三本目で、魔法の線が落ちた。
旧演習場。夕方。的は二十歩。
一本目は通った。二本目も通った。三本目が、途中で下へ逸れて、草を焦がして消えた。
あの子は首をかしげて、もう一度組もうとしている。
組み直せば直ると思っている。
原因が分からなければ次も直らない。原因は、彼女の指だ。
俺は、その手を見ていた。
指の関節が赤らんでいる。悴んで、曲げるのに一拍かかっている。
杖を握る力が均等でないから、出口が狭くなって、線の後半が痩せる。
単に。術式や回路の問題でもない。
回路は寒さを知らない。指は知っている。
「……今日は、ここまで」
「え、まだ」
「日が落ちる」
見え透いた嘘だ。日が落ちるまで、まだ半刻はあった。
言ってから、もう少しまともな嘘を探せばよかったと後悔した。
そんな俺の思考とは裏腹に、あの子は素直に杖をしまって、鞄を胸に抱えて頭を下げた。
「先生、また明日」
草を踏む音が遠ざかっていく。
俺は、その背中を見ていた。
言えばよかった。手袋を買え、と。
三語だ。三語で済む。
……しばらく考えて、結論を翻した。
到底、三語では済まない。
あの子の制服は、袖口が繕ってある。同じ色の糸がなかったのだろう、少しだけ濃い糸で、丁寧に止めてある。
新入生、まだ入学して半年と少しの一年生であるというのに、だ。
手袋を買え、と言えば、あの子は買う。買わせることになる。
買えないと言えないから、買う。
俺にはそれが分かる。分かる理由も、誰かに説明する気はない。
俺は鞄を持ち直した。
特待の給付は、月に一度、書類と引き換えに出る。
寮費と食費が先に引かれて、残るのは僅かだ。俺はそのほとんどを紙代とインク代にしている。
書類は折り目がつくと再提出になるので、特に紙は常に余分に持っている。ここまで紙を大事にするのは、前世であれば金欠の美大生くらいのものだろう。今の俺も似たようなものか。
三か月ぶんを数えた。
紙の残り。インクの残り。買い足すのに必要な手持ちと、マージン。集めた書き損じに筆算を書き付けて……足りた。
古びた外套を羽織る。北の門は、日没まで開いている。
恐ろしいことに、必要な行事以外で学園都市に出たのは、入学してから二度目だった。大抵は学内の売店で事足りるし、この外套は数少ない学校行事の帰り際に購入したものだ。
門を出ると、坂が下っている。石畳が途中から砂利に変わって、両側に低い屋根が並ぶ。学生相手の店が多い。紙、蝋燭、古着、それから小間物。
小間物屋の軒先に、籠が三つ出ていた。いちばん手前が、いちばん安い。
生成りの毛糸の、指のある手袋。編み目が粗くて、片方だけ親指の縫い代が余っている。手習いか、内職の産物だと思しい。けれど、実用には耐える。
俺はそれを取った。
店の女が値を言った。言われた額を出した。
「贈り物?」
面倒そうに訊かれた。
俺は、その質問に答える言葉を持っていなかった。
「……いえ」
女は包みもしなかった。安いほうの籠のものは包まない、ということらしい。商売としてはきっと正しい。俺はそれを鞄に入れた。
坂を上って戻るあいだ、実家のことを少し考えた。
アッシュの家がある、グラウフェルトは鉱山町だ。
坑口の外に見物の柵があって、子どもはそこから中を見られた。術師が石を抜くのを、俺は何度も見た。
音も光もすごかった。腹に響いて、土埃が舞って、魔法が抜けたあとしばらく耳が遠くなる。大人たちはそれを見て、すごい、と言った。
俺は、うるさいと思っていた。
石を割るのになぜ耳が遠くなる必要があるのか。割る以外のところに、あれだけの力が行っている。あれは全部、要らないぶんだ。
あの町で、俺はそれをずっと考えていた。
前の人生の言葉が戻ってくるより、たぶん先に。
冬の手袋は、坑道に入る大人だけが持っていた。
翌朝、旧演習場に先に行った。
あの子が鞄を置く石がある。平たくて、乾いていて、いつもそこに置く。
その上に、手袋を置いた。
置いてから、位置を直した。直す必要はなかった。
それから、午前の講義に出た。いつも通りにドリーが隣へ座る。ただし今日は、いつもよりも愉快そうに笑っていた。
「結局根負けしたんだ?」
無視する。鞄を下ろしてノートを広げるのを横目で見ながら、ドリーの口角がなかなか下がらないのをもどかしく思っていた。
「ちょっと噂になってるみたい。ま、そうだよね。あんたが弟子を取るなんて思ってなかったやつが大半だろうし」
俺自身は、そう意外でもない。
自分が抱える欲求のこともあるし、何より、俺は断ることも下手だ。
弟子入りを志願してくる子から逃げ続けるということは、つまり、断るということだ。断るということは、傷つけるということ。
傷付けることを決断するより、問題を先送りにすることを選んだ。そして、欲求に従って逃げた。
その結果が、今も継続されている特待のバッジだった。ドリーは俺の胸元に視線を向け、何も言わずに黒板へ向き直った。
夕方、あの子は手袋を持っていた。
杖を出す前に、両手でそれを持ったまま、こっちを見ていた。
「先生、これ、あの石の上にありました」
「……そう」
「先生のじゃないですか」
俺は的のほうを向いた。
「私のじゃない」
嘘ではなかった。俺のものだったことは、一度もない。
あの子は、しばらく黙っていた。
「……分かりました」
その日、あの子は手袋をしなかった。
落とし物だから、と言った。持ち主が出てくるかもしれないから、と。
三本目の線は、今日も落ちた。
翌日、東の掲示板に貼り紙が出た。
北の旧演習場にて手袋を拾いました 心当たりの方はケルトまで。
丁寧で几帳面な字で書かれている。
掲示板は講義棟へ行く道にある。避けて通る方法は多くない。俺は六日間、朝夕にその紙の前を通った。
名乗り出る者はいなかった。当たり前だ。
六日目の夕方、貼り紙が剥がされていた。
剥がした跡も、糊も残らず、何も無かったかのように。
七日目、あの子は手袋をして立っていた。
「誰も来ませんでした」
「……そう」
「なので、使います」
「……」
「大事に使います」
それきり、その話はしなかった。
その日、あの子は魔法に失敗しなかった。
四本目も、五本目も通った。あの子は自分の指を見て、それから的を見て、また指を見た。
「先生」
「……」
「わたし、今日、上手いです」
「……そう」
俺は、足元を見ていた。
あの子は、たぶん、最初から分かっている。
六日待ったのは、俺が「私のじゃない」と言ったからだ。言った以上、そういうことにしないと、俺が困る。
困らせないために、掲示板に紙を貼った。
俺の嘘に、この子は六日つき合った。
……いや。
考えても仕方がない。
帰り道、俺は自分の手を見た。
指が赤かった。
大丈夫。俺の魔法は真っ直ぐに飛ぶ。