夢を見ている。そう確信するのは、ひかりがひかりとして呼ばれないからだ。
そこにいる母は自分と姉妹のように瓜二つだけれど、ひかりが知っている母ではないし、父と弟はどこにもいない。だから、これは夢なのだ。
クラスの子たちが見る夢とは少し違うみたいだけれど、ひかりにとっての普通の夢は今見ているものでしかない。物心ついたときから、ずっとそうだった。
だから、当たり前のこと。
しかし、少しずつ大きくなっていくにつれて、自分の見ているものが不思議なものだと気づいたひかりは、人前で空想の話を避けるようになった。
眠っている、夢を見ている、とひかりが感じているとき、ひかりは大きなお城にいる。白い石で作られた城は日本のものとは建築様式から違っていて、この風景を知らないはずなのに、どうしてか生まれたときから知っているように懐かしく思うのだ。
ほとんど人のいない回廊を滑るように進んでいく自分の姿は、お気に入りのコットンのパジャマじゃない。
眠る前に丁寧に編んだ三つ編みから、ツインテールの上におだんご結びをした髪型に変わっている。しかも、色まで金色から銀に変わっている。
もちろんこんな風に結んだことは一度もないのに、夢を見ている間はそれらを不思議に思うことすらない。目覚める頃には夢を見たことも曖昧になっている。
それが普通のことなのだと、ひかりは信じている。
複雑な彫刻が施された石造りの扉を押し、ひかりは隙間へ滑り込んだ。部屋の中には、テーブルと椅子があり、自分とそっくりの大人の女の人が立っている。彼女は振り返り、ひかりへ微笑んだ。そして、「ひかり」ではない名前でひかりを呼んだ。
「待っていたわ、セレニティ。今日の授業を始めましょう」
「はい、お母さま」
するりと、流れるような動作でカーテシー。部屋の中にいた子供たちが「遅かったな」「また寝坊?」「セレーナはいつもうっかりね」と、少しからかい混じりに優しく声をかけてくれた。ひかりは──セレニティは笑顔を返し、輪の中に加わる。
神話の挿絵に出てくるようなドレスを纏い、同じ年頃の男の子三人、女の子一人と一緒にお勉強をする。それが、ひかりが毎日見る夢だ。
勉強の内容は多岐に渡る。読んだことのない本、聞いたことのない歌、学校の授業より難しい算数、ダンスや格闘、剣術のレッスン。
四人のお友達と競い合ったり、一緒に課題に取り組んだりして、「お母さま」に抱きしめられたあと、目が覚める。
ベッドでぱちりと目を覚ましたときには、ひかりはただの小学生、月野ひかりだ。
母・育子の作った栄養満点の朝食を食べて、赤いランドセルを背負って学校に行く。学校で勉強をして、給食を食べて、放課後になったら友達と遊んで……家に帰ったら弟の面倒を見て、仕事から帰ってきた父に駆け寄って抱き着く。
夢は起きている間の情報を整理するために見るものだって本に書いてあったのに、どうして私の夢には私の知らないことがたくさん出てくるのかしら。
「ひかり」はときどきそう思うのだが、一生懸命勉強をしている「セレニティ」にはそんなことを考えている暇がない。同じように、ひかりがひかりとして生きているとき、そこにセレニティとしてのはっきりした意識は存在しないのだ。
少しだけ夢から影響を受けていたひかりは、身体を動かすのが好きで、空想することも好む、穏やかな少女へ育つ。
ひとつの身体にふたつの人生。互いにぼんやりと、そこにあることを感じるだけだったそれが少しずつ交差し始めたのは、ひかりが十歳の誕生日を迎えた日だった。
その日、ひかりとセレニティは思い出した。自分が何者なのか。自分がなんだったのか。
なんのために生まれてきたのか。
十歳の誕生日、少しだけひかりの世界は姿を変えた。
あなたのために語ろう。
このレプリカの銀河で。あなたの夢見た、ほんの少しの可能性を。
見よ。逆巻く天を。疾走はしる星を。覆された運命を。
偽典がその髪筋を指に絡めとる日まで。
星は巡る。星は歌う。星は、星は────。
あまねく星は、あなたの天蓋を満たすためにある。
「ひかりー! 星野くん、迎えに来てるわよー!」
「はあい!」
一階から声をかけられて、ひかりは大きな声で返事をした。
今日の服はもう選んであるし、髪はいつも通り三つ編みのおさげを二本。丸い目覚まし時計は七時二十分を指したところ。八時半までに学校に着けば余裕で間に合う。
迎えに来た少年は朝ご飯を済ませてきたのだろうか? 今日もうちで食べていくのかな、と思いながら、ひかりはぱたぱたと階段を駆け下りる。
あの夜から約一年。ひかりは十一歳の六年生になっていた。窓の外にはうららかな春の日差しが差し込み、柔らかい風が木々の梢を揺らしている。
最高学年になろうとも、そう簡単に人の意識は変わらない。ひかりは毎日楽しく学校へ行き、友達と勉強をしていた。変わったことがあったとするなら、新学期が始まる前の春休み期間に新しいご近所さんができたことくらい。
リビングのドアを開けて、「おはよう」と声をかけると、彼は艶やかな黒髪を朝日に輝かせて快活に笑った。
「おはよ! なあなあ、算数の宿題やったか?」
「とーぜん。……あ、写すのはダメよ」
「えーっ」
母が用意してくれた朝食のプレートを前に、先に食べはしないでお行儀よく待っていた彼、星野光は不服そうに声を上げた。
やっぱりな、とひかりはほんのり冷たい目で星野を見つめる。彼は分数の計算以来算数につまづいている。わざわざ宿題をやったか聞いてくるときは、だいたい答えを写させて! の前振りなのだ。
朝っぱらからバチバチ火花を散らしている二人だが、ひかりの母からしたらかわいいもので、彼女は「あらあら」と困ったような声を出しながらにこにこと二人を見守っている。
育子の中で、星野たち三人は生まれたときから知っているひかりの幼馴染みだ。おっとりしていて大人びた娘が、年相応の姿を見せてくれるのは嬉しいもの。
そうでなくても、偶然同じ名前を持つ三人の男の子は親戚のこどもみたいにかわいらしい。病弱な彼らの保護者に代わって、娘を迎えに来た彼らに朝食を振る舞うのも慣れたものだ。もともとが四人家族、一人増えるくらいどうってことない……。
──そういうことになっていた。
実際のところ、星野たち四人がひかりたち一家の二軒隣に済むようになったのは去年の秋からだ。ひかりと彼らは幼馴染みではないし、親戚同然の付き合いだってしていない。
育子の記憶は改竄されている。そこにどんな意志や思惑があったとしても、それが事実だった。
(そういう手段が取れるってことを知っていないと、到底受け入れられなかったわね)
ひかりはぱくぱくと食事をしながら、優しいまなざしで自分たちを見守っている母を、こっそり窺い見た。
ヤンチャな小学生男子・星野光とは世を忍ぶ仮の姿。本当は分数なんかでつまずかない。
その真の正体は、太陽系の外からやってきたキンモク星の衛星、スター・ファイトを守護に持つセーラー戦士、セーラースターファイターである。身も蓋もないことを言うと宇宙人なのだ。
そして、ひかり自身も世界四大文明よりも前の太古の昔、月に高度文明を築き上げた王国のプリンセスだった──という、前世の記憶がある。
地球の歴史は46億年前に始まったとされている。原初の命が発生したのはざっくり40億年前のことだから、少なく見積もっても前世のひかり──プリンセス・セレニティの故郷、シルバー・ミレニアムにスターシードやセーラークリスタルが送りこまれたのは、だいたいそれくらい昔のはずだ。
ひかりがセレニティだった頃、人類はひとつの大陸に国を作り、文明を築いていた。それらの名残は一、神話として残っている。
そして、当時のシルバー・ミレニアムの機械文明は今の地球の比ではない。聖石・銀水晶の力によってその超常性はより押し上げられていた。時を超えるのも、死者の蘇生も、大地を癒すことも、すべてが思うまま。
最高潮まで引き出された銀水晶の力は、宇宙すべての邪悪を打ち払い、あまねく命を癒すという。
ならば、セーラークリスタルを持つ王族と戦士たちが表立って君臨している、地球から遠く離れた星で、かつてのシルバー・ミレニアムに迫る高度文明が複数発展していてもなにもおかしくないのだ。そのため、それらの技術を利用して、星野たち四人は地球に溶け込んで生活している。
いつ隣人が宇宙人と入れ替わっているかわからないのだから、ばかげた話だ。
(それはあたしも同じなのかもね)
ただの月野ひかりだった頃と、夢の中でセレニティとして受けたプリンセス教育、そしてセレニティとしての記憶。それらが混ざり合ったのが今のひかりだ。
純然たる月野家の長女はなくなったとも言える。娘が宇宙人と入れ替わってしまった、という見方ができるわけだ。
それでもひかりは自分の家族が大好きだ。パパとママの娘に生まれてきたことを幸せに思うし、進悟の姉として、弟が自慢できる姉でありたいと思っている。
学校で勉強するのも好きだし、なにより友達が大好きなのだ。友達に会えないから休日があんまり好きじゃないくらい、ひかりは学校が好きだった。
前世の記憶があっても、特別な力があっても、月野ひかりでいたい。そう思う。
「ごちそうさま!」
「育子ママ、今日もありがとなーっ」
歯磨きを済ませた二人は赤と黒のランドセルを背負い、元気よく「いってきます!」とドアを開けた。玄関まで見送りに来た母が「気をつけてねー!」と声を張る前に、学校まで競走だ! と走り出す。
「今日も負けないわよ!」
「いいや、今日は俺が勝つ!」
ランドセルに詰まった教科書や金具をガチャガチャ鳴らしながら、ひかりと星野は軽快に駆けていった。
朝の日差しが気持ちいい。花の甘い香りがする。学校に近づくほど、友達が声をかけてくれる。
ご飯がおいしくて、学校が楽しい。
ああ、今日もいい日になりそうだ。
ひかりは弾けるように笑って校門に飛び込んだ。
「今日もあたしの勝ちっ!」
いつも通りの一日を過ごし、いつも通り家に帰って家族団欒を過ごして、いつも通り、ひかりは眠りについた。
がばっと飛び起きたのは、いのちあるもののほとんどが寝静まっている深夜二時。ひかりははっ、はっと切れ切れの吐息を漏らし、冷や汗でぐっしょり濡れていた。
覚醒の第一段階を経たとき、ひかりは十歳になるまで見ていた夢を──四人のこどもたちと一緒にクイーン・セレニティから教育を受ける夢を見なくなった。代わりに、ひかりとしての過去と、プリンセス・セレニティとしての過去が入り交じる、記憶を断片的に砕いて混ぜたような夢を見るようになった。
今夜見たのは、地球の王子と共に暴徒と化した地球の民を鎮めようと戦って、王子が力尽き、続いて自分が斃れたところだった。
整わない呼吸が次から次へと肺を膨らませる。
「落ち着け……落ち着け……」
呟きながら、ひかりは手を祈りの形に組み合わせ、目を閉じる。数を数えながらゆっくりと息を吐き出し、吸う。それを繰り返すうち、強ばっていた体が緩んでいくのを感じた。
次に目を開けたとき、ひかりは平静を取り戻していた。
寝汗で冷たくなった下着を取り替え、窓を開ける。春の夜風はひやりと冷たかったが、今はその温度が心地よかった。
そして、空に輝く月を見た。
ひかりは故郷を思った。
平均1000歳まで生きる月人。シルバー・ミレニアムの王家は代々セレニティの名を襲名し続け、父祖太陽から授けられた使命として地球を見守り、時に銀河を揺るがす戦いに参加してきた。その千年帝国も今は存在しない。月面の隠されたポイントに、ドームで覆われた故郷は廃墟として眠っているだろう。
シルバームーンクリスタルと月の王家の力は、太陽系の銀河が宇宙の頂点に立つほど強力、と出会ったばかりの星野たちに聞かされたとき、ひかりは思わず笑い飛ばしてしまった。そんな馬鹿な、と言うしかなかった。
(最強の銀河ならどうして、)
思い出す。次々倒れていく友。狂気に憑りつかれた地球の人々。あの惨劇を防げなかった自分が最強だなんて、とても思えない。血を分けた母すら置いてきてしまった。
きっと、最強とは月の王族に宿る銀水晶のパワーだけを指している。自分にも潜在能力はあったのだろう。しかし、その力を行使することができたのは母であるクイーン・セレニティだけだった。
現に、かつて夢に現れた母によってセレニティたちは生まれ変わった。恐らくはゴールデン・キングダムが滅んだあと、クイーン・セレニティは、月の代わりに地球そのものとこの星のあまねく生命のすべてを蘇生させている。
そうでなければ、今こうして地球が発展し続けていることに辻褄が合わない。
脅威的な浄化の力が、月の王族にはある。
だが、かつての自分は姫として、戦士として未熟だった。心が弱かった。意思が弱かった。甘い夢を見た。恋に狂った。だから滅んでしまった……。
淡い想いの感覚は、情報として残っている。
なぜ月と地球は関わりを持ってはならないのか? なぜ月は慈悲に溢れる顔をしながら無慈悲に地球を観測し続けなければならなかったのか? なぜ純潔の誓いを始祖セレニティは立てたのか?
祖国の滅亡がその答えだ。
禁じられるほど好奇心は増す。障害が多いほど報酬は魅力的に見える。それでも、やってはならないから禁忌なのだ。
報復はもう十分だった。
(この星でまた王子に出会ったら、あたし、どうなっちゃうの? またあんなことが起きるくらいなら、恋なんてしたくないよ)
うる、とひかりの瞳が潤んだ。
母が、クイーン・セレニティが「普通の女の子」として幸せになれるように、この時代に転生させたことに感謝している。
だが、幻の銀水晶が自分の中に息づいていることをひかりは理解していた。
力はそこにあるだけで災いを呼ぶものだ。太陽系すべてのセーラークリスタルが転生を果たし、セーラー戦士という器と意思を得た今……なにも起きないと高を括るのは、自分自身で冷笑してしまうくらいに楽観的だった。
いずれこの身には使命が与えられる。
戦いが起きること自体は百歩譲って諦めよう。
戦わないことで愛するものを傷つけられ、失うくらいなら、何度でも立ち上がり続けなければならない。
(あたしにそれができるかしら)
戦いを恐れ、避けたいと思う感情はある。誰かに優しくあれる自分でありたいとも思っている。なんで前世の他人の責任を自分が負わなければならないんだろう? という不満もある。
思考はぐるぐる回り続けるけれど。
「ま、頑張るっきゃないよね」
ぐしっと目元を拭い、ひかりは顔を上げた。