合同演習は、下級課程と上級課程を混ぜて広い演習場に放り込む行事で、教育的な意図が半分、場所の都合が半分でできている。
上級課程は、下級課程の実技を見学する時間がある。名目は「指導の機会」。実際は、四年から六年までが壁際に固まって、何もせずに眺めている時間だ。
これに意味があるのかは、実のところ分からない。
上級生が学ぶことなんてほとんどないに等しいし、下級生は無駄に緊張することだろう。師弟関係を結んでいる二人が互いの友人に顔を見せるきっかけ、くらいにはなるかもしれない。
……当然、俺があの子を誰かに紹介することはない。
いつも通り、俺は隅にいた。
ここに立つと、誰も俺の視界を通らずに済む。入学してから、少しずつ見つけた陰のひとつだった。
演習場はうるさい。
三十人ぶんの詠唱が重なって、魔力が鳴って、余った光が明滅する。焦げた空気に、雨上がりに似た匂いが混ざっている。
オゾン。
──と、前の人生の言葉が浮かんで、消えた。この世界では、この匂いに名前がない。魔法のあるところに必ずある匂いに、名前は要らない。
あるいはこれは、魔法の残り香だとも思われている節がある。
余りの匂いだ。無駄が多いほど、強く匂う。
俺の術式は、これを出さない。
下級課程の列の、後ろから二番目に、栗色の頭がある。小さな背丈が列に埋もれている。
出番が来て、視界にあの子の全身が映る。
構えが崩れていた。
右の手首が、少し内側に入っている。
疲れか、緊張か、気負いか。手首に力が入っているみたいだった。よくある事だ。
あの角度だと、線がわずかに逸れる。
いまはまだ逸れない。あの子は補正が上手いので、無意識に肩で吸収している。だが吸収すればそのぶん肩に負荷が乗る。三十回撃てば張る。そうしたら癖になる。姿勢が崩れる原因になる。
俺は壁から離れた。
離れる前に、三つ数えた。
一、放っておけば肩を痛める……かもしれない。
二、痛めれば姿勢が崩れる。
三、一度ついた癖はなかなか消せない。
三つ数えて、初めて足が出た。
毎回そうだ。俺がこの子に何かをするとき、必ず理由を考えて、予防線を張る。そうでなければ動けない。
列の横を通って、後ろから二番目まで歩いた。
周りの下級生が、俺を見て一歩ずつ下がった。歩く速度は変えなかった。視線が集まっているのがわかる。下級生からだけではなく、おそらく上級生からも。
あの子は俺に気づいていない。的を見ている。
俺は、手首に触れた。
わずか、外へ戻した。
それだけだった。
「あ」
という声が後ろから聞こえたときには、俺はもう歩き去っていた。
壁際に戻る。
余計な礼を言われる前にいなくなるのが、一番いい。
普段の指導にも満たない。礼を言われるほどのことはしていない。
だから、言われる前に離れる。入学してから、ずっとそうしてきた。
壁際に戻ると、下級生の列がざわついていた。
「今の、無音の雷だろ」
「なんかされてた」
「あの子、何かやらかしたのかな」
「叱られてたんじゃない」
「お前知らないの?」
「なにが」
声は届いていた。
叱られていたというのは、正しくはない。だが、それを説明して回るような話でもない。
説明したところで、次は「わざわざ説明しに来た」という話になる。俺が説明しに来るとはどういうことか。深読みに尾ひれがつき、翼が生え、いつの間にか知れ渡っている。
四年のあいだに、そういう学習だけは済んでいる。
「あんたさ」
ドリーが隣に来ていた。神出鬼没なようで、都合が悪いときには必ず現れる。代わりに、都合が悪すぎるときには現れない。
「今の、一言でいいから何か言えばいいのに」
「……」
「『手首、内に入ってる』って。口にしたら三秒くらいじゃない」
だが、三秒喋ると、あの子は返事をする。「ありがとうございます」と言う。俺は「そう」と言う。それで終わればいいが、終わらない。あの子は必ず、もう一言、足す。
足された一言に、俺は答えてしまう。
最近、それが増えている。
「……いい」
「よくないよ。今、あの子の周りの子が全員『叱られた』って顔してたもん」
俺は列のほうを見た。
あの子は的を撃っていた。手首は、外に戻ったままだった。
線がまっすぐ伸びて、乾いた音がひとつした。
撃ち終わって、あの子は、こっちを見た。
俺は視線を外した。
「……ほら、逃げた」
「逃げてない」
「逃げてるって」
ドリーは笑って、壁に背を預けた。
「あんた、傘の件もそうじゃん」
「……なんの」
「先月の雨降った日。あんた、傘を昇降口に置いてったでしょ。あの子が持ってないの知って」
「……忘れただけ」
「濡れて帰ってたじゃん」
俺は答えなかった。
「あれ、心配してんだよ、って、あたしがあの子に翻訳しといたよ」
「……余計なことを」
「言ったら、あの子、『知ってます』って言った」
俺は壁を見ていた。
白い漆喰に、ひびが一本入っている。何年も同じ場所に立っているので、そのひびが去年より二寸ほど伸びたことも知っている。
知ってます。
その言葉を、どう処理していいのか分からなかった。
俺の行動は、翻訳されないことを前提に組んである。誰にも読まれない設計で、ずっと動かしてきた。ドリーだって、俺のことをそれなりに理解してはいるが、あくまでそれ止まりだ。そこで止まるようにしてある。
読む人間が一人入ると、設計が全部変わる。
あの子は、目が良い。
俺が手本の魔法を使うところを、食い入るように見つめている。俺が回路を励起し、魔法を熾し、放つまでを、誰よりも深く見ている。
魔力に対する感受性が豊かなのだと思う。俺には無い資質だ。少なくとも俺には、他人の魔法が発生するまでにその中身を読み取るなんて芸当は不可能だ。わかるのは魔力の起こりと、輪を描く魔法の規模、詠唱から推察される魔法の内容まで。
あの子は所謂、天才なのだと思う。
だから上達も早い。
俺の魔法は、如何に魔力のロスをなくして魔法を放つか。それ以上でもそれ以下でもない。
威力を上げるには「溜め」ではなく自力の魔力移動を鍛えるしかない。照準を外部補正することもできない。雷を狙ったところに落とせないように、電位差による魔法の誘導も完璧じゃない。
全部、自力だ。そして、最も大きくセンスが要求されるであろう部分に、あの子は天賦の才を持っている。
ロスを無くすとは言うけれど、ロスを測る手段は多くない。音も光も熱も知覚できなくなったら、あとは魔法の威力や距離で測るくらい。
それを、あの子は魔力そのものの流れを見ることで瞬時に補正できる。
俺がちまちまと魔法をプロセスに分けて原因究明をしている間に、あの子は一目見るだけで原因を言い当てられる。
きっと、魔法の技術で追いつかれる日はそう遠くない。
それは、いい。歓迎すべきことだ。
問題は、一つだけ。あの目が、俺自身にも向けられていること。
あの子は俺を見ている。俺の言葉や行動が、本心かそうでないか、嘘か真か。俺の言葉の裏側にある心を測っている。
今は、まだいい。あの子は踏み込んでこない。
けれど、あの子が俺を暴こうとしてきたら? その時、俺は欲求を振り払えるだろうか。ただの逃避で、俺の魔法が完成するかもしれない欲求を。
……いや。
変わらない。
変えなければいい。
演習場の向こうで、乾いた音がまたひとつした。
深い音だった。同じ点に、二回目が入っている。