二度目は、雨の日に来た。
旧演習場が使えないので、その日は東の講義棟の空き教室でやった。的が置けないから、術式の話だけをする時間だ。紙に書いて、渡して、読ませて、書かせて、間違いを指す。
あの子は書き込みが多い。余白がない。小さなことだが、好ましいといえば好ましい。裏紙が節約できるに越したことはないからだ。
俺は、あの子が裏紙に理論を書きつけていくのを眺めていた。小さな指先が忙しく動く。
──アッシュ先輩。
あの子の声が、俺の名前を呼ぶようになった。
名前を呼ばれることは、別に、特別なことではない。教師も同級生も、普通に俺の名前を呼ぶ。ドリーだって、毎日1回は俺の名前を──いや、『あんた』と呼ばれることも多いかもしれないが。
呼び方の変更に、俺は抵抗しなかった。先生と呼ばれるほどこの子に教導ができているわけでもないから、元々『先生』という呼称は大仰すぎると思っていた。だから、渡りに船だったとも言える。
代わりに一歩、距離が縮まったように思えることに関しては、少々抵抗が残っているけれど。
片付けているとき、あの子に言われた。
「アッシュ先輩」
「……」
「明日、お昼」
「……悪いけど」
つまりは、こういうことだ。
便利な断り方は、おおよそ三通りだ。
用がある。人と会う約束がある。午後の講義の準備をしたい。
どれも嘘ではない。俺には常に用があり、約束があり、準備がある。この学園に三年半いれば、その程度の在庫は溜まる。嘘があるとすれば、優先順位くらい。
嘘ではないものだけを並べて、本当のことをひとつも言わない。
これができるようになったのは、たぶん二年目の途中からだ。
俺の懸念は、すなわちこうだ。
食堂で俺が座ると、半径1人分、その周りが空く。俺が座って、皿を置いて、食べ終わるまでその空席は埋まらない。
もう四年弱、毎日それを見ている。
一緒に食べれば、あの子は、その空席の内側に入る。
俺が保ってきた孤高の内側に、あの子を入れることになる。それは困る。
「明日は、書類の締切がある」
これも嘘ではない。特待の中間の届が要る。出すのは明後日でもいいが、明日出せば嘘ではなくなる。
「あ、はい」
あの子は、あっさり引いた。
引いてから、少しだけ、こっちを見た。
「じゃあ、来週」
……引いていなかった。
三度目は、その十日後だった。
「アッシュ先輩」
「……」
「来週って、今週です」
俺は、紙をたたむ手を止めた。この子は数えている。
「……悪いけど」
「はい」
「午後の準備が」
「はい」
「……」
「分かりました」
あの子は鞄を背負って、頭を下げて、それから、いつもの言い方をした。
「アッシュ先輩、さようなら」
俺は返事をしなかった。
しなかったことを、坂の途中まで歩いてから、思い出した。
その週の終わりに、俺は食堂へ行った。
昼の鐘からは一刻が経っている。とうに人がいない時間だ。そういうことばかり覚えた。
三列目の端。
あの子が、いつもそこに座っていると言っていた。席が取れる、とも。
足が向かっていた。わざわざ端っこへ行かずとも、空いている席は多くあった。当然、深い理由はない。
端、というのは、いちばん壁に近いということではないらしかった。
三列目の卓は途中で切れていて、その切れたところに、椅子がひとつだけ余っている。前にも、隣にも、卓がない。
いつも空いていると、あの子は言った。それは、そこがまともに席として数えられていないからだ。
俺は、その椅子に座った。
誰もいない卓の面と、その向こうの柱が見えた。
柱の陰になって、他の卓がよく見えない。他の卓からも、ここは見えない。
半径二人ぶんの空席と、同じ景色だった。
俺は、そこで、たぶん半刻近く座っていた。
三度断った理由は、あの子を空席の内側に入れないためだった。
しかしあの子はもう、俺の内側にいる。
俺が断ろうが断るまいが、あの子はここで一人で食べている。一年、たぶんもっと前から。魔力量が学年で下から二番目だった頃から。俺が断ることで守っているものは、何もない。
断らなければ、この子は誰かと食べられるようになるわけでもない。
俺が隣に座れば、空席は二人ぶんに広がるだけだ。
どちらでも、この子は一人だ。
だったら。
──いや。
あの子が一人で食べていると決まったわけでもない。
俺は立ち上がった。
椅子を戻した。戻すときに脚が石の床を擦って、甲高い音がした。
誰も振り返らなかった。誰もいないからだ。
四度目は、その次の日だった。
旧演習場での魔法の練習を終えて、日が落ちてから。
「アッシュ先輩」
「……」
「お昼」
俺は、杖を鞄に入れていた。誘われる直前に声を掛けられるのがわかった。
「……悪いけど」
「はい」
言ってから、あの子の顔を見なかったことに気づいた。おそらく正しい。見ていれば、たぶん、次の言葉が出なかっただろうから。
「あ、そうだ」
あの子が言った。
「先輩、三列目の端に座ってました?」
俺は、動かなかった。逃げ出すために速やかに整えていた帰りの準備を中断する。
「今週、食堂の人が言ってました。上級課程の人が変な時間に来て、端の席に座ってたって。銀色の髪の」
「……」
「あそこ、日が当たらないので、寒いですよ」
俺は、鞄の紐を握っていた。
「……そう」
「はい」
あの子は、それ以上何も訊かなかった。訊かないで、鞄を背負って、頭を下げた。
「じゃあ、また訊きます」
訊かなくていい、とはついぞ言わなかった。
───
その術式を組もうとしているのに気づいたのは、構えを見たときだった。
夕方の旧演習場。的は三十歩先。だが、あの子は的を見ていなかった。
いつもの魔法とは構えがズレている。自分の手元に集中して、杖や姿勢が真っ直ぐに的に向かっていない。
線を、二本引こうとしている。
二本目を引くには、一本目の維持を切らずに別の指向を立てなければならない。つまり、電気回路で言う並列だ。同じ魔力源から同時に二つ以上の魔法を放つ。
当たり前に難しい技術だ。俺の体系では上のほうにある。俺自身、組めるようになったのは前世の記憶を引き出し切ってからだった。
少なくとも一年生が触る領域ではない。
「……」
やめろ、と言えばよかった。
咄嗟に口が形を作れなかった。
俺は命令の形を口に出せない。
出せない理由を説明できたことは一度もない。ただ、その形の言葉を組もうとすると、喉の途中で止まる。
前の人生で俺が最後に口にした言葉が、その形だった。それが理由かどうかは、考えないことにしている
だから、先に手が出た。
あの子の手首を掴んだ。
術式が途中で崩れて、指の先で小さく散った。散ったぶんが空気を焦がして、焦げたにおいがした。
「いたっ」
「……」
俺は手を離さなかった。
「アッシュ先輩、あの、離して」
「……」
「え、あの」
俺の手が、震えていた。
自分の手だという感覚がなかった。関節が言うことを聞かなくて、掴んだ形のまま固まっていた。
あの子が、俺の手を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……先輩」
俺は手を離した。強ばっていて、関節が傷んだ。力が入りすぎて、あの子の肌が白くなっていた。
離した手を、背中側に回した。回した意味はなかった。もう見られている。
「並列は、やらない」
声が、思ったより低く出た。
「並列って、名前なんですね」
「……」
「……はい」
「三年、早い」
「……はい」
あの子はゆっくりと頷いた。そこに不承不承の感がこもっているように見えるのは、俺の妄執だろうか。
「一本目を維持したまま二本目を立てると、回路の同じ場所に、二重に力が通る。一本ぶんずつなら通せる量でも、重なった瞬間に上限を超える」
説明が、止まらなかった。
「超えると、焼ける。痛みは後から来る。撃っているあいだは気持ちがいいから、気づかない。気づいたときには終わってる」
「……」
「回路は、治らない」
言ってから、言いすぎたと思った。
あの子は、俺を見ていた。
いつもの、まっすぐな見方だった。この子は俺の顔を見ない。俺の顔の、少し内側のあたりを見る。
「なんで、知ってるんですか」
当たり前のように訊かれた。
俺は、答えなかった。
棟の間を風が鳴った。
答えない、というのを、俺はずっとやってきた。
訊かれたら黙る。黙っていれば、たいていの人間は諦める。諦めて、次からは訊かなくなる。それで全部済んできた。
あの子は、諦めなかった。
諦めなかったが、追いもしなかった。
「わかりました」
と言った。
「並列はやりません」
「……」
「先輩が理由を言わないなら、理由なしでやりません。それでいいですか」
俺は、地面を見ていた。
良いわけがない。
それでは、この子は理由を知らないまま止まっているだけだ。理由を知らない禁止は、いつか破られる。破られるのは、たいてい、俺がいないときだ。
言うべきだった。
今年の前期のことを、言えばよかった。
半年前、俺に食らいついてきた二年生が一人いて、俺はそれが嬉しくて、見せてはいけないものを見せた。
彼女は追いつこうとして並列を組んで、回路を焼いて、いまは工房棟にいる。
その二週間のあいだ、俺は、生まれてから一番、楽しかった。
それを言えば、この子は分かる。
危険を理解して、それでもなお、きっとこう言うのだろう。
わたしは壊れません、と。
言われたら、俺は。
……いや。
「……いい」
俺は言った。
「それで、いい」
その日の帰り、あの子は途中まで並んで歩いた。
いつもは五十歩ぶん後ろを歩いている。今日は隣にいた。
俺は速度を変えなかった。変えると、変えたことが伝わる。何を意識してのことかも全て。
「アッシュ先輩」
「……」
「わたし、頑丈なんですよ」
俺は、前を見ていた。
「小さいころ、うちの村、冬に川が凍るんです。それで、近道のために氷の上を渡って学校に行くんですけど、わたし、六回落ちてます。六回落ちて、全部自分で上がってきました」
「……」
「兄が一回落ちて、そのとき熱を出して、三日寝込みました。わたしは六回落ちて、一回も寝込んでません」
草の道が終わって、石畳になった。
「だから、心配しなくていいですよ」
俺は歩きながら、自分の手を見た。
まだ、少し震えていた。
この四年弱で、こんなにも動揺しているのは二度目だ。
一度目は、演習室の床に人が倒れていた日。あの日は、震えが止まるまでに一刻半かかった。数えていたわけではないが、鐘が三回鳴ったので、そのくらいだ。
二度目が、いま。
いまは、まだ十分も経っていない。
あの子は、それに気づいていた。気づいていて、その話をした。
この子は、俺の言葉を一つも信じていない。
言葉を信じない代わりに、俺の手を見ている。
それが、いちばん、まずい。
「……先に帰って」
「はい」
あの子は素直に走っていった。走りながら一度振り返って、手を振った。
俺は振り返さなかった。
振り返さなかったことを、その夜、寮の窓のところで、たぶん一時間くらい考えていた。
風邪をひくだけならこんなことは言わない。二度と魔法が使えなくなるとしても、あの子は氷の上を歩くのだろうか。