if√ 三年生綾小路が『元』龍園クラスに移籍した世界 作:鶏後
※次回投稿は8/19を予定しています
ひよりと一之瀬と会った土曜日から二日経ち、オレはいつも通り授業を受けている。
先日の勝利もあってか、クラスの雰囲気は四月当初と比べ柔らかいものになっているようだ。半ば諦めていた者も、もしかしたらという期待を隠せていない。
オレは授業を聞き流しつつ、先日のひよりと一之瀬との一幕を思い出す。
ひよりの誘いに乗れば、オレは堀北らの育成を打ち切り、クラスをAに上げるだけで済ませるつもりだ。龍園との約束や石崎への義理から、リーダーから降りるわけにはいかない。だが、彼女らを打ち倒す程度なら、一之瀬との同盟も含めそう難しくはないだろう。彼女についても、契約が履行された段階で手を切れば良い。
一方、一之瀬と共に歩むとすれば、それは卒業後の話だろうな。一度ホワイトルームへ戻らざるを得ない場合にも備え、彼女との密なコネクションを築く。そして、高育の生徒を彼女の『エサ』とし、一之瀬を成長させる方針を採る。
思考の合間、ふとひよりの方へ目をやる。いつも通り、彼女は真面目に授業を受けているようだ。
このまま眺めていたい気持ちもあるが、先日葛城に怒られたばかりなので程々にしておこう。
目線を前に戻そうとしたところ、雲の間から太陽が顔を出したようで、教室に光が差し込んできた。
天高く上った日差しはレースのカーテンを通り抜け、窓側から教室の三分の一程度まで降り注ぐ。少し腕まくりをしたくなる暖気は、せっかちな夏の気配が僅かに混ざっているみたいだ。
試験が終わってから続く春日和は、オレの思考を溶かすかのような穏やかさを運んできた。
「綾小路くん。一緒にお昼ごはんを食べませんか?」
授業が終わるなり、ひよりはそう声をかけてくる。
「是非そうしよう。学食に行くか?」
「このまま教室で食べましょう。実は、綾小路くんにお弁当を作ってきたんです」
なんということだ。ひよりと昼食を取れるだけでなく、まさかの手作り弁当とは。
少し恥じらう彼女に快諾すると、顔をほころばせた。
ひよりはチャコールグレーの保温カバーに包まれた弁当箱を差し出す。学生に最初から与えられるそれとは別物であり、わざわざ新調してくれたらしい。
「おお、これは美味そうだ」
上段の箱を開けると、そこには実に色鮮やかな料理の数々があった。
二口サイズのハンバーグ、小さく切られた銀鮭の塩焼きに卵焼き、それに加えてきんぴらごぼうやほうれん草の胡麻和えまである。もちろん、ミニトマトやブロッコリーといった彩りも忘れていない。
料理の見た目からその配置に至るまで、どれだけ気を遣ってくれたのか計り知れないほどの出来栄えだ。
「これは、凄いな。作るの大変だっただろう」
「確かに骨は折れましたが、綾小路くんのためですから」
心からの感謝を込めて「いただきます」と手を合わせる。まずは卵焼きから。
しっとりとした食感のそれには砂糖が入っており、丁度いい塩梅の塩味と合わさって極上の味わいだ。興奮のあまり、机上のペットボトルを倒してしまった。
「美味い、本当に美味いな」
「ふふふ、それは良かったです」
ひよりは、何故かご馳走してもらったオレよりも嬉しそうだ。
緩んだ頬はそのままに、彼女もハンバーグを口にする。オレに出したものとは違い、崩れてボロボロになっているのが印象的だった。
その後も二人で昼食を楽しんだ。
食事の合間、オレ達は思いつくままに喋り、そして好きなように黙る。沈黙の合間さえ、教室の喧噪はどこか遠くのことのようにしか聞こえなかった。
最後に梅干しを小ぶりなシャリ程度のご飯に乗せて口へ放る。思わず顔がキュッとなるすっぱさが、この時間の名残惜しさを引き立たせるかのようだ。
「そんな顔しなくても、また明日も作ってきますよ」
「本当か。それは、明日の楽しみが出来てしまったな」
こんな満たされた時間を明日も過ごせるのか。
やはりクラス移籍をして正解だった。ここ一ヶ月は、学校での時間がとにかく充実している。
明日はどんな手料理を食べられるのだろう。そう思いを馳せていると、ふとひよりはオレの背後を見遣った。
「……あんたら。……はあ、有栖はなんでよりによってこいつを……」
神室真澄がいた。眉間に刻まれた皺を揉み解している彼女は、見るからに呆れかえっているようだ。
「神室さん……ですよね? 綾小路くんに用があるのですか」
「私じゃなくて有栖……坂柳がね。放課後時間を取っておいて欲しいみたいよ」
坂柳からの誘いとは珍しい。特別試験以降、彼女はクラスメイトとの交流に注力していたせいか、オレと関わる機会は減っていたのだ。
「それなら問題はない。それにしても、お前一人で来たんだな。もう使い走りではないだろうに」
「あいつも行くって言ってたけど、伝言ぐらい私だけで十分よ。……いや、こんなイチャイチャしてる姿見せられた上待たされるなら、連れてくれば良かったわね。割に合わないもの」
彼女は心底不服そうな顔を見せる。どうやらそれなりの時間放っておいてしまったらしい。
「イチャイチャって……。私たちは――」
「あー、あー、もうお腹いっぱいだってば。それじゃ、16時にケヤキモール西館のテラス席に来て。用事は終わったから、後はご自由にどうぞ」
しっしっ、と手で払いのける仕草と共に、彼女は足早に去っていってしまった。
残されたのは顔を赤くするひよりと、少し気まずい空気だけだった。
◇
放課後指定された場所に行くと、やいのやいのと騒ぐBクラスの奴らがいた。
「神室真澄! ミルクティーは先にミルクを注がなければならないのです。そんな淹れ方をして……紅茶が可哀想だとは思わないんですか」
「はあ? そんなの全部一緒じゃないの」
「なんだァ? てめェ……」
「おい、森下落ち着けよ」
「うるさいですよ橋本正義。私は今ユニオンジャックの威光の下、彼女の暴挙を止める使命を背負っているのです」
ここはケヤキモールの複数の店舗が共用するテラス席。その中の一つ、紅茶専門店で注文した紅茶を嗜んでいるようだ。質の良さそうなティーセットが円形のテーブル席に並べられ、その上には日除けのパラソルが備え付けられている。
今は16時頃であり、辺りに放課後の学生がそこかしこに見える。落ち着いた雰囲気の中、彼女らの騒ぎはやや目を引いているようだ。
「何やってんだこいつら……?」
「綾小路くん、お待ちしていましたよ。今日はホストとしておもてなしをしますので、どうぞ座ってください」
坂柳がそう言って着席を促し、オレは山村の隣へと腰掛ける。彼女は両手でティーカップを持ち、ちびちびと紅茶を飲んでいた。
「元気そうだな、山村。最近はクラスにも馴染めているのか?」
「……はい、みなさんのおかげで……」
山村は引っ込み思案な性格も相まってクラスでは少し浮いている存在だった。しかし、今では坂柳が時折催している『お茶会』に参加しては交流を深めているらしい。
問題は、そのせいで森下に絡まれる機会が増えたこと。この前は目出し帽を被ったあいつに追いかけられていたな……。
「それで、今日はどうしてオレを呼んだんだ? 見るからに部外者だろう」
「あら、丁度試験も一区切りついたのですから、お友達とお話したいと思うのはおかしなことではないでしょう? それにあなたを呼ぼうと提案したのは、実は森下さんなのですよ」
「森下が……?」
意外な名前に驚きを隠せない。彼女とは何かと関わりがあったが、向けられる視線は決して友好的なだけではなく、寧ろこちらを探るようなものだったからな。
直接聞いてみようかとも思ったが、彼女は今、神室にキャンキャンと吠えているみたいだ。ミルクインファーストを遵守しない神室に御冠のご様子。もしかしてあいつ、案外良いところのお嬢様なのか……?
「おう綾小路、久しぶりだな。お前も最近は派手に動いてるみたいじゃねえか。『事なかれ主義』なんて言ってたのは嘘だったのか?」
「その発言をお前にした覚えはないんだけどな。大方オレの周りを探っていたんだろう? 面従腹背は止めたと思ってたんだがな」
「おいおい、勘弁してくれよ。これは裏切りじゃなくて諜報活動だっての。龍園の王座を引き継いだお前を警戒するのは、クラスのためにも必要だろ?」
橋本はそんな軽口を叩きながら接触してきた。あくまで雑談を装っているが、細められた双眸はこちらを抜け目なく見つめている。
クラスのために心を入れ替えたという話は本当なのだろう。かつての橋本なら、坂柳が一之瀬相手に学力試験で負けたともなれば、慌てふためいて寝返り先を増やそうとしていたに違いない。こいつの猜疑心は筋金入りだからな。
橋本と話していると、途端にずい、と森下が割り込んできた。
「居たんですか綾小路清隆。堂々とスパイ活動とは、面の皮が厚すぎてドン引きですよ」
「お前が呼んだんだろうが。というか聞いたぞ、オレの変な噂を流していたのは結局お前だったんじゃないか。何でしらばっくれる真似したんだ」
「確かに私ですが、だからと言って一之瀬帆波をけしかけるなんて卑怯ですよ。男なら身体一つで身の潔白を証明してみせるのが筋でしょう」
「決闘裁判なんていつの時代だよ」
……本当に生産性の無いやり取りだ。こんな会話に使われた酸素が気の毒でならない。これなら今からでも帰って図書室でひよりと過ごした方が良いのでは、と思ってしまうほどだった。
しかし、坂柳はこんな下らない光景を見守りながら、「うふふふ」と楽しそうにしている。
「……そんなに面白いか?」
「それはもちろん。彼女には私も常日頃振り回されていますからね。他人事なら良い見世物ですし、それが綾小路くんなら尚更です」
「相変わらず良い趣味をしているようで」
「――そういう綾小路くんは、クラス移籍をしてから随分変わったと聞きますよ」
「……何?」
坂柳の発言は予想外のものであり、つい反応に表れてしまった。
実のところ、ここ最近の自分の変化は自覚している。理由は恐らく、ひよりなんだろうな。原因は分からないが、彼女の前では普段のオレらしくない行動をとってしまう傾向がある。それはクラス移籍によってひよりと関わる機会が増えたことによって、ますます顕著になっていった。
先日の彼女との会話もそうだろう。――一時、オレは堀北や坂柳を鍛える計画を放棄しようとすら考えていたのだから。そして、それは現在も検討段階にある。今までのオレならありえない事態だ。
「綾小路くんにも少しずつ自然な振る舞いが身に付いている、ということです。もっとも、相手は限られているようですが」
「椎名ひよりですね。綾小路清隆が変わった原因であり、そしてあなたにとっては『特別な存在』なのでしょう」
「好き勝手邪推するのはいいが、その『特別な存在』というのはどういう意味だ」
オレがひよりを特別視していることは、さすがに自分でもわかる。オレが知りたいのはその感情の正体だ。
好奇心とも物欲とも違う、未だ経験したことのない衝動に、ここ最近は振り回されてばかりいる。
「……は? 気づいていないので? なら私は沈黙しか返せません。理由は怖いからです。藪の毒蛇を突く趣味は無いので」
「本当に一之瀬さんを怖がっているのですね。森下さんへの叱責は自業自得だと思いますが……」
「今日のこいつを見たけど、自覚してないっていうなら相当重症よ。ほんと、今までどんな生活してたんだか」
神室が呆れたような口調で入り込んでくる。
「まあまあ、あまり人の過去を詮索するものではありませんよ」
「そういう坂柳有栖は彼の幼少期を知っているのですよね? 少なくとも、それなりに上流階級との関わりがある出身なのでしょうか」
「森下さんも、綾小路くんに関心があるのはわかりますが、程々にしておかないと勘違いされてしまうのでは?」
『関心がある』と言われ、森下は露骨に口元を曲げた。
やはり、彼女はオレを探るために接触を図ったのだろうな。以前軽井沢がいる時にわざわざ声をかけてきたことといい、森下はあの手この手でオレを見定めようとしているらしい。
「それに……藪を突いて出てくるのは蛇だけとは限りませんよ。引き際も大事です。さ、今はつまらない謀など置いて楽しみましょう」
神室たちはそれっきり、オレの過去について触れようとはしなかった。坂柳なりに気を遣ってくれたのだろう。目線で礼を言うと、彼女は少し得意げな顔を見せる。
その後はまあ、いつも通りだ。森下が主に橋本と山村を巻き込んで変なことを言い出し、神室がブレーキを掛ける。そして坂柳は輪の中心にいるようで、どこか彼女らを見守るように俯瞰している。その瞳に湛えられた光はオレの知らない温度を纏っていた。
もし坂柳が退学していれば、オレがこのクラスのリーダーとして、こういった日常を過ごす可能性もあったかもしれない。
しかし、彼女がいないBクラスがどんなものか、一変した彼女たちの日常を垣間見ると、想像もできなくなった。
◇
それから、オレたちは一時間程談笑して解散となった。
すっかり西日も傾き、帰路へと就く彼女らの影を伸ばしている。森下もまだ残りたそうにしていたが、結局は神室に引き摺られる形で帰っていった。
「あら? どうしましたか、綾小路くん」
「そろそろ本題に入ったらどうだ? 森下がオレを呼んだのは事実でも、それに同意したのはお前自身の思惑もあったからだろう」
「流石です。少々お聞きしたいことがありまして」
彼女は柔らかく微笑む。同じ様な表情のようでありながら、少し哀切の色が窺えるのは、夕日のせいではないはずだ。
そこに先ほど帰ったはずの神室がこちらへ向かってくる。彼女が持つトレーには紅茶のおかわりが入ったティーポットが置かれていた。
「おや真澄さん、ありがとうございます。そう長話はしないとお伝えしたはずですが、あなたにはお見通しでしたか」
「何だかんだ付き合いは長いからよ。じゃあ私はどっかで時間潰しとくから、終わったら連絡しなさい。あんた一人じゃ危なっかしくて仕方無いんだから」
照れ隠しのつもりだろうが、まったく意味を成していない。人のことを『重症』などと揶揄していたが、お前も大概じゃないかと言いたくなるほどだ。
オレがティーポットを手に、合わせて持ってきてくれた新しいカップに注ごうとすると、「ここは任せてくださいな」と彼女に制止されてしまう。
オレに代わった坂柳は雑音を立てず、洗練された所作で給仕を行う。先ほどまでとは対照的な沈黙が広がっていった。
「お待たせしました。さて、本題と言いましたね。ふふ、綾小路くんには目星が付いているのでしょうか」
「一之瀬の話じゃないのか? 今回あいつにしてやられたお前が、彼女を探ろうとオレに接触してきた、と読んでいる」
「残念ながらハズレです。――あなたについてですよ、綾小路くん」
オレについて、か。
確かに、クラスポイントの見かけ以上にBクラスには余裕がない。上は堀北クラスを押しのける必要がありながら、下からオレと一之瀬が手を組んでせっついて来ているのだからな。現状彼女たちがAクラスと組むのは難しいため、オレたちとの争いでは数的不利を余儀なくされている。
「恐らくクラス競争について想像していますね? そうではなく、あなた個人についての話です」
「最近はあれこれと詮索されることが増えたな。お前まで加わってくるとは思わなかったが」
「あなたは今、台風の目そのものですからね。もっとも、私が気にしているのは他の方とは別の部分です」
そう言って、彼女はティーカップを置いた。あえてカチャリと音を鳴らし、オレに真っ直ぐな眼差しを向ける。
その刹那、ジジジというノイズと共に、街灯が明かりを灯した。
「あなたは私たち、一之瀬さんや堀北さんを育てAクラス争いを激化させようとしているのでしょう。では、あなたはその先に何を求めるのですか?」
切り込んできたな、とオレは感心する。彼女ならいずれオレの狙いに気付くだろうとは思っていたが、想像以上に早い。
そして、彼女になら話しても問題ないだろう。普通の生徒なら理解できないオレの目的も、ホワイトルームを知っている彼女なら合点が行くはずだ。
「『綾小路清隆』を超える存在を作り出すこと。堀北であれ一之瀬であれ、そしてお前であれ、オレを打ち破ることができれば、それはホワイトルームの否定を意味する」
「それは……あなたは『最高傑作』から降りて、あの場所から逃れようとしているのでしょうか」
「どうだろうな。オレもその後のビジョンが明確にあるわけじゃない」
これ以上答えるつもりはない。
言外のメッセージではあるが、聡い坂柳なら読み取れるはずだ。念のため彼女の表情から探ろうとすると、案の定不服そうな顔を隠していなかった。
「もし、あなたがホワイトルームを否定するために動いているなら、協力するのも吝かではありませんよ」
「殊勝な心がけだな。クラスのためになる、という打算もあるだろうが」
「いいえ。少し、初心に返ったのです」
坂柳は口元を緩める。以前なら不敵な笑みに映っていたであろう表情も、今ではすっかり人の良い表情に見えているのが不思議だった。
「あなたを打ち倒す――元々それは『あの実験の被害者を、これ以上増やさないため』でした。綾小路くんを初めて見た日、私がお父様に誓ったことです」
坂柳の発言は少々意外だった。オレはてっきり、天才として自負のある彼女がオレをライバル視しているからだと思っていた。
彼女がここ最近見せるようになった善性は、思っているより生来のものだったのかもしれない。考えてみれば、あの温和を地で行く理事長の娘が、加虐性一辺倒というわけは無いだろうからな。
「私もあなたも『天才』として生まれ、だからこそ頭角を現すことができた。――人の才能とはそういう摂理でなくてはならないのです」
言葉に感情が込められ始める。キッと細められた目尻は彼女の意志の表れだろうか。
「誰もが『天才』になれる世界があれば、そこは地獄に違いありません。無辜の凡人が苦悩の万力に挟まれ、到底耐えられないほどの教育を施される。そして失敗作は無残に打ち捨てられ、『成功例』だけがその荒野に君臨するでしょう」
「だろうな。付け加えるなら、ドロップアウトする者の方が圧倒的に多数であることか。この学校であっても、ホワイトルームの教育を完遂できる奴は相当限られる。オレの受けたβカリキュラムであれば、皆無と言っていい。肉体的にも精神的にも、耐用水準に達していない」
志朗やユキがこの学校に居れば、オレには及ばずとも、トップレベルの実力者になっていたのは間違いないだろう。そんな彼らですら、ホワイトルームの負荷には耐えられなかった。
「だからこそ、私はあなたを負かすことを望んでいました。そして、動機はどうあれ綾小路くんの行動もそれに一致する。これは推測ですが、入学時から心境の変化があったからでしょうね。特にここ最近はそれが顕著ですから」
坂柳がずい、と上体を寄せる。常に余裕と優雅さを損なわない彼女らしからぬ様子に、自然とこちらも身構えてしまう。
「少し、話が観念的になりすぎてしまいましたね。ここから先は、あまり得意ではない話をします。ですので、その、笑わないで聞いてくださいな」
彼女は珍しく、予防線を張ってきた。慎重に言葉を選ぶ最中、杖を握る手に力が入っているのが見て取れる。
「先ほど森下さんが言っていた『変わった』という話、あれは半分正しくて、半分間違っていると私は思っています。――お聞きしてもよろしいですか。綾小路くんは、変わろうとしているのですか? それとも、意図せずに変わりつつある自分に戸惑っているのですか?」
オレは驚愕のあまり、声を出すことができなかった。
手に持っていたティーカップの紅茶が波立ち、映るオレの輪郭を乱す。一瞬の動揺を隠し、いつも通りを装うため、オレは紅茶を呷った。
どうやって誤魔化そうか、思考はそれを導くために動き出していた。自らの内面を曝け出し、弱みを見せることなど、百害あって一利も無い。
しかし、先日突きつけられた葛藤が脳裏を過る。目の前にいるのは、この学年で屈指の変化を遂げた坂柳だ。彼女なら、何か参考になるかもしれない。
「……どうだろうな。どこまでも高みを目指し学習を求めるオレと、ただ平凡な学生として生きていたいオレ。どちらが『自分』なのか自体わかっていない。だからどう『変わった』のか見当もついていない状態だ」
オレは自分が前者の人間であると疑っていなかった。今も平穏な日常そのものに価値を見出しているわけではない。
唯一の例外は、ひよりだろう。オレの成長にはまったく寄与しない彼女の隣にいることを、オレは求めている。それこそ、今までの生き方を180度変えてまでも。
「あなたも壁に突き当たっているのですね。……私も、真澄さんの一件以降は随分と悩みました。――ですので私からも、もう一つ道を示して差し上げましょう」
どちらでもない、第三の選択肢。
非常に興味深い。やはり彼女に切り出したのは正解だったな。
「私はあなたに変わってほしいとも、変わらないでほしいとも求めません。ただ、どちらを選ぼうとも、私はあなたの味方であり続けましょう」
彼女は手を伸ばし、その柔く細い指先でオレの頬に触れてきた。そこからは彼女の確かな温かさと僅かな震えが伝わってくる。
「なぜ、お前が緊張しているんだ」
「私が今、踏み込もうとしているからですよ。今を境に、私とあなたの関係は変わるかもしれない。だからこそ少し、怖気づいてしまうのです」
オレの体温と彼女の体温が混ざり合う。やがて彼女は手を引き、その余韻を夕風が攫っていった。
「どちらを選ぼうと、あなたは葛藤に苛まれることになるでしょう。そして場合によっては、選択から逃げ出したくなるかもしれない。だからせめて、私だけはあなたの絶対の安全地帯であろう、ということです」
「味方であり続ける、か。ずいぶんと都合の良い立場だな。お前がそんな無条件の献身を口にするとは思えない。何が目的だ」
「疑り深いのですね。……ですが、その反応もよく理解できます。あなたは今まで、対価のない施しなど受け取ったことがなかったのでしょうから」
「そうではない。見返りを求めない好意を否定しているのではなく、その理由が解せないだけだ」
石崎やかつての須藤のように、打算なく助けてくれる奴はいる。だが、それは恩義であれ友情であれ、何かしらの元はあるのだ。坂柳にとってのそれが見えない以上、安易に信用するわけにはいかない。
「――綾小路くん、あなたは今まで無条件の肯定をされたことはありますか?」
「……どういう意味だ?」
再度思考を巡らせる。
『無条件の肯定』を意味通りに捉えるなら、そんな経験はない。そもそも、何ら判断要素もなしに他人を認めるなど普通ではない。彼女の発言は破綻している。
「論外だな。オレという人間の是非を、条件も無しに推し量ることはできない。『無条件の肯定』という概念自体が存在し得ない」
「そうでしょうか。例えば私のお父様は、私への愛情に条件など付けていませんでしたよ。たとえ私が凡才であれ、疾患の無い健康体であれ、きっと、今と同じような愛を与えてくださったでしょう。――綾小路くんには、そのような経験はない、と私は考えています」
「親による愛情に類するものか。であれば明確にノーだな。理由は知っての通りだ」
オレの父親にとってオレは『最高傑作』以外の意義を持たない。母親に関しては顔も知らない。
だが、オレはそれを不幸とは思っていない。
「結果を出したから認められる。優れているから価値がある。あなたはそんな理屈の中で生きてきました。――あなたがどう思っていようとも、そんな環境は間違っています。ですから、そろそろ終わらせませんか? だからこそ、私は、ただあなたが安らげる居場所でありたいのです」
彼女は一度目を閉じ、そして深呼吸を挟む。
「これを愛と呼ぶのは、少々面映ゆいものがありますが……。ええ、そうですね。他に言葉が見当たりません」
すっかり日が落ち、紫苑色が広がる空に、彼女の赤く染まった顔が映える。
目元を緩め、恥ずかしそうな感情を隠さないながらも、彼女は決して目を逸らさなかった。
見返りのない愛。オレにとってそれは、定義さえ曖昧な存在だった。
対価、契約、利害。今まで築いてきた人間関係の全てに、そのいずれかが介在していたはずだ。それはきっと、これからも変わらないだろう。
しかし、坂柳の言葉にはその探るべき『何か』が見つからなかった。彼女は本当に、何の打算もなく、オレに手を差し伸べようというのか。
正直、手に余る状況だ。敵対感情の方がまだやりやすい。それでも、決して不快ではない。ただ、貰ったものに対しどう応えればいいのか、オレには経験が無かったから、中途半端に上げた手を持て余しているかのようだ。
坂柳を信じていいのか。
確かに彼女はオレに恋愛感情を抱いているだろう、という要素はある。しかし軽井沢、そして一之瀬とも違う優しさを、オレは測り知ることができなかった。
「ふふふ、随分と面妖な顔をしていますね」
「人の混乱をそう楽しむもんじゃないぞ」
「ええ、ですが私は『良い趣味をしている』ものでして。うふふふ」
緊張が解けたかのようで、すっかり普段の彼女らしさを取り戻している。
だが、先ほどまでのどこか年上のようにすら見える大人っぽさ、それでいて、今までのどの女性からも感じたことのない温度感がとても印象的だ。
だが、オレは彼女の提案に乗ることは無いだろう。今までと同じように、オレはオレ自身の力で道を選び取ってみせるつもりだからだ。
今すぐに断ってしまっても構わない。そう思いつつも、彼女の用意したエスケープルートを手放すのには、なぜか気が進まなかった。
「綾小路くん、少し、目を閉じてください」
そう言うなり、坂柳は杖も持たず、テーブルを支えに立ち上がり、一歩一歩慎重に歩きながらこちらの傍まで寄ってくる。
害意はない。オレは彼女の言う通りにした。
その刹那、彼女はオレの頭を緩く抱きかかえ、胸元へ寄せた。
「今のあなたでは、何も感じないかと思います。ですが、いつか、あなたがこの人肌に安らぎを見出せるようになることを、私は心から願っています」
そうして、彼女は柔い手でゆっくりとオレの髪を梳く。耳元には彼女の鼓動。それは平常時のオレの心拍と奇妙なほどに同期していなかった。
どれくらいの間そうしていたのか、正確な時間の感覚を忘れてしまったかのようだ。
異性との接触はこれまでにもあったが、そのどれとも異なる接し方。
オレはただ、困惑と奇妙な居心地の悪さに硬直してしまう。だがどうしてか、彼女を振りほどこうとは思えなかった。
ひよりの隣にいたい、と願うほどの衝動はない。
一之瀬という果実に対するほどの渇望もない。
オレにとっての逃げ道。――結局、オレはそれを堀北学の連絡先と同じように、脳裏へと仕舞うことにした。
学力 A(94)
身体能力 D(27)
機転思考力 A-(81)
社会貢献性 B+(76)
総合 B(68)
原作ヒロインの1人にして坂柳クラスのリーダー。
原作では龍園との勝負を優位に進めるも、その聡明すぎる頭脳によって綾小路が自分との再戦を望んでいないことに気付いてしまい、彼の意向に沿って自ら敗北を選んだ。
数々のエピソードから苛烈で嗜虐的な性格と思われがちだが、その全てが生来のものというわけではない。ホワイトルームの子供たちを憐み、これ以上の被験者を増やさぬよう、自分が綾小路を倒すと決意したことや、橋本の懺悔に見せた慈愛など、その心根まで決して悪辣ではないと思われる。
高い能力と相応の自負に反し、向けられる同情や侮りの視線。一方で恵まれた容姿や才能を妬み、敵意を持つ者。そして不自由な身体に由来する鋭敏な防衛本能から、次第に攻撃的になっていったと推測される。腕力で抵抗することも、走って逃げることもできない彼女にとって世界は安心できるものではなかった。周囲を支配し、敵対者を先んじて排除する振る舞いを身に着けたことも、無理からぬことだろう。
本作でもヒロインを務める。神室真澄と友人関係となり、対等な人間関係を身をもって学習したこと、橋本正義を許し自分の弱さと向き合ったことで、人間的にも大きく成長した。優れた頭脳はそのままに思いやりを覚えた彼女は、作中でも屈指の成長を果たしたと言えるだろう。もちろん『甘ちゃん』になったわけではなく、敵に対しては躊躇なく攻撃を仕掛ける冷徹さも兼ね備えている。
以前より社交的になったことの表れか、特別試験以降は綾小路とも積極的に関わろうとしている模様。彼の境遇を知っている事もあって、その理解度は作中トップクラス。そして政界に通ずる出自でもあり、他のヒロインにはできない彼との関わり方も存在する。
綾小路がその出自の過酷さによって、自分の感情に極めて鈍感なことには気付いている。いつか彼が人並みの人間性を備え、人の温もりと共に生きられることを、彼女は何よりも願ってやまない。
そして坂柳にとって、綾小路は競い合うライバルであると同時に思い人でもある。とはいえ、友人には恋愛巧者がおらず、どうしていいかわからないらしい。『百人切り』の噂を聞いて白石飛鳥に相談を持ち掛けるも、初手から重たい質問を投げまくったせいで面倒くさがられている。あまりに塩対応をされたため自棄を起こし森下に相談しようとしたところ、さすがに白石に止められた。