『……明日、執務室に来て。夕刻より前に』
そう言われた直後、わたしは何度か脳内でその言葉を繰り返した。夢か現か、すぐには判断がつかなかった。そのせいで返事はひどく裏返った。
三日目に目が合ってから、四日も待ち伏せ続けた。
その間に、あの人を翻意させるような出来事があっただろうか。思い返してみても心当たりはなかった。わたしがしつこく付き纏ったから根負けしてくれた、という以上の答えは探せない。
むしろ、嫌われるか怒られる覚悟までしていたのに。
弟子にしてください、と言う前に許された。……うん、これでまったく師弟制度の話ではなかった、ということはないはずだけど、少し不安になる。
名前を問われた。明日来てと言われた。……許された。
その事実を、雪に振られるまま噛み締めていた。
寮のお風呂に入って、寝る段階になってもまったく寝付けなかった。
翌日、北の旧演習場に呼ばれた。
雪が溶けて、草が倒れたまま濡れている。折れた結界柱に、あの人が背を預けて立っていた。わたしが息を切らして走ってくるのを、黙って見ていた。
「あの、遅れました」
「集合時間は言ってない」
たしかに、正確な時間は指定されていなかった。授業が終わってすぐ早足でここに来たのに、待たせてしまったことは不覚だった。
わたしは鞄を置いて、杖を出した。
「あの、それで、わたし、何をすれば」
「……見て」
あの人が、左手を上げた。杖さえ持たず、誰かを呼ぶときのような気負いのなさで。
空気の中に、魔力の線が引かれた。
何もない場所に、細い流れが一本、まっすぐ伸びる。教本に載っている図とは、まったく形が違っていた。
教本の術式はどれも輪になっている。円を描いて、閉じて、力を溜めて、放つ。それが正しいのだと習ってきたし、疑いさえしてこなかった。
だというのにこれは、輪になっていない。
最初から、行き先に向かって伸びている。
「……詠唱、してませんよね」
「いらない」
「え」
「詠唱は、順番を間違えないための道具。順番を間違えないなら、いらない」
しつけ糸だ、と思った。
本縫いの前に、粗く留めておく糸。順番が狂わないための糸で、縫い上がったら抜いてしまう。
この人は、しつけをかけないで縫っている。
……たぶん、そういうことだと思う。自信はないけれど。
線の先端が、二十歩ほど先の的に触れた。
乾いた音がひとつして、的が焦げる。それで終わりだった。
風も起きない。まぶしくもない。においもしない。
「……これ」
「落差を作って、指向を与えて、減衰しないように束ねる。それだけ」
それだけ、と言われた。
わたしは的を見て、それから、あの人の手を見た。
まだ何も残っていなかった。空気の中に、余りが一滴もなかった。
近くで見ると、もっとよく分かった。
撃つ前と、撃った後で、流れの太さが変わっていない。
わたしが線を一本引くと、その一本ぶん、目に見えて痩せる。魔力が貧困なわたしは、ただの下級魔法ですら息切れする。当たり前だけれど、この人は痩せない。
底が、どこにあるのか見えなかった。わたしとは桁が違う魔力の量に、今更尻込みする。
だからわたしは、言わなければいけない。
「あの。先に、言っておきます」
あの人がこっちを向いた。
「わたし、魔力量が学年で下から二番目です。実質、いちばん下です。上の子の四分の一もありません」
言いながら、指が冷たくなっていくのが分かった。
「先生に何度も言われました。量が足りない人は、術式を覚えても意味がないって。器が小さいんだから、注げる量が決まってるって。だから、その」
だから、教える価値がありません。今からでも断ってもらって──
そう続けるつもりだった。三日目にも同じことを言いかけて、途中で分からなくなった言葉だ。
けれど、代わりにあの人が口を開いた。
「関係ない」
わたしは顔を上げた。
「むしろ、そっちの方が都合がいい」
「……都合が、いい」
「普通の術式は、力を七割捨ててる」
あの人は的のほうを見たまま言った。
出てきた言葉の意味を理解しないまま、訥々と零れる言葉に耳を傾ける。
「輪を作る過程で漏れる。詠唱を維持するあいだに漏れる。放つときに、光と音と熱で漏れる。使った力のうち、実際に的まで届くのは三割くらい」
「……七割」
「魔力が足りているなら、節約は必要ない。だから覚えない」
的の紐が風で鳴り、あの人がこちらへ振り返った。
「捨てるぶんがない人だけが、捨てない組み方を覚える必要に迫られる」
わたしは、目を合わせなかった。
合わせられなかった、のほうが正しい。顔のほうへ行きかけた視線が、途中で止まって、その少し内側へ落ちた。流れの見えるところへ。
「量が少ないのは、大した欠点じゃない。この体系にとっては、むしろ都合の良い前提条件」
わたしは、しばらく何も言えなかった。
入学してから、わたしがずっと言われ続けてきたことがある。
仕方ないよ、生まれつきだから。頑張っても限界があるから。だから無理しないでね。
みんな親切だった。親切に、わたしの器の底を指さしていた。
それが、許された。
なんでもないことのように、その方が向いている、と言われた。
「……あの」
「……」
「泣いてないです」
「……そう」
馬鹿みたいな嘘をついた。
その日、わたしは初めて、まともに術式を通して空に線を一本引いた。
手順は、三つだった。
まず、杖を持つ手の指の付け根まで力を寄せる。寄せるだけで、出さない。
次に行き先を決める。たとえば的のどこか一点。
「決めてから、出す」
あの人は言った。
「輪を作る人は、逆をやってる。先に溜めて、後から向ける。溜めているあいだ、力は行き先を知らない。知らない力は、うろうろする。うろうろしたぶんが、熱になる」
三つめが、出す、だった。
輪を作らない。溜めない。最初から行き先に向かって伸ばす。
途中で三回崩れて、四回目で、細い線が五歩ぶんだけ伸びた。的には届かなかった。
届かなかったけれど、指の付け根が細くまっすぐに冷たかった。
いつもは、手のひら全体が熱くなる。あの人の説明を借りるなら、漏れているから熱くなる。
加えて、いつもと違うことがひとつ。
魔力が空になっていなかった。
いつもなら教本の術式を一回組んだだけで、指の先から全身の力が抜けてしゃがみこんでいた。今日は、四回やってまだ立てている。体調もそこまで悪くない。
「……魔力が減ってません」
「減ってる」
「四回やって、少しだけです」
あの人は的のほうを見ていた。横顔だった。
「……そう」
返ってきた言葉は、それだけだった。
でも、わたしには見えていた。
あの人の魔力の流れが、ほんの少しだけ、速くなっていた。
水が坂を下るときみたいに。
帰るとき、今更だと思いながらわたしは訊いた。
「あの、何てお呼びすればいいですか」
あの人は、少し止まった。
「……なんでも」
そう返されるのがいちばん困る、と閉口して、それから思い直した。そう返されて困る質問をしたのは、わたしのほうだった。
アッシュ先輩。セラ先輩。名前だけ。
口の中で組み立ててみて、どれも近すぎる気がした。まだ一日目だ。何も返せていない。
「じゃあ、先生って呼びます」
あの人は身動ぎをして、けれど返事をしなかった。
その日から、わたしはこの人を先生と呼ぶことにした。
「わたし、今日初めて、ちゃんと魔法使いになったような気がします」
わたしが言うと、先生は一度だけ振り返った。わたしの頭のてっぺんからつま先までを見下ろして、また、「そう」とだけ言った。
もう魔力は平坦だった。
立ち去る背中を見送りながら、わたしはもう一度、今日のできごとが夢じゃないことを確かめた。