翌日、あの子は旧演習場に立っていた。
ほとんど使われていない空き地だ。かろうじて整備はされているが、授業で訪れる機会もほとんどない。だから、なにか用事がなければあそこに誰かがいることは有り得ない。たとえば、誰かを待っているとか。
俺は南回りに変えた。遠回りの、さらに遠回りになる。門を出るまでに十五分余計にかかる。
その次の日は、講義棟の出口にいた。俺は反対側の階段を降りた。
その次の日は、両方にいた。
どちらにも行かなかった。渡り廊下を三本渡って、工房棟の裏から出た。工房棟の裏に出口があることを、俺はその日初めて知った。
四日目、食堂にいた。
入口から見て、三列目の端。俺の通る動線の上ではない。塞いでもいない。見えるが邪魔にならない位置。
毎回そうだった。あの子は必ず、避けようと思えば避けられる場所に立つ。
それが一番、たちが悪い。
塞がれていたら押しのけて通ればいい。追いかけられたら走ればいい。
避けられる場所に立たれると、避けたのは俺の判断になる。
俺は皿を持ったまま、外に出た。
「あれ、逃げてんの?」
五日目の講義で、ドリーが隣に座るなり言った。
「……別に」
「一年の子でしょ。栗色の。ずっと同じ子だよね」
「……」
「三日前、あんたが工房棟の裏から出てくの見たよ。あそこ出口あったんだ」
見られていた。
ドリーに見られているということは、他の生徒にも見られているということだ。大きな不都合はないが、むず痒い。
「弟子にしてくれって言われた?」
「……」
「ふぅん。言われたんだ」
俺は何も言っていない。だがドリーは、俺が何も言わないことから、正確に情報を取る。三年半ずっとそれをやられている。嘘をつくのに言葉を重ねない俺の沈黙は、肯定として処理される。
「断ったんでしょ」
「……取らないから」
「うん、知ってる。ずーっと言ってるもんね」
ドリーは頬杖をついて、それきり黙った。
この女はここで止まる。
なぜ取らないのか、とは訊かない。もったいないとも、あの子がかわいそうだとも言わない。三年半、一度も言ったことがない。
訊かれたら、俺はたぶん逃げる。逃げれば、隣の席は空く。
空かなかったのは、この女が訊かなかったからだ。
そこに彼女なりの配慮があったのかどうか、俺には判断しかねる。
「寒いね、今日」
「……そうですか」
「敬語やめてよ、同い年」
「……そう」
どうでもいい話をして、返事がなくても気にしない。
黒板の板書を写す音が、隣で続いている。
大きな問題は、あの子の魔力量だった。
初日に見てしまった。
志願してきたとき、正面に立たれたせいで嫌でも分かってしまった。
少なすぎる。あの量では、正統派の術式は組めない。詠唱を最後まで通す前に空になる。実技の点が伸びるはずがない。この学園にいるのが不思議なくらいだ。魔法を打てて一発か二発。上級以上は発動さえ望めないかもしれない。
そして、それを見た瞬間に、俺の頭は勝手に計算を始めていた。
余剰消費をゼロにすれば、術式一つあたりの消費は理論上約七割減る。詠唱を省けば、維持にかかるぶんがさらに落ちる。
つまり──魔力量が少ない者ほど、俺の式の恩恵は大きい。
あの量なら、伸びる。
伸びるどころではない。あの子は、俺の体系にとって、最も条件のいい器だ。
俺は板書を写す手を止めた。
そこまで考えてしまったことが、もう手遅れだった。
あの子に教えたいと思っている。それが一番、まずい。
……いや。
これは技術的な観察だ。目の前に条件の合う素材があれば効率を計算する。それだけの癖だ。誰でも同じことを考える。
──いや。
嘘だ。
誰でもは考えたりしない。たぶん。
「あんたさ」
ドリーの声で、手が動いた。
「なんか、ずっと同じとこ書いてるよ」
俺のノートには、同じ一行が三回書いてあった。
その週の終わりに、ハーゲン先生から呼び出しの札が来た。
執務室に行くと、先生は書類を見もせずに言った。
「締切、明後日」
「……はい」
「志願者は」
「……いません」
嘘はついていない。
志願は断った。断った以上、志願者は存在しない。書類上はそうなる。
先生はしばらく俺を見ていた。それから、羽根ペンの尻を齧った。
「そう」
それだけだった。
この人も踏み込まない。踏み込まない理由が、ドリーとは違う。
帰り道は南回りにした。
南回りは、実技棟の南側から中庭の外を回って、寮の裏へ抜ける。人は多いが、その多さの中では、俺は一人ぶんの塊としてしか見られない。北の道は誰もいないぶん、いれば必ず見つかる。
六日で、俺はこの学園の道の使い方を組み替えた。
朝は東の階段。昼は食堂の入口を三列目側から。午後は講義棟の裏。夕方は南回り。
三年半かけて作った動線を、たった一人のために、六日で全部引き直した。
引き直しながら、思っていたことがある。
三年半前、俺はこの動線を、大勢から逃げるために作った。
いま使っているのは、一人から逃げるためだ。
効率が悪い。
門まで十五分余計にかかる道を歩きながら、俺は北のほうを見なかった。
見なくても、いるのは分かっていた。
締切の前日、雪が降った。
この土地の雪は湿っていて、ほとんど積もらない。降りながら溶けて石畳を黒く染め、風を刺すように冷たくする。傘を差す学生と差さない学生が半々で、俺は差さない側だった。
ハーゲン先生の執務室を出たのは、日の落ちかけた頃だった。
書類はまだ空欄のままだ。
「明日の夕刻まで受け付けます」
先生はそれ以上何も言わなかった。使えるものは使いなさいとも、志願者に会いなさいとも、もう言わなかった。
言っても無駄だと判断されたのだと思う。妥当な判断だった。
南回りの門は、この時間には閉まる。
だから北を通った。それだけの理由だった。
草が雪で倒れている。
折れた結界柱の影に、あの子が立っていた。
鞄を胸に抱えている。肩に雪が積もりかけていて、指が赤くなっていた。手袋をしていない。忘れたわけじゃないだろう。俺の家にもなかった。
あれから七日目だった。
当たり前のように目が合った。
「あの」
その子は、口を開いて、それから閉じた。
三日目に言ったことを、もう一度言おうとして、やめたのだと思う。同じことを言っても同じ返事が返ることを、六日かけて学習したのだろう。
賢い。あるいは、賢しい。あの魔力量でこの学園にいる時点で、それは担保されているのだったか。
俺は立ち止まった。止まる必要はないはずだった。
六日間、俺は止まらずに通り過ぎてきた。通り過ぎるのは簡単だ。歩幅を変えずに、視線を落として、四歩で横を抜ける。そのあいだ息を止めれば、声も出ない。
その日、四歩目で足が止まった。
理由はたぶん、雪だ。
この子は手袋をしていない。寒さに指が赤く染まっていた。
鞄を胸に抱えているのは、そうすると少し暖かいからだ。俺も昔やっていたからよくわかる。
このままだと、風邪をひく。勉強にも遅れる。この世界の風邪はときに致命的だ。医療も未発達なこの土地では、風邪ひとつが簡単に命を奪う。そうでなくともあとに引きずるかもしれない。
雪が髪に落ちて溶けている。束ねた先が濡れて重い。切ればいいのだが、切りに行くのも面倒で、二年ほどこのままになっている。
言うべきことは決まっていた。弟子は取らない。
四度言えば、さすがに来ないだろう。
この子は明日から来なくなる。旧演習場は元通り誰も通らない場所になる。書類は空欄で出て、審査には響くが、特待はたぶん今年も通る。
全部、予測できていた。予測できていて、望ましいはずだった。
口を開いた。
「……名前」
聞こえてきたのはたしかに自分の声だった。ただ、予想していた音とはまるで違った。
三年半、誰にも個人的な質問をしなかった。
答えはする。答えるだけならこちらの領分で済む。訊くというのは、相手の中に何かを取りに行くことだ。取りに行けば貸し借りが生まれる。生まれた貸し借りは、いつか近づく理由になる。
だから訊かなかった。
三年半、一度もだ。
だと言うのに口をついて出たのは、目の前の一年生の名前を問う音だった。衝動が理性よりも先に立っている。それを自覚しつつも、咎めるべき理性が俺の口を縫い付けるより先に、彼女が口を開く。
「ニーナ・ケルトです」
その子は、鞄を落としそうになりながら答えた。信じられないような顔をして私を見る。
「一年の、ニーナ・ケルトです」
「……そう」
頷いてから、頷いたことに遅れて気づいた。馬鹿みたいだ。結局、感情が先に立つ。
「……明日、執務室に来て。夕刻より前に」
言ってしまった。
命令の形にはしなかった。しなかったが、意味は同じだった。俺は自分の言葉が、こんなに簡単に出てくるものだと知らなかった。
その子は、動かなかった。
三秒くらい、雪の中に立っていた。
それから、
「はい」
と言った。
声が、ひっくり返っていた。
背を向けて歩いた。
書類は明日出せばいい。空欄に一行書き足すだけだ。特待は今年も通る。今回は危なげなく。
そういう話にしておくべきだった。
歩く速度が落ちていた。
肋骨の内側のあたりが、妙に熱を持っている。指先にはもう感覚がないのに、そこだけ温度がある。
嬉しい、と思った。
──いや。
寒いだけだ。
雪が濡れた石畳に落ちて、音もなく消えていく。
北の空は、もう暗かった。