高架橋の黒煙を引き裂いて現れたのは、胎児のような形をした、巨大で醜悪な異形のバケモノだった。
音の波形がない。命の鼓動の周波数もない。あるのは、1万人分の異能の残滓が凝縮された、文字通りの『バグの塊』。
「な、なによあれ……!? 冗談じゃないわよッ!!」
美琴が青ざめた顔で叫ぶ。空間が不気味に歪み、バケモノが巨大な腕を振り下ろした。その一撃は、近くで横転していたアンチスキルの装甲車へと向かう。
「御坂! アンチスキルを助けろ、アイツらは生身だ!」
「っ、分かったわよ!」
美琴が電磁力で装甲車を引きずり、間一髪でアンチスキルを救出する。だが、その隙に、バケモノの背中から無数に生えた異能の触手が、高架橋の地を走るようにして俺の元へと一斉に殺到した。まともに喰らえば打たれ弱いレベル1の肉体など一発で消し飛ぶ。
「チッ……インドア派の限界を試すんじゃねぇよ……!」
俺は脳内の全演算領域をフル稼働させ、迫り来る触手が放つ『空間の空気振動』を瞬時にハッキングした。触手が到達する直前、その位相の逆位相を自らの能力でぶつけ、大気の波形を強引に減衰させる。
ドドドォン! と俺の目の前のコンクリートが派手に爆砕したが、俺は間一髪でその爆風を利用して後方へと転がり、なんとか直撃を免れた。
「はぁ、はぁ……っ、クソ、心臓の鼓動がうるさすぎて計算がズレる……!」
泥にまみれながら立ち上がったその時、俺の耳が、すぐ近くでカチャリと響いた『金属の不吉な作動音』を捉えた。見れば、ボロボロになった木山春生が、自嘲気味な笑みを浮かべながら、自らの頭に向けて拳銃の銃口を突き付けていた。
「もう……終わりよ。私の計算は、すべて間違っていた……。あの子たちを、私は救えなかった……」
走っても、俺の貧弱な足じゃ引き金を引く指の速度には絶対に追いつけない。脳内の計算領域が、生身の肉体の限界という絶望的なエラーを叩き出す。能力を使うか? いや、遠隔から銃の引き金のバネ振動を殺すだけの出力は、今の俺の射程じゃ足りない!
(――だったら、手元の質量を使えッ!)
「――させるかよ、バカ!!」
俺はたった今まで初春のナビのために手の中で握りしめていた自分の『携帯端末』を、木山の右腕に向けて魂の底から全力でブン投げた。ただのあがきじゃない。
俺の発達しすぎた脳細胞が、スマホの重量、空気抵抗、木山の腕までの距離と放物線の軌道を一瞬で弾き出した、寸分の狂いもない『精密投擲』だ。――ガツゥンッ!!!
「きゃああっ!?」
引き金が引かれる直前、硬質な筐体の塊が木山の右腕へと完璧にクリーンヒットした。凄まじい衝撃に木山の腕が跳ね上がり、放たれた銃弾は虚空へと虚しく暴発した。拳銃が、そして画面のバキバキに割れた俺のスマホが、コンクリートの床を硬質な音を立てて転がっていく。
「が、はっ……! なぜ止めるの、少年……!」
腕を押さえ、痛みに顔を歪めながら問い詰める木山に、俺は肩を激しく上下させ、口の中に広がる鉄の味を噛み締めながら言い放った。
「死んで逃げるな、科学者! ――それより、説明しろ。上のあれはなんだ。何があのバケモノの数式を形作っている!」
息を切らしながら問い詰める俺に、木山は頭を抱え、苦悶の表情のまま掠れた声で『真実』を吐き出した。
「あれは……1万人分の『幻想御手』の使用者の、暴走したAIM拡散力場が意志を持って集束した塊……! この街にあるとされるAIMの集合体である虚数学区 ――あれの発生原理は、それと全く同じよ……! だから、あれは『AIMバースト』とでも呼ぶべき存在よ……っ!」
「都市伝説であった虚数学区の、疑似的な具現化……。なるほど、1万人の脳波を繋いだ弊害が、物理的なエラーとして肉体を持ったわけか」
木山はさらに何かを語ろうと口を開いたが、俺はそれを手で制し、鋭い目つきのまま冷徹に言い放った。
「OK、大体わかった。専門的な講義は後だ。――だったら、あのバケモノを止める術はあるか?」
俺の言葉に、木山は絶望の瞳の中に僅かな希望の光を灯し、掠れた声で言った。
「……可能性が、あるなら……。私が、あの初春飾利という風紀委員に託した……あのデータが、鍵になるわ……」
「初春にか。……よし、初春のところへ向かうぞ」
俺が即座に踵を返し、初春が待つバイクの陰へと走り出そうとした、まさにその瞬間。背後から、木山の困惑の混じった、掠れた問いかけが俺の背中に投げかけられた。
「……私を疑わないの? 私はこの事件の全ての黒幕なのよ。私の言葉が、貴方たちをさらに陥れるための罠だとは思わないの?」
その当然の疑問に、俺は立ち止まり、振り返ることもなく冷徹に、けれど確固たる理詰めの数式を言葉にして返した。
「当然、あんたのことは疑っているさ。だけどな、ただ疑って足を止めるより、あんたの言う方法を『試してみる』ことから始めた方が、結果的に被害を少なくできる確率が一番高くなる。それだけだ」
「――っ」
木山が息を呑む気配がした。俺は今度こそ木山をその場に残し、高架橋の遮蔽物の陰――俺のバイクの横で怯えながら待機していた初春の元へと全力で駆け戻った。
幸いあの化け物は御坂が対処してくれたおかげで安全に初春の元に到着した。
「初春!!」
「あ、鳴海先輩!?」
「さっき木山から受け取ったデータを出せ! あのバケモノを解体するための数式が、その中にある!」
「え!? は、はい……! これです、木山先生のウイルス治療プログラムの初期データ……!」
初春が震える手で差し出してきた記憶媒体。俺はそれを、すぐ近くに停まっていたアンチスキルの装隔車の車載通信システムへと強引に叩き込んだ。画面に並ぶ、膨大な脳波の逆位相データ。
「初春、お前のタイピング速度と、俺の脳内計算を合わせるぞ! このデータを『音声ファイル』へと再構築し、レベルアッパーの脳波の繋がりを解除するための『治療の曲』を作り出す!」
「は、はい……っ! ジャッジメントの権限で、学園都市の全スピーカーの音声回線をジャックします!!」
「いくぞ、演算開始だ――!!」
初春の指先がキーボードの上で残像を残して爆転する。俺は自分の能力で、システムのノイズを完全にカットし、治療の脳波データを完璧な『音波の数式』へとリアルタイムで調律していく。かつて、ネットのオカルト都市伝説を盲信し、自分専用の音響催眠ループで自滅しかけた俺だからこそ、この「間違った脳波を、音で正常に戻す」という計算の最適解が、誰よりも一番よく解る。
「……できた! 鳴海先輩、音声データ、送信します!!」
「よし。この曲を街中に響かせろ――ッ!!」
初春がエンターキーを叩いた瞬間、第十七学区、ひいては学園都市中の街頭スピーカー、ビルのモニターから、一斉に不気味な、けれどどこか清らかな『治療の旋律』が鳴り響いた。
◇
「な、に……? この音……」
一方その頃、高架橋の前線でAIMバーストの猛攻を電撃で防ぎ続けていた美琴は、街中に響き渡ったその奇妙な旋律に、一瞬だけ目を見張った。すると、彼女の後ろでパトカーの陰に座り込んでいた木山春生が、弱々しく、けれど確信に満ちた声で呟いた。
「……あの少年たちが、やったのね。私のデータを元に、治療プログラムを街中に放送しているのよ。――でも、あの化け物は1万人のAIMの塊。たとえ弱体化したとしても、奴をどうやって倒すつもり……?」
木山の懸念。それは妥当だった。弱体化したとはいえ、あれは異能の質量兵器だ。だが、その言葉を聞いた美琴は、不敵に、そして最高に誇らしげに口元を吊り上げた。
『俺も初春を助けたらすぐ行くから、それまで絶対に負けんなよ』
脳裏をよぎる、あのレベル1の相棒との約束。
「あいつ……本当にやりやがったわね。だったら――あたしも100%の約束を果たさなきゃ、示しがつかないじゃない!」
美琴は、自身の身体から噴き上がる青白い火花を、これまでにない密度へと一気に圧縮し始めた。初春という人質が消え、治療の曲によって周囲のアンチスキルの脳波への悪影響も遮断された今。美琴を縛る『枷』は、この戦場に何一つとして残されていなかった。
「木山、あんたに一つ教えてあげるわ。――あたし、さっきまで倒れているスキルアウトや初春を巻き込まないように、出力をずっと抑えてたのよ」
「っ、なにい……!?」
木山が目を見開いた瞬間、美琴の周囲の大気が、天地を揺るがすような凄まじい電磁気力の咆哮を上げて爆転した。これまでの戦闘とは文字通り桁が違う、第3位のレベル5の『真の全力』の輝き。美琴は指先にコインを挟み、親指をパチンと弾いた。
「これであんたの歪んだ実験も、この化け物もおしまいよ! ――堕ちなさいッ!!!!」
放たれたのは、空間の空気を一瞬でプラズマへと焼き切る、最大出力の『レールガン』。閃光などという生優しいものではなかった。高架橋の全ての金属を共鳴させ、大気を文字通りへし折るようなオレンジ色の巨大な光の槍が、弱体化したAIMバーストの脳門へと完璧に直撃した。
――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
凄まじい大爆発。高架橋全体が引き裂かれるかのような光の暴風の中で、1万人の怨嗟の塊であったAIMバーストは、1ミリの抵抗も許されず、光の粒子となって今度こそ宇宙の塵へと完全に消滅した。
衝撃波の風が吹き抜け、黒煙が晴れていく。灰色の空を見上げながら、その圧倒的な個の頂点の輝きを目撃した木山春生は、手から拳銃を落とし、ただ呆然と、静かに微笑を漏らした。
「……完敗、だわ。1万人の脳を繋いで並列計算させても……たった一人の純粋な『電撃』に、届きもしないなんてね……」
それは、敗北の弁でありながら、どこか怨念の檻から解放されたかのような、科学者としての清々しい脱帽だった。夕暮れの光が高架橋に差し込む中、木山春生は、駆けつけたアンチスキルの警備員たちによって、静かに手錠をかけられて連行されていった。
彼女はパトカーに乗り込む直前、遠くから俺と初春の方を振り返り、どこか救われたような、小さく切ない笑みを残して去っていった。
「鳴海先輩……終わったん、ですよね……?」
「ああ。……急ぐぞ、初春。佐天さんのところへ」
俺たちは自前の電動バイクに再び跨がり、第七学区の病院へと死に物狂いで引き返した。
◇
病院の集中治療室。バタバタと騒がしくドアを開けて俺と初春が飛び込んだ瞬間、ガラスの向こうのベッドの上で、一人の少女がゆっくりと上体を起こしているのが見えた。
「……あ、初春? それに、鳴海くん……?」
いくつかのコードを外された佐天涙子が、そこにいた。先ほどまでの、死んだような冷たさはどこにもない。彼女の手には、確かに生きた温かい人間の血の『色彩』が戻っていた。
「佐天さん……っ! 佐天さん、佐天さん……っ!!」
初春が涙をボロポロと流しながら、佐天さんのベッドの胸元へと飛び込んで大号泣する。
「あはは……ごめんね初春、心配かけちゃって。……あのね、私……」
佐天さんは初春の頭を優しく撫でながら、俺の姿を見て、酷く申し訳なさそうな、今にも消え入りそうな顔で視線を落とした。
「鳴海くん……本当に、ごめんなさい。鳴海くんが、身の丈に合わない力は自分を滅ぼすって、あんなに言ってくれたのに……。私、バカだから、レベル0の自分が悔しくて、レベルアッパーを使っちゃって……みんなを、こんなに巻き込んで……」
佐天さんの細い肩が、罪悪感でガタガシと震える。だが、そんな彼女の後悔の言葉を、俺はいつもの笑顔で、優しく遮った。
「おいおい、何をお門違いな反省をしてるんだよ、佐天さん。俺が心配してたのは、お前がバカかどうかっていう計算式じゃない。お前が、無事に目を覚まして、また俺の隣で笑ってくれるかどうか、それだけだぞ?」
「え……?」
「佐天さん、本当に、本当に心配したんですよぅ……っ!」
初春も涙を拭いながら叫ぶ。
「鳴海先輩だって、佐天さんが倒れたって聞いたとき、連絡を受け取った後すぐに病院まできたんですからね!」
「鳴海くんが……私のために……?」
佐天さんが目を丸くして、驚いたように俺を見つめる。俺はちょっと恥ずかしくなって頭を掻きながら、いつものように、けれど混じり気のない『科学的な事実』として、彼女に告げた。
「レベルが低くたって、人間にはそれ以上の特別な価値がある。……あの日、お前に言った言葉に、1ミリの嘘もない。お前はレベル0のままで、俺の最高の友達だ。だからさ――もう、自分を無価値なんて言うなよ」
「――っ、う、うわぁぁぁん……っ!! ごめんなさい……ありがとう、鳴海くん、初春……っ!!」
佐天さんは、俺たちの前で、今度は後悔ではない、溜め込んでいた心の闇をすべて洗い流すような涙を流して、声を上げて泣いた。その涙の向こう側で、彼女の世界に、そして俺たちの日常に、完璧に鮮やかな『色彩』がドッと戻ってくるのを、俺は確かに感じていた。
学園都市を揺るがした、レベルアッパー事件。大切な仲間を救い出し、俺たちのありふれた日常の数式を取り戻して、この事件は、今度こそ完全に幕を下ろすのだった――。