一年生の、最後の月だった。
わたしは相変わらず、セラ先輩のもとへ通っている。お昼は一緒に食べてくれないし、距離を詰めさせてくれないのも変わらない。
早朝の鐘と共に起き出して、まだギリギリ涼やかな空気に素足を触れる。これも一年続いた習慣だった。
うちの手紙は、月に一度届く。
寮の入口に木箱が並んでいて、朝の鐘のあとに、その日の分が入る。人が集まるのは、そのときだけだ。
数日前、アッシュ先輩に手首を掴まれた。
並列をやろうとして、止められた。あの人の手が震えていて、離してくださいと言っても離れなくて、わたしが「先輩」と呼んだら、やっと離れた。
あの人がたぶん、初めてわたしに触れた。……杖の角度を直す以外で。
手が、あたたかかった。
いつも冷たそうな顔をしている人なのに、手だけ、びっくりするほどあたたかかった。
わたしは、その温度のことを、三日も考えている。
考えてはそのたびに、震えていたからだと結論する。震えている人の手は熱を持つ。
そういうことにして、わたしは手紙を開けた。
母が書いて、父が一行だけ足して、下の弟が絵を描く。絵はだいたい牛だ。うちにいる二頭の牛のどちらか。似ても似つかないので、判別はできない。
紙は安いやつで、裏が透ける。だから母は片面にしか書かない。書くことがなくなると、たいていは天気の話になる。今年は雪が遅かった、とか、川が凍るのが去年より半月遅い、とか。
わたしはそれを、月に一度、三回くらい読み返す。
その日は、旧演習場で読んだ。指導が始まる前の、あの人を待っているあいだに。
わたしは草の上に座って、手紙を広げた。
風が強くて、両端を押さえていないといけなかった。
読んでいるうちにセラ先輩が来たので、手紙を折り畳む。そのときに弟の絵が目に入った。
弟の牛は、今回は横向きだった。角が四本あった。
「……ふふ」
声が出た。
あの人が、こっちを見ているのが分かった。
見ているというより、むしろ見ないようにしている感じだった。視線がこっちの方向に一度来て、すぐ的のほうへ行って、それからまた戻ってきた。
「弟が、絵を描くんです」
わたしは手紙を持ち上げた。
「牛です。うちで飼ってるんですけど、可愛いんです」
「……」
「毎回、牛なんですよ。もう一頭飼いたいって言ってるらしいです」
あの人は何も言わなかった。
でも、視線は逃げなかった。持ち上げた手紙に描かれている牛の絵を、視線が追いかける。どういう感想を抱いたのかまでは分からなかった。魔力は凪いでいる。
わたしは手紙を畳んで、鞄にしまった。しまう場所は決めてある。潰れないように、教本のあいだに挟む。
その日の指導が終わって、片付けをしているときだった。
「来週から、休暇ですね」
「……そう」
「わたし、帰るので、二十日ほどいません」
あの人は的を下ろすために歩き始めたところだった。その背中に、わたしは休暇の予定を告げる。
「その、課題を出してもらえたら、向こうでやります。あっちは的がないんですけど、納屋の壁に印をつければ」
「……いい」
「え」
「休んで」
わたしは、手を止めた。
「休みは、休むためにある」
的の吊り紐を外しながら、あの人は言った。
「毎日撃つより、二十日空けて戻ったほうが、伸びる。回路も休む」
「……ほんとですか」
「……たぶん」
嘘だ。残念ながら、魔力の流れが乱れなくても、わたしはアッシュ先輩の嘘に気がつくことができるようになってしまった。
この人は、嘘をつくときにこういう言い方をする。半年で分かってきた。本当のことを言うときは、言い切る。その中間があって、そのときは、たぶん嘘を上手くねじ曲げて本当にしている。
二十日休めというのは、二十日来なくていい、ということでもある。
……ううん。
考えすぎだ。この人はいつも、わたしのことを先に考える。
寝室の手袋のことを思い返した。
鞄を背負って、わたしは訊いた。
「アッシュ先輩は、帰らないんですか」
あの人は既に的の紐を巻き終わっていた。巻き終わったのに、まだ巻いていた。
「……帰らない」
「あ、じゃあ、こっちに残るんですか」
「……」
「ご実家、南のほうって聞きました。遠いから、大変ですよね」
「……」
「ご実家は」
言ってから、しまった、と思った。
この人は、質問をしない人だ。
そしてそれはおそらく、質問をすることが相手に踏み込むことと等価だから。踏み込みたくない。だとすれば、踏み込まれたくもない。
わたしが何気なしに発する質問は、この人の足元に漣を立てている。
あの人は、紐を巻く手を止めた。
それから、しばらく、何も言わなかった。
風の音がした。北の塔のほうで、鳥が鳴いた。
あの人は、答えなかった。
顔は、いつもと同じだった。
流れも、いつもと同じだった。跳ねもしないし、揺れもしない。張りもしない。
何も、なかった。
それが、いちばん恐ろしかった。
「……すみません」
「……いや」
あの人は、紐を鞄に入れた。
「別に。何もない」
この人はいま、本当のことを言った。
休暇に入って、わたしは家に帰った。
馬車を三回乗り継いで、二日かかった。故郷の村は相変わらず何もなくて、蝉が鳴いていた。
王都を通り過ぎて、街道が細くなって、石畳が土になって、それから村に着く。モーレンという。地図には載っているが、ただそれだけの村だ。
馬車を降りたら、弟が走ってきた。
「ねえちゃん」
背が伸びていた。半年で、こんなに伸びるものらしい。
うちには牛が二頭いる。それと、畑がすこし。父さんは春から秋まで、街道の普請に出ている。母さんは家にいて、繕い物を請け負っている。村じゅうの繕い物が、うちの土間に積んである。
わたしの制服の袖口を丁寧に繕ったのは、母さんだ。
「痩せたねえ」
母さんは、わたしの顔を見るなり言った。
「ちゃんと食べてるよ」
「食べてるって顔じゃないよ」
その日の夕飯は、芋と、牛乳と、塩漬けの肉が少し。
学園の食堂より、ずっとおいしかった。
三日目の夜、わたしは屋根裏で寝転がって天井の梁を見ていた。
あの人はいま、あの学園にいる。
休暇中の学園がどうなっているのか、わたしは知らない。たぶん、ほとんど人がいないはずだ。食堂も閉まっている。寮の廊下も暗いだろう。
旧演習場には、誰も来ない。
わたしは鞄の中の教本を引っぱり出して、あいだに挟んだ手紙を見た。
きっと同じくらい貧乏な家だ、と思う。
わたしの制服も、あの人の制服も、同じくらい古い。
でもわたしには月に一度、牛の絵と手紙が届く。
あの人には、何も届かない。
あの人は、それを「何もない」と言った。
わたしは、手紙を教本に挟み直して、目を閉じた。
挟む場所は決めてある。教本の、第四章と第五章のあいだだ。
第四章は「魔力の輪の描き方」で、第五章は「詠唱の節と等級」。どちらも、あの人が要らないと言った章だった。要らない章のあいだなら、開かないから、手紙が落ちない。
教本のいちばん役に立っていない場所に、いちばん大事なものが挟んである。
村には、術師がいない。
昔からだ。橋が落ちたら隣の郡から人を呼ぶしかない。当たり前に、人を呼ぶと金がかかる。だから橋はなかなか架け直されない。
わたしが生まれて初めて魔法を見たのは、学園の入学試験の日だった。
十四歳だった。試験官が的を割るのを見て、光と音に驚いて、隣の子に笑われた。
その話を、わたしは学園で一度もしていない。
四日目に、近所の人が見に来た。
「学校の子が帰ってきた」というのは、この村では出来事らしい。おばさんが三人と、子どもが五人、土間に立った。
「なんか見せてよ」
子どもの一人が言った。請われるまま、わたしは外に出た。
牛小屋の壁の剥がれかけた板を的にした。二十歩下がって、杖を構える。
輪を作らない。溜めない。行き先を決めて、出す。
線が伸びて、板に小さな焦げ跡がついた。
乾いた音が、ひとつ。
誰も、何も言わなかった。
「……え」
子どもの一人が言った。
「終わり?」
「終わり」
「光んないの?」
「光りません」
「なんか、ばーんってやつは」
「やりません」
おばさんたちが顔を見合わせた。それから、一人が笑って、わたしの背中を叩いた。
「まあ、まだ一年生だもんねえ」
期待はずれだという顔を隠さず、みんな帰っていく。
わたしは、牛小屋の壁を見ていた。
焦げ跡は、爪の先ほどだった。
半年前のわたしなら、この一本を引くのに、全部使い切って座り込んでいた。いまは、二十本引ける。
それを説明する言葉を、わたしは持っていなかった。
光らないことがすごいのだと言っても、たぶん誰にも通じない。
光も音も熱も、壁を焦がすのに何一つ役立ちはしないのだと、そう説明したところで意味はない。
褒められたかったわけでも、持て囃されたかったわけでもない。ただ、失望は痛い。
「ねえちゃん」
弟が、後ろに立っていた。
「さっきの」
「うん」
「音、しなかったね」
わたしは、しゃがんだ。もう、しゃがんだわたしよりも背が高い。
「うん」
「なんで?」
「捨ててないから」
弟は、よく分からないと言った表情で頷いた。
「すごい人に、教わってるの」
わたしは言った。
言ってから、それ以上何も言えなかった。
帰る前の日の夜、母さんが裁縫箱を出してきた。
古いやつだ。母さんが嫁に来たときから使っている。蓋が少し反っていて、閉めるときに一度持ち上げないと閉まらない。
「持っていきな」
「え、母さんのは」
「もう一個ある。あんた、袖、自分で直せるようになりなよ」
蓋を開ける。
糸が何色か入っていた。白、黒、生成り、それから灰色。灰色は、いちばん多く残っていた。何にでも使えて、何にも合わないからだ、と母さんが言った。
弟が、蓋の裏に絵を描いた。炭で、牛を一頭。
母さんが落書きを咎めて雷を落とされたあと、懲りずに絵を指さした。
「これ、ミナ」
うちの牛の名前だ。二頭のうちの、年寄りのほう。
「なんで牛?」
「ねえちゃん、忘れるから」
わたしは、しばらくその絵を見ていた。
角の描き方が下手だった。二本とも同じ方向を向いている。
「上手だね」
「うん」
下手だからといって、描いてはいけないわけではない。
帰りの馬車の中で、わたしは膝に裁縫箱を載せていた。
思っていたよりも、二十日は長かった。
長かったのに、話したいことはひとつも話せなかった。
母さんに一度だけあの人のことを訊かれた。
どんな人なの、と。
わたしは、答えを用意していた。
けれど用意した言葉は、どれも、口に出すと違和感を纏った。強い人です、と言えば怖い人になる。優しい人です、と言えばなんでもない人になる。
だから、こう言った。
「きれいな魔法を使う人です」
母さんは、「そうかい」と言った。それだけだった。きっとなにも伝わってはいない。
でも、それでよかった。
あの数秒を見たのは、学園中でわたしだけだ。村でもわたしだけだ。
誰にも分けられないものを、わたしは一つ持っている。
馬車が揺れて、裁縫箱の中で、糸巻きが鳴った。
学園に着いたのは、夕方だった。
寮に鞄を置いて、それから北の旧演習場まで歩いた。
あの人がいるはずがなかった。休みはまだ三日ある。
誰もいなかった。
草が伸びていて、折れた結界柱が二本、そのままだった。
わたしは、あの人がいつも背を預けている柱のところまで歩いて、そこに立った。
立って、二十歩先の的を見た。
的の中心に、焦げ跡がある。
わたしがつけたものではない。的を貫くほど細く鋭い跡だった。
休みのあいだも、来ているのだと分かった。
わたしは、その場で杖を出した。
二十日ぶんの手は、当たり前に鈍っていた。