if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
そろそろ、物語が動き出します
※次回投稿は8/15を予定しています
特別試験を終えた二日後の土曜日、オレはケヤキモールのベンチで人を待っていた。
ぽつりぽつりと綿雲が浮かぶ空に、時折柔らかな春風を運ぶ麗らかな陽気。まさに絶好の外出日和だ。午前10時半前という時間帯もあってか、私服姿の学生もそこかしこに見られる。
私物の紙の本――電子書籍だと彼女が不機嫌になるから――を読みながら待っていると、僅かな足音が聞こえた後に、突然視界が真っ暗になった。
「さあ、私は誰でしょう?」
目蓋越しに触れるひんやりとした人肌と清淑な声に待ち人と確信するが、ふと意地悪をしてみたくなった。
「これは……石崎……か?」
「もう! わかってて答えてますよね? 綾小路くん」
急に視野が開ける。瞼の裏の暗さに慣れた目に、春の陽光が刺さった。
振り返ると、待ち人の椎名ひよりが背後から身をかがめ、ベンチに座ったオレと同じ目の高さにいた。
やや控えめなフローラルの香りが鼻腔をくすぐる。どういう心境の変化か、最近彼女は香水を付けるようになっていた。
「おはよう、ひより」
「ええ、おはようございます。約束の10分前なのに、もう待っててくれたのですね」
「今日はいい天気だからな。外で読書してみようと思ったんだ」
彼女はずいと顔を寄せ、横合いからオレの手元を覗き込む。
彼女の髪と同じ色の睫毛が日光を受け、澄んだ輝きを放つ。一方でその目元はほんのりとラベンダー色を纏っており、彼女の柔らかな雰囲気に涼やかな華を添えている。
透き通る白桃色の頬には薄くチークが施され、艶やかな薄紅色に彩られていた。
主張しすぎず、あくまで自然な血色を装うそれは、新雪と見紛う程に清らかな彼女の美しさを上品に引き立たせているようだ。
「ひより、化粧、しているのか」
「はい。最近西野さんに教えていただきまして。――あまり、似合ってなかったですか……?」
「いや、そんなことはない。ただ、こう……気の利いた言葉が浮かんでこなかったんだ」
「綺麗で見惚れてしまった」「《任意の人物名》に似合っている」など、軽井沢恵に出力した定型文なら山ほどある。かつて『恋愛の教科書』と共に習熟したコミュニケーションの術が、オレにはインポートされている。
しかし、そのどれもが彼女を表すのには相応しくないと思ってしまったのだ。
「ふふふ、そんなに焦らなくても怒っていませんよ。綾小路くんにも不器用なところがあるのですね」
「面目ないな。オレの気が回らないばかりに」
「いいんですよ。――ちょっと不器用で優しい、綾小路くんのままで」
ひよりは穏やかに微笑むと「行きましょう」とオレの手を引いて立ち上がらせた。
ケヤキモールまでの道のりを二人並んで歩く。オレはいつもより緩やかな足取りを保ったまま、ひよりに疑問を投げかけた。
「ひよりはオレの欠点を直してほしい、とは思わないのか?」
「欠点……ですか。先ほどのことなら、欠点だとは思っていませんよ。私は今の綾小路くんでいいと思っています」
「しかし、ひよりを不安にさせてしまっただろう」
「誠実に答えようとしてくれていたのは伝わってますから」
そのままでいい、というのは存外に困る要望だ。オレの対応の何がお気に召したのか、再現性が無ければ意味がない。
しかし、くすくすと笑う彼女を前にしていると、内省に勤しむのはもったいないような気もしてくる。
学習と成長。オレの身に染み付いた行動はもはや無意識のものになっている。ホワイトルームで生きてきた者にとって、停滞とは即ち落第を意味するからだ。
一生変わらないと思っていたオレの生き方を、なぜだか彼女の前では少し曲げてみたいと思うようになっていた。
「やってますね『春の新刊フェア』」
「ああ。ポップアップも用意されているみたいだ」
今日の目的は、書店でひよりお目当ての本を買い漁ることだった。
図書室は蔵書も豊富だが、当然新刊は取り扱っていない。そのため、旧作は図書室で借りて、発売間もない本だけを買うようにしている。
いつもの時間の延長。そのはずが「デートですね」なんて彼女の悪戯な言葉に、オレはどこか浮ついてしまっている。「平常心」と自分に言い聞かせる他なかった。
書店に入ってから、オレは当てもなく本を吟味する。ひよりも同様に目当ての本だけでなく、目に付いたものをパラパラとめくっていた。
彼女曰く、書店には偶然の出会いがあるから楽しいそうだ。
これには同意できる。ホワイトルームでも読書はしていたが、基本的には与えられた本をタスクをこなすかのように読んでいたからな。
『日本を担う人材』とやらは文学にも精通しているのが望ましいらしい。
ふと、一冊の本が目に入る。『悩めるアナタのための恋愛術100選』とのタイトルが気になり、手に取ってみた。
「綾小路くんも、そういった本を読まれるのですか?」
「いや、普段はまったくだな。さっきみたいな醜態を晒す羽目にならないよう、勉強するためだ」
「んもう、私はそのままでもいいと言ったのに……」
むすっとした顔をしてみせるひよりに「悪い悪い」と言って宥める。
どうやらオレの『恋愛の教科書』は役に立たないらしい。軽井沢ならこういう時、『大事にされている』と感じてか、機嫌良くなっていたものだが。
その後もオレたちは本を物色し続けた。オレは今年の本屋大賞の受賞作や、国内作家の新作を何冊か購入した。
一方のひよりはジャンルを問わず、文庫本から実用書の類まで選んでいた。
「『毎日のお弁当レシピ』なんて珍しいな。ひよりは確か、昼は買って済ませる方が多かったんじゃないか?」
「私も頑張らないと、って思いまして。ふふふ、楽しみにしていて下さいね」
ひよりのお弁当か。きっと小さいながらも彩り豊かで美味しそうなんだろうな。まあ、五月まで毎日山菜定食のオレには関係ない話なんだが。考えるだけで少し気が滅入ってきた。
とはいえ、そのおかげで今日はポイント出費を気にせず楽しめているのだから、決して徒労ではなかったのだ。
そんな話をしていると大体12時前になっていた。オレはひよりに「昼食をとらないか」と提案し、彼女はこれに了承する。
「いつものカフェにしましょう。あそこのキッシュが最近のお気に入りなんです」
オレ達は目的の店に入る。ふかふかのソファ席が備えられたここは、『パレット』と比べゆっくりと過ごせるため、書店に近いのも相まってオレ達の行きつけとなっていた。
「高育敷地内の店は利用者が限られるので、そこまで混まないのが嬉しいですね。都市部のお店では読書なんかは難しいので」
「そう……なのか? すまん、その辺は疎いんだ」
「そうなのですね。確か、ご家庭が厳しいのでしたか?」
他人と関わる際、オレの世間知らずはどうしても露呈してしまう。のらりくらり誤魔化す方法もあったが、ひより相手には『家が厳しかったんだ』と説明している。まあ、間違いではないしな。
「カフェに入ったのは高育が初めてだ。『パレット』のシステムも最初は予習してから行ったぞ」
「うふふ、席に座って待ちぼうけをする綾小路くんも、見てみたかったですけどね」
「そこは助けて欲しい……」
雑談はそこそこに、オレたちはメニュー表を開く。
ひよりはお気に入りだと言うキッシュと食後にアイスカフェモカ、オレはBLTサンドとアイスコーヒーに決めた。
オレの注文はどちらもカテゴリーの左上に置かれているような定番品。入学当初は目新しい品や季節限定に手を伸ばすようにしていたが、いつしか無難なチョイスに落ち着いてしまった。
我ながらつまらない人間だなと思う。ホワイトルームを出て早二年。結局、底の浅いやつが取り繕ったところで退屈な人柄は変わらない、というのがオレの出した結論だ。
「綾小路くんは、人並外れた向上心を持っていますよね。ご家庭の教育方針だったのですか?」
普段オレの過去について触れてこないひよりが、今日は踏み込んできた。オレの生育環境に問題があることを何となく察している、彼女らしからぬ行動だったが、特に問題も無いので答える。
「そうだな。両親が教育熱心だったから、幼い時から勉強も運動も、ずっと競争ばかりしていた。落ちこぼれるわけにはいかなかったしな」
その競争も結局は相手がいなくなり、自己研鑽に励む羽目になったのだが。
ふと、失敗作と見做された彼ら──志朗やユキら──はどうなったのかと興味が湧いた。今までのオレなら気にも留めない敗北者。だが俗世間に限っては、オレは彼らの周回遅れでしかない。
「それは……大変じゃなかったんですか?」
「大変? いや、そう感じたことはないな。オレの性分にも合っていたし、あまり悪いものとは思っていなかった」
「そうなんですね。私の目には、綾小路くんは争いより平穏な日常を好んでいるように見えたので」
「……」
オレは確かにひよりとの日常を好ましく思っている。だが、成長を捨てた訳じゃない。
ホワイトルームを離れたのは外の世界を学習するため。平凡な日々を望んでいたのも、あくまで一般的な男子高校生の視点が必要だったからだ。オレがありのまま高校生活を送ったところで、外れ値にしかならない。
「とはいえ、人は常に進歩し続けるべきだろう。学習を放棄し、停滞に甘んじるのは死んでいるも同然じゃないのか」
「私はそうは思いません。進化の過程で失われるものも確かにあるのですから」
オレが徹底的にホワイトルームに適合した故に、人間性を手放したことを思えば一理ある。
そして彼女の言う通りであれば、オレがそこで植え付けられた執着を手放すことができれば、何か得られるものもあるのだろうか。
「クラスのリーダーに招き入れた私が言えることではありませんが、綾小路くんには穏やかな生活を送って欲しいと思っているんですよ。佐倉さんや前園さんの一件といった、あなたの非情な一面は私も知っています。それでも、綾小路くんが本当は優しい人間だって、私は信じていますから」
彼女はどこか悲しそうに、しかし、それ以上の慈しみを持って言い聞かせてくる。
一方オレはそんな彼女に、『優しい人間』などと思わせてしまった事実に罪悪感がこみ上げてきた。
オレは所謂『人でなし』なのだろう。いや、『だろう』ではなく間違いなくそうだ。
ホワイトルームでは他者への配慮など教えられていなかった。他人の存在を利用であれ排除であれ、いかに自分の利益とするかにこそ主眼が置かれていたからな。
「――オレは、あまり褒められた人間ではないぞ。実際、特別試験では汚い手段にも躊躇わず頼ってきた」
「それを言うなら、私だってわざと真鍋さんを退学させたようなものです。綾小路くんは、私が悪党のように見えますか」
「そんなことはない。ひよりはクラスのため龍園を助けようとしたんだろ。結果真鍋が退学になったが、そうでなければ石崎や伊吹が泣く羽目になっていたはずだ」
ひよりは「それでも、彼女には悪い事をしたと思っています」と細く呟く。今後を見据え行動したひよりであっても、やはり思うところはあったのだろう。
「私は争いが嫌いです。だって、本当は優しい人も戦いの最中では残酷な手段に手を染めてしまうから。守るものがあるのなら尚更でしょう。……私は、綾小路くんも同じだと考えています」
「オレが――本当は優しい人間だと……?」
「はい。ずっと競争を強いられ続けた人に周りを配慮しろというのは酷な話です。あなたには、他人を蹴落とすしか選択肢がなかったから。だから、私は綾小路くんには穏やかに毎日を過ごしてほしい、と思っているんです」
争いから離れ、毎日を過ごす。それができれば、入学当初思い描いていた『普通の人間』として、平凡ながらも幸せな学校生活を送れるだろうか。
再度、ホワイトルームからの落伍者を思い出す。「会いたかった」と感情を露わにしたユキ、「外の世界に出たい」と自ら選択をした志朗。オレも、そろそろホワイトルームで教わっていない、自分だけの『望み』を見つけるべき時が来たのかもな。
「オレも、変わらなければならないのか」
「――いいえ。綾小路くんは、そのままでいいと思います」
ひよりはとても真剣な目でこちらを射貫いてきた。思わず背筋が伸びてしまうが、彼女はすぐに相好を崩し、言い聞かせるような声音で続けた。
「変わらなければ、と躍起になれば成長に囚われたままになってしまいますから。ただ、取り出していけばいいだけ。ずっと眠っていた綾小路くんの優しさが、当たり前のものになるまで」
そう言うとひよりは、卓上に置かれていたオレの右手を両手で包んだ。彼女の手はふたつでようやくオレの手をすっぽり覆えるぐらい小さい。それに気付いたオレは、つい左手を彼女の両手に重ね合わせていた。
「ああ、ひよりと一緒なら、そんな日々も悪くないかもしれないな」
「ふふふ、嬉しいです。私も微力ながらお手伝いしますから」
「お待たせしました。こちらご注文の――」
どうやら、料理ができたらしい。話を切り上げて食事をとることにする。
オレとひよりは食事中はあまり話さない。それでも一度として気まずさを感じたことはなかった。
「綾小路くん、このキッシュを食べてみてください。本当においしいんですよ」
「頂くとしよう」
切り分けられたそれを貰い、口に運ぶ。
「ああ――温かいな、本当に」
◇
オレは夕方前にはひよりと別れ、別件の用事のために再度ケヤキモールへと向かっている。一度寮へ戻ったのは彼女が買い込んだ本があったためだ。店内の買い物カゴですらフラフラと持ち運んでいた彼女を放ってはおけなかった。
また、次の用事はある程度格式高いフレンチの店での食事だ。ドレスコードなどは無いと思うが、念のため制服に着替えてある。
時刻は19時。二藍色の空に燦然と金星が輝いて、どこか妖しげな雰囲気を醸し出している。さらりと吹き抜ける夜風は、日中の麗らかさを掃き出すかのような涼やかさを含んでいた。
「やっほ〜、綾小路くん。ごめんね、待たせちゃって」
「いや、丁度待ち合わせの時間だ。それにオレも来たのはさっきだしな」
溌剌とした笑顔を向けながら一之瀬は歩み寄ってきた。
彼女はパンプスを履き、ネイビーのニットワンピースに身を包んでいる。首元にあしらわれた真珠のネックレスが、彼女の落ち着いたメイクと合わさって、学生とは思えない気品を醸し出していた。
所謂スマートカジュアルだろう。制服も礼装のはずだが、洗練された彼女の横に並ぶのはどこか躊躇われた。
夜風がふわりと彼女の髪を靡かせる。バニラ調の、どこか官能的な香水が香ってきた。ここ最近で随分と大人っぽくなった彼女によく似合っている。
「香水、変えたのか?」
「シトラスのやつは今も使ってるよ。綾小路くんと会う夜だから、特別なのを使ってるんだ」
一之瀬は「ネックレスと合わせて星之宮先生から借りたんだよね」と付け加える。
あの教師はそこまで一之瀬に入れ込んでいるのか。先日は「一之瀬ちゃんのこと、しっかり見てあげてね」なんて声も掛けられた。
何か企んでいるような気もするが……。
「それじゃあ、予約の時間もあるし行こうか」
「ああ。――そういえば、本当にご馳走になって良かったのか? Cクラスは今回の試験で少なくない出費をしたはずだ。一之瀬も出来る限り節約したいんじゃないのか?」
「それが綾小路くんの500万は全部使い切ってないんだよね。クラスから追加徴収もしてないし、ポイントは安心して良いよ。お互い大変な試験を乗り越えたんだから、今日ぐらいはね」
オレが「それならお言葉に甘えよう」と言うと一之瀬は満足げに笑った。
彼女は特別試験の期間中以上の明るさを見せている。彼女の采配は坂柳すら上回ってみせたが、やはり本質的に争いが好きな訳ではないのだろう。
「綾小路くんはクラスで祝勝会をやったの?」
「試験終わりに石崎が予約していた店でな。あいつ、オレ達が負けてたらどうするつもりだったんだか」
「あはは、石崎くんなりの信頼じゃないかな」
「オレはあいつらの学力を一切信頼できなかったがな」
今回の特別試験、本当にひやひやさせられた。Dクラスの連中もこれに懲りたら勉強に力を入れて欲しいものだ。
それでも、卒業までに学力最下位クラスから脱却するのは難しいだろうが。
オレ達は一之瀬が予約した店まで向かう。小さな個室を備えており、食事を取りつつの密談には打ってつけの場所だ。
もっとも、そのような目的で使う者はおらず、専ら職員らのデートか奮発した学生カップルに利用されているが。
「お待ちしておりました。──二名でご予約の綾小路様ですね」
一之瀬は気を利かせてオレの名前で予約してくれていたようだ。レディファーストが当たり前のフレンチで、男が着いてきただけというのは少し憚られるからな。
恭しく一礼したスタッフに連れられ、席へ案内される。
そこには品のいいテーブルクロスが設えられ、傷一つないカトラリーが整然と並べられていた。そして、洗練されたモダン調のシャンデリアと控えめな間接照明が、外部とは隔絶された大人の空間を演出していた。
なるほど、これは一之瀬が緊張するのも無理はないな。先程までの笑顔は何処へやら、彼女はどこか居心地悪そうにそわそわとしている。
「こういう場所には慣れてないから、少し緊張しちゃう」
「オレもだ。テーブルマナーなどの作法は叩き込まれたが、店自体は経験がない」
今回の目的は建前上、特別試験の慰労会だ。お互い難しい戦いを乗り越えたこともあり、振り返りの機会も兼ねてこの場を設けている。
着席から然程時間を置かずに食前酒――もちろんノンアルコール――、そしてアミューズが提供される。サクラマスのリエットとは、学生が入る店にしては気合が入りすぎてないか?
見るからに慣れていない一之瀬が悪戦苦闘しつつ食べ終えると、程なくしてオードブルが出された。
試験の話を切り出そうとしていたところだったが、彼女は苦笑しつつ「今はご飯を楽しもうよ」と提案してくる。
「綾小路くんって、やっぱり育ち良いの?」
「よく教育されている、という意味ではそうだろうな。だが自然と身についた訳ではなく、単に必修科目のように教わったにすぎない。お坊ちゃんとは程遠いぞ」
一之瀬もひよりと同様に、オレの幼少期がまともでないことには察しが付いているらしい。その上で触れていいラインを的確に読み取り、適度に踏み込んでくる。こういった繊細なコミュニケーションスキルは、オレも真似できない彼女だけの武器だ。
「私はいつボロが出るか心配だよ~……」
「別に社交界でもないんだし、そういう所作に厳しくなる必要もないだろう。それに、入店時からマナーは完璧だったぞ」
「そう? 良かった~。ネット知識の付け焼刃も案外役に立つんだね」
食事の合間に取り留めのない雑談に花を咲かせる。
彼女とは春休み以降関わる機会が一気に増えたこともあって、以前より親しい間柄になっていた。オレ自身も彼女は普通の『友人』とは異なる見方をしている。
駒、友人、協力者、どれとも微妙に違う関係性。言うなれば『共犯者』か。
オレも彼女に対しては自分の破綻した人間性を隠していない。そもそも学年末の特別試験でバレているだろうしな。
「しかし、こんな店よく知ってたな。事前知識無しで予約するのはハードルが高いだろう」
「ここも星之宮先生に教わったんだよね。ほら、あの人って結構遊び人というか、その」
「……ああ。なるほど」
ここでも星之宮か。目をかけているというより、もはやいいように使われてる可能性も出てきたな。もっとも、参考にする相手は選んだほうが良いと思うが。
その後もオレ達はフレンチのコース料理を堪能した。
ここ最近は山菜定食に、夜は無料食材を使った味気ない自炊と、彩りのない食生活だったからな。食事に重きを置いていないとはいえ、さすがに美食が恋しくなる。
結局、建前上の本題に入ったのは、ヴィアンドに差し掛かってからだった。
「今回の特別試験、オレは正直一之瀬の分が悪いと思っていた。だからお前の勝利には素直に驚いている」
「手札を惜しみなく切っての勝利だったけどね。対する坂柳さんはポイントも何も消費してないし、何よりこの機会を利用して橋本くんの問題まで解決してみせた」
学年末試験での橋本正義との和解は、オレも坂柳からさわりの部分だけ聞いていた。あの蝙蝠を宥めすかしてやるとは、坂柳にも意外な特技があったのかと感心したものだ。
「坂柳さんのクラスは今まで以上の強敵になるよ。基礎的な能力はもちろん、統率力においても隙が無くなったはず」
「まさか坂柳が一之瀬のような人望を備えるようになるとは。やはり神室の存在が大きかったのだろう。坂柳には今まで同世代の友人はいなかったらしいからな」
今まで彼女が敷いてきた体制は、勝ち続ける事でしか維持できないハイリスクなものだった。負けが込めば不満は募り、いずれ瓦解する。意図したものかは不明だが、方針転換は情勢を読んだ的確な一手と評価できる。
会話をしながらも、料理も疎かにはしない。
オレはラム肉を切り分け、ソースを纏わせてから口へ運ぶ。焼き加減はミディアムレア。肉の持つ旨味と程よい火の通りを両立させたそれは、万人に受け入れられる味わいだった。
「坂柳さんについてはそんな所かな。堀北さんの方はどうするの?」
一之瀬は一度ナイフを置き、少し前のめりになった。彼女にとっての本題に入る、その境目の仕草のようだ。
オレも合わせてフォークを置く。
「坂柳の成長も鑑みれば、何かしらの梃入れが必要だろうな。あいつのメンタル面も含め、オレ自身が動いた方が良いだろう」
「……ふぅん。やっぱり、堀北さんのことは特別目をかけている感じなんだね」
一之瀬に四つ巴の構想は既に話してある。堀北への助力は確かに不満だろうが、そこは呑んでもらうしかない。
「坂柳もお前も二回り近い進化を遂げた。堀北が現状維持、もしくは失調ともなれば堀北クラスはあっという間に低迷するぞ。仕方のないことだ」
「そこはわかってるよ。ただ、あれこれ手を回したのが無駄になっちゃったな〜ってだけ」
「堀北にも何かしていたのか。恐らく試験前日の朝だな? 対戦相手でもないのに手を出すとは」
弱りきった堀北にも躊躇なく仕掛けられる冷徹さ。今までの彼女に決定的に欠けていた要素が備わり、一之瀬はもはや押しも押されもせぬリーダーとなった。その事実にオレは非常に満足している。
何より、彼女は唯一無二の存在だ。坂柳や堀北、その他高育の実力者は恐らくホワイトルームでも類似品は作れる。現状、再現する方法が思いつかないのは高円寺と一之瀬だけだ。一点物を仕上げる、というのは存外に面白い。
「正直、一年生の時の堀北さんを見ていれば、今の彼女は警戒するに越したことはないからね」
「今のお前は既に堀北を上回っていると思うぞ。堀北は結局、正攻法に依るしかないからな。切れる札の数もその威力も、お前には及ばない」
天性の人徳によるカリスマ性と、それらを目的のため意のままに操れる心構え。実力はまだ足りていないが、その『あり方』は高育の中で一番──無論、オレも例外ではない──と評価できる。
もしオレに彼女のような能力があれば、面倒な手を使って軽井沢を協力者に仕立て上げたり、手を変え品を変え堀北を誘導する必要もなかったはずだ。
この程度に煩う『最高傑作』など笑い種でしかないだろう。ホワイトルームも大したものではない、とオレが思う根拠の一つだ。
一之瀬の進化を見ていると、正直このままでは堀北は力不足となるかもしれない。
しかし丁度、堀北クラスには彼女の足りないピースを補ってくれる存在がいる。彼女が協力してくれるかは未知数だが、試してみる価値はあるだろうな。
「綾小路くんは私の実力をそんなに信用してくれてるんだね」
「ああ。お前の持つ対人能力は凡人が努力して身につくものだとは思えないからな。それらを適切に運用できるようになったお前は、元来有していた頭脳も相まって、オレの手助けなしでAクラス争いに食らい付けるだけの能力を得た。実に稀有な才能と言える」
一度言葉を区切る。
脳裏に浮かぶ『もしも』の彼女――幼少期から才能を開花させていたなら、という空想が唐突に沸き立ってきたせいだ。
(……悪い癖だな)
そう自嘲しながらも、一度浮かんだ思考は止まらなかった。
「だからこそ、口惜しい。お前が幼い頃から徹底的に鍛え上げられていれば、オレ程度は容易に超えられる逸材になっていたはずだ。意味のない仮定ではあるが、そう思わせられるだけの魅力がお前にはある」
「えへへ……そういうつもりじゃないのはわかるけど、何だか口説かれてるみたい」
一之瀬帆波の比類なき対人能力に、ホワイトルーム由来の実力が合わさった存在。それを夢想すると無視できない高揚感が湧き上がってきて、つい饒舌になってしまった。
水を一口含む。きんと冷えたそれも、裡から煮立つ情念を冷ますには至らなかった。
しかし、『口説く』か。
オレが一之瀬帆波を手中に収めたい、と思っているのは確かだ。彼女はオレの目標の一つ、『オレを超える存在を育て上げる』ためのモデルケースに相応しい。元々は堀北らと同じように一之瀬自身を鍛えるプランだった。それでも目標に到達できる可能性はあるが、どうしたって妥協を強いられる部分はある。他人が描きかけたキャンバスを流用するのだから当然だろう。
もっとも、一之瀬の持つ唯一無二の個性は、ホワイトルームの教育に決定的に欠けているピースでもあった。その事実がオレに欲をかかせる。
――彼女の協力を得て、新たな『白紙』を一から共同で育て上げた方が、はるかに完成度の高い作品を生み出せるのではないか。
オレは打算半分、本音半分で答える。
「いや、オレが一之瀬に魅力を感じているのは事実だ」
「――私の利用価値に、だよね?」
「今の返答でますます魅力的になったな」
何より彼女ならオレのために、ホワイトルームに類するような計画にも協力してくれるだろう、と踏んでいる。
あの夜、オレ達は相手を必要とし、必要とされた。互いを容赦なく貪りながらも心根の奥深くまで繋がった契約は、凡庸な規範では分かたれない結び目となってオレ達を縛っている。
「君が求めるなら、私は何にだってなれるよ」
「例え、その先にオレ以外の人間がいなくてもか?」
「綾小路くんの隣なら、ね」
そう言った彼女の目には、狂信や従属の色はない。むしろ何かを見定めているかのような、それでいて湿度を多分に含んだ視線を送ってくる。
「案外したたかだな。だがオレが変わる、なんて期待はするだけ無駄だぞ」
「もちろん。君はそういう存在だから」
――やはり、一之瀬帆波が最適だ。能力も為人も申し分ない。
彼女の人間性を徹底的に理解し、再現し、そしてオレ達が教え導くことで『最高傑作』を超える作品を作り上げる。なんと興味深いのだろうか。
そのような人間こそ『日本を担う人材』に相応しい。ホワイトルームなどという欠陥施設で生まれた子供など、社会性に問題ある者ばかりだ。そんな連中が政界の頂点に君臨するなど考え難い。
オレの好奇心が鎌首を擡げる。それは抗いようもない引力を伴ってオレの胸中を満たした。
そんなオレを見透かしたかのように一之瀬は口角を僅かに上げ、一度大きく息を吸ってから、ゆっくりと言葉を発する。
「――だから、良いんだよ。綾小路くんは、そのままで」
ひよりとの会話が脳裏を過る。彼女と同じ言葉なのに、まるで正反対の意味。
彼女の言う『争いから離れた日常』。それを心から求めているのは確かだ。図書室での穏やかなひと時が、今日のような満たされた時間が、ずっと続いて欲しいとオレは願ってやまない。
しかし今のオレを掻き立てているのは、平穏を望む心と相反する渇望、飽くなき学習と成長への執念だった。
間違いない。これもまた、オレの『望み』なのだろう。
――どちらを選ぶかは、今後決めていけばいい。
望外の発見に起因する興奮を表に出さぬよう、粛々と食事を進める。
やがて食べ終え、ナイフとフォークを右下に揃えると、程なくしてウェイターが皿を下げた。
その後少し腹を休ませていると、デザートが提供された。
「う~ん、私ちょっとお腹いっぱいかも……。せっかくのデザートだけど、綾小路くんに食べてもらっていいかな?」
「構わないぞ。甘いものは好きな方だからな」
お言葉に甘えて、オレは一之瀬の分まで頂くことにする。せっかくの機会だ、明日からの山菜尽くしに備えて、英気を養うとしよう。
「あ、ちょっと待って」
「――はい、あ~ん」
一之瀬はケーキを切り分け、フォークで掬ってオレに差し出してきた。
「今までマナーを気にしていたんじゃなかったのか」
「まあ個室だし、そこまで堅苦しくならなくていいと思ってね。ほらほら、どうぞ」
そう言うなら断る理由もない。少し身を乗り出して彼女のケーキを口にする。
上品なチョコレートの味わいが口内を満たし、少し遅れてコーヒーの風味がそこに香った。確かこのケーキはオペラと言ったか。初めて食べたが、これは美味い。
「ケーキ美味しいよね」
オペラを軽く突きながら、一之瀬は小さく嗤う。
「しかも、色んな種類があって飽きない」
ふっと息を吐くような沈黙。皿の上に落ちていた視線がゆっくりと持ち上がり、オレの瞳を絡めとった。
「ねえ、
一之瀬は少し顔を傾け、流し目でオレを見やる。また、いつもの癖だ。
「──そうだな、
そう返すと、彼女はとても満足そうに微笑んだ。
細められた双眸は、その奥が見通せない程深く濁っており、その一方で魅入られてしまいそうな程の色香を漂わせる。
オレは状況をコントロールしている様で、実際は一之瀬に引き摺り込まれたのかもしれない。そう思いつつも、彼女から目を離すことができなかった。
――いや、離そうともしていなかった。
星之宮知恵
一之瀬クラスの担任教師。一見するとフレンドリーで人当たりの良い、生徒に人気のある養護教諭だが、実際は超が付く程の危険人物。高育生時代に茶柱のせいでAクラス卒業を逃したことを深く恨んでおり、彼女の妨害のためなら公私混同も厭わず、倫理観さえかなぐり捨てて動くほど。間違いなく四人の担任の中で一番ヤバい人。
とはいえ茶柱との友人関係は続いており、その関係性は極めて複雑。多分、高育の教師を辞めれば普通に仲良くできると思われる。
今までは茶柱がDクラス担任なこともあって表面化しなかったが、綾小路というイレギュラーの存在によって暴走を始めた。彼がクラス移籍を行わなければ何をしていたのか想像もできない。
本作でも茶柱をAクラスで終わらせないことを目的としており、特別試験で堀北クラスが負けたことにはとても満足している模様。
さらに一之瀬が坂柳すら出し抜いてみせたこと、そして綾小路と一之瀬が親密な様子から、ひとつ目標を増やした。それは一之瀬が綾小路を篭絡し、二人の力で自クラスをAで卒業させること。茶柱が握っていたジョーカーを奪い、それを使って彼女に勝つことが何よりの意趣返しになるだろうから。
一之瀬も利害の一致により、星之宮から様々な便宜を図ってもらっている。それは特別試験の情報を先んじて流すことから、経験豊富な彼女が一之瀬の逢瀬に協力することまで多岐にわたる。一蓮托生となったこの関係は卒業まで続くだろう。