「とても奇遇には見えないがな」
「まさか、この状況は本当に偶然によるものさ」
高円寺六助。今の三年生の中で唯一、オレに比肩し得る実力を持った特異点。
この男が接触してきた理由はおおよそ見当がつく。おそらく、二年生三学期の牽制を念押ししようというところだろうか。
不思議そうに高円寺を見る王に、努めて視線を向けないようにした。
「そうだな、偶然会ったことだし、少し話さないか」
「フフフ、気が利くねぇ、綾小路ボーイ」
「……ひより、王、先に帰っててくれないか? 荷物を最後まで持ってやれなくて悪い」
「謝る必要はありませんよ、綾小路くん。では、また明日」
ひよりはオレと高円寺に恭しく一礼し、王と連れ立って離れていく。
聡い彼女はこの状況が偶然でないことぐらい理解しているのだろう。「また明日」の言葉には言外の意味が込められているように聞こえた。
彼女らの軽い足音が聞こえなくなるまで、オレたちは向かい合って待つ。
――お互いの弱点は、曝け出されている。
「それで、絵に描いたような自由人のお前がわざわざ接触してきた理由はなんだ。一応言っておくが、アイスブレイクは不要だ。要件を話せ」
「せっかちだねぇ。別に君とガールの逢瀬を邪魔立てしたいわけじゃないさ」
「それなら嫉妬か? お前にそんな女々しい一面があるとは驚きだ」
「まさか。私は意中の女性がいるなら迷わずアタックする男だよ。あれこれ悩んで奥手になるほど愚かじゃないからね」
ジャブの応酬。この程度で揺らぐ男ではないとわかってはいたが、やはり意図が読めない。
目的はわかる。だが、この行動は彼が時間を割くに値するとは思えない。言葉で何を言おうとオレを縛れないことは既にわかっているはずだから。
何か目的を達成する見込みがあるから高円寺は今ここにいる。その勝算を見破るべく、オレは一段階思考のギアを上げた。
「それなら今まさにアタック中か? 悪いがオレの趣味じゃないから遠慮させてもらうぞ」
「おっと、勘弁してくれたまえよ。私も綾小路ボーイは二重の意味でタイプではないからね。図星を突かれたからといって八つ当たりはみっともないよ、ボーイ」
――嫌な予感が当たったか。
おそらく、逢瀬や意中の女性といった言葉を高円寺は意図的に発している。勝算の正体はオレが考え得る中で最悪のものだろう。
お互い話し始めた時と同じ佇まいのはず。しかし、空気が一気に張りつめたことが肌で感じられた。
「何を言っているのかわからないが、野次馬根性か? 他人の事情に首を突っ込むなんてお前にも年相応なところがあるようだな、十八歳」
「思ってもないことを言わないでくれたまえ。――それに、君の幼稚な振る舞いを鑑みれば人のことを言えないと思うがね」
「……何?」
思わず聞き返してしまう。
オレの反応を見るや否や、高円寺は腕を組んだ姿勢のまま肩を落とし、大仰にため息をついた。
「自分の願望に嘘をつかない、なんて童子にだってできること。無論、私もそうさ。一方君はどうだい? 自身のあり方も直視せず、つまらない理屈に自分を押し込めるなんて、まったく嘆かわしいことだよ。……もっとも、それはそれで一つの生き方だ。私がとやかく言うことでもないがね」
「……」
正直、高円寺の言葉の意味を量りかねている。
いや、そもそもオレに助言をしたいわけでもないのだから、伝わる言い方をしていないのだろう。
「まあ、君の不出来など些末なことだ。本題はね、君に改めて釘を刺しておくためさ、綾小路ボーイ」
「やはりな。だが、お前にとってクラスがどうなろうが関係ないはずだろう。わざわざ労力を割く意味がわからない」
「意味はあるのだよ。なぜなら、君は必要とあらば誰彼構わず巻き込んで私を動かそうとするだろう? 降りかかる火の粉はあらかじめ払っておきたいのさ」
「それは、王美雨のことか?」
「フフフ、それはどうだろうね」
やはり、はぐらかしてくる。
この唯我独尊を地で行く男が見せた献身は、明らかに彼女が特別な存在であることを示している。にもかかわらず、なぜか彼は頑なにそれを認めようとしない。
高円寺の顔は先ほどと変わらず、尊大な笑みを浮かべている。しかし、彼はその笑みを一段と深めると、良く通るバリトンボイスを発した。
「もし君が私に何か仕掛けてくることがあれば、場合によっては私も手段を選ばないよ。――無論、文字通りの意味でね」
これが本題か。
オレからすれば喉元にナイフを突きつけられたようなもの。だが、オレの思考は冷ややかだった。
あくまで状況はイーブンに戻ったのみ。それに、そもそも高円寺と敵対するつもりはない。むしろ、こいつには堀北クラスのお荷物であり続けてもらった方が好都合だ。
「それなら杞憂だ。オレも方針転換をしたからな。今後は平和主義で行かせてもらう」
「そういうところを私はつまらないと言ったのだが、伝わらなくて残念だよ」
「端から伝えるつもりなどないだろう? 意味のない主張はしない方がいいぞ。話が長くなる」
「君がコミュニケーションを説くとは、これは面白いねぇ」
高円寺はおどけた仕草で両手を上げて見せる。やれやれ、と言いたげな仕草は張りつめきった空気を僅かに弛緩させた。
「これは相互確証破壊だ。お互い、賢明な判断をしようじゃないか。私もできることならレディに危害は加えたくないのだよ」
「そうだな。オレも、お前が軽挙に走らないことを祈っているさ」
これで高円寺との関係は極めて安定した膠着状態になった。こいつの性格上、先制攻撃を仕掛けてくることはまずない。念のためなんて理由で行動は起こさないし、自分の実力に絶対の自信を持っていることから、後出しでも対応できると踏んでいるはずだ。
限りなくローリスクで大きなメリットを得た。理屈上はそうだ。
だが、高円寺の示した仮定にオレの口は自ずと開いていた。
「……だがもし、お前が彼女に手を出すようなことがあれば」
「その時は、――退学で済むとは限らない」
自分でも驚くほど低く、芯まで冷え切った声音。オレの心中とはまるで対照的。
それでも、高円寺は余裕を崩すことはなかった。
「フフフ、本当にわかりやすいねぇ。だからこそ、嘆かわしい」
口の端を吊り上げ、皮肉げに笑う高円寺。だが、その顔に嘲りの色は含まれていなかった。
踵を返そうとした瞬間、彼は言葉を続ける。
「以前君に『つまらない人間』と言ったが、それは撤回させてもらおう。今後君がどうなるかは、そうだね、どのクラスがAクラスに上がるかより興味が湧いてきたよ」
「それは光栄だな。お前にとっては些末事ということはわかった」
「まぁ、そういうことにしておくさ」
高円寺は「アデュー」と言い残し、去っていった。
夜風が首筋を撫で、やや火照った身体を冷やす。
オレはシャツのボタンを一つ外し、寮への道を歩く。
らしくもない様を晒してしまった。
振り返れば、あの一言は余計だった。闇雲に脅迫をするなど何の利もない。
だが、どうしても許容できなかった。誰かがひよりに、そしてオレたちの日常に踏み入ってくることが。
スーパーの買い物袋を覗き込む。じゃがいも、にんじん、玉葱とポトフを作る材料が見えた。
ひよりにまた明日会えることは、決して当たり前ではない。これから激化していくクラス間競争において、彼女が狙われることは避けられないから。
彼女自身の有用性はもちろん、オレへの対抗手段としても、ひよりを攻撃する理由はある。
それならば、オレはあらゆる脅威を排除しよう。
たとえ、どんな手段を使おうとも。
オレは一度大きく息を吐き、そしてシャツのボタンを再度閉じる。
特別試験は、間近に迫っていた。
学力 B+(78)
身体能力 A(87)
機転思考力 D(34)
社会貢献性 E+(20)
総合 C+(60)
堀北クラス最有力の生徒にして、最大の問題児。頭脳・身体能力ともに綾小路にも比肩し得るポテンシャルを持つが、本人はAクラス卒業に関心がない上、他者に縛られることを極端に嫌うことから、その実力がクラスのために使われることはほどんどない。現在は二年生無人島試験での契約により自由を約束されている。
性格は唯我独尊、孤高不群を絵に描いたようなもので、専ら自らの美学にのみ従って動く。行動指針は一見自分至上主義に見えるが、まったく他者を顧みないわけではなく、山内が暴れた際はあえて自分に矛先を向けさせるなど、状況次第では他人のためにその力を振るうこともある。
特筆すべきは王美雨に見せた献身。本人は〝恩義〟があると仄めかしていたが、それが何であるか、また彼女に向ける感情は何かについては未だ不明である。無人島トークン試験での行動から、前述の恩返しは一回限りの気まぐれではなく、彼女に危害が及びそうになる度に行動を起こすと考えられる。
本作における行動は綾小路への牽制の意図もあった。無論、脅しはブラフにすぎず、仮に綾小路と事を構えることになっても彼女に手を出すつもりは毛頭ない。何より、本題はそれとは別物。一連のやり取りによって彼の推測は確信へと変わり、その上で静観を選んだ。綾小路は気付くのか、そして、その上で何を選ぶのか。あくまで自分自身には劣後するものの、綾小路が考えている以上に関心を寄せている様子。それはもしかしたら、彼自身が行動を起こすかもしれないほどに。