地面の割れ目の周りには何列か濡れた石が置いてあったが、割れ目から流れ出る力を抑えることができなかった。四人はそれぞれ役割を得て、外側の輪の応急処置に挑む。
<ここから読んでも分かるようにはしてる>
でもできたら「ペルソナアフターパラレル」から読むともうちょっとわかりやすいかも。
あっちの事件でかかわった人が登場人物として再登場しているので。
よろしくお願いします~
裂け目の縁から持ち上がった圧が、地下空洞の空気を一度に押し曲げた。
陽介の頬を撫でていた弱い流れが消え、代わりに前後も上下も分からない揺れが肌へまとわりつく。空洞の外側へ転がっていた濡れた石が、乾いた岩盤の上を数センチ滑った。
白い縄が遅れて張り詰め、石同士の間で鈴が鳴った。
澄んだ音ではなかった。
音色は裂け目の上で形を失い、陽介の背後から聞こえたように響いた。
「動いたぞ」
陽介が石輪へ顔を向けた直後、完二の腕の中で立川の身体が跳ねた。
閉じかけていた瞼が急に開き、焦点の合わない目が裂け目へ向けられる。自力では立てなかったはずの足が岩盤を擦り、完二の腕から抜け出そうとした。
「立川さん、止まれ!」
完二が腰を抱え直したが、立川の上半身は裂け目へ引かれるように傾いた。
立川の唇が震え、声になる前の息が何度も漏れた。自分のものではない言葉を、喉の奥から押し出されているような動きだった。
「立川!」
陽介は駆け寄り、立川の肩を正面から掴んだ。
「こっち見ろ。裂け目を見るな」
「俺、行かなきゃって……」
立川の声は掠れ、視線は陽介の肩越しへ固定されていた。
「違う、俺じゃない」
「分かってる。お前の声じゃねえ」
陽介は立川の顔を両手で挟み、無理にでも裂け目から視線を外させた。
立川の膝が折れ、完二の胸へ体重が戻る。呼吸は浅く速くなり、指先だけが何かを探すように宙を掻いた。
『立川を輪から離せ』
空洞の中へ、低く落ち着いた声が響いた。
鳴上の背後で、長身の人影が輪郭を得ていた。
黒い影のような身体へ装甲の線が浮かび、手にした刃は裂け目へ向けられず、濡れた石の輪を静かに指している。
イザナギだった。
地上では内側へ押し込められていた気配が、異界化した空洞では半ば現実へ滲み出している。完全な肉体ではないのに、その足元へ落ちる影だけは岩盤の上へ濃く伸びていた。
「完二、後ろへ」
鳴上が裂け目から離れた場所を示した。
「立川を石輪の外まで下げろ」
「了解ッス」
完二は立川の両脚を抱え、身体を持ち上げた。
その背後にも、大きな輪郭が重なる。
ロクテンマオウは完二を覆うように立ち、空洞の天井へ届きそうな腕をゆっくり下ろした。雷の気配はまとっているが、岩盤へ火花を落とすことはなく、立川の身体を囲う壁のように掌を広げている。
『主、立川を離すな』
「言われなくても分かってる」
完二が答えながら下がると、立川の視線がロクテンマオウの輪郭を追った。
「何か、いる」
立川は完二の胸元へしがみつき、目だけを空洞の中へ向けていた。
「誰が喋ってんだよ。俺、まだ寝てんのか」
「見なくていい」
完二は立川の頭を自分の肩へ押しつけた。
「今は俺らの声だけ聞いててください」
直斗の横にも、小柄な少年に似た影が現れていた。
ヤマトタケルは空洞の中央へ身を乗り出し、濡れた石を結ぶ白い縄と、岩盤の上へ見え隠れする薄い光の筋を目で追っている。
『直斗、外の線が切れてる』
「どこです」
『右に二つ。左は石が浮いてる』
直斗は端末のライトを向け、ヤマトタケルが示した位置を確認した。
陽介の内側でも、スサノオの気配が急速に近づいていた。
胸の奥から吹き上がった風が背中へ回り、陽介の肩越しに大きな人影を形作る。重い圧の中でも、その姿は四人のペルソナの中で最も激しく揺れていた。
『陽介、吹かすな』
「吹かすなって、無茶言うな」
陽介の足元では、方向を失った空気が渦を作り始めている。
裂け目へ吸い込まれているように見えるが、実際にはどの流れも底へ届いていない。前へ進んだ風は途中で横を向き、横へ逃げた風は突然上へ跳ねていた。
『吸ってない。向きを奪ってる』
「じゃあ、どう止めんだよ」
『風を当てるな。散らすな』
スサノオの腕が、陽介の動きを制するように前へ出た。
『乱れてるのは、外の輪だ』
その言葉に合わせ、崩れた外輪の石がもう一つ傾いた。
石の底から白い縄が引きずり出され、裂け目の縁が低く軋む。岩盤そのものが動いた音ではないのに、陽介の足裏へ細かな振動が伝わった。
「押すな」
鳴上が石輪の前へ進み、右手を上げた。
「誰も石へ力を掛けるな」
『主、外の輪だ。中ではない』
イザナギが鳴上の横へ並び、三重の石輪の最も外側を刃先で示した。
『内側へ触れれば、割れる』
「分かった」
鳴上は裂け目の縁から距離を取り、外側へ転がった石の前で膝をついた。
直斗も石輪へ近づいたが、すぐには屈まなかった。
濡れた石の並びと、裂け目へ向かう白い縄を順番に見比べている。ヤマトタケルは直斗より半歩前へ出て、床の上へ浮かぶ見えにくい境界を指でなぞった。
『花村センパイの風、そこ通れない』
「どこだ、直斗」
「石輪の正面ではありません。右から回り込んでください」
直斗は外輪の切れた部分を指した。
「正面へ風を当てれば、ずれた石へ直接力が入ります」
「じゃあ、横から流すか」
『流すな。今だけ風を殺せ』
スサノオの声が、陽介の耳元で強く響いた。
「止めるって、風をか」
『お前ならできる』
「簡単に言いやがって」
陽介は裂け目の周囲へ意識を広げた。
空洞の風を動かすことなら、難しくない。
だが今必要なのは、力を生み出すことではなかった。勝手に向きを変え続ける流れを一つずつ捕まえ、その場へ留めなければならない。
陽介が呼吸を整えている間にも、濡れた石が小さく震え続けていた。
「直斗、何を戻せばいい」
鳴上が石から手を離したまま尋ねた。
「外側だけです」
直斗は三重の輪を指で区切った。
「内側の二列は触れません。外輪で完全に外れた石を二つ戻し、浮いている一つを支えます」
「それで止まるのか」
「止まりません」
直斗の答えは早かった。
「表側へ漏れている力を、一時的に減らすだけです」
「応急処置ってことか」
「はい。ここで裂け目そのものを閉じようとすれば、石輪全体が崩れる可能性があります」
完二は立川を支えたまま、外輪へ顔を向けた。
「俺は何すりゃいい」
「立川さんを輪から離してください。それから、僕の近くへ」
「直斗を守れってことか」
「足場が崩れた場合、僕では受け止められません」
『主、守るんだな』
ロクテンマオウの腕が完二の頭上で開いた。
『なら、受け止めろ』
「焼くより、そっちの方が難しいんだよ」
「できるだろ」
陽介が言うと、完二は一瞬だけ口元を歪めた。
「花村先輩に言われたくねえわ」
『怒っていい。だが使い方は選べ』
「分かってるよ」
完二は立川を壁際へ運び、崩れていない岩へ背中を預けさせた。
立川は座る姿勢さえ保てず、完二の片腕へ身体を預けている。目は開いていたが、イザナギとヤマトタケルの間をぼんやり追うだけで、何を見ているのか言葉にできないようだった。
「足、動かねえ」
「動かさなくていいです」
「でかい影が……」
「今は気にしないでください」
完二は立川の肩へ自分の上着を掛け直した。
「すぐ終わらせます」
陽介はその会話を聞きながら、裂け目の周囲へ意識を戻した。
「役割、もう一回確認するぞ」
「鳴上先輩が石を戻します」
直斗は外輪へ向けて指を伸ばした。
「花村先輩は空気の乱れを抑えてください。僕が位置と動かす順番を読みます」
「俺は直斗と立川さんを守る」
完二が立川を片腕で支えながら答えた。
「ペルソナも同じ役割で動く」
鳴上はイザナギを見上げた。
「押し込まず、置く」
『主、石を持ち上げるな』
イザナギは外れた石の下へ視線を落とした。
『底を浮かせれば、裂け目が引く。滑らせて置け』
「滑らせるだけか」
『力を乗せるな。位置だけ変えろ』
ヤマトタケルが直斗の肩越しから、最初に動かす石を指した。
『直斗、右手前から。左はまだ線がある』
「分かりました」
直斗は鳴上へ顔を向けた。
「最初は右手前です。外側へ転がった小さい方を戻します」
「大きい方じゃないのか」
「先に小さい石で、力の流れがどう変わるか見ます」
「了解」
『花村、風を当てるな』
イザナギの声が陽介へ向いた。
「分かってる。止めりゃいいんだろ」
『鳴上に合わせろ』
スサノオも陽介の横へ並び、乱れた空気の中へ両腕を広げた。
『白鐘の指示を待て』
「お前ら、急に息ぴったりだな」
『今それ言うか?』
陽介は息を吐き、両手をゆっくり開いた。
裂け目を中心に暴れていた風の筋が、指先へ一本ずつ触れてくる。
前後を失った流れへ無理に方向を与えれば、石輪へぶつかる。陽介は流れを動かすのではなく、その場から先へ進ませないよう薄い壁を重ねた。
風が止まる。
完全な無風ではない。
それでも、濡れた石の間を横切っていた乱流が、少しずつその場へ沈んでいった。
「止めたぞ」
『まだだ。右上が逃げてる』
スサノオが空洞の右側を指した。
陽介はそちらへ意識を伸ばし、天井から落ちてきた流れを押さえた。
耳の奥で鳴っていた低い音が少しだけ弱まる。
「今です、鳴上先輩」
直斗の声に、鳴上が石へ手を伸ばした。
◇◇◇
最初の石は、両手で抱えられるほどの大きさだった。
表面は水に濡れたように光っているが、鳴上の指先へ水滴はつかない。直接触れる直前、イザナギが石の横へ刃を差し入れるように腕を動かした。
刃先は石へ当たらず、その周囲だけへ薄い力を添えている。
『主、押すな』
「置く」
鳴上は石の側面へ手を添え、岩盤の上を数センチ滑らせた。
石が動いた瞬間、裂け目の縁が低く軋んだ。
「止めてください」
直斗の指示で、鳴上はすぐに手を止めた。
石は元の位置まで半分も戻っていない。
「何が違った」
「向きです」
直斗は石の表面へライトを当てた。
「濡れて見える面が、裂け目側へ揃っていません」
『直斗、右を少し回す』
ヤマトタケルが石の端を指した。
『でも、持ち上げたら下の線が切れる』
「鳴上先輩、手前側だけを滑らせてください。奥は動かさず、時計回りに少し」
「分かった」
鳴上は右手の位置を変え、石の一端だけへ力を添えた。
イザナギも反対側へ回り、石が浮かないよう上から動きを押さえる。ただし、その掌は石へ触れず、輪郭の外へ留まっていた。
『主、今だ』
鳴上が手前側をゆっくり滑らせる。
石の濡れた面が裂け目へ向いた途端、外輪を結ぶ縄がわずかに緩んだ。
圧が一瞬だけ弱まり、陽介の頬へ空気が戻る。
「合ってる」
陽介が声を上げると、スサノオがすぐに腕を下げた。
『気を抜くな。次が来る』
裂け目の暗がりから、泥に似たものが持ち上がった。
液体のように見えるが、岩盤へ落ちても広がらない。細長く伸びた黒い塊は、外輪へ戻された石を避け、直斗の足元へ向かって曲がった。
『直斗を下げろ』
ロクテンマオウの声と同時に、完二が前へ出た。
「直斗、下がってろ!」
完二は片腕で直斗を後ろへ押し、自分の身体を黒い塊の前へ入れた。
ロクテンマオウの太い腕が完二の動きへ重なり、泥のような触肢を横から受け止める。
触れた場所で青白い火花が散りかけた。
『主、焼くな』
「分かってる!」
完二は拳を握り込まず、両腕で触肢の進路だけを塞いだ。
黒い塊はロクテンマオウの腕へ絡みつき、雷の気配を吸い上げようとするように表面を震わせた。
『力はある。でも今は撃つな』
「撃ちゃ石まで割れるんだろ」
『守るなら、受け止めろ』
「任せろ!」
完二は足元を踏み締め、触肢を裂け目側へ押し返さず、その場へ留めた。
押し込めば、力は裂け目へ返る。
引けば、直斗や立川のいる場所へ伸びてくる。
完二とロクテンマオウは、黒い塊の行き先だけを奪い、空洞の中央で動きを止めていた。
「花村先輩、こっちは気にすんな!」
「気にするなって無理だろ」
『陽介、風が動いてる』
スサノオが触肢と石輪の間へ腕を差し出した。
『あれへ吹かせば、完二ごと輪に当たる』
「むずいんだって」
陽介は触肢へ向かおうとする風を捕まえ、完二の周囲から流れを外した。
吹き飛ばせない。
助けるために風を送ることもできない。
ただ、完二が受け止めている場所へ余計な力を加えないよう、空気の動きを抑えるしかなかった。
「くそ、殴れりゃ楽なのによ」
『楽な方を選ぶな』
スサノオの声は厳しかった。
『鳴上が置くまで、止めろ』
鳴上は黒い触肢へ目を向けず、石を元の位置へ近づけ続けている。
陽介から見ても、腕には強い力が入っていなかった。
重い石を動かしているのに、持ち上げようとはしない。イザナギと二人で石の周囲へ力を分散させ、岩盤の凹みに沿って滑らせていた。
「あと五センチです」
直斗は完二の背後から、石と縄の位置を確認した。
「鳴上先輩、少し左へ。押し込まず、奥側を固定してください」
『主、そこだ』
イザナギが石の進む先へ手をかざした。
『置け。割れる』
鳴上は両手の力を抜き、石を岩盤の窪みへ収めた。
石が決まった位置へ落ち着くと、外輪の縄が一度だけ震えた。
完二へ絡んでいた黒い触肢が、力を失ったように細くなる。ロクテンマオウが腕を開くと、塊は岩盤へ落ちず、そのまま空気の中へ溶けるように消えた。
「一つです」
直斗は息を整えながら、次の石へライトを向けた。
「まだ二か所あります」
「まだあんのかよ」
「最初から三つと言いました」
「分かってるけど、言わせろ」
陽介は額へ浮いた汗を袖で拭った。
空洞の気温は低いままだが、風を止め続けるだけで身体の奥が熱を持っている。
スサノオの輪郭も大きく揺れていた。
『次は左だ』
ヤマトタケルが外輪の反対側を示した。
『でも、そこに立つと床が割れる』
完二が直斗の前へ出ようとし、途中で足を止めた。
「どこまで行ける」
『完二は、その白い縄まで』
ヤマトタケルは床を横切る細い縄を指した。
『それより前は、足場の線がない』
「線がないって何だよ」
「支えが通っていないのでしょう」
直斗は岩盤へライトを当てた。
「ひびは見えませんが、裂け目側へ力が逃げる場所だと思われます」
「俺でも立つなってことか」
『立ったら持ちこたえるけど……床が持たないかな』
「分かった。行かねえ」
完二は白い縄の手前へ立ち、立川を壁際へ残したまま、直斗の前を守れる位置を取った。
立川は上着に包まれ、岩へ背中を預けている。
先ほどまでペルソナたちを追っていた目は半分閉じ、呼吸も浅いながら一定へ戻っていた。陽介が名前を呼んでも、瞼がかすかに動くだけで返事はなかった。
「立川、もうちょいだからな」
陽介の声に、立川の口元がわずかに動いた。
「……眠い」
「寝てもいい。完二から離れるなよ」
「離れねえッスよ」
完二は背中越しに答え、立川の肩へ片手を伸ばした。
「直斗、次はどこだ」
「左側の大きい石です」
直斗は外輪から半分外れ、斜めに傾いた石を指した。
「完全に戻す必要はありません。縄へ張力が戻る位置までです」
「重そうだな」
「重さより、傾きが問題です」
『鳴上センパイ、右の石が浮いてる』
ヤマトタケルが石の下を覗き込んだ。
『下へ何か入ってる。真っ直ぐ動かすと引っ掛かる』
鳴上が石の脇へ膝をつき、隙間へ手を近づけた。
「木札だ」
石の下には、割れかけた木札と白い縄が挟まっている。
鳴上が木札を抜こうとすると、イザナギが腕を出して止めた。
『主、それは取るな』
「石と一緒に戻すのか」
『古いが、まだ線の一部だ』
直斗も石の反対側へ回り、木札の位置を確認した。
「縄を切らず、木札ごと滑らせる必要があります」
「俺の風で縄だけ浮かせるか」
『通らない』
スサノオが石の上へ手をかざした。
『花村センパイの風、そこ通れない』
ヤマトタケルも同じ場所を指す。
『石の下は塞がってる』
「じゃあ、どうすんだ」
「表面の乱れだけ止めてください」
直斗は木札へ触れない距離から、石の傾きを見た。
「縄へ掛かる力が一定になれば、鳴上先輩とイザナギで石を回せます」
「風で動かさず、邪魔だけすんなってことか」
「そうです」
「難しい注文ばっか増えるな」
『できるから頼まれてるんだろ』
スサノオは陽介の横へ立ち、石の上へ乱れ込む空気を両手で挟んだ。
『陽介、左を止めろ。右は俺が押さえる』
「了解」
陽介は左側から吹き込む細い流れへ意識を集中した。
空気を掴む感覚はない。
それでも、動こうとする方向を一つずつ消していけば、風はその場に留まる。
石の上で揺れていた白い縄が、徐々に静かになった。
「今だ、悠」
鳴上は石の手前側へ両手を添えた。
イザナギが奥側へ回り、石の傾きを支えるように片膝をつく。
『主、持つな。倒れる分だけ受けろ』
「ああ」
鳴上が手前へ引くのではなく、石が自然に戻ろうとする向きだけを許した。
傾いていた石が数ミリ起き上がり、下に挟まった木札と縄がゆっくり外側へ滑る。
「そのままです」
直斗は石の縁と、外輪の隣の石を見比べた。
「あと少し。鳴上先輩、右手は止めてください」
「左だけか」
「はい。左側を一センチ手前へ」
『鳴上センパイ、そこに力を当てると石に当たる』
ヤマトタケルが隣の石との間を示した。
『もっと下。狭いけど通せる』
鳴上は手の位置を下げ、指先を石の底へ沿わせた。
イザナギも動きを合わせ、石を持ち上げずに角度だけを変える。
濡れた面が裂け目へ向いた瞬間、白い縄が張った。
裂け目から低い圧が上がり、陽介の押さえていた風が一斉に外へ逃げようとする。
『陽介、今だけ風を殺せ!』
「無茶ぶりすんな!」
陽介は両腕を閉じ、空洞の空気へ強く意識を掛けた。
風を押さえつけるのではなく、動く先を一瞬だけ全て塞ぐ。
音が消えた。
完二の呼吸も、石の軋みも、裂け目から上がる圧も、ほんの一秒だけ遠ざかった。
「置け!」
鳴上の声と、イザナギの動きが重なった。
石が外輪の隙間へ収まり、木札が隣の石との間へ挟まる。
止まっていた空気が戻り、陽介は大きく息を吸った。
「二つ目」
直斗は石の位置を確認し、すぐに右奥へライトを向けた。
「最後は、浮いている石を支えます」
「戻さなくていいのか」
「動かせば、内輪へ接触します」
直斗の声は落ち着いていたが、額には汗が浮かんでいた。
「完全に元へ戻すのではなく、これ以上傾かないよう固定します」
「何で支える」
「外へ転がっている小石と、切れかけた縄を使います」
「石を石で止めんのか」
「新しいものを持ち込めませんから」
『その置き方は古い』
空洞の入口から、女の声が届いた。
陽介は風を抑えたまま振り返った。
通路の先に、白装束の御子が立っている。
いつからそこにいたのか分からなかった。
御子は裂け目へ近づかず、木製の柵の手前から、鳴上たちの作業を静かに見ていた。
「見物かよ」
「外の輪は、まだ戻せるのですね」
御子は陽介ではなく、配置を確かめている直斗へ顔を向けた。
「まだ、縛れるのですね」
「知っていたなら、先に直せただろ」
「置く方が、いませんでした」
「村人にやらせなかったのか」
「触れれば、落ちます」
御子の返答は、責任を問われた人間のものには聞こえなかった。
単に条件を告げている。
外輪を戻せる者がおらず、触れた者は裂け目へ落ちる。だから崩れたまま残されていたという事実だけを、平坦に並べている。
「話は後だ」
鳴上は最後の石へ向き直った。
「直斗、続けるぞ」
「はい。小石を二つ使います」
◇◇◇
最後に浮いていた石は、外輪の中で最も裂け目へ近かった。
石の半分は岩盤から離れ、切れかけた縄だけで隣の石へつながっている。下手に動かせば、そのまま内側へ倒れ、二列目の石へ衝突する位置だった。
「鳴上先輩は、石を動かさないでください」
直斗は外へ転がった小石を二つ示した。
「支えるのは下側だけです。大きい石の角度は、今のまま保ちます」
「俺が持ってればいいか」
「石へ直接力を掛け続けると、裂け目側へ伝わります」
『主、支えるのは一瞬だ』
イザナギが大きい石の横へ立った。
『小石が入るまで、倒れる向きだけ止めろ』
「分かった」
鳴上が石へ手を伸ばす前に、裂け目から黒い泥が再び持ち上がった。
今度は一本ではない。
細い触肢が三本に分かれ、鳴上、直斗、壁際の立川へそれぞれ向きを変えた。
「完二!」
「来い!」
完二は立川を左腕で抱き寄せ、右腕を前へ突き出した。
ロクテンマオウが背後で両腕を広げ、三本の触肢の進路へ身体を差し込む。
『主、直斗を下げろ』
「直斗、俺の後ろへ!」
完二は直斗の上着を掴み、立川のいる壁際へ引き寄せた。
触肢の一本がロクテンマオウの肩へ当たり、青白い光が表面へ走る。雷撃へ変わりかけた力を、完二は腕を開いたまま押し留めた。舌打ちをしつつ周囲の様子を確認する。
『今は撃つな』
「受け止める」
完二とロクテンマオウが前へ立ち、立川と直斗を完全に背後へ隠した。
立川は大きな影を見上げ、何かを言おうと口を開いた。
だが、出たのは短い息だけだった。
その視線はロクテンマオウからスサノオへ移り、さらにイザナギの刃を追ったところで焦点を失う。
「立川さん、あまり周囲は見なくていい」
完二の呼びかけに、立川はゆっくり顔を向けた。
「ここ、嫌だ」
「分かってる。すぐ出ます」
陽介は裂け目へ向かう風を止めながら、完二の背中へ声を投げた。
「立川は任せたぞ」
「離さねえッス」
『花村先輩の風を待て』
ロクテンマオウが触肢を受け止めたまま、陽介へ顔を向けた。
『鳴上先輩が置くまで動くな』
「こっちも限界近えんだよ」
『なら、早く合わせろ』
「お前、完二より容赦ねえな」
陽介は返事をしながらも、三本の触肢へまとわりつく空気を止めた。
風が動けば、黒い塊の向きも変わる。
動きを与えなければ、完二とロクテンマオウが受け止めている形を保てる。
「直斗、指示出せ!」
陽介の声に、直斗が完二の背後から石輪を覗いた。
「小石は二つです。大きい方を手前、細長い方を奥へ」
『直斗、奥は線がない』
ヤマトタケルが浮いた石の下を示した。
『もっと右。そこなら置ける』
「鳴上先輩、奥側の小石は右へ三センチずらしてください」
「分かった」
「陽介、小さい方を取れるか」
鳴上が外輪の外へ転がった石を顎で示した。
距離は二メートルほどだが、間には不規則な乱流が残っている。
『吹くなよ』
スサノオが先回りして告げた。
「分かってる。転がさねえよ」
陽介は風で石を動かさず、石の周囲から余計な流れだけを取り除いた。
風圧が消えたところへ、鳴上が手を伸ばす。
イザナギが同時に腕を動かし、小石の横へ薄い力を添えた。二人は石を浮かせず、岩盤の表面へ沿わせて滑らせる。
「一つ目、入れます」
直斗が浮いた石の下へライトを当てた。
「鳴上先輩、支えてください」
鳴上が大きい石の倒れる向きへ手を添える。
イザナギも反対側へ立ち、押し戻さず、傾きが増えない程度に支えた。
『主、力を乗せるな』
「置くだけだ」
小石が大きい石の下へ滑り込み、岩盤との隙間へ半分ほど収まった。
「止めてください」
直斗は石の角度を確認し、次の小石を指した。
「奥側を入れます。こちらは深く押し込まないでください」
『そこに力を当てると、内側の石へ伝わる』
ヤマトタケルが白い縄の先を追い、内輪へ続く線を示した。
「表面へ置くだけです」
「支えになんのか、それ」
「倒れる最初の動きを止められれば十分です」
鳴上が細長い小石を滑らせ、浮いた石の奥側へ沿わせる。
小石の端が白い縄へ触れた瞬間、裂け目の圧が強く跳ね返った。
完二が受け止めていた触肢が太くなり、ロクテンマオウの足元を押し始める。
「花村先輩!」
「分かってる!」
『陽介、全部止めろ!』
スサノオが陽介の背後へ重なり、両腕を大きく広げた。
陽介は空洞を満たす風の全てへ意識を掛けた。
裂け目から上がる流れ。天井を這う流れ。石輪の間で細く回る流れ。
完二の周囲へ集まり、触肢の進路を変えようとする流れ。
それらを一つずつ止める余裕はなかった。
陽介はスサノオの動きへ呼吸を合わせ、空洞全体から一瞬だけ風の向きを消した。
耳を押さえたくなるほどの静けさが広がる。
鳴上の上着も、直斗の髪も、御子の白い袖も動かない。
風が死んだのではない。動くことを、一時的にやめていた。
「今だ!」
陽介の声に、鳴上とイザナギが細長い小石を決めた位置へ置いた。
押し込まない。奥へ詰めない。
浮いた石が次に傾く方向だけを塞ぎ、そこから手を離す。
白い縄が緩やかに張り、外輪を一周するように震えが走った。
鈴が一つずつ鳴った。
今度の音は途中で消えず、空洞の壁へ当たり、遅れて陽介たちのところへ戻ってきた。
黒い触肢が細くなり、完二の前から崩れ落ちる。
岩盤へ触れる前に形を失い、裂け目の暗がりへ引き戻されるように消えた。
ロクテンマオウは腕を下ろしたが、完二と立川の前からは動かなかった。
「終わったか」
完二が荒い息を整えながら尋ねた。
「作業は、ここまでです」
直斗は三つの石を順番に確認した。
「ただし、直ったわけではありません」
「分かってる。応急処置だろ」
「はい。外輪の切れた部分をつなぎ、浮いた石を支えただけです」
鳴上は石から手を離し、一歩下がった。
イザナギも刃を下ろし、裂け目と外輪の両方が見える位置へ移動した。
陽介は止めていた風を少しずつ解放した。
空洞の右から左へ、細い流れが戻る。
流れは裂け目の上で完全には消えず、わずかに曲がりながらも反対側へ抜けていった。
「方向が戻ってる」
『少しだけな』
スサノオの輪郭は薄くなり始めていたが、声にはまだ力が残っている。
『閉じてはいない』
「分かってるよ」
陽介は裂け目を見た。
底は変わらず暗い。
外輪が戻っても、裂け目そのものは細くも浅くもなっていない。ただ、縁から持ち上がっていた圧が弱まり、岩盤の軋みが止まっているだけだった。
ロクテンマオウは周囲を見回し、床や壁をそっと触っている。
「あんまり触んなよ」
『後学のためだ』
「後学、ねえ」
完二の腕へ預けられた立川の呼吸も、少しずつ落ち着いていた。
直斗が立川の手首へ触れ、脈を確認する。
「先ほどより安定しています」
「意識は?」
「混濁したままです。ただ、裂け目へ引かれる様子はありません」
立川は薄く目を開け、陽介の背後へ視線を向けた。
そこには、まだスサノオの大きな輪郭が残っている。
「さっきの……何だっけ」
立川は言葉を探すように眉を寄せた。
「誰か、いたよな」
「今は思い出さなくていい」
陽介が近づくと、立川の目はスサノオから陽介へ移った。
「夢か」
「そう思っとけ」
「酒、飲んだからかな」
「それも後で調べる」
立川は返事をせず、再び瞼を閉じた。
ペルソナたちの姿を追っていたことさえ、すでに輪郭を失い始めているらしい。後で思い返しても、地下の暗さと御神酒が見せた夢としてしか残らないだろう。
陽介はそれでいいと思った。
今は理解させることより、ここから生きて連れ出す方が先だった。
◇◇◇
「外の輪は、まだ戻せるのですね」
御子の声が、弱まった空洞へ静かに響いた。
白装束の裾を動かさないまま、御子は木製の柵の手前に立っている。裂け目の圧が弱まっても、その周囲だけ風が避けるような違和感は変わらなかった。
「戻したと言える状態ではありません」
直斗は外輪の石を見ながら答えた。
「崩れる速度を遅らせただけです。次に大きな力が掛かれば、またずれる可能性があります」
「それでも、まだ縛れます」
「これを知っていたんですか」
「外の輪は、下を開かせないためのものです」
「完全に閉じるものではない?」
直斗が問い返すと、御子は裂け目へ顔を向けた。
「閉じるものではありません」
「外へ出さないためか」
鳴上が尋ねた。
「下は、開いてはいけません」
「何が出る」
「その問いには、応じられません」
「知らないのか」
鳴上の声は変わらなかった。
御子はすぐには答えず、戻された外輪を順番に見た。
「守るものです」
「何を守っている」
「そう作られました」
「何を守るために」
御子の表情は動かなかった。
しかし返答までの間だけが、これまでより長かった。
「何を守るのかは、もう思い出せません」
陽介は御子の横顔を見た。
言葉には悲しみも戸惑いもない。
何かを失った事実を告げる声ではなく、空白になった項目をそのまま読み上げるような調子だった。
「思い出せねえのに、人を連れてきてたのか」
陽介は裂け目から御子へ向き直った。
「立川を下へ入れて、何を守るかも分からねえ手順を続けてたのかよ」
「守ることは続けなければなりません」
「何から何を守るかも知らねえのに?」
「止めれば、下が開きます」
「だからって、人を使っていい理由にはならねえ」
御子は陽介を見た。
「人でなければ、保てません」
「またそれかよ」
「花村先輩」
直斗が低い声で陽介を呼んだ。
止めるためではなく、御子の言葉を最後まで聞くよう促す声だった。
「御子。あなた自身は、外の輪を戻せないのですか」
「触れられません」
「村人も?」
「落ちます」
「だから、立川さんを下へ?」
「戻られた方は、務めに入ります」
答えは以前と同じ場所へ戻った。
だが今は、その言葉の背後にある空白が見えていた。
御子は守るために立っている。
何を守るのかも、なぜ人間が必要なのかも、自分では説明できない。それでも残った手順だけに従い、村人と立川を地下へ運ぼうとしている。
「信仰ではありませんね」
直斗は裂け目から御子へ顔を向けた。
「少なくとも、あなたの言葉には祈りがない。残っている手順を、順番どおり続けているだけです」
「順番は必要です」
「意味を失っていても?」
「意味がなくとも、下は開きます」
直斗はそれ以上言い返さず、外輪へ視線を戻した。
「応急処置がどの程度持つかは読めません」
「地上まで戻る時間はあるか」
鳴上の問いに、直斗は石の震えと風の流れを確かめた。
「今すぐ崩れる兆候はありません。ただし、長く留まる理由もありません」
「立川を連れて上へ戻る」
鳴上は迷わず判断した。
「外輪には、これ以上触れない」
『主、それでいい』
イザナギは裂け目から視線を外さず、ゆっくり輪郭を薄くしていく。
『内側はまだ動いている』
「陽介」
「ああ。風も完全には戻ってねえ」
『閉じてはいない』
スサノオが陽介の横で繰り返した。
『ここから離れても、消えないぞ』
「分かってる」
陽介は裂け目を振り返った。
「でも、今は立川を上へ出す」
ヤマトタケルは最後に外輪の縄を見回し、直斗の肩へ近づいた。
『直斗、右の石はまだ浮いてる』
「分かっています。次に圧が上がれば、そこから崩れるでしょう」
『早く戻ろう』
「ええ」
ヤマトタケルの姿も、裸電球の光へ溶けるように薄くなった。
ロクテンマオウは立川の前から動かず、完二が身体を抱え直すのを待っていた。
「立川さん、上げます」
完二は立川の背中と膝裏へ腕を入れ、横抱きに持ち上げた。
立川の頭が胸元へ倒れ、目はほとんど閉じている。
「重くないか」
陽介が尋ねると、完二は立川の位置を少し上へ直した。
「余裕ッス。今度は絶対離さねえ」
『主、足場を見ろ』
「分かってる」
ロクテンマオウは完二の背後へ重なり、通路へ戻る道を先に確かめた。
「直斗は完二の前へ」
鳴上が木製の柵を指した。
「陽介は後ろを頼む」
「裂け目を見ながら下がる」
「御子は?」
完二の問いに、御子は自分から通路の脇へ退いた。
「上へ戻られるのですね」
「立川を連れて帰る」
陽介が答えると、御子は完二の腕の中へ目を向けた。
「戻られた方は、まだ務めを終えていません」
「最初から始めてもいねえよ」
「外の輪だけでは、長く保てません」
「だからって立川を置いてく理由にはならねえ」
御子は陽介の言葉へ反論せず、戻された外輪へ顔を向けた。
「では、誰が守るのですか」
問いは、空洞の誰へ向けられたものか分からなかった。
村人なのか。立川なのか。御子自身なのか。それとも、すでに何を守るのか忘れた役目へ向けているのか。
鳴上は通路の入口で一度だけ足を止めた。
「今は立川を守る」
短く答え、それ以上の説明はしなかった。
陽介も御子へ返す言葉を探さず、完二に抱えられた立川を見た。
立川は薄く目を開け、消えかけたペルソナたちの輪郭を追うように視線を動かした。しかし何かを口にする前に焦点を失い、完二の胸元へ顔を伏せた。
四人は木製の柵を越え、座敷牢へ続く通路へ戻った。
陽介が最後に地下空洞を振り返ると、裂け目は変わらず暗く開いている。
外輪の濡れた石だけが、かろうじて元の形に近い並びを保っていた。
その中央で、御子は一人、何を守るのか思い出せない場所を見つめていた。
階段へ近づくにつれ、上方から人の足音が伝わってきた。
村人たちは、まだ地上で待っている。
陽介は足を止めず、完二の腕の中にいる立川へ手を添えた。
「上へ戻るぞ」
返事はなかったが、立川の呼吸だけは確かに続いていた。
【今回出てくるキャラ】
花村陽介
M大経済学部に在籍している大学生。攫われた立川を追い仲間たちと比良守村までたどりついた。ペルソナであるスサノオとともに立川を助けるべく奮闘する。
鳴上悠
T大理工学部に在籍している大学生。陽介を通じてM大経済学部のいつメンと交流がある。ペルソナはイザナギだが、ほかの強力なペルソナとも付け替え可能。
白鐘直斗
五反田にある「白鐘探偵事務所」の所長を務める【探偵王子】。いつでも冷静ではあるが、お化けが苦手。情報処理能力は鳴上以上。ペルソナであるヤマトタケルは直斗に甘えたさんである。
巽完二
東京にある服飾系専門学校に通っている。物理が得意なのはいつもの通り。ペルソナであるロクテンマオウは見て触ったものを寸分たがわずコピーする能力を持つ。
立川
M大学経済学部に在籍している大学生。なんと地面に穴があいて攫われた挙句、謎の薬酒飲まされて虫の息になっている。いわゆる今回のかわいそう枠。
御子()
白い着物に赤い袴という見た目巫女の人物。
<Pixivにも掲載してます>
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=29081645
来週もよろしくです!