気がついたのは、たぶん偶然だった。
その日は風が強くて、旧演習場の草がずっと鳴っていた。的の吊り紐が揺れるので、線を当てるのがいつもより難しかった。
「先生、これ、風の補正ってどうすれば」
訊いた瞬間だった。
魔力の流れが、固くなった。
あの人の魔力は、いつも一定の速さで流れている。
嬉しいときは跳ねる。何かを言いかけてやめるときは、底のほうが揺れる。半年見ていれば、そのくらいは読めるようになった。
固くなるというのは、初めてだった。
跳ねるのでも、揺れるのでもなく、表面が張った。冬の朝、水桶に薄い氷が張るときみたいに。
「……補正は、しなくていい」
声色はいつもと同じだった。声にも、表情にも表れない。
「風は的を横に押す。でも、押されるのは的で、魔法じゃない。だから押されたぶん、こっちも横に置いておけばいい。補正じゃなくて、最初から見込む」
説明も、いつもと同じだった。丁寧で、短くて、正確。
でも、流れは張ったままだった。
わたしは、その日の指導のあいだ、三回「先生」と呼んだ。
三回とも、同じところが張った。
張る、というのは、糸を両端から引かれたときの形だ。
切れるわけではない。ただ、余裕がなくなる。
寮に帰って、机に座って、わたしはそのことをずっと考えていた。
最初は、自分が失礼なことを言ったのかと思った。でも、張るのは呼んだ瞬間で、質問の中身とは関係がなかった。
だから、呼び方だ。
わたしは紙に書いてみた。
先生。
この半年弱、わたしは「先生」と呼び続けてきた。その間、今日みたいに流れが固まるようなことはなかったと思う。なぜ今日、あの人がいつもと違ったのかは分からない。誰かに何かを言われたのかもしれないし、体調が悪かったとか、本当は半年前から気にしていたとか、予想できる答えは沢山ある。
一番困るのは、あの人がわたしとの関係を見つめ治そうとしている場合。
半年も付き合えば、寡黙なあの人からも色々と読み取れるもので。あの人の思考が、わたしの望まない方向へ寄っている場合のことも少しくらいはわかる。
あの人は自己評価が低い。あんなにも教えるのが上手いのに、口下手だからと自分を卑下する。あんなにも魔法が上手くて、自分の体系を確立しているのに、それをなんでもないことのように言う。
今回も、そういう類いなんじゃないかと疑っていた。詳細は分からないし、ゾフィさんでも調べることは不可能だろう。知りたければ直接聞くしかない。
でも、あの人に踏み込むにはリスクがある。わたしが踏み込んだ分だけ、あの人は一歩退く。少しずつ距離は縮まっているけれど、それは適切な距離と歩幅を保ってきたからだ。
この好奇心と不安は、その歩幅を踏み越える。
ただ、もう「先生」と呼ぶべきではないのだろう、ということはわかる。
弟子が師を呼ぶ、いちばん普通の言葉だと思っていた。実際、学園ではみんなそう呼ぶ。
四年に取ってもらった二年の子が、廊下で「先生」と呼んでいるのを何度も聞いた。「師匠」とか「先輩」とか、そういう場合もあるけれど、一番多い呼び方はたぶん「先生」だ。
でも、あの人は教官ではない。
あの人は四年生だ。わたしより三つ上なだけの、学生だ。
「先生」は、役職だ。
その言葉を使っているあいだ、わたしはあの人を、人ではなく役職として呼んでいたことになる。
制度が二人のあいだに一枚挟まっている。その一枚があるから、あの人はわたしに教えることを許している。
わたしは、それにずっと甘えていた。
……ううん、違う。
あの人が、それに甘えていた。
わたしは紙を裏返して、もう一度書いた。
アッシュ先輩。
次の日、いつも通りに旧演習場に行った。
あの人は柱に背を預けていた。いつもの位置で、いつもの立ち方で。
「アッシュ先輩」
言うのに、三秒かかった。
紙に書いたときは、なんでもない五文字だった。
声に出そうとしたら、喉の途中でつかえた。人の名前の一部を口に入れるというのが、こんなに難しいことだとは思っていなかった。
拒絶されるかもしれないと考えると、喉がつっかえる。
風が止まった。
一拍だけ、本当に止まっていたと思う。
あの人が、こっちを向いた。
流れは張らなかった。
張らないどころか、水面が一度だけ、下から突かれたみたいに動いた。
嬉しいときと同じ形に。けれど少しだけ、揺れる時間が長かった。
「……」
「あの、だめですか」
「……」
「じゃあ、それで」
「……なんで」
訊かれた。この人がわたしに何かを訊くのは、二度目くらいだと思う。だからわたしが説明するのも二度目。
「先生って呼ぶと、なんか、遠いので」
あの人は的のほうを向いた。
それきり、呼び方については何も言わなかった。
でも、その日の指導は、いつもより少しだけ長かった。
調子に乗ったのは、そのあとだ。
日が落ちて、片付けをしていたときだった。
「アッシュ先輩」
「……」
「明日、お昼、一緒に食べませんか」
草の穂が、いっせいに同じほうへ倒れた。あの人が振り返る。魔力は揺れている。喜びではなく、困惑に読めた。
「食堂、混むので、早めに行けば席取れます。わたし、三列目の端の席、いつも空いてるの知ってるので。あの、いつもそこに座ってるからなんですけど」
あの人は、動かなかった。
「……悪いけど」
いつもの言い方だった。
断るときのこの人は、必ずこの形をとる。そして断るということは、生半可な誘いじゃ折れてくれないということだ。
「明日は、用がある」
「あ。はい。じゃあ、あさって」
「……」
「じゃなくても、来週でも」
あの人は、杖を鞄に入れた。無駄に素早かった。
「……」
そして、歩き出した。
「あ、待っ」
引き止める前に伸ばした手が空を切る。
草を踏む音が、三歩で遠くなった。
わたしは、その背中を見ていた。二歩目で流れが揺れた。
あの日と同じだった。旧演習場で三回目の「取らない」を言って、背を向けた瞬間と。
声で断って、背中を向けて、それでも底のほうが揺れる。
あれから半年経った。揺れ方は、あのときより大きくなっていた。
わたしは、倒れた草の上にしゃがんで、少しだけ笑った。
笑ってから、少しだけ、泣きそうにもなった。
近ごろ、嬉しいのとしんどいのが、両方いっぺんに来ることが増えた。それらの感情は、たぶん同じところから出てくる。だからきっと、同じものなんだと思う。
草が膝の下で湿っていた。
だめだった。今日はだめだった。
でも、今日わたしは、この人の呼び方をひとつ変えた。
先生から、アッシュ先輩まで。
たった一段だけど、この人は、その一段ぶんだけ、逃げるのが遅くなっていた。
あと何段あるのか、わたしはまだ知らない。
でも、上から順に降りていけば、いつか名前になる。
名前まで降りたら、そのときは。
わたしは立ち上がって、草と泥を払った。
「アッシュ先輩、さようなら」
もう、聞こえない距離だった。