if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
オレは学食でDクラスの面々と駄弁りながら昼食をとっている。石崎を中心としたいつもの集まりに、オレが混ぜてもらっている形だ。
まだ新学期が始まって二週間ほどだというのに、すっかり馴染みのあるメンツとなっていた。
「あ゛ーーー毎日勉強勉強って頭がどうにかなっちまうよ」
「だな。ってか、勉強会の後ってめちゃめちゃ腹減らねえ? 部活あった日でもないのに」
「足りねえ脳みそ動かしてるからだろ」
「学力D+が何かいってら」
「C-でマウント取れると思ってんのか! 互角だろ互角」
ちなみにD+は石崎でC-は小宮。
彼らはクラスはもちろん、学年でも学力最下位レベルの生徒であり、今回の試験で一番の不安要素でもある。
だからこそ、勉強会には彼らの面倒をある程度Cクラスに見てもらい、学力の底上げを図る狙いもあった。
「Cクラスと勉強会ってのが余計疲れるんだよな。ほんのり気まずい感じで」
「俺たちのやってきたこと考えれば、まあ仕方ないとは思うけどな」
「ほんとにこれで信頼関係ってのはできるのかよ? 正直怪しいぞ」
「勉強会はきっかけにすぎない。何も今回で仲良くなれなんて言ってないんだ」
とは言ったものの進捗は想定以上に悪い。
初回のような敵意こそなくなったがお互いがあまり関わろうとしていないのだ。勉強会の効果は発揮されていない。
何よりこのまま膠着状態に陥れば、自発的な進展は望めないだろう。今日の様子次第では何か手を打つ必要があるだろうな。
「綾小路はよ、俺たちと一之瀬クラスがバチバチだとやっぱ困るのか?」
「そうだな。同盟は以前説明した通り今後の戦略の中核をなす。関係改善は必須だし、それはなるべく早いほうがいい」
そう返すと石崎は珍しく難しい顔をした。
黙り込んだ彼の代わりに小宮が口を開く。
「俺も勉強できればこんな苦労しなくて済んだのかねえ」
「てかよ、綾小路は何でそんなに勉強ができんだ? 金田から聞いたぜ、お前クソムズいテストで100点とったことあんだろ」
「偶然だ。わからない所は鉛筆転がして答え書いてたぞ」
「まじかよ! 俺にもその運分けてくれ!」
「ほいよ」
食べていた山菜定食のおかずを一つ分けてやる。近藤はありがたや~と手をすり合わせた。お返しに唐揚げを一個拝借する。普段なら怒られそうなトレードだが、もしかしたら毎日山菜定食を食べているオレに気を遣ってくれたのかもしれない。
特別試験で多額の出費が決まって以降、オレは倹約を心がけている。これはクラスの貯蓄から出せる類のものじゃないからな。
クラス移籍のポイントは龍園のへそくりから捻出したこともあって懐が寒いわけではない。それでも、緊急の入用に備えて節約しておきたかったのだ。
しかし、こいつら相手だと本当に適当で良いから楽だ。誤魔化すためにあれこれ考える必要もない。
男同士の馬鹿話とはいえ、鉛筆コロコロで納得するのはさすがにどうかと思うが。数学は記述式だったのをすっかり忘れているようだし、そもそも鉛筆を使っている者などいる訳がない。
「しっかし、頭良くてその上運動までできるとか、お前は何ができないんだよ?」
「世間知らずなことだろうな。『生存と脱落の特別試験』では『タピる』を知らなかったことを随分イジられた」
「あの綾小路の口から『タピる』って言葉が出てくるの、なんかツボるな」
手を叩いて笑う石崎たち。ここまで笑われるとは、今度一之瀬に流行りのアレコレを教えてもらう必要があるのか……?
「でも欠点なんてそんなもんだろ。思ってたより付き合いも良いし、石崎もたまには良いことするじゃねえか」
「だろー? 功労者の俺と椎名に感謝してくれていいぜ」
「椎名も噛んでたのかよ。――なあ綾小路、お前椎名と付き合ってるのか?」
「付き合ってないぞ」
「ばっか、綾小路は一之瀬と付き合ってるんだろ? ここだけの話だ、隠さなくて良いんだからな」
「付き合ってないぞ」
どちらも三年生になってから何度も何度も聞かれた内容だ。もう条件反射で答えられるようになってしまった。
クラスメイトの中にはオレがひよりと一之瀬のどっちと付き合っているのか、なんて内容で口論をする者までいた。そんなくだらない事をしている暇があったら勉強してくれ、というのが切実な願いだ。
「ほんとかよ? お前、勉強会始まるまで放課後はいっつも椎名と一緒にいたじゃん」
「そうそう、羨ましいぜ。椎名はうちのクラスでも一番人気あるんだぞ」
「そうなのか?」
「可愛いし当然だろ。もうちょい表情豊かで、もっと喋ってくれてたら一強だったろうなあ」
小宮の言葉に首をかしげる。彼の説明とオレのイメージが重ならないからだ。
ひよりはころころと表情を変えるし、あまり口が上手くないオレにもよく話してくれる。図書室で本を読んでいる時も、何ともない雑談に興じている時も、笑ったり、驚いたり、得意げになったり、とにかく感情を露わにしてくれる。
「かーっ、これだからモテる男は。俺たちとは住んでる世界が違うんだよ」
「とはいえ仕方ないんじゃねえの。元カノは軽井沢だし、今カノはあの一之瀬ともなればな」
「それだけじゃねえよ。二年の無人島試験では金髪巨乳の後輩と一緒に動いてたって聞いたぞ。しかもだ! 生徒会所属のハイスペらしいぜ」
「おいおいおい、これは綾小路のTレックスも大忙しか?」
「やめろ、下品すぎるだろ」
こいつらと居ると退屈しないが、時折品が無いところがある。一年のころ連んでいた池と山内を思い出すな。もっともあいつらのように日がな一日下ネタを言っているわけではなく、一般的な男子高校生の猥談レベル。学食で話すのさえやめてくれれば文句は無いんだが……。
「その椎名とは昼飯食わなくていいのか?」
さすがの内容に、石崎が話題を変える。
こういう所は意外にも気が回る男だ。別のクラスにいた時は気づかなかった。勧誘の時の無遠慮は、あえてやっていたのかもしれない。
「元々そのつもりだったが、今は別件で用事があるからな。試験が終わるまでは西野と伊吹の三人で昼食をとっている」
勉強会が始まって以降、彼女とは図書室でも会えていない。グループの教師役として忙しくしている上、二人に勉強を見てもらうよう頼まれているからだ。
「西野か。確かに最近付き合いが悪くなったような……」
「西野だけじゃなく鈴木と園田に小田、あと時任あたりもそうだよな。春休みから露骨に付き合い悪くなったらしいぜ。ここ最近もずっと直帰してるしな」
「やっぱみんな危機感持ってるのかねえ。おちおち彼女作ってる暇もないな」
「そういや石崎は西野とどうなんだよ」
「バッカ、あいつとはそんな関係じゃねえよ。何でも恋愛に結びつけやがって」
「小宮お前いつまで篠原を取られたこと引きずってるんだ?」
「おい! てめえ触れてはいけないところに触れやがったな!」
やいのやいのと騒ぐバカども。
アルベルトと顔を合わせ、肩をすくめるしかなかった。
「あーあ、綾小路とこうやって飯食えるのも椎名の手が空くまでか。今のうちにモテるための秘訣とか教えてくれよ」
「こういう所で下品な発言をしないことだな」
「こりゃ一本取られたな、近藤」
「ちえっ、スカしやがって。見てろよ! お前より先に彼女作ってやるからな」
「オレは、今はお前らに注力しなきゃならないんだ。彼女は二の次」
「えっ……そんなにも俺たちのことを」
「すまん綾小路、俺は女の子が好きなんだ……。ここはアルベルトに譲るぜ」
「Oh,bro……」
お前も乗るのかよ。
そうこうしている間に放課後。今日の勉強会の時間になった。試験まで残り一週間となり、試験対策も関係改善も追い込みの時期となっている。
しかし、肝心の石崎たちが来ない。予定時刻から十分は経とうとしていた。
既にCクラスのメンバーは揃っており、どこか不満そうな表情をしている。一之瀬が視線で何事か尋ねてくるも、オレは首を振ることしかできない。何せメッセージに既読もつかないのだから。
「わりい! 遅くなっちまって」
そう言うなり石崎は駆け込んできた。
そこには勉強会のメンバーだけでなく、伊吹と金田の姿もあった。
どういうことか確かめようとすると、石崎はこちらを正面に見据え、真剣な面持ちを向ける。
「綾小路、少しだけ席を外してくれないか。俺たちだけで話さなきゃならねえ事があるんだ」
「それは……わかった。お前を信じよう。終わったらメッセージを送ってくれ」
ここは石崎に任せるべきと判断する。オレの予想が正しければ、むしろ望外の成果が期待できるはずだ。
勉強会が無事終わりメンバーが解散した後、オレは残って一之瀬から説明を受けることにした。
「石崎くんたちがね、謝ってきたの。今まで迷惑かけて悪かったって」
「やはりな。元々仲間には情の厚い石崎だ。お前たちと関わる機会が増えれば、何かしらアクションを起こすとは薄々期待していた」
とはいえ、ここまで直接的な方法を取るとは予想外だ。
金田はともかく、伊吹を引っ張ってくるのには苦労しただろう。彼の努力が偲ばれる。
「関係改善において一番の障害は、お前たちのクラスが石崎たちの過去の行いを許せるかにあった。しかし、オレに出来ることは然程多くない。強いて謝らせたところで効果が薄いことは目に見えていたからな。誠意のない謝罪はいつか底が割れる」
「あくまで、彼らが自発的に行動を起こす必要があったんだよね。私たちの譲歩にだって限界があったから」
「そうだ。白状すると、今日の勉強会も不振だったらあいつらを誘導するつもりだった。手間がかかるしバレたら面倒なことになるから、あまり乗り気ではなかったんだがな」
「まあ、彼らにとってはかつて慕っていたリーダーの行いが間違ってました、なんて認めることになるもんね。私としても予想外だったよ」
一之瀬はそう言うと、おどけて笑ってみせる。
オレたちは顔を見合わせ、どちらともなく労い合った。
「とにかく、これで同盟の話は滞りなく成立するだろう。元より根は気のいい奴らだ。蟠りさえなくなれば勝手に仲良くなってくれる」
「その辺はうちの得意分野でもあるからね。私も太鼓判を押せるよ」
これで今回の課題は半分解決したと言えるだろう。
そろそろ解散するかと思った矢先、一之瀬が話を切り出してきた。
「石崎くん、良い人だよね。綾小路くんを勧誘したのも彼だっけ?」
「ああ、石崎とひよりだな。前々から誘い自体は受けていた」
「石崎くんと、椎名ひよりさん……ね。彼らだったからOKしたの?」
一之瀬は頬杖をつく。向かってやや右下に顔を傾け、流し目でオレを見やった。
最近見せるようになった彼女の癖。見通せない瞳孔の奥からは、思わず魅入ってしまう程の色香が滲み出ている。
「まあ、恐らく一之瀬の言う通りかもな。あいつらだったから、オレは移籍を決意したんだろう」
「椎名さんとは図書室で頻繁に会ってるもんね」
「よく知ってたな。そういえば一之瀬もひよりとは面識あるのか」
「混合合宿の時にね〜。そういえば、綾小路くんって椎名さんだけは名前呼びするんだね」
「以前平田にも同じことを聞かれたな。いつから呼び始めたとか、なんでそう呼ぶようになったとかは覚えていない。ただなんとなくだ」
「……ふぅん。仲が良いんだね」
彼女は頬杖をやめ一瞬だけ思案顔を見せるも、即座にいつもの笑みを浮かべる。
「ところで、綾小路くんのクラスは特別試験勝てそう?」
「今のところは勝率六、七割といったところか。『仕込み』も上々だ。だが、丁度一つ確認しておこうと思っていたことがある」
「一之瀬、この前頼んだ一件はどうなっている? 途中経過を聞いておきたい」
◇
特別試験前日の朝、私は以前綾小路くんに頼まれたことを思い出していた。
そのこともあって、今日は彼と待ち合わせをせず一人で校舎へ向かっている。二人きりの時間を過ごせないのは残念だけど、今日ばっかりは仕方ないよね。
まだ始業まで時間があるのに、三年生の姿がちらほらと見える。もしかして、試験に備えて朝から勉強をしてるのかも。
寮を出てすぐ、彼女の姿を捉えた。いつもはぴんと伸ばされた背筋も、凛とした佇まいも、どこか萎びているように見える。
私は足音で驚かせないように気をつけつつ、彼女へ駆け寄った。
「おはよう! 堀北さん。偶然だね」
「おはよう、一之瀬さん。珍しいわね」
「試験も近いからね〜。堀北さんも勉強?」
「……そんなところよ」
嘘。いいや誤魔化したね。
元々彼女が担当していた勉強会を王さんや幸村くんが代わりに請け負っていることは既に掴んでいる。
ただ、今までの習慣を惰性で続けているだけ。綾小路くんがいた今までの日常を変えたくないだけなのかも。
気持ちは痛いほどわかる。私だって綾小路くんともう登校できない、もう今まで通り過ごせないってなったら、辛くて仕方がないから。
その上、彼女と綾小路くんは入学して以来の付き合いだという。当然、堀北さんは比にならないほどの悲しみに暮れているんだろうね。
「試験対策は順調? 私たちも勉強会をやってるけど、相手は坂柳さんのクラスだからな~」
「私たちもまずまずね。相手は龍園くんのクラスだもの。学力勝負で落とすわけにはいかないわ」
綾小路くんのクラス、とは言わない。本当に重症みたい。気丈に振舞ってるけど無理をしているのはすぐわかる。
手ごわいリーダーである堀北さんが沈んでくれれば、正直クラスとしては好都合。でも、こんな彼女を助けたいって気持ちも捨てきれない。
「相手が綾小路くんだから、っていうのもあるんじゃない?」
「……それも否定できないわね」
「……やっぱりまだ引きずっているの?」
彼女は唇を噛みしめ、俯いたまま黙りこくってしまう。
「ねえ、良かったら話してみてくれないかな」
「私たちはAクラスの座を争うライバル。でも、同じ学校に通う同級生でもあるんだよ? 日常の全てで敵対する必要はないと思うんだ」
嘘偽りない本音をぶつける。彼女にも少しは響いてくれたらいいな。
一度彼女を伴って通学路を外れ、人目につきにくいベンチに並んで座った。座面は春の陽光によってすっかり暖められていた。
彼女はどこか話したそうにしている。けど、自分の弱さを見せるのに慣れていないせいか、言葉が喉につっかえてしまっているみたい。だから、このまま普通に話を聞くだけじゃ多分堀北さんのケアは不十分。ちゃんと本音を吐き出してぐちゃぐちゃに絡まってしまった気持ちを整理できないと、憂いなく前を向くことは難しいだろうから。
こういうのは得意分野なんだ。自立した気位の高い人であっても相談相手になれる自信がある。
私はゆっくりと彼女を抱きしめた。安心できるように「大丈夫。大丈夫」と語りかけながら、背中に手をまわしてさすってあげる。
少しずつ強張りが緩んでいき、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
「……自分でも、もうどうしたら良いかわからないの。綾小路くんが離れてしまったことは、頭ではとっくにわかっている。けど、それをクラスメイトたちが受け入れて、まるで彼なんて最初からいなかったみたいに過ごしていることが、どうしようもなく苦しい……」
「綾小路くんのことは友達だと思っていた。周囲を見下して、一人でなんとかできると息まいていた、そんな愚かな私にも手を差し伸べてくれた仲間だって。けど、そう思っていたのは私だけ……? それとも、いつからか見放されてしまったのかも、いや、もしかしたらずっと私のことなんて何とも思っていなかったのかもって。そんな考えがずっと離れなくて、怖くて……」
「ずっと素直になれなかったけど、彼が頷いてくれただけで不安が紛れた。よくやったと褒めてくれた時は嬉しかった。特別試験であなたになすすべなく負けて、みっともなく泣いた私を抱きしめてくれて、それだけで、どこか安心できた……」
「彼と一緒なら、どんな試験にだって立ち向かえる気がしたの。彼はしばらく静観するつもりだったけれど、それでも、隣にいてくれるだけで良かったのに。なんで、なんでいなくなっちゃったのよ……」
「私は強くなれたんじゃない、ただ、彼に寄りかかっていただけだった……。そんな私が、これからクラスを引っ張っていける自信がないの。……ねえ、私はどうしたら良いのかしら……」
――あぁ、そっか。そういうことだったんだ。
予想だにしない事実に衝撃を受ける。けど、そんなことはおくびにも出さない。
ただ、あやすように言い聞かせる。
彼女が安心して肩の荷を降ろせるように。
「堀北さんが綾小路くんのことをわからなくても、それは重要なことじゃないの。だって、もっと大事なことがあるから」
「それはね、何があろうともクラスのみんなは味方だってこと」
「万引きの過去が流れた時、私は塞ぎこむことしかできなかった。このままじゃいけないってわかってた。けど頭はぐるぐるして、体は動かなくて、もうどうしようもなかった」
「それでもクラスのみんなは手を差し伸べ続けてくれた。全部が収まったその時、ようやく気づいたの。私がみんなを助けてあげたいように、みんなも私を助けようとしてくれるって」
クラスのリーダーをやってた私がいなくなってみんな不安だったと思う。それでも、文句ひとつ言わず私に寄り添ってくれた。
当時は申し訳ない気持ちしかなかったけど、逆の立場なら私も同じことをしていたはずだから。
「頼るのは決して悪いことじゃない。むしろ、仲間だからこそ自分を曝け出すべきだと思うんだ。辛いときは寄りかかっていいし、泣きたいときは肩を貸してもらえばいいの。それこそ、本当の意味で信頼してるってことだから」
「ねえ、堀北さんのクラスのみんなは、弱った堀北さんを突き放すようなことをするのかな? 私はそうは思わないよ」
「だからさ、無理して気丈に振舞う必要はないんだよ。またAクラスを目指して立ち上がれるように、今だけは心を休めることだって大事だと思うな」
彼女を正面から見据えるように、両頬を手で包み込む。
彼女の柔肌に触れた所から人の温かさがじんわりと伝わってくる。――いや、もしかしたら、私の手が冷え切っているだけかもしれない。
そして、彼女の顔が見えないよう、頭を胸に緩く抱き抱える。
やがて、彼女は肩を振るわせ始めた。
ただ、彼女の気が済むまで、そうしていた――
――堀北さんは、綾小路くんのことが好き。
友愛、信頼、安心感、そういったものが恋愛感情とごちゃまぜになっているせいで気付かなかったのかも。
それに、多分だけど初恋で、かつ家族に元生徒会長みたいな、頼りがいのあるお兄さんがいたことも影響しているのかな。彼女がお兄ちゃん子なのは聞いていたからね。
彼女を元気づけてあげる目的は変わらない。
けど、そこに私情を加えさせてもらった。
あえて綾小路くんではなく、クラスに目を向けさせた。彼に対する感情を冷静に分析すれば、いつか気づいてしまう可能性があったから。
彼女はクラスのリーダーとして戦うため、近いうちに立ち直る。けど、その瞬間彼女にとって綾小路くんは明確な敵。真面目な堀北さんのことだから、そうなれば彼への感情には蓋をするはず。
気づかないまま終わってた初恋。彼女の心情を想えば、罪悪感が無いとは言えない。
――それでも、私はためらわない。
「……恥ずかしいところを見せてしまったわね。ごめんなさい」
「謝らないでほしいな。こういうときは『ありがとう』だよ」
「ええ、ありがとう一之瀬さん」
それからほどなくして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
まだ完全には立ち直っていないけれど、ひとまずの区切りがついた感じかな。
現状はこれでいい。完全に立ち直らせるのは試験が終わった後って綾小路くんは言っていたから。
「また、試験が終わったらお話しない? 同じクラスリーダーとして、堀北さんとは仲良くしたいから」
「是非そうさせてもらうわ。今はお互い試験に専念しましょう」
そう言うと、彼女は手を振って立ち去る。
スマホのインカメで顔に跡が残っていないか確認しているのは、さすがしっかり者の堀北さんだ。私なら気が回らなくて気づかれちゃいそうだからね。
彼女を見送った直後、背後から足音が聞こえた。
「無理に指揮を執ったところで、堀北のポテンシャルは発揮されない。この期に及んで立ち直れていないのなら接触する必要はなかったと思うが」
「もしかして今来たところかな? 私がやってたのは逆だよ」
私もそろそろ行こうかと立ち上がった瞬間、綾小路くんが現れた。
「逆? ……なるほど、途中経過は聞いていたが予想以上の効果だったのか。だからこそ解せないな。お前にとっては堀北が機能停止している方が好都合だろう」
「クラスとしてはそうかもしれないけど、リーダーの悩みとか苦労とかを共有できる友達は堀北さんだけだからね。綾小路くんと坂柳さんは、そういうの気にしていないでしょ? もちろんそれだけじゃないけど」
試験が発表された日に伝えられた綾小路くんの頼み事、それは堀北さんの経過観察だった。
今回の特別試験、彼は絶対に負けられないと言っていた。それはクラスポイントは当然のこと、自分のリーダーとしての資質が疑われ、今後の戦略に支障をきたすから。
だから、今回だけは堀北さんが出てきては困るらしい。彼女ならやりすぎってぐらい綾小路くんを警戒するだろうからね。策を通せなければ精鋭の数に劣るDクラスは少数戦で厳しい戦いを強いられる。確実に勝利するためには、Aクラスが機能不全に陥っている状況が望ましいと彼は話していた。
「正直、徹底的にへし折って再起不能にするかと思っていた」
「必要ならやる、っていうのは否定できないかも。けど、別に好き好んでやりたい訳じゃないんだよ? 他に手段があるなら選ばない」
「それに、綾小路くんはそんなの望んでないんだよね? もし堀北さんが自分じゃ立てなくなったとしても、櫛田さんか伊吹さんあたりに手を回して立ち直らせようとするはず。だから、手間を省いてあげようと思ったの」
これは本当。彼女を立ち直らせることは接触する前から決めていた。彼女の恋愛感情に気づいて、そのやり方を変えただけ。
綾小路くんが堀北さんに期待しているのは知っている。彼女が塞ぎこんでいるような状態を看過するとは思えないからね。場合によっては彼自身が直接発破をかけに動くこともあり得る。彼女の気持ちに気づかせないためには、私が状況をコントロールしつつ、綾小路くんとの接触は出来る限り阻止しておきたかった。
「オレとしてもありがたいが、らしくはないと思っている。いくら試験直前とはいえ、堀北によってAクラスの戦略が軌道修正されるリスクを、一之瀬が許容するとは考えていなかったからな」
「大丈夫だよ。綾小路くんの存在は堀北さんの中で相当大きい。今の堀北さんを見て、平田くんが彼女にリーダーとしても、代表としても、その責任を背負わせるとは考えられないな」
「一之瀬がそう断言するなら信用するしかないな。陣頭指揮が平田ならオレたちにも勝算は十分にある。逆に聞くが、一之瀬の方はどうなんだ」
「私たちのクラスはまだわからないかなあ。後は布石がどれだけ機能してくれるかにかかってる。どうしたって不確定要素に頼らざるを得ないから」
そう、まだ勝敗はわからない。何せ相手は坂柳さんだもの。私の作戦が完全に読まれていたらまず勝てない。もしくは彼女が仕掛けを歯牙にもかけず、ただ地力で押し切ろうとしてきた場合も相当厳しいかも。
不安でしょうがない。
「今回、
「ポイントを工面してもらっている以上、助けられてないとは言えないけどね」
「あれは勉強会の対価だ。学力に劣るオレたちに時間を割くことは、お前たちにとって無視できない負担となる。同盟とは相互扶助であって一方的に利益を得ることではないからな」
「私も頑張って勉強すれば全体戦で勝てるなんて思っちゃいないからね。勝ち目の薄い勝負から降りて、その代わりに必要なものを得る。これは対等な取引だよ」
私が注力すべきは少数戦。そのために、あの手この手で策を講じてきたんだから。
綾小路くんの私を見る目が春休み以降変わったのには気づいている。自惚れでなければ「名前付きのモブ」から「ネームドの主要キャラの一人」くらいにはなれたかな。
けど、まだそれだけ。だって、
坂柳さんは多分、私が綾小路くんを知った気になっていると思っている――というより、
「私は綾小路くんに助けられたからここにいられる。けれど、いつまでもおんぶにだっこではいられないからね」
「お前の成長曲線はオレの予想を遥かに超えている。自信を持っていい。オレはお前のもたらす予想外に期待しているからな」
彼が信じてくれるなら、私はそれに応えるしかない。
私が望む関係性はまだ遠いんだ。だからこそ、せっかく掴んだチャンスをふいにする訳にはいかない。
◇
試験を翌日に控えた三年生の中でとある噂が表面化し、瞬く間に広がっていった。
曰く、「橋本正義はクラスを裏切っている」「ポイントと引き換えに少数戦の情報をCクラスに流している」と。
どこから広まったのか、誰の証言なのかは一切不明だったが、Bクラスを震撼させるには十分だった。
そして、肝心の橋本が学校を休んでいることも拍車をかけた。
確認のため、鬼頭と島崎がCクラスへと赴いていた。もっとも、真偽の確認において意味のない行動ではあるが。
「みなさん、落ち着いてください。いつものメンバーで放課後に話し合いを設けますから、不用意に騒ぎ立てることはしないように」
今回の特別試験は一筋縄ではいかない。Bクラスの面々はそう思わずにはいられなかった。
綾小路清隆(一章時点)
学力 A(87)
身体能力 B(73)
機転思考力 C(54)
社会貢献性 B(68)
総合 B(70)
言わずと知れた原作主人公。
人工的に天才を作り出す実験機関『ホワイトルーム』で生まれ育ち、頭脳も身体能力も作中トップ。また感情に支配されることなくその優秀な能力を発揮することができる反面、常人離れした極めて冷徹な価値基準を有する。これは綾小路の長所であり、弱点であるとも言えるだろう。
元はホワイトルームから離れた平穏な学生生活を望んでいたが、堀北学の餞別の言葉を受け、クラス間競争へと身を投じていった。
本作は彼が龍園クラスに移籍することで始まる。龍園との再戦より自らに生じたエラーの分析を優先したこと、龍園が退学になっても四つ巴は可能であることから、急遽計画変更に踏み切った。
椎名ひよりに恋愛感情を抱いているが、初恋のため、その感情の正体を掴めていない。授業中も度々彼女を気にしているせいで社会貢献性に若干の悪影響が出ている。見かねた葛城にそれとなく諭され、現在は改善傾向。
一方で一之瀬帆波との交際も噂されており、両者とも積極的に火消しをしていないことから、同級生下級生を問わず半ば事実として取り扱われている。綾小路の口から付き合っていないと聞いたときは、わざわざ一之瀬クラスに赴いて確認したクラスメイトまでいた。未だ半数弱はその言葉を信じていない。
また、ここ最近、地べたに寝転がって蟻の観察をしてただの、真冬のベンチで寝ていただの、彼の奇行に関する噂まで流されており、珍しく困惑している。一度森下を問い詰めるも、彼女はしらばっくれた模様。
そんな彼は自身に感情がないと自己評価しているが、その実態は後天的要因による、アレキシサイミアに類するものであると考えられる。したがって、感情を認知する機能を持たないわけではなく、彼の今後次第で感情を取り戻すことは十分に可能だろう。
──しかし、『感情』と『人の心』は似て非なる物。感情を会得したとしても、彼が『普通の人間』になれる保証はない。なぜなら、彼はホワイトルームで生まれ育ったことを、一度として不幸だと思ったことはないのだから。