一年目の後期。弟子になってから、三ヶ月とすこし経っていた。
朝の鐘で目が覚める。
寮の窓は東を向いていて、冬は鐘のほうが先で、夏は光のほうが先だ。いまはまだ鐘が先の時期だった。
同室の子が二人いる。二人とも起きるのが遅い。わたしがいちばん先に起きて、いちばん先に部屋を出る。
何も理由なしに早起きなわけではない。朝の鐘のあとに、寮の入口の木箱へ手紙が入るからだ。
その日は、何も入っていなかった。
入っていない日のほうが多い。月に一度しか来ないのだから、当たり前だ。それでも見に行く。
東の食堂は、西より混む。
献立が同じでも東のほうが芋が大きいという噂は、特に否定されないまま流れ続けている。わたしは西の寮なのに、時間に余裕があれば東まで歩いて食べに来る。
ゾフィさんは、いつも入口が見える席に座っている。
「新しい
ゾフィさんは朝食の席に着くなり、指を三本立てた。
「聞く?」
「……聞きます」
最近、これが日課になっている。
朝の鐘が鳴ってから、昼の鐘までのあいだに、この学園では噂が二回転する。ゾフィさんはそう言っていた。
だから朝食の席が、いちばん新しい。
「ひとつめ。無音の雷は、睨んだだけで六年を気絶させた」
「六年」
「先月の合同演習。廊下ですれ違いざまに睨んで、その六年、その場で倒れたって。三人が見てる」
わたしは、パンをちぎった。
合同演習の日。廊下。すれ違いざま。
たぶんそれは、わたしが手首を直してもらった日だ。
あの人は、人とすれ違うとき、必ず視線を下げる。相手の顔を見ない。見ると相手が固まるから、というのを、わたしは数ヶ月かけて理解した。
わたしは、先生の歩幅を知っている。石畳の目地を、二つに一回踏む。
髪の束ね方も知っている。右から巻いて、最後に一回だけ捻る。捻り方が下手で、夕方には必ず緩んでいる。
黙る秒数も知っている。三秒なら聞いている。五秒なら答えない。
噂を集めているのはゾフィさんで、わたしは何も集めていない。
……集めていないのに、どうして、こんなに知っているんだろう。
流れを見ているからだ。見ていれば、ほかのことも目に入る。それだけだ。
そういうことにして、わたしはパンをちぎった。
だから、あの人が誰かを睨むことは、まずない。
睨まれたと思った六年生は、たぶん、目が合いそうになったのだ。目が合いそうになって、勝手に固まったか余所見をして、勝手に転んだ。
あの人はいつも、自分が通り過ぎたあとに何が起きているかを知らない。
「へえ」
「反応うすっ」
「……面白いですね」
「ふたつめ。無音の雷は、真夜中に一人で北の塔にいる」
「……塔?」
「深夜の見回りの子が、二回見てる。灯りもつけずに、上のほうの窓のとこに立ってるって。何してるんだろうね。儀式かな」
北の塔は、旧演習場のすぐ横にある。
あの人は、指導が終わったあと、すぐには帰らない。
わたしが「さようなら」と言って歩き出して、五十歩くらい行って振り返ると、まだ同じ場所に立っている。何回か振り返ったので、知っている。
寮に帰っても、たぶん、誰もいない。
同室の人がいるのかどうかも、わたしは知らない。訊いたことがない。訊いてはいけない気がしている。
灯りもつけずに、上のほうの窓のところに立っている。
儀式じゃない。
帰る時間を、遅らせているだけだと思う。
「ロマンあるよねー、そういうの」
「……ありますね」
わたしはスープを飲んだ。
少し、しょっぱかった。
「みっつめ」
ゾフィさんが身を乗り出した。スープの水面が揺れる。
「これは大物。──無音の雷は、笑わない」
「……それ、前から言ってませんでした?」
「うん。でも、更新された。今回のは条件がついてる」
指が一本立った。
「──去年までは、笑ってたらしいよ」
スプーンが、止まった。
「四年になったばっかりの頃……去年の前期くらいかな。そのへんまでは、たまに笑ってたって言ってる上級生がいるの。それが、ある時期からぱったり」
「……ある時期」
「そこは誰も知らない。誰も知らないから、噂が伸びるんだよね。呪いを受けたとか、家に何かあったとか、そういうの」
ゾフィさんはパンを口に入れて、あっさり言った。
「まあ、たぶん全部嘘だけど」
わたしは、何も言わなかった。
呪いも、家の話も、たぶん嘘だ。くだらないうわさ話。
でも。
──ある時期から、ぱったり。
それだけは嘘じゃない気がした。
わたしは半年、あの人を見てきた。流れが跳ねるのも、揺れるのも、速くなるのも見た。全部、外からは見えないところで起きていた。
あの人は本来、感情が豊かな人だと思う。わたしが話しかけるくだらない内容でも、感情が動いたりするのだから。
だというのに、わたしは。
一度も、あの人が笑ったところを見ていない。
「あのさ」
ゾフィさんが、めずらしくゆっくり喋った。
「あんた、否定しないよね」
「え」
「あたしが噂を持ってくるじゃん。あんた、笑いもしないけど、否定もしない。『そんな人じゃないです』って一回も言わない。絶対、あんたが知っている本当のあの人とは違うのにさ」
わたしはスプーンを置いた。
言わない理由は、はっきりしていた。
言えば、ゾフィさんは訊く。じゃあどんな人なの、と。
わたしが答えれば、それはゾフィさんを経由して学園中に広がる。あの人が知らないところで、あの人の話が増える。
あの人は自分がどう見られているかを、たぶん一つも知らない。遠巻きにされているとか、恐れられているとか、そういうことくらいしか知らないし、気にしていない。
知らないまま、ずっと、あの隅っこに立っている。
わたしが持っている一次情報は、この人の噂を面白くするために持っているんじゃない。
「……言うと、増えるので」
ゾフィさんは、しばらくわたしを見ていた。
それから、指を三本まとめて下ろした。
「なるほどね」
「はい」
「うん。じゃあ、あたしも減らすわ」
「え」
「あの人の話。集めるのはやめないけど、流すのはやめる」
あんまりあっさりしていたので、わたしは少し口を開けたまま、この人を見ていた。
「なに」
「いえ。……ありがとうございます」
「べつに。あたし、面白い話より、本当の話のほうが好きなだけだから」
ゾフィさんは立ち上がって、トレイを持った。
「あ、そうだ。四つめがあった」
「まだあるんですか」
「無音の雷には、弟子がいる」
わたしは、フォークを落とした。
「これは本当だから、流すね」
ゾフィさんは今日初めて、いたずらっぽく笑った。
その日の午後、廊下で、二年の子たちが話しているのが聞こえた。
「無音の雷、弟子取ったって」
「嘘でしょ」
ゾフィさんに知られていないとか、そんな楽観的なことは考えていなかった。一か月前の演習での出来事はあからさまで、あの日の内容もゾフィさんには知られていたことだろう。
わたしはただの有象無象でも、あの人は有名人だ。演習場での指導も、実技試験のわたしの点数も、きっとゾフィさんのもとには届いていた。だから彼女は多分、2ヶ月以上は我慢したはずだ。
そして、今日。薄く広がっていただけの噂は、学園中に広がっていた。
「ゾフィが言ってた。あいつが言うなら本当でしょ」
「どんな子?」
「そこまでは知らない。一年らしいけど」
わたしはその横を通り過ぎた。誰もわたしを見なかった。
噂の中の「一年」と、目の前を歩いている一年が、同じ人間だと思われていない。
それでよかった。
あの人の隣にいるのがわたしだと知られたら、たぶん、いろいろ言われる。言われるのは平気だけれど、言われたことが、あの人のところまで届くのは、いやだった。
午前は座学が二つ。術式の系統史と、計測法。
自分で言うのもなんだけど、筆記の点は悪くない。悪かったのは実技だけだ。それを言うと、だいたい慰められる。筆記ができるならいいじゃない、と言われる。実際に、筆記さえできていれば就職の口はある。
言った人に悪気はないけれど、この学園で筆記だけできるというのは、橋を設計できるのに石を切れないのと同じだ。
教官が板書をした。
術式の等級は、詠唱の節数によって定める
わたしは、それを書き写した。書き写しながら、節数のない術式のことを考えていた。
等級の表に、載る場所がない。
等級はゼロ。あの人の声が脳内に蘇った。
昼の鐘が鳴った。
わたしは三列目の端に座る。
卓が途中で切れていて、その切れたところに椅子がひとつ余っている。前にも隣にも卓がない。いつも空いているから、席を取る必要がない。
入学した日から、ここで食べている。
ここが席として数えられていないから空いているのだと気づいたのは、かなり最近のことだ。気づいたときには、もう慣れていた。
その日は、鞄からパンの残りを出して、それと芋を食べた。
芋は、たしかに心做しか大きかった。
午後は実技。
的は三十歩先。課題は基本の当て込みで、三分で何回か。
わたしの番が来て、線を引いた。乾いた音がひとつずつ、十二回鳴った。教官が、計測板に数字を書いた。
「ケルト。消費は?」
「四割二分です」
「……そう」
教官は、それ以上何も言わない。以前は二度見していた。いまは見ない。
後ろの列がざわつく回数も減った。
人は、二度目からは驚かない。
見なくなったのが、いいことなのか悪いことなのか、わたしには分からない。良いように捉えるなら、わたしの実力として認められたということだ。わたしと先生の関係も最早隠されたものではなくなりつつある。あの人の魔法なら、という空気が薄く広がっている。
夕方の鐘。が鳴る。
ここからが、わたしにとっての本番だ。
わたしは寮に寄って、鞄を軽くして、北へ歩く。枕元に置いてある手袋を持ち出すのも忘れない。
東の講義棟を抜けて、中庭を横切って、実技棟の裏を通って、それから道がだんだん細くなる。石畳が途切れて、草が出てくる。人が減る。最後の百歩は、誰ともすれ違わない。
この百歩が、たぶん、一日でいちばん好きだ。
まだ会っていないのに、もう会うことが決まっている、という状態だからだと思う。
……そういうことにした。