石畳には朝のうちに水が打たれていて、まだ濡れた匂いがしていた。
観客席は上まで埋まっている。声が、鉢の中の水みたいにぐるぐる回って、高いところで割れて、また落ちてくる。誰かがわたしの名前を、少し間違えて呼んだ。どこかで笑い声がした。
三年が、六年に決闘を挑んだ。
それも、よりによってあの人に。
わたしは正面を見る。
二十歩ほど先。銀灰色の髪を、今日も無造作に束ねただけの人が立っている。杖を持つ手は下ろされたまま。構えてすらいない。袖口は、わたしが初めて見た日から擦り切れたままだ。
この二年、わたしはその隣にいた。
世界中の誰よりも近くで、その魔法を見てきたはずだった。
目の前に、世界で一番きれいな魔法を使う人が立っている。
流れが見える。
この人の魔力には濁りがない。無駄がない。器から一滴もこぼさずに水を運ぶ人みたいに、静かで、正しくて、音がしない。
だから、わかってしまう。
その澄んだ底のほうが、いま、ほんの少しだけ震えていることも。
息を吸う。肺の奥が冷たい。
杖を上げる。一度焼けて、直してもらった杖だ。
わたしは、この人に勝たなければならない。
裁定者の声が、上がる。
♦
助けるべきかどうか、俺は一秒だけ迷った。
第三実技棟の前庭。一年生の実習だ。二十人ばかりが円になって、その真ん中で一人が杖を取り落としている。
音がしていた。高い、耳の奥を引っ掻くような音。
魔力の暴走には必ず音がある。制御を失った術式は、余った力の捨て場を持たない。行き場のない分が光と熱と音になって漏れる。無駄が多いほど、うるさい。
円の中心が白く膨らんでいく。半径は三歩ぶん。まだ広がる気配を見せている。
対応すべき教員はいた。棟の入口で、若い助教が詠唱を始めようとして、中断され、また始めようとしている。見るに、彼の術式は五節。あと三節ぶんの時間はない。
周りの一年が下がる。下がった方向が悪い。壁だ。これ以上は逃げられそうにない。
迷ったのは、そのあいだだけだった。
杖は抜かなかった。距離は近く、精密な操作を必要とするほどの状況でもない。むしろそのシングルアクションが惜しい。
左手を上げる。
魔法を組む。
暴走した魔力は渦になっている。渦は無秩序に見えるだけで、無秩序ではない。どの流れにも向きがあって、向きがある以上、束ねられる。
電位差。指向。減衰率。ベクトル。──前の人生で覚えた言葉でこの世界の魔法を組み直す癖が、すっかり染み付いている。
打ち消さない。打ち消すには同じだけの力が要る。無駄だ。
向きを、揃えるだけでいい。
白い魔法の塊が、細くなった。
絡まっていたものが順に外れて、揃って、縒られて、一本の線になって、真上へ抜けた。
音はしなかった。
光も、余らなかった。
空のずいぶん高いところで、風が一度だけ鳴った。それだけだ。
しばらくの間、誰も口をきかなかった。
二十人が、俺を見ている。杖を落とした一年生も、座り込んだまま、こちらを見上げている。口が半分開いて、そのまま止まっている。
……何か言うべきなのだろうか。
いや。
その子の右手を見た。指の付け根まで血の気が引いている。回路の逆流だ。放っておけば三日は痺れる。長引かせると癖になる。
「……回路、診てもらって」
言ってから、短すぎたかと思った。だが付け足す言葉が出てこない。
返事はなかった。
助教が駆けてきて、俺に礼を言おうとして、途中で言葉を切った。目は合わなかった。
背を向ける。
束ねた髪が肩から落ちて、鬱陶しい。切ってしまえばいいのだが、切りに行くのも面倒で、二年ほどそのままになっている。
十歩ほど歩いたところで、後ろの空気がようやく動いた。ざわ、と水が戻るみたいに。
俺がいなくなってから喋りだす。いつもそうだ。
午後は上級課程の合同講義で、後ろの窓際が俺の定位置だった。
厳密には俺の席ではない。誰も座らないので、結果としてそうなっているだけだ。
「聞いたよ」
ドリー・ブランが隣に腰を下ろした。今のところ、俺の隣に座る唯一の例外だ。
「三十分前の話が、もう食堂まで行ってた。速いよね、この学園」
「……そう」
「一年が一人、腰抜かして立てなくなってたって」
そうだろうな、と思った。
魔法が暴走しかけたこと。回路が壊れそうになったこと。すぐ側に死の危険が近づいていたこと。そして──
「まあ、暴発したんだから当たり前か」
当たり前ではない。
震えていた原因が暴発なら、俺が来る前から震えていたはずだ。あの子が固まったのは、俺が円の中に入ってからだった。声をかけてからは、目も合わなかった。
助けられたことと、助けた相手を好ましく思うことは、まったく別の話だ。近くで見れば、なおさら。
──いや。考えても仕方がない。
「そういえば、ハーゲン先生が探してたよ。書類がどうとか」
「……書類?」
「特待の。あるでしょ、今年も審査」
嫌なことを思い出した。すっかり忘れてしまおうとしまい込んでいた紙切れが卓上に戻ってくる。
特待生の審査の時期が近づいていた。
落ちれば学費が要る。実家に払える金はない。だから落ちれば辞める。それだけの話だ。
「弟子の欄、まだ空でしょ」
「……」
「取ればいいのに。けっこう点になるんだよ、あれ」
「取らない」
「ずっと言ってるね、それ」
ドリーは笑って、机に頬杖をついた。それ以上は訊いてこない。
この女がまだ隣に座っている理由は、たぶんそこにある。
「締切、後期末だってさ。ハーゲン先生が言ってた。空欄のままだと審査に響くって」
「……」
「あたしはもう取ったよ。二年の子。全然言うこと聞かないけど」
窓の外で、実技棟の方角の空がまだ少しだけ白く見えた。気のせいだと思う。あの高度まで抜けたなら、とっくに散っている。
「でもさ、あたし分かんないな。あんた、あんなに強いのに」
「……別に」
「無音の雷って、かっこいいじゃん」
俺は黙った。
むず痒い二つ名のようなものが、俺には付けられている。
揶揄われているわけではなく、賞賛の結果としてつけられた異名だということも理解している。この世界においては、手放しで光栄に思うべきことだ。しかし──
かっこいい、と思われているらしい。
音がしないのは、捨てるものがないからだ。ただの効率の話で、そこに意味はない。
それから。
……音がないのは、俺が喋らないからでもある。
「あれ、なんか怒った?」
怒ってはいない。
帰りは北の旧演習場を通る。遠回りになるが、人がいない。
使われなくなって久しい屋外の演習場で、結界の柱が二本折れたままになっている。誰も直しに来ない。草が伸びて、風の通り道になっている。ここなら、誰にも会わない。
しかしその日に限って、人影が視界に入り込んだ。
一年生だった。学年を示すリボンが真っ直ぐに主張している。栗色の髪。小柄で、鞄を胸に抱えている。制服はずいぶん古いが、袖口が丁寧に繕ってある。持ち主が手をかけている服だ。
傾いた光が斜めに入っていて、その子の輪郭だけが明るかった。
目が合った。
息を吸う音がした。口が開いて、何か言おうとしたのが分かった。
俺は待たなかった。
横を通り過ぎる。二歩、三歩。背中で、まだ声が出ないでいるのが分かる。四歩目でようやく「あ」という音が聞こえたが、それきりだった。
……また、怖がらせた。
締切は後期末だと、ドリーは言っていた。
弟子の欄は、今年も空白のままだ。