高架橋での木山春生との決戦、そして都市を揺るがした『AIMバースト』との死闘から、一夜が明けた。病院で奇跡的に意識を取り戻した佐天は、ひとまず詳細な精密検査を受けるために数日間の「検査入院」をすることになった。
「鳴海くん、初春、本当にごめんなさい……そして、ありがとう」
涙を流しながらも、その瞳に確かな生気を取り戻した彼女の笑顔を見届けた俺と初春は、深い安堵と共に病院を後にし、それぞれの家路へとついた。
初春と解散し、第七学区の学生寮にある自分の部屋へと帰り着いた瞬間、俺の肉体は限界を告げる致命的なエラー信号を叩き出した。打たれ弱いレベル1のインドア派。そんな俺が、自分の限界を遥かに超えてバイクを電磁ブーストさせ、重い盾を引きずり、コンクリートの戦場を死に物狂いで疾走したのだ。泥のようにベッドへと倒れ込んだ俺は、着替えをすることすら忘れて、そのまま深い、深い意識の底へと沈没していった。
◇
「……つ、痛つ痛……っ、身体の至る所から悲鳴がでていてほんとに痛ぇ……」
次に意識が浮上したとき、視界に映った窓の外の太陽は、すでに天頂――つまりお昼過ぎを指していた。身体を1ミリ動かすたびに、太ももや背中の筋肉が悲鳴を上げてきしむ。絵に描いたような凄まじい筋肉痛だ。ベッドの上で芋虫のように身悶えしながら、俺は自分の日頃の運動不足の数式を深く呪った。
ピピピピ、ピピピピ
その時、枕元に放り出されていた携帯端末が、けたたましい電子音を鳴り響かせた。バキバキに割れた画面に表示された名前は、クラスメイトの『青髪ピアス』。俺は重い体を動かして電話で出た。
「……おい青髪。今、俺の脳内演算領域は筋肉痛の処理で100%埋まってるんだが。用件は3秒で済ませろ」
『あ、鳴みん〜? お昼時にすまんなぁ! いやな、ちょっとお隣さんのカミジョウの奴のことで聞きたいんやけどさ』
受話器の向こうから聞こえてくる青髪の声は、妙に焦っていた。
『今日の夏休みの補講、アイツまた姿がないんよ。小萌先生が涙目で「上条ちゃーん! 補講初日からサボるなんて良い度胸ですぅー!」って出席簿を丸めて怒り狂っとってさ。鳴海、アイツと同じ学生寮の隣の部屋やろ? ちょっと寝坊の不幸自慢でもかましとんのか、部屋を覗いてきてくれへん?』
「……はぁ。あのバケモノめ、またいつもの不幸プログラムを全力駆動させて補講をサボりやがったな」
俺はため息を吐いながら通話を切ると、軋む身体にムチを打ってベッドから這い出た。全く、昨日事件を解決したばかりだってのに、これ以上小萌先生の怒りの演算の数値を跳ね上げさせるなよ。
俺は自分の部屋を出て、わずか数歩、隣の部屋――上条当麻の自室のドアの前に立ち、ドアノブへと手をかけた。鍵はかかっていない。
「おーい、カミジョウさん。お前のせいで小萌先生の出席簿が――」
いつもの飘々とした口調と少し疲れた顔を貼り付け、声をかけながらドアを開けた。だが、その瞬間に俺の言葉は、部屋の中の圧倒的な『違和感』によって強引に遮断された。
漂ってくるのは、生々しい鉄の匂い。血の匂いだ。そして、散らかった部屋のベッドの上には、上半身の衣服を剥ぎ取られ、脇腹から胸にかけて何重にも痛々しく包帯を巻かれた状態で、死んだように意識を失って眠り続けている、血まみれの上条当麻の姿があった。
包帯の隙間から、滲み出た赤黒い血が不吉に広がっている。
「っ……上条!?」
何があった。俺の脳細胞が瞬時に戦々恐々としたバグを起こしかけた、その時。
ベッドの傍らから、見たこともない純白の修道服――いや、金糸の刺繍が施された怪しげな衣装を纏った、小さな少女が跳ねるようにして俺の前に立ちはだかった。
「シャーーッ! トウマの敵か! 悪い科学者め、トウマには指一本触れさせないんだからな!」
まるで縄張りを荒らされた子猫のように、鋭い八重歯を剥き出しにして俺を激しく威嚇してくる純白の少女。だが、俺の意識はその威嚇ではなく、彼女の纏う空気から放たれる『周波数の異常値』に釘付けになっていた。
俺の能力である『音の受信』。そのピントが彼女の衣装に触れた刹那、俺の理系脳は、背筋が凍るような戦慄を覚えた。学園都市の科学、物理学、AIM拡散力場のどの数式にも1ミリも当てはまらない。不気味なほどに洗練され、完結した、未知の高次元なエネルギーの波形。
(計算が合わない……なんだ、この少女は。この街の『システム』の人間じゃない――)
最初は激しい警戒の波形を放っていた俺たちだったが、数秒の間を置いて、俺は面倒になりスッと息を吐き、両手を挙げて降伏のポーズを取った。彼女の瞳にあるのは、侵略者の敵意ではない。ただ、その小さな手で何度も包帯を巻き直し、傷ついた当麻を必死に守ろうとする、健気で必死な防衛本能だけだったからだ。
「……落ち着け。俺はこいつのクラスメイトで、隣の部屋の住人だ。上条が学校に来ないから、様子を見に来ただけさ」
俺がトゲトゲしさを消して静かに告げると、少女は一瞬きょとんとした後、ふーっと肩の力を抜いて包帯を握りしめた。
「……トウマの、お友達、なの……?」
と少し顔の緊張が解けたと思った時
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
その緊迫した空気を木っ端微塵にぶち壊したのは、少女のお腹の底から鳴り響いた、凄まじい大音量の『腹の虫の不協和音』だった。
「……」
「……あ、あう。トウマが倒れてから、冷蔵庫の中身、空っぽで何も食べてないんだもん」
少女は顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに純白のフードを深く被り直した。それを見た俺は、やれやれ、と頭を掻きながら、いつものノリを意識的に取り戻してキッチンへと歩き出した。
「お腹の周波数が最悪のエラーを起こしてるな。……おい、謎の修道女さん。適当にあるもので飯を作るけど、食うか?」
フードの奥から、宝石のような瞳が信じられないほどの輝きを放って飛び出してきた。
「食べる! 食べるんだもん! トウマの友達、お前はとっても良い奴だよ!」
◇
カミジョウさんの不毛な冷蔵庫に残っていた、わずかな卵と冷やご飯。それを俺の精密な火加減の計算で炒め上げ、特製のチャーハンを差し出すと、少女――インデックスは、まるで数日ぶりの獲物にありついた小動物のように、凄まじい勢いでスプーンを動かしてガツガツと平らげていった。
「おいしい! トウマのチャーハンよりパラパラしてて最高なんだもん!」
「そりゃどうも。プログラミング通りの完璧な熱伝導計算だからな」
俺はベッドの上で、白い包帯に身を包んで静かに呼吸を続ける当麻の顔を見つめながら、パイプ椅子に腰掛け、冷徹極まりないトーンで本題を切り出した。
「……さて、飯の対価だ。質問に答えてもらうぞ、謎の修道女」
「もぐ……ん、なに?」
「こいつがそんな血まみれで眠り続けている理由。そして、君がその事象にどう関係しているのか。それを教えてくれ」
インデックスはスプーンを止め、少しだけ悲しげに俯くと、その小さな唇から、俺の『常識』を根本から叩き潰すような、あまりにも斜め上すぎる世界の真実を語り始めた。「魔術」と「魔術師」。科学の最先端であるこの学園都市とは真逆の、オカルトと呪文の世界。
彼女は『
「魔術、だと……? 10万3000冊を、脳内に並列保存……?」
インデックスの話を聞きながら、俺の脳内は情報過多によってエラーを起こしてフリーズしかけていた。あり得ない。科学的なロジックが何一つとして噛み合わない。そんなオカルト紛いのファンタジーが、この現実の数式に存在していいわけがない。ただの妄想か、あるいは何かの精神干渉の能力による洗脳ではないのか。疑念と混乱の数式が、俺の脳内を黒く染め上げようとした――まさに、その瞬間だった。
(――いや、待て。魔術やオカルトを疑うのはいいが変わらない事実がある、)
俺はベッドの上で静かに眠る、包帯だらけの上条当麻の傷だらけの顔を見つめた。魔術があるかどうかなんて、今の俺にはどうでもいい。重要な事実はただ一つ。このお節介の塊のような男が、「目の前で困っているこの少女を救うために、命を懸けて、これほど大量の血を流してまで戦った」ということだ。脳裏にフラッシュバックするのは、過去の自分。自分の脳を実験台にして自滅し、幻聴の暗闇の中で口から泡を吹いて死にかけていた俺の部屋のドアを、足蹴りでブチ破って入ってきた、あのトゲトゲ頭の男の姿。
『何やってるか知らねぇが、死にそうな顔してんじゃねえよッ!』
能力が効かない恐怖の右手で俺のヘッドギアを掴み、日常の色彩を連れ戻してくれた、世界で一番のお節介。あの日、誰も本当の俺を見てくれなかったのに、学校の教室でずっと俺の苦しみを見つけて、命がけで救ってくれた上条当麻。そんなアイツが、自分の命を投げ打ってまで、包帯だらけになってまで助けようとした少女が、ここにいるんだ。
「……ふっ、やれやれ。やっぱりお前の行動の計算式は、いつだって《平均》を大きく逸脱してやがるな」
俺は心の中で、観念したように不敵な笑みを漏らした。インデックスの話す「魔術」のロジックは、今の俺の理系脳ではまだ理解できない部分が多すぎる。数式としては、完全にバグだらけだ。けれど。
「上条当麻が命を懸けてインデックスを助けた」というその一点において――俺はお前の話を、100%全面的に信じてやるよ、インデックス。」
「え……? 鳴海、信じてくれるの? トウマの言ってた通り、お前は本当に……不思議な奴なんだね」
インデックスが涙を浮かべながら、嬉そうに俺を見つめる。俺は立ち上がり、彼女の頭の上のフードをがしがしと乱暴に撫で回した。
「ああ、信じるさ。アイツの『お節介の数式』は、世界で一番信頼できるって、俺が誰よりも一番よく知ってるからな。……おい、インデックス。学校の青髪と小萌先生には、俺から『上条の奴、風邪で40度の熱を出してぶっ倒れてます』って完璧な嘘の数式を伝えて、時間を稼いでやる」
俺はポケットから、第十二話の激闘で画面がバキバキに割れたままの携帯端末を取り出し、学校への生存偽装のメッセージを高速で打ち込み始めた。
「アイツが目を覚ますまで、俺もお前の看病《お節介》を手伝ってやるよ。だからさ――もう、そんな泣きそうな顔すんなよ、居候さん」
「……うん! ありがとう、鳴海!!」
インデックスの顔に、心からの鮮やかな笑顔が咲く。包帯に包まれた当麻が眠るベッドの傍らで、俺と純白の少女の間に、「上条当麻を絶対に死なせない」という、世界で一番温かくて不器用な『同盟』が結ばれた瞬間だった。まだ見ぬ魔術の脅威。迫り来る運命の7月28日。けれど、大好きな日常と親友を守るため、俺は静かに、未知なる魔術の数式をハッキングするための闘志を、その胸の奥で静かに燃え立たせるのだった。
だが、その前に携帯ショップに行って新しい携帯に変えに行くことも決めた。