親に「人生の汚点」と言い放たれ、実家を永遠に捨ててやってきた、憧れの学園都市。
これでようやく、あの息の詰まる天動説の檻から抜け出せる。何者かになれる。そう胸を躍らせて能力開発のゲートを潜った俺を待っていたのは、あまりにも残酷な『現実』だった。システムが下した俺の初期評価は――
『レベル1(低能力者)』。
「……また、これか」
学生寮の冷たいベッドの上で、俺は天井を見つめながら自嘲気味に呟いた。実家では「異常な存在」と気味悪がられて拒絶されたのに、この最先端の街では「ただの凡物(レベル1)」という、あの両親が何よりも求めていた中途半端な『普通の数値(レッテル)』を貼り付けられる皮肉。
せっかく差し込んだはずの希望の光は一瞬で消え去り、俺の視界は、再びすべてが色褪せた『灰色の世界』へと逆戻りしてしまった。
(数値《レベル》で証明できなければ、俺には価値がない。あの親の言った通り、俺はただの、生まれてこない方が良かった汚点になってしまう――)
過去の呪縛が、焦燥感となって俺の脳細胞を蝕んでいく。
この頃の俺は、今のような性格じゃなった。人とちゃんとしたコミュニケーションを取らず、トゲトゲしくて、冷徹で、周囲のすべてを拒絶するいわゆる「人して落第点」の状態で、部屋のカーテンを閉め切って引きこもる日々。
やがて、その追い詰められた俺の知性は、最悪の『狂気』へと舵を切ることになる。俺は学園都市の公開されている能力開発の論文を読み漁ったが、レベル1の一般学生に開示されている情報など、どれも基礎的なものばかりで、這い上がるための有益なデータや知識など手に入れることは出来なかった。
情報が完全に遮断された絶望の底で、俺は脳を覚醒させるための手段を泥泥になりながら模索した。そこで俺が注目したのは学園都市のカリキュラムにある『能力開発』の基本。
それは、薬物投与、電気刺激、催眠術による暗示、そして五感遮断(ガンツフェルト実験)によって脳の構造を変化させ、『自分だけの現実《パーソナルリアリティ》』を誘発させること。
「……高価な装置や専用の薬を揃える金も伝手も俺にはない。だったら、この能力開発のアプローチを。俺自身の能力《システム》で代用すればいい」
俺は街にあるジャンク屋を回り、中古の集音器やボロボロの電極パーツを買い集めた。それをハンダ付けし、部屋のパソコンのメインプロセッサと直結させた不気味なヘッドギアを自作する。
実験の理論はこうだ。脳内で計算した「脳の演算リミッターを強制的に解除するための、自分専用の音響催眠暗示」。
その特殊な周波数を、俺の能力である『音の受信』によって、自分の脳の神経細胞へと直接、最大出力で『受信《ループ》』させ続ける。外界の雑音を能力で弾き、自分自身の脳に現実から切り離された感覚を強力な自己催眠の電気信号を長時間送り続けることで、脳の構造を物理的に変質・維持させようとしたのだ。
だが、現実は甘くなかった。実験を始めてからの何日間か、俺はひたすら失敗を繰り返した。
数式がわずかにズレるだけで、脳を割るような激しい頭痛が襲い、吐き気と共に床にのたうち回る日々。そのたびに、俺は冷や汗を流しながらキーボードを叩き、数式をミリ単位で微調整し、ジャンクの電極の位置を組み替えた。
「まだ足りない」「どこがエラーだ」と、狂ったように数式と装置の改良を繰り返す。
そして、実験開始から何日目かの夜。ついに、すべてのノイズが消え、完璧な数式がバチリと組み合わさった。
「……できた。今度こそ、噛み合ったぞ……!」
ヘッドギアから発せられる微細な催眠パルスが、俺の脳の構造を強引に変質させていく。その瞬間、俺のレベル1の貧弱な器を無視して、能力の引き算の極致――半径約5メートルの球体空間から、すべての音エネルギーを完全に排除して固定する『継続する絶対無音』の領域が、自室の中に誕生した。
何日もかけて、泥を啜るような試行錯誤の末に、やっと掴み取った成功の成果で「俺は、何者かになれたんだ」と、胸の奥から湧き上がる歓喜に身を震わせた
――まさに、その刹那だった。
「……っ!? な、んだ、これ……数式が、消え――」
空間が完全な無音(絶対ゼロ)になった瞬間、俺の耳は、「自分が脳へ送り続けていたはずの、あの維持エネルギーである催眠音」すらも一切拾えなくなるという、物理的に致命的なエラーを叩き出したのだ。
音響催眠を『受信し続ける』ことで成り立っていたの拡張空間。その音が、自分の作った無音によって遮断された。維持エネルギーを失ったことで、無理やり拡張されていた脳の演算領域がガラガラと音を立てて崩壊を始める。
しかし、脳は強制変質された中途半端な状態のままフリーズし、かつ空間は完全な無音のまま固定されてしまった。
それは、俺自身が作り出した空間に閉じ込められる【最悪の五感遮断状態《ガンツフェルト》】だった。人間は、完全に感覚を遮断されると、脳が情報を求めてパニックを起こし、精神を崩壊させ始める。外界の音が消えたせいで、俺の耳の奥を流れる血液のドクドクという生体音や、心臓の鼓動、神経の軋む音が、脳内で脳を直接殴りつけるような大爆音となって反響し始めた。
さらに、脳の防衛システムが完全にブレイクしたことで、心の奥底に眠っていた、あの最悪の記憶が抉り開けられる。
『――あんたみたいな子どもなんて、私たちも最初から欲しくなかったのよ』
暗闇の無音の中で、あの母親の冷え切った罵声が、終わらない、逃げ場のない強烈な『幻聴』となって脳内だけで爆音ループし始めた。
「あ、あ、止めろ……消えろ、消えてくれ……っ!!」頭を掻きむしり、ベッドの上に転がって口から泡を吹く。高熱で脳が沸騰し、五感は完全に崩壊した。自分で解除することすらできず、このまま演算のフリーズが解けなければ、あと数十秒で俺の脳は物理的に焼き切れ、廃人となって死に至る。自業自得の、孤独な自滅。真っ暗な世界の底へ、俺の意識が完全に沈み込もうとした、その時だった。
ドンッ、と、世界のすべての雑音を置き去りにするような、暴力的な破壊音が部屋に響いた。
「――おいお前!! 大丈夫か!?」
誰かが、俺の部屋の鍵のかかったドアを、足蹴りで強引にブチ破って乱入してきたのだ。
隣の部屋に住んでいるトゲトゲ頭の男。彼は、俺の実験が臨界を迎えた際、壁を突き抜けて撒き散らされた超音波のノイズによって、大好きなテレビが突然バチバチと火花を散らして壊れるという『不幸』に見舞われていた。
「テレビがぁぁ! 不幸だぁぁ!」と頭を抱えた直後、今度は耳がキーンとするような耳鳴り、空間が侵食された「半径5メートルの不気味な静寂」が訪れたことで、そのお節介なセンサーが異変を察知し、部屋の前まで駆けつけていたのだ。
そして、ドアノブに『右手』が触れた刹那、部屋を満たしていた無音の異能の数式と干渉し、「ブチォン!」という音と共にドアの鍵が一瞬で内側から破壊・解錠され、突入に至った。
「……くる、な……っ! 離れろ……お前も、危険な目に、遭うから……ッ!」
幻聴のノイズの隙間から、俺は引き裂かれそうな喉で必死に拒絶の声を上げた。半径5メートルを飲み込む絶対無音の檻。今の俺の脳内は、処理しきれないエラーの濁流で暴走している。近づけば、こいつの脳だってどうなるか分からない。
だが、その男は、空間そのものが軋んでいる不気味な暴走領域を前にしても、一歩も怯まなかった。それどころか、ただの『お節介』の塊のような顔をして、俺の元へと猛ダッシュで突っ込んでくる。
「何やってるか知らねぇが、そんな死にそうな顔してんじゃねえよッ!」
滑り込んできた男の右手が、容赦なく、俺の頭のヘッドギアごと俺の顔面をガシッと力強く掴んだ。
――ブチォン……ッ!!その刹那、心地よい風の抜けるような音がして。俺の脳を廃人寸前まで焼き切ろうとしていた、あの自爆ループの演算数式そのものから完全に消滅した。
その不可思議な現象を目撃した後に、俺の意識は落ちていった。