東棟の食堂は、西棟より混んでいる。
献立が同じでも、東のほうが芋が大きいという話があって、みんなそれを信じている。かく言うわたしも西の寮なのに、東まで歩いて食べに来ているので、混雑に不満を言うことはできない。
夕食の席で、知らない子が正面に座った。
王立クロイツェン魔法学園に入学して半年。顔は見たことがあっても、名前まで知らない子は沢山いる。
「あなた、今日、銀髪の上級生のこと訊いて回ってた子でしょ」
「え」
「三人に訊いたよね。図書棟の入口と、中庭と、東の階段のとこ」
「……なんで知ってるんですか」
「あたし、ゾフィ・メレル。同じ一年。よろしく」
差し出された手を、なんとなく握った。
握ってから、質問の答えになっていないことに気がついた。
「で、なんで探してんの」
ゾフィさんはパンをちぎりながら、目だけこっちを見ている。
目がよく動く人だな、と思った。たぶん、わたしより動く。最初に受けた印象の通り、人と距離を詰めるのが上手そうだ。そのための観察眼だろう。
流れも、そうだった。
薄い赤茶の短い線が、そこらじゅうへ跳ねては消える。渓流のせせらぎのように、飛沫があちこちに飛び散っている。留まる気配はない。
わたしの目に、人の魔力は色に見える。人によって色が違う。それを言うと変な顔をされるので、言わない。
この人の色は、落ち着きがなくて、悪くなかった。
「あの、その人の名前も知らなくて」
「セラ・アッシュ」
即答だった。
「四年、上級課程の特待生。実家は南のほうの鉱山町。姓が短いから平民か、下の下のほうの貴族。銀灰色の長い髪をいっつも適当に束ねてる。背が高い。目の下に隈。制服の袖が擦り切れてるのに直してない」
わたしはスープを持ち上げたまま、止まっていた。
ここまで手に入らなかった情報が、滝のように流れ落ちてくる。
「成績は上のほうだけど首席じゃない。筆記は必要な点しか取らないらしいよ。実技は……まあ、測れないって言われてる」
「測れない?」
「上限を見たやつがいないの。誰も本気を出させたことがないから。ただ強いのは確実。四年の上のほうでも誰も勝負を挑まない。噂通りなら、六年も」
早口だった。ものすごく早口だった。息を吸う場所が普通の人と違うところにある。私の三倍の文量を一呼吸に吐き出している。
「二つ名があってさ」
スプーンの先が、こっちを向いた。
「──無音の雷」
その言葉を聞いたのは二度目だった。
ゾフィさんは、そこから止まらなかった。
詠唱をしない。誰も詠唱を聞いたことがない。
魔法を使っても音がしない。光も出ない。
入学した年に上級生を三人まとめて黙らせた。
目を合わせると凍る。話しかけると三日は口をきいてもらえない。
笑ったところを見た人が、学園に一人もいない。
「あと、弟子を取らない」
予想外のところから飛んできた言葉に、思わず口を挟んだ。
「……弟子?」
「知らない?四年からは下の学年の弟子を取れるの。制度としてはさ、上の子が下の子の面倒を見なさいって話で、別に強制じゃないんだけど」
ゾフィさんはフォークを立てた。緑豆が先端に突き刺さる。
あんなに話していたのに、ゾフィさんのスープはもうなくなりかけていた。
「特待の審査で点になるんだよ。だからみんな取りたがる。上級生に魔法を教えて貰えるなら、取ってもらいたい下級生のほうも多いし。なのに、あの人だけ空欄。四年になった今年、志願者ゼロ」
「なんでですか」
「志願する人がいないから」
言い方が、あんまり軽かった。だから一瞬、ゾフィさんが冗談を言ったのかと思った。
「そりゃそうだよ。だって怖いもん」
わたしは、その言葉をもう一度飲み込んだ。今日、二回目だ。
こわ、と誰かが言った。あの人が背を向けた後で。
目を合わせると凍る、と、いま言われた。
でも、あの夕方、先に目を逸らしたのは、わたしじゃなかった。あの人のほうだった。
話しかけると三日は口をきいてもらえない、と、いま言われた。
でも、口がきけなかったのはわたしのほうだ。あの人はちゃんとこっちを見て、わたしが何も言わないから、歩いていっただけだった。
全部、ちょっとずつ、ずれている。
「……ゾフィさんは、その話、信じてるんですか」
ゾフィさんはスープに浸したパンを口に入れて、少し考えるみたいな顔をして、それから言った。
「あたし、噂は集めるけど、べつに信じてはないよ」
「え」
「集めてると分かるの。同じ話が三日で三回変わるから。あたしが持ってるのは、そういうものの山」
あっさりしていた。あんまりあっさりしていたので、この人はたぶん頭がいいんだな、と思った。
「だから一次情報が好きなの。実際に見た人の話」
目が、また動いた。今度は、はっきり目があった。ゾフィさんは、わたしの奥を覗き込んでいた。
「で、あなた、何を見たの」
わたしは、今日の昼のことを話した。
白い糸が絡まって膨らんでいったこと。あの人が円の中に入ったこと。左手が上がったこと。
絡まっていたものが順番にほどけて、揃って、束ねられて、空へ抜けていったこと。
音がしなかったこと。
光が、一滴もこぼれなかったこと。
話しているうちに、自分の声が少し変になっているのが分かった。
「……きれいでした」
ゾフィさんは、パンを持ったまま止まっていた。
「きれい」
「はい」
「顔が?」
「魔法が」
三秒くらい、間があった。
「……あー。うん。そっか。そういうのも、あるか」
分かってもらえていないのが、はっきり分かった。
それから、もうひとつ、分かったことがあった。
「顔が?」と訊かれて、わたしは考えなかった。
考えないで、「魔法が」と答えた。
答えてから、少しして、気がついた。
わたしは、あの人の顔を、はっきりとは思い出せない。
銀灰色の髪は思い出せる。背の高さも、袖の擦り切れも、歩き方も、通り過ぎるときの流れの形も、全部思い出せる。
顔だけが、白い。
二十歩の距離で、目が合ったのに。
……見ていなかったのだと思う。流れを見るのに、忙しかったから。
そういうことにして、わたしはスープを飲んだ。
でも、それは仕方がないと思った。あれは下から見ても分からない。結果しか見えないから。
あの数秒を見たのは、たぶん、学園中でわたしだけだ。
落ちこぼれで、魔力が下から二番目で、先生に「魔力の流れは感じるものではなく操るものです」と言われて黙るしかなかったわたしが。
生まれて初めて、何かを、ちゃんと見た。
「ねえ」
ゾフィさんが身を乗り出してきた。
「その話、他の子にした?」
「してないです」
「しないほうがいいよ。絶対に曲がるから」
まっすぐな忠告だった。
この人と友達になれるかもしれない、と少し思った。そう思ってから、なんだか上から目線だったかなと思い直す。ゾフィさんには友達が多そうだ。一方で、わたしには少ない。
「あ、そうだ。弟子の締切、今期末だって。掲示に出てた。空欄のまま出すと審査に響くとかで、四年は今ごろみんな必死だと思う」
今期末。
わたしは、スプーンを置いた。
「……ゾフィさん」
「うん?」
「あの人、いつも北のほうから帰るって、聞きました?」
ゾフィさんは、少しだけ目を細めた。情報を渡すべきかどうか、値踏みしているようだった。ただ、その時点でもう、わたしの問いには一定の裏付けが取れてしまっている。
「……北の旧演習場。使われてないとこ。人がいないから通ってるらしい」
「ありがとうございます」
わたしは立ち上がった。
「え、待って。何する気」
「わたし、弟子にしてもらいます」
ゾフィさんが、スプーンを落とした。
落ちたスプーンが、皿の縁に当たって、高い音を立てた。
近くの卓の何人かが、こっちを見た。
ゾフィさんは、それを気にしなかった。わたしを見上げたまま、口を半分開けて、それから、言った。
「……あんた、今日会ったばっかりだよね」
「はい」
「名前も、今日知ったんだよね」
「はい」
ゾフィさんは、スプーンを拾った。拾って、汚れを拭って、しばらく持っていた。
「あたし、噂は集めるけど信じないって言ったじゃん」
「はい」
「いま、初めて、信じてもいいかもって思った」
「え」
「あんたのこと」
ゾフィさんは、スプーンを皿に戻した。
「行ってきな。断られたら、慰めるから」
断られる前提だった。
酷い応援だ。でもなんだか、少し心地よかった。