二年生になった。
あの人は、五年になった。
名簿でそれを確かめたとき、あと二年だと思った。二年あれば、たぶん、なんとかなると思っていた。わたしと、あの人の関係に何かを残すことが。
教室が二階に上がって、講義が増えて、実技が学年混合になった。混合になると、上の学年の顔を覚えることになる。
アデライド・フォン・エーレンベルクの名前は、初日に覚えた。
覚えたくなくても覚える。教官が三回名前を呼んで、三回とも「見本を」と続けたからだ。
彼女の魔法は、言うなれば大きかった。
輪を作って、詠唱を六節通して、溜めて、放つ。
放った瞬間、演習場が白くなる。風が起きる。髪が持っていかれる。的が割れる音が、腹に響く。
わたしの目には、金色に映った。
節が進むごとに、輪が一重ずつ閉じていく。一重目より二重目が大きくて、二重目より三重目が大きい。歪みがない。
重ねた輪の中で、金色が、縁のところまで来て止まっている。
止めていられる量ではないのに止めている。実際には、あの人が言うところの「ムダ」がある。輪の中では絶えず光が走り、音が鳴っている。
だから、きれいだとは思わなかった。
でも、すごいとは思った。あの量をあの精度で、あの速さで通せる人は、この学年に他にいない。教官が三回呼ぶのは当然だった。
問題は、そのあとだ。
「次、ケルト」
わたしは線の上に立って、線を一本引いた。
乾いた音がひとつして、それで終わりだった。風は起きない。まぶしくもない。
的の割れ目は、彼女のより浅かった。でも、わたしの残量はまだ九割以上あった。
「……ケルト。消費、見せなさい」
教官が計器を寄越した。数字を見て、教官は黙った。
演習場の後ろのほうで、誰かが小さく言った。
「あれ、無音の雷のやり方だろ」
久しぶりに聞いたな、とだけ思った。
休憩のとき彼女が近付いてきた。
背が高かった。制服の襟に刺繍が入っている。上級貴族はああいう襟を許されているのだと、いつかゾフィさんが教えてくれた。
「ニーナ・ケルト」
名前を、まるごと呼ばれた。
「はい」
「あなた、セラ・アッシュの弟子だそうですわね」
「はい」
「そう」
彼女は、わたしの杖を見た。それから、わたしの制服の袖を見た。繕ってあるところを見られたのが分かった。
「わたくし、あの方の実力は疑っておりません」
意外な入り方だった。
「あの方が四年のとき、演習で一度だけ見ております。あれは本物です。この学園に、あの方より上手に魔力を扱う人はおそらくおりません」
「……はい」
「ですから、余計に申し上げるのです」
彼女は、まっすぐわたしを見た。
「あれは、魔法への冒涜です」
「魔法は、捧げるものです」
彼女の声は、大きくなかった。なのに力を持っている。硬くて、古くて、暗記したみたいな喋り方だった。
「詠唱は、ただ順番を守るための道具ではありません。捧げるという行為そのものです。輪を描くのは、力を溜めるためではありません。捧げる形を作るためです。光が出るのは、無駄ではありません。捧げたことの証です」
「……」
「あの方は、その全部を『無駄』と呼んで削り落とした。残ったのは、結果だけです」
わたしは、何も答えなかった。
反論しなかったのは、その言い分が、わたしの中で全然的外れではなかったからだ。
あの人は、たしかに、そういう組み方をする。実のところわたしも、感性そのものはアデライドさんのものに近い。そういうものだと習ってきたからだ。
「効率を求める者は、魔法を愛しておりません」
彼女は言った。
「そして、あなた」
わたしのほうに、指が向いた。
「あなたは、あの方の腰巾着ですわね」
最初、意味を理解し損ねた。
「点数が跳ねたと聞きました。結構なことです。ですが、あなたが跳ねたのは、あなたが何かを積んだからではありません。上手に人を選んだからです」
「……」
「あの方の背中に隠れて、あの方の削った式をなぞって、それで順位が上がった。それを実力とお呼びになるのは、ご自由ですけれど」
わたしは、自分の手が冷たくなっていくのを感じていた。
腰巾着。上手に人を選んだ。背中に隠れて。
それは、たぶん、半分は本当だった。
わたしは何も積んでいない。もらったものを、そのまま使っている。
だから、そこには怒れなかった。
わたしの胸に込み上げた怒りは、苛立ちは──
「──あの人は」
声が出た。自分の声じゃないみたいだった。低く、喉を引っ掻くような感じがした。
「あの人は、魔法を愛してないって、いま言いましたよね」
彼女が、まばたきをした。
「そう申し上げました」
「取り消してください」
演習場が、静かになった。
「わたしのことは、なんとでも言ってください。腰巾着でも、なんでもいいです。全部当たってます。わたしは何も積んでません。もらっただけです」
息が、うまく続かなかった。
「でも、あの人の話は、違います」
「……」
「あの人は、削ったんじゃありません。捨てるものを、一つも作らなかったんです。あの人の魔法は、余りが出ないんです。一滴も出ないんです。それは、雑だからじゃなくて」
言葉が、追いつかなかった。
「……ちゃんと最後まで、手放していないからです」
風が、演習場を通った。
「捧げてないんじゃなくて、捨ててないんです。捧げるのと、捨てないのと、どっちが愛してないんですか」
アデライド・フォン・エーレンベルクは、しばらく黙っていた。
それから、わたしの言葉が堪えていないかのように言った。
「あなた、ご自分のことでは怒らないのね」
わたしのことは、本当に事実ばかりだった。酷いことを言われているのだとは思うけれど、反論は思いつかない。
「わたくしは、あなたを腰巾着と申しました。あなたはそれを認めた。そして、あの方の話になった途端に、そこまで喋る」
彼女は、襟を直した。
「──よろしい。取り消しはいたしません」
「……」
「取り消すべきかどうかは、わたくしが自分で見て決めます。人に言われて意見を変える者に、価値はありませんので」
彼女は背を向けた。
「大会がございます。学年混合の。お出になる?」
「……出ます」
「そう」
振り返らずに、彼女は言った。
「では、そのときに」
その日の夕方、旧演習場で、わたしは何も言わなかった。
言えば、この人はたぶん、わたしのことを心配する。心配して、そして、もしかすると距離を取る。
わたしが庇ったせいでこの人が遠ざかるなんて、そんな馬鹿な話はない。
「……ケルトさん」
「はい」
「今日、何かあった?」
わたしは顔を上げた。三度目の質問だった。
「……ありません」
嘘をついた。
あの人は、しばらくわたしを見ていた。それから、的のほうを向いた。
わたしの流れは、たぶん、めちゃくちゃに濁っていたと思う。でも、この人にはそれが読めない。その事実に安堵する。
読めないのにわざわざ訊いてきたということは、誰かがアッシュ先輩の耳に入れたか、それともわたしの表情があまりにもわかりやすいかだ。
あなたの腰巾着だと言われましたと言えば、この人は、たぶんわたしに謝る。謝ってから、距離を取ろうとする。距離を取ることが、この人の考える優しさだから。
だから言わない。言えない。
言わないでいると、この人は代わりに指導を延ばす。
その日の指導は、またすこしだけ長かった。
図書室の三階には上がったことがなかった。
その日、普段利用しない三階へ上がったのは、いわば気まぐれだった。
寮に帰れば、ゾフィさんがいる。あの人はわたしの顔を見たら、たぶん全部当てる。もしかすると、既に噂は広まっているかもしれない。
旧演習場には行けない。もしかするとあの人がいる。
だから図書室に来た。二階に人がいたので三階まで上がった。
夕方の指導までは、まだ間があった。
上がった瞬間、空気が静かになった。
音の話ではない。二階の物音は、ここまで聞こえてくる。人や動きの話だ。
人がいないと、流れもない。下から響いてくる音は、床や本棚に吸収されて薄れる。
学園はどこへ行っても誰かの色が薄く混ざっていて、ざわざわして見える。食堂も、講義棟も、廊下も。ここだけが、何も見えなかった。
わたしは、その中でやっと息をした。
──あなたが跳ねたのは、あなたが何かを積んだからではありません。上手に人を選んだからです。
昨日言われたことが、まだ耳の内側で鳴っていた。
そんなことを考えているうち、わたしはとある場所へ視線を吸い寄せられた。
いちばん奥の、窓際の机だった。
本が三冊積んであって、その手前に、あの人が腕を組んで突っ伏していた。
銀灰色が、机の上に広がっていた。束ねたところが緩んで、半分ほどけている。
わたしは、通路の入口で止まった。意図しない遭遇に、少しだけこころが揺れた。
起こしてはいけない、と思った。
それから、逃げなければと思った。
どちらも足が動かなかった。
魔力の流れを見た。
癖だ。この人の前に立ったら、まず流れを見る。自然と魔力の流れを追っている。半年以上ずっとそうしてきた。
ただ、今は見えるものがなかった。
動きがほとんどなかった。ゆっくりで、平らで、読むところがひとつもなかった。……眠っている?
わたしは逃避さえも手につかなくなって、立ち尽くした。
視線が、アッシュ先輩の顔に吸い込まれた。
わたしはこの人の魔力なら、目をつぶっても描ける。
どこが跳ねて、どこが張って、どの速さで流れて、断るときにどこが揺れるか。紙に描けと言われたら、たぶん描ける。
顔は、描けないかもしれない。
半年以上、わたしはこの人を毎日見てきた。
見ていたのは顔ではなかった。唯一語る、魔力だ。今は、魔力が見えない。
目の下に、隈があった。
噂で聞いたとおりだった。でも、噂で聞いたのより、ずっと薄かった。もっと不健康なものを想像していた。
睫毛が長かった。頬に、影が落ちていた。
頬に小さい傷跡があった。古い傷だ。子どものときのだと思う。
この学園の四千人が、たぶん、この傷を知らない。
口が、少し開いていた。
喋らない人が、寝ているあいだだけ、口を開けている。
わたしは、そこで、息を止めていた。
止めていたことに、苦しくなってから気がついた。
心臓が、鳴っていた。鼓動の一回ずつが、耳の奥まで届いた。
顔が熱かった。三階は寒いのに。
わたしは、通路の柱に手をついた。ついてから、それが音を立てないように、ゆっくり体重を移した。
何が起きているのか、分からなかった。
分からないので、いつもどおりに処理した。
──きれいだから。
あの人の魔法がきれいだから、わたしはこうなる。渡り廊下の日と同じだ。あのときも息が止まった。あのときも動けなかった。
同じだ。
同じだと、思うことにした。
いま、この人は、魔法をひとつも使っていない。
それには、気づかないことにした。
どれくらい立っていたのか、分からない。
窓の光の角度が変わっていたので、たぶん一刻以上。
アッシュ先輩が身動ぎした。
わたしは、反射で視線を落とした。
顔から、顔の少し内側へ。
半年以上やってきた動きだったので、体が勝手にやった。
「……」
あの人が顔を上げた。髪が半分ほどけたまま、こっちを見た。
流れが戻ってきていた。
起きた瞬間にいつもの澄んだ形に戻って、それから、少しだけ張った。
「……ケルトさん」
「あの」
「……」
「すみません、通りかかっただけで」
嘘だった。でも、起きたばかりのあの人に判断するすべはない。
「……そう」
あの人は、髪を結び直した。
いつも通りに下手だった。何年も自分で結んでいるはずなのに、下手だった。右から巻いて、最後に一回捻る。捻り方が甘いから、夕方には緩む。
わたしは、それを見ていた。
見ていて、また息が止まりかけた。
「またあとで」
「はい」
あの人は、本を三冊持って立ち上がった。
通路を通るときわたしの横を過ぎた。
わたしは、振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、顔を見てしまう。
階段を降りる音が遠くなってから、わたしは、その机まで歩いた。
誰もいない椅子があった。
机の木目に、腕の形の跡が、まだ薄く残っていた。
わたしは、そこに手を置いた。
しばらく、その手をどけられなかった。
いちど寮に帰る道で、アデライドさんに言われたことを思い出そうとした。
咄嗟に思い出せなかった。
昼にあれだけ刺さったものが、夕方には、もうどこかへ行っていた。
かわりに残っていたのは、頬の小さい傷跡だった。
わたしは、それを誰にも言わないことにした。
言うと、噂が増える。
……ううん。
違う。
言いたくなかっただけだ。
すみません、次回更新はしばらくあとになるかもしれません。
向いてない書き方をして失敗しているモチベ問題と、単に別のタスクの競合の問題です。ご容赦ください。
プロットは自信あるんだけどなぁ……なんならリメイク……いやそれはエタの予兆すぎる……