小鳥との遊惰なる一時 作:未来景
滑らかなタイルの上を小鳥が跳ねる。
余裕のある歩幅で悠々と、時計の針より静謐に。偶にデスクの前でつま先立ちし、暫し拝見してはまた歩き出す。目覚めを賑やかにする気ままで自由な足取りは、柔らかな翼を備えているかに軽やかだ。
やがて小鳥は、ほどよく外の景色が見える位置で止まった。
窓の奥。学園都市の上空は青く澄んでいて、遠い紺へと境目のないグラデーションを広げている。その様は、窓越しでさえ息を呑むような、多大な充足感を齎してくれるほど雄大だった。小鳥はそれを十分に知ってるから、限りない場所に捉われることはなかった。早々に見切りをつけて、最も近いデスクの席の隣に一歩だけ踏み込んだ。
電子化の進んでいない机上を眺める。どうやら紙で険しい山脈のジオラマを制作している最中らしく、その麓には僅かに人が生存できるスペースがあった。格式高い和紙の便りは、まさにそこで処理されていた。
横から覗くと、便りは百鬼夜行を構成するある学園からの物だと分かった。豊穣の祝祭を催すという文言は、認められたのがそこまでならただの招待だが、実際には違っていた。何でも区域で揉め事が起きているようで、つまりはどれが今年で最も良い出来かの争いだという。それぞれ栗、南瓜、薩摩芋、ほうれん草の派閥が鎬を削る熱い戦いの行く末は、一体どこでどう話が転んだか、1人の部外者の舌に渡ってしまったらしい。学園の自治組織も対応しているそうだが、状況は便りが届いたことから察せられる通りだ。
文字通り真っ白な手に取られた便りが、近づいては離される。しかし、よくよく読んでも事実は変わらない。舌はおろか、口さえない部外者の手は頭を掻いた。
その様子を見て、小鳥は悪戯っぽく発した。
「お土産には期待できそうだね?先生」
先生と呼ばれたのは、極めて長身痩躯な男だ。
男は指の先まで削ぎ落した肉を、背丈に費やしたかに歪な外形をしていた。それは宛も北風に葉を攫われた枯れ木で、寂しさを覚える身の上に肌と同じ色のシャツと、木陰に似た柔らかな黒の背広を纏っている。首には身分証と味のあるポロライドカメラをぶら下げていた。
或いはその椅子にかけているコート―――連邦生徒会の制服で、子供1人を包んでしまえそうなくらい大きい―――もその上に羽織る男は、今更傍の存在に気付いたらしい。一瞬体を硬直させて、緩やかに便りをデスクに置く。
そして、徐に隣へ視線をやった。
[ホシノは来てくれないの?]
「ん?だってほら、ここを空ける訳にもいかないし」
[1人でのんびりサボれないし?]
「休憩室のお菓子を独り占めできないし」
彼女はご機嫌だった。空模様を鏡映しにするかの笑みをして、可愛く首を傾げながら男を覗くくらいに。そこには年相応の可憐さと、少し狡猾な艶かしさが同居していた。左右で異なる色の瞳は、そのうちに囚われてしまいそうなくらい深みを湛えていて、不思議な引力を放っていた。
そんなホシノに男が肩をすくめると、彼女は本当に子供っぽくまた笑った。甚だあからさまでわざとらしかったからだ。男も自分のことながら呆れて笑い出し、2人は同じ気持ちを分かち合った。
「はぁ。で、先生は行くんでしょ?」
[まあね]
「なら、おじさんも行かない訳にはいかないし。着いていくよ」
[助かるよ。何だか荒れてるみたいだしね」
銃を持つのが当然の世の中。口論がヒートアップすれば銃身が熱くなることも珍しくない。そうして飛び出した弾丸のたった一発でも危うい男は、最高のボディーガードの同行に素直に喜ぶと、懐から取り出したタブレットで学園までの道程を確認する。すると、表示された候補には出発時間に暫くの余裕があった。
男は少し考え、袖を捲る。身を寄せ合う2本の針の距離はもう僅かで、重なるのに時間はかからなかった。
シャーレの執務室に、昼鐘の音が響き渡った。
[ところで。今から向かうには、ちょっと早いみたいなんだけど]
ほどなく余韻が収まった部屋で、男はふと口にした。傍の少女をちらりと見ながら。
ホシノは、男の意図するところをすぐに察した。
彼女は悩む素振りをする。上目遣い気味に男を一瞥しながら。
「ありゃりゃ、そりゃあ困ったねぇ。とはいえ、お昼休憩に入っちゃったから、仕事をするのもねぇ」
[そうだねぇ…おっと、あそこにリラックスできそうなソファが]
「ふわぁ〜。おっと、こっちには欠伸が」
芝居がかった言葉を投げ合い、2人は視線で意見の合意をみる。
そうと決まれば、行動は早かった。
もたれかかれない分の背を壁に預け、腰とソファの間にクッションを挟む。
自分の物ではないコートを枕にして、子鯨を抱えながら仰向けに寝る。
幾日の休憩をそこで過ごしてきた2人は、果たして慣れた様子で各々楽な姿勢を取る。
彼らは優しい静けさに包まれていた。外から子供の声が淡く聞こえてくるくらいの静けさに。それは完全な静寂よりも夢を見るに適していて、次第に自分が世界と一体化していくような心地よさを与えてくれた。
やがて意識を手放してしまう前に、男は重たげに首を回し、溢れるほどの蒼穹を目の前に広げる。
変わらずそこにある空の色は、日常の象徴だ。落ちてくることも血に汚れることもある。けれども、だからこそ愛し、愛していることすら忘れられるべきなのだと、男は沈んでいく意識の内海に断片を浮かべた。
どこまでも広がる空。私達の空。美しく青い空の、その青さを!
そのことをまだ知らない子も、知ってしまった子も等しく。本の一頁のように只、過ぎ行く日々を彩るありふれた美しさであって欲しい。
「先生」
男は微かに醒めた様子で、且つ気まずそうに見下ろす。
ホシノは彼女らしい長閑な眼差しをしながら、小さな手で膝元に置いてある男の左手を取る。そうやって男の左手ごとまた子鯨を抱きしめると、柔らかく微笑んで、言った。
「いい天気だねぇ」
[うん。いい天気だね]
男はそれ以上考えなかったし、ホシノもそれ以上喋らなかった。
陽だまりに似た温もりを感じながら、2人は遊惰な一時を過ごした。