「……ん」
重い、鉄でも詰め込まれたかのような泥のような睡魔の底から、ゆっくりと意識が浮上する。不快な幻聴も、脳を焼き切ろうとしていたあの最悪のオーバーフローも消え失せていた。ただ、視界を開いた瞬間に目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井ではなかった。
ひどく男臭い、お世辞にも片付いているとは言えない、部屋の天井だった。
「あ、起きたか! おいおい、無理して動くなって。お前、マジで死に仕掛けてたんだからな?」
ドタドタと騒がしい足音と共に、トゲトゲ頭の男が覗き込んできた。その手には、湯気を立てる小ぶりの片手鍋とおたまが握られている。どこか焦げ臭い匂いが部屋に漂っているのは、料理に不慣れなこいつが必死に何かを作っていた証拠だろう。
だが、脳を軋ませて何日間も無茶な実験を繰り返し、結局は成果を何も残せず自滅しただけの俺の内心は、ただひたすらに、黒い『絶望』に支配されていた。
結局、俺の数式は間違っていたんだ。あの両親を見返すための数字(価値)なんて、何も証明できなかった。他人に興味を持たず、周囲のすべてを拒絶して殻に閉じこもっていた当時の俺は、同じ学生寮の隣の部屋に住んでいるはずの、こいつの名前すら覚えていなかった。
俺は凍りついたような冷たい目で男を見つめ、掠れた声で言い放った。
「……お前、誰だ」
「はぁ!? 隣の部屋の上条当麻さんだよ! 同じクラスだろーが! お前、丸一日うなされて寝てたんだぞ!?」
トゲトゲ頭――上条当麻は乱暴に頭を掻きながら、不器用におかゆをお椀に盛り、ベッドの脇に置いた。
「ほら、カミジョウさん特製のおかゆだ。ちょっと焦げちまったけど、食わねぇと体力戻らねぇからな。お前、倒れたとき、自分のことより俺の心配なんかしてさ……全く、無茶しやがって」
差し出された、温かいおかゆ。だが、心が暗黒の底に沈んでいた俺の歪んだ脳は、その温かさを素直に受け取る事すら出来なかった。
(あぁ、そうか。こいつは、実験に失敗して、惨めに口から泡を吹いて倒れていた俺を、『憐れんで』いるんだな――)
実家の両親からは不気味なバグとしてネグレクトされ、この街のシステムからはレベル1と突き放された俺。そんな無価値な俺への、ただの同情。胸の奥がチリチリと不快に焼ける。
そんな、最悪なすれ違いの思考に囚われていた、まさにその瞬間だった。上条当麻は、何の悪気もない100%の善意と優しさのまま、俺の魂の最深部にある『最悪の地雷』を木っ端微塵に踏み抜いた。
「けどさ、鳴海。もう二度とあんな危険な実験なんかするなよ? ――そんな無茶してるって親に知られたりしたら、お前の親だって、めちゃくちゃ悲しむぞ」
ピキ、と。脳内のすべての演算回路が、一瞬で凍りついた。
(お前の親だって、めちゃくちゃ悲しむぞ)
脳裏にフラッシュバックするのは、優しい両親の顔などでは断じてない。自分をゴキブリと同じ害虫を見るような目で睨みつけ、引きつった笑みで
「あんたみたいな子どもなんて最初から欲しくなかったのよ」と言い放った、あの母親の冷え切った、狂気の瞳。
何一つ証明できずに実験に失敗し、ただでさえ絶望のどん底にいた俺の心から、一瞬で全ての光が剥ぎ取られた。ベッドのシーツを両手で引きちぎらんばかりに強く握りしめ、俺は下を向いたまま、身体をガタガシと激しく震わせた。視界の端が、怒りと悔しさで急激に熱くなっていく。
「――黙れよ」
「え……? 鳴海……?」
「黙れって言ってんだよ、上条当麻!!!」
「っ!?」
俺は頭を跳ね上げ、生まれて初めて、他人に向けたことのないような、剥き出しの感情を上条の顔面にぶちまけた。
「お前に何が分かるんだよ!! 何も知らないくせに、知ったような顔して綺麗事言ってんじゃねえよッ!! 俺の親が悲しむ!? 悲しむわけねぇだろ、あの人たちにとって、俺は生きてるだけで気持ち悪い害虫んだよ!! 生まれてこなきゃ良かった『人生の汚点』なんだよッ!!!」
「鳴海……お前、それは……」
「二度と俺に関わるな!! お前も、お前のそのお節介も、何もかも、ただの胸糞悪い独善だ、消え失せろッ!!!」
喉が張り裂けんばかりの、悲鳴のような絶望の絶叫。上条は、俺の瞳に大粒の涙が浮かんでいるのを見て、言葉を失ったように完全に硬直した。俺はベッドから飛び起きると、おかゆの椀を乱暴に払いのけ、ふらつく足取りで当麻の部屋を後にした。背後から
「おい、鳴海! 待てって!!」
という声が必死に追いかけてきたが、俺は自分の部屋へと駆け込み、思い切りドアを閉めて内側から鍵をかけた。
静まり返った暗闇の部屋。ベッドに倒れ込み、枕に顔を押し付けて、俺は声を殺してむせび泣いた。あぁ、やっぱり計算は合っているんだ。実験にも失敗して、他人の同情に縋ろうとした俺がバカだった。
俺は一人で立ち、一人で証明しなければ価値のない、ただの不良品なんだ。心を完全に閉ざし、再び暗黒の檻へと引きこもる。この最悪の決別から数日後、学校の帰り道のあの路地裏で、あいつが再び、俺の胸ぐらを掴んであの熱い言葉をぶちかましてくるなんて、この時の俺は想像すらしていなかった――。
◇
あの大爆発の決別から、数日後。心身ともにボロボロのまま、俺はどんよりとした曇り空の下を歩いていた。他人の名前を覚える価値すらない。自分の存在に価値すらない。そんな真っ暗な思考の檻に引きこもっていた俺は、周囲への警戒を完全に怠っていた。
「おい、そこの君――ちょっと待ちやがれよ」
運悪く迷い込んでしまったのは、第七学区の寂れた路地裏。背後からかかった不穏な声に振り返れば、金属バットやスタンガンを手にした武装集団――『スキルアウト』が、十数人で俺の退路を完全に塞いでいた。
体調すら万全ではない、打たれ弱いレベル1の俺に、この数を相手にする演算の余力など残されているはずもない。
(あぁ、駄目だ。ここで俺は、惨めに壊されるんだな――)
そう、冷徹に諦めの計算を終え、目を閉じようとした、その瞬間だった。
「――お前ら、そいつから離れろよッ!!」
路地の入り口から、あの聞き馴染みのあるトゲトゲ頭が、お節介全開の怒鳴り声と共に乱入してきたのだ。
男――上条当麻は、アッという間に先頭の不良を殴り飛ばすと、呆然とする俺の手を強引に掴み、怒涛の勢いで包囲網を強行突破して走り出した。
「な, んで……ッ!」狭い路地裏の奥へと逃げ込み、息を切らしながら、俺は掴まれていた手を振り払った。数日前の怒りと悔しさが、再び胸の奥でドロドロと燃え上がる。
「なんで俺を助けるんだよッ!? 親のことも、俺の絶望も、何も知らないくせに!! なんで俺みたいな、お前を罵倒して一方的に拒絶した無価値なクズを何度も助けるんだよ!!」
やり場のない怒りの悲鳴。すると上条は、逃げる足を止め、振り返るなり俺の制服の胸ぐらを両手で思い切り掴み、俺の顔面にその熱い魂をぶちかましてきた。
「知るかよそんなこと!!! お前がずっと、今にも死にそうな、辛そうな顔をしてたからだろ!!」
「っ……」
「やり方は間違ってたかもしれない。周りを拒絶して、自分を壊しかけて、そんなの全部バカな間違いだ! だけどな、お前が学校の教室で、必死にもがいて、誰かに認められたくて今にも壊れそうな顔で授業を受けてた姿を、俺は学校でずっと見てたんだよ!! お前が助けを求めてなくたって関係ねぇ、俺が助けたいから助けるんだよッ!!!」
世界が、激しく揺れた。生まれて初めてだった。
実家の両親すらゴミを見るように見下して無視した、俺の『ありのままのもがき(努力)』を。学校の教室という大勢の人間がいる中で、この、名前もまともに覚えていなかった無能力者の男だけは、ずっと俺を見つけて、心配してくれていた。理屈抜きで、無条件で、俺の存在そのものを肯定して、手を差し伸べようとしてくれていた。じわりと、今度は怒りではない涙が視界を滲ませた、まさにその時。
「テメェら、そこに行き止まりだぞ!!」
追いついてきたスキルアウトの別動隊が、路地を包囲した。その数、およそ20人。上条は俺を背中に庇うようにして一歩前に出ると、拳を構えて叫んだ。
「鳴海、お前は隙を見て逃げろ! 俺はこいつらを足止めする!!!」
「な……お前、バカか!? 無能力者のお前一人で勝てるわけがないだろ!」
「うるせぇ、行けってんだよ!」
一人で数の暴力に立ち向かい、バットで殴られ、血を流しながらも、俺を逃がすために決して一歩も引かないトゲトゲ頭。
俺は一瞬、恐怖のままに路地の向こうへ走り出そうとした。だが、脳裏にかつての黒い記憶が強烈にフラッシュバックする。
(かつて、誰も本当の俺を見てくれなかった。誰も、俺を助けてくれなかった。……なのに、アイツは、俺を見てくれた。俺を助けてくれた)
あいつをこのまま見捨てて逃げたら、俺をモノ扱いして捨てたあの両親と同じ、人の心がない化け物になってしまう。
「――クソ喰らえだ、俺はあんな奴らになりたくない……!!」
俺は自分の恐怖をプライドで叩き潰し、上条を救うために全力で戦場へと引き返した。
戻った先では、上条がボロボロになりながら今にも倒れかけていた。上条を助けたいという極限の感情が、俺の脳内の演算規模を爆発的に跳ね上げる。
(――待て。あの時、俺を死に仕掛けさせたあの『無音空間』。あれを、敵の周囲だけに限定してぶち込んだらどうなる!?)
脳内の物理学・音響学の全データが超高速で組み上がる。だが、直前で俺の脳が猛ブレーキをかけた。
(だめだ、あれは装置を使った状態だったから出来たことだ。それに出来たとしてもすぐ後ろには上条がいる。あの半径5メートルの空間維持を今ここで使えば、上条まであの感覚遮断の地獄に巻き込んで壊してしまう……! アイツにだけは、絶対にあの地獄を味あわせてたまるか!!)
「だったら、今維持できる範囲を極限まで絞り込め……ッ!」
俺は必死に脳を軋ませ、無音の範囲を【半径5メートル】から、敵の耳元の【数センチメートル(ピンポイント)】へと力技で圧縮、フォーカスした。
レベル1の演算規模でそこまでの超精密制御を行った結果、エネルギー保存の法則により、音を消し続ける余力は完全に消失し、効果は『一瞬だけの絶対無音』へと大きく劣化した。
だが、それこそが奇跡の数式だった。急激に、一瞬だけ世界から「完全なゼロ」を叩き込まれたスキルアウトたちは、耳の奥の三半規管(平衡感覚)が一瞬で完全に崩壊。脳が激しい拒絶反応を起こし、強烈な目眩と吐き気によって、武器を落としてドサドサとその場に崩れ落ち、気絶していった。
他人も、自分も、そして後ろの親友も傷つけない、最低限の害で敵を無力化する。俺の、十八番である『ハメ技』が産声を上げた瞬間だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
静まり返った路地裏。息を荒げる俺の前に、上条が呆然とした後、いつものように顔をくしゃくしゃにして笑った。
「お前……戻ってきてくれたのか。助けに来てくれて、ありがとな、鳴海!」
心からの感謝。けれど、俺はその言葉に頷く前に、真っ直ぐに上条の目を見つめ、ずっと胸につかえていた本音を、絞り出すように告げた。
「……上条。その前に、俺からお前に言わなきゃいけないことがある」
「え? なんだよ急に、改まってさ」
「この前のことだ。――あの時、お前は何も悪くないのに、俺、八つ当たりして……お前に、あんな酷い言葉をぶつけてごめん。……本当に、すまなかった」
深く、頭を下げる。親に全否定されてねじ曲がっていた俺のプライドが、この男の理屈抜きの優しさによって、初めて綺麗に解かされた瞬間だった。上条は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつものように、大きな手で俺の頭をがしがしと乱暴に撫で回した。
「なーんだ、そんなことか! 気にすんなって! カミジョウさん、頭は悪いからさ、難しいことはよく分かんねぇけど……お前が今、そうやってちゃんと俺の顔を見て話してくれてる。それだけで十分だ。おかゆの件なら、もうチャラにしてやるよ!」
「……っ、痛い、引っ張るな。それと、勘違いするな、お前に借金を残したくなかっただけだ」
俺は咄嗟に恥ずかしさで顔を背け、ぶっきらぼうに付け足した。
「……それから、その。こんなダメな俺と……友達、になってくれないか……?」上条は
「あはは! なんだよそれ!」と大爆笑した。
「こっちこそ、よろしくな、鳴海!」
差し出された、傷だらけの手。それを握り返した瞬間、俺の真っ暗だった世界に、完璧に鮮やかな『色彩』がドッと戻ってくるのを確かに感じた。この日、俺は上条当麻という男の生き様をすべて受け取った。自分の右手の能力を隠さず普通にさらけ出す姿。他人のために自分の身を投げ出す理屈抜きの優しさ。そして、学園都市のワーストである『レベル0』でありながら、どんな高レベルの強者よりも高潔で特別な価値を持つその背中。
「この街で、アイツの隣で、普通の『友達』として笑っていたい」
そう、強く願った。
それから、俺の性格も少しずつ変わっていった。最初は俺の急な変化はクラスメイトもびっくりしていた。上条と友達となって土御門と青ぴとも友達となって、あいつらと馬鹿をやったりしていくのが本当に楽しかった。
◇
「――っ」
はっと、意識が現在へと引き戻される。視界に映ったのは、パソコンのモニターではなく、第七学区の病院の冷たい集中治療室(の光景。空間は変わっても、ベッドの上でいくつものコードに繋がれ、死んだように眠り続ける佐天涙子の姿。
過去の回想は、ここで完全に終わりを告げた。
「……なぁ、佐天。楽にレベルを上げる間違った力の恐ろしさは、俺が誰よりも一番よく知ってるんだよ」
眠る彼女の冷たい手を、そっとベッドのシーツに戻す。俺がかつて、ネットのオカルト都市伝説を盲信して自滅しかけたように。彼女もまた、レベル0の絶望から、あのレベルアッパーを盲信して罠に嵌まってしまった。
その痛みが、痛いほど分かるからこそ、俺の胸の奥の業火は、もう誰にも消せないレベルで燃え盛っていた。
あの日、上条当麻が俺を暗闇から救い出してくれたように。今度は、俺が、この手でお前を絶対に救い出してやる。
「待ってろよ、レベルアッパーの製作者《黒幕》。お前のその歪んだ数式、俺のハメ技で完全に解体してやるからさ」
病室のドアを開け、廊下へ踏み出す。冷徹極まりない科学者の、そして大切な仲間を救うためのの、偽りの上限《レベルアッパー》を巡る戦い。その決戦の幕を上げるため、俺は静かに、反撃の第一歩を踏み出すのだった。