放課後、三日待った。
待っているあいだ、何を言うべきかずっと考えていた。
あの、この間の、すごくきれいでした。あれはどうやって組んでいるんですか。
口の中で、三十回くらい繰り返した。
繰り返すたびに順番が変わって、変わるたびに、どれがいちばん失礼じゃないかを考え直した。
三十回も練習することかな、と、途中で思った。やればやるだけ思考が煮詰まって、意味がないような気がした。授業の復習をやっていた方がマシだ。
それでもやめなかった。
一日目は来なかった。二日目も来なかった。
北の旧演習場は本当に誰も通らなくて、折れた結界柱と伸びた草と、風の音しかない。
二日目の夜、ゾフィさんに「毎日来てるらしいって聞いたのに」と言ったら、「毎日じゃないって。人がいたら別の道を使うんだって」と返ってきた。
だからわたしは、三日目、草の中に立った。
道の真ん中じゃなくて、端。柱の影。見えるけど、塞いでいない場所。
それが正解だったのかどうかは、いまでも分からない。
ただ、三日目に、あの人は来た。
書類を一枚、丸めずに持っていた。
目が合った。
息を吸った。今度は、ちゃんと吸えた。
「あの」
声が出た。それだけで、心臓がおかしなことになった。
あの人は立ち止まっていた。逃げなかった。というより、逃げようとした形の途中で止まったように見えた。
「一年の、ニーナ・ケルトといいます」
名乗った。名乗るのが先だと、昨日の夜、練習した通りに。
「弟子にしてください」
言った。
ついに言ってしまった。
風が建物の間を吹き抜ける。あの人はしばらく何も言わなかった。夕方の光が斜めから当たっていて、銀灰色の髪の端だけが、金色みたいに見えた。
「……取らない」
小さな拒絶だけが零れ落ちた。
短くて、静かで、たぶん、怒ってはいなかった。
「どうしてですか」
沈黙。答えはなかった。
「あの、わたし、成績はよくないんです。魔力量も、学年で下から二番目で。だから、その」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。だめな理由を自分から並べている。逆だ。
「だから、あの、魔法の使い方が下手なんじゃなくて、そもそも量が足りなくて、それで」
あの人が、口を開いた。
開いて──何か言いかけて、閉じた。
言葉の形はしていなかった。息の音だけだった。
でも、たしかに、何かを言いかけた。
それが何だったのかを、わたしが知るのは、ずっと後になる。
「……取らない」
二度目だった。
一度目とまったく同じ音だった。
「あの日、見ました」
ひとつ、ふたつ、みっつ。深呼吸をしてから。
あらためてわたしは口を開いた。
「第三実技棟の前で、暴発があった日です。わたし、渡り廊下から見てました」
あの人の目が、こっちを向いた。
「みんな、結果しか見てなかったんです。白い光の流れがあって、消えた、って。でも、あいだに数秒ありました」
「……」
「絡まってたのが、ほどけて。揃って。束ねられて。上に抜けていきました。押さえつけたんじゃなくて、ほどいたんですよね」
風が止まった。
止まったように、感じただけかもしれない。
「音がしませんでした。光も、こぼれませんでした。一滴も」
言おうと思って、三日ぶん練習した言葉が、あった。
「世界で一番きれいだと思いました」
あの人は、何も言わなかった。
顔も、変わらなかった。目も逸らさなかった。まっすぐこっちを見たままだった。表情というものが、そこにはほとんどなかった。
だから、たぶん、誰が見てもこう思う。
この人には、何も届いていない。
「……取らない」
三度目だった。
そして、あの人は背を向けた。
その瞬間だった。
流れが、揺れた。
あの日、旧演習場で通り過ぎられたとき、わたしはこの人の魔力を見た。
まっすぐで、静かで、乱れひとつなかった。器から一滴もこぼさずに水を運ぶみたいに。だから、わたしのことなんて何とも思っていないんだと思った。
それが、揺れた。
表情や声では分からない。
背中を向けて、二歩目を踏み出したところで、あの澄んだ流れの底のほうが、水面を撫でられたみたいに、ふるっと震えた。
一秒もなかった。すぐに戻った。
何が起きているのかは、分からない。
なぜなのかも、分からない。わたしに読めるのはそこまでだ。何かが起きた、という事実だけ。
でも、ひとつだけ、はっきり分かることがある。
顔で断って、声で断って、三回同じ言葉で断って、それでも、断ったあとに流れが乱れる人は。
わたしを、嫌ってはいない。
嫌われているのなら、拒絶のときに揺らぐ。人と話すのが嫌なら、話しかけたときに揺らぐ。断ったあとに揺らぐのは、それが後ろめたいと思っているからだ。
もちろん、これは経験則に基づく推測に過ぎないけれど。
魔力の流れを意識している人はほとんどいない。それが感情に連動していることを知っている人も、これまではいなかった。だから、感情を隠すのに魔力を鎮めるという発想がない。魔力は素直に感情を表現する。
背中が遠ざかっていく。草が膝に当たる音がする。
わたしは、そこに立ったまま、その背中を見ていた。
日が落ちきるまで、そこにいた。
いたのは、帰る理由がなかったからだ。
寮に帰れば夕食で、夕食が終われば復習で、復習が終われば消灯だ。全部、待っていてくれる。急ぐ必要がない。
折れた結界柱が、二本。上のほうが斜めに割れていて、割れ口が風化している。折れてから何年経っているのかは分からない。誰も直しに来ないということだけが、事実として横たわっている。
忘れられた道を、あの人は毎日通っている。
嫌われてはいない。
わたしには、それが分かってしまった。
──だから、諦める理由にはならなかった。