小鳥との遊惰なる一時   作:未来景

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家族

 

 土手の上。花を落とした桜並木に風が吹く。

 揺られ、擦れ合い、さざめく若葉が、その漲る生命を青々しさで表現していた。燦々と照りつける太陽。その輝きの一片でさえも逃すまいと向き合う彼らの影は絶好の避暑地で、側を流れる川の視覚的情報とあわさり、幾分か体を涼しくしてくれる。

 とはいえ、暑いものは暑い。蕾を開く朝顔が多くなってきたこの頃、とうに夏に代替わりした梅雨の残滓が茹だるような暑さとして纏わりつく現状は、如何ともし難いものだった。

 季節外れの桜色な髪の少女が着崩す様は、まさにそのことを示していた。

 

「あっつい〜。せんせ〜、その格好でよく平気だねぇ〜」

 

 シャツの襟元を開け、隙間から何とか風を取り込もうとしながらホシノが尋ねる。

 はたはたと。背を曲げながら嫌な生温さを換気しようとする彼女は、その一心さのあまり時折鎖骨のラインを覗かせていて少し不用意だった。ベルトに巻きつけられたネクタイが、所在なげにスカートと共に揺れるのも。

 対して、細身な男には特に堪えた様子がなかった。普段通りのスーツの上に連邦生徒会のコートを羽織って尚、足取りには余裕があり、背はしゃんとしていた。

 ちょっと暑いけど、まだ平気かな。寒がりはそう語った。

 

[今日は外回りに付き合ってくれてありがとう。助かったよ]

「別にいいよぉ、このくらい。いつものことだし、当番だし?」

 

 木漏れ日にすら鬱陶しそうに庇を作るホシノは、本当に気にも留めていないらしい。早朝から通しでやってきた何件かの堅苦しい顔合わせの場よりも、飽和する夏が何よりも彼女を気怠げにさているようだった。

 首筋を伝う汗が、胸元に吸い込まれ落ちていく。そうして失った分の水分を補給しようとしてホシノはカバンを開き、残り僅かしかない四ツ矢サイダーを溜息を吐いてから飲み干した。

 

[自販機を見つけたら、何か買おうか]

「先生の奢りで?」

[もちろん]

「うへぇ、ありがと~。あ、あとこれ、ちょっと持ってくれる?」

 

 男にカバンを渡すと、ホシノは思い出したふうにその小さな物入れから取り出したヘアゴムで髪を結え始める。

 飾らない所作で適当に髪を束ね、無難なところで括る。露わになったうなじには、汗が眩しく煌めいていた。

 軽く首をふること2、3度。問題がないことを確認した彼女の表情は、微かに和らいでいた。傍目からしても幾分か涼しげなのだから、実際そうなのだろう。

 満足した様子のホシノは、また礼を言って手を伸ばす。しかし、男は首を横に振った。

 

[私が持っておくよ。それと]

 

 ホシノは静かに、首を傾げながら続く言葉を待つ。

 時間にして数秒。たったそれだけが過ぎる。

 ホシノはまず、豆鉄砲を食らったふうにきょとんとした。

 やがて目を細めて、にっと笑った。

 

「ありがとっ!」

 

――――――――――――――――――

 

 顎下を指が撫でる。おちょくり弄るようで、その実繊細に。

 接待は気に召したそうだった。品のある毛皮を纏った王は、一頻り弛んだ顎下を撫でられて満足すると、自ら無防備な腹を曝すという形で彼女に褒美をとらせる。

 王の寛大な態度にホシノは深く感謝する(歓声を上げる)と、柔らかで豊満なその腹にありついた。つまりはわしゃわしゃしたのだ。

 

[大人しくていい子ですね]

「いえいえ。生徒さんが優しく接してくださっているからですよ」

 

 散歩中のゴールデンレトリバー(レオ13世)と飼い主の老婦人との交流もほどほどに、2人は帰路を進む。

 老婦人と同じふうに、途中ですれ違う人々はみな男をその役職と共に認識していた。男が学園都市にて為したこと――或いは身に覚えのないことや、結果的に為しはしたものの広まって欲しくないことまで――をクロノスの放映によって既知としている彼らは、凡そ男に好印象を抱いており、ちょっとした有名人として話しかけてくる者が多かった。

 住民との交流も業務の一環であり、そうでなくとも良好な関係を築くべきだと男は考えている。よって、声をかけられる度にきっちり向き合ってちょこっとでも談笑する男とホシノの速度はとても緩やかだった。

 

[ごめんね]

「ん?」

[なるべく早く帰るつもりだったんだ。暑いからね。でも、私のせいで足を止めちゃってるから。それでね]

「気にしすぎだよ〜」

 

 ホシノは、頭上を流れる雲みたいにのんびりとした声で言うと、河川敷に目をやる。

 視線の先にはグラウンドがあって、今まさに投手が腕を振るっていた。幼い獣人の一投は、迎え打つバットよりも疾く、一直線に空を駆けてグローブへと収まった。

 姿勢を戻しながらゆっくり息を吸う幼い獣人を含めたチーム一団が、弾かれたかに振り向く。恰幅の良い大人が呼んだのだ。大人はどうやら監督で、走ってきた子供達に身振り手振りで教えだした。

 

「大変そうだ」

[そうだね。皆泥だらけで、シャツもびしょ濡れで]

 

 男の同調に、しかし返答はなかった。代わりにホシノは一瞬意味深な表情を男に向けると、足を止めて観覧し始めた。

 彼女の横顔は、成熟というより老成と呼ぶべき思慮深さを湛えていた。優しさを帯びた異なる色の瞳は、目の前の今を映しているようで、ここにはない過去を回顧しているようでもあった。

 男は考えを巡らせているホシノの隣で静かに佇み、同じ景色を見る。

 入道雲の下、コンクリートで舗装された何の変哲もない住宅街をバックに、踏み均されただけの土の上で指導を受ける子供達の構図。

 男は首から提げている古い型番のポロライドカメラを手に取り、構えた。構えただけだ。他人を無許可に取るなんて、そんな非常識なことはしない。レンズ越しだとまた違う絵を味わって、男は緩慢な動作でおろした。

 ホシノが口を開いたのは、暫くしてだった。

 

「おじさん達はさ、見てもらえるでしょ。でも、あそこにいる大人(監督さん)はどうなのかな、ってさ」

 

 彼女は憂いていたのだった。見知らぬ大人だけではない。むしろ主たる相手は別だ。そのことを、男は眴によってようやく理解した。

 

「きっと、色んなことを考えなきゃいけないんだと思うんだ。おじさん達が良いって言っても、許してくれないルールとかもいっぱいあるだろうし。体だけじゃなくて、頭も使って。苦しくても、1人で頑張らなきゃいけなくて。でも――それは誰にも知られない」

 

 詰まるところ、心配されているのだ。自分の背丈の半分くらいしかない少女に。二十歳にも満たない幼い少女に。周りには大いに配慮するくせして、自分のことには大抵無頓着な少女に!

 男は嬉しく思った。形としては不甲斐ないが、とはいえ生徒からこうして気遣われるのを、嬉しく思わない筈がなかった。

 

「まぁ、だからさ。おじさん嬉しかったんだよね。先生が頑張ってるってコト、みんなちゃんと知ってるんだなぁって。ねぇ、聞いてる?」

 

 いっそ強く抱きしめて高く空へ掲げたいくらいの想いを、男はホシノの頭に自分の手を滑らせることで伝える。まるで心に染まない態度で鈍く睨むホシノだったが、てんで効果は表れなかった。

 結局、彼女は肩の力を抜いた。どちらが大人で子供なのかが分かったものではないとばかりに。続けて、面持ちを柔らかくした。元々自分達の間柄が、どういうものだったのかを思い出したからだ。

 だから、子供は大人宛らに為すがままにされることを受け入れていて。大人は、子供みたくしたいがままに自分の欲求へと従っていた。

 

[ありがとう]

 

 ふと男が放った言葉に、ホシノは苦笑を隠さなかった。

 

「なんで先生がお礼を言うのさ」

[そうでもしないと、この可愛くて自慢の生徒を暑苦しく抱きしめちゃいそうだからね]

「うへぇ~。それは勘弁して欲しいなぁ」

[どうしようかなぁ?]

 

 華奢な体を捕えんとする男の細く長い腕を、ホシノは時に躱し、時に突き放す。しかし、諦めの悪い男がしつこく彼女へと伸ばすと、ホシノはうまく男の両腕をまとめて掴んで、片手で拘束した。

 全く格好の悪いことに、男の力は彼女には到底及ばなかった。なので、拘束を振りほどけもしなかったし、しつこさ故に降参も聞き入れてもらえなかった。

 男が自由になったのは、弾けるような乾いた快音がしてからだった。

 一拍遅れて、2人は音の正体を把握した。振りぬいた音と、空高く飛ぶボールがそこにあったからだ。

 

[「おぉ〜!」]

 

 ホシノは力を緩めたことを、男は拘束が解かれたことを忘れて、ただ茫然とボールの行く先を眺めた。どこまでもどこまでも、あの青の彼方へと飛んでいきそうなボールは、けれども物理法則には逆らえず描く軌道を放物線へと変え始める。

 そうして次第に高度を下げていくボールは、遂に2人の視線を引き連れて降り立った。

 穏やかな流れの川に、小さな冠ができて消えた。

 

[「あっ」]

 

 野球にウォーターハザードはない。水に落ちたって、ホームランはホームランだ。だが、打者はどこか居た堪れない雰囲気を醸していて、その為か自ら取りに行こうとして、監督の制止を受けた。あまり深くないとはいえ、子供を川に入れるには抵抗があるらしかった。

 だが監督の足取りは重く、畦に差し掛かると完全に止まった。石になってしまったのかと疑うほど微動だにしない監督は、されど自分より前に出ようとする子供には手を伸ばして絶対に制止させた。本人も中々最初の一歩を踏み出さないので、集団で水底のボールを見つめる珍妙な光景が生まれた。

 一部始終を目撃していた男が隣を見る。視線に気づいたホシノは、もう何度目かも分からない飽きれた表情をして頷いた。

 

「はいはい。おじさんはいいから、行ってきなよ」

[ごめんね]

[そうじゃなくて?]

[えっ、と。ありがとう?]

「ん」

 

 自分の鞄と男の荷物を――ジャケットやコート、ポロライドカメラなども含めて――奪い取ったホシノは、そのまま近くの木陰に座り込み太い幹に背を預ける。陽を遮って尚生温い空気に一息つくと、彼女は男を一瞥して、興味をなくしたかにカメラで遠くを観察しだした。

 

「ありがとう」

 

 男が再度礼を言う。応答はなかったが、届けたい相手の耳に届いていることを男は知っていた。だから、男はそれ以上何も言わず、夏草の茂る斜面を駆け下りていった。立派な髭と、ふさふさした尻尾を持つ御仁を助けに行く為に。

 そうやって男が離れたのを確認してから、ホシノは遠のく背をカメラで追った。誰かさんの見様見真似でレンズ・リングを回転させ、ピントを調節してから、シャッターを切った。

 

――――――――――――――――――

 

 屋根付きの仮設ベンチ。日向に置いた水浸しの革靴。左手には監督(猫人)の好意で貰ったアイスバー。右手には同じものをちろちろと舐める少女。

 膝まで裾を捲り、足を乾かしている最中の男がポロライドカメラを横の猫に向ける。ともすれば、スカートの中から尻尾が生えてきそうな少女は、男を横目にすると先に撮った写真でガードした。アイスを堪能するのを止めないまま。

 

「ちょっと?許可なしに、しかもレディの食事シーンを撮るのは失礼じゃないかなぁ」

[許可なしで言えば、その写真もじゃない?]

「ほら、先生は顔も売れてるし。有名税ってやつだよぉ~」

 

 無茶な理屈に対抗せんとする男だったが、ガードの堅さで最終的には撮影を断念する。恰も交換条件かに受け取った自分の写真は微かに輪郭がぶれていたが、それでも良く撮れていた。

 おじさんも中々の腕でしょと、ホシノは冗談交じりに、でもやっぱりちょっと自慢げに語った。

 

「先生いつも撮る側だから、殆ど自分の写真ないでしょ。おじさんがもっと撮ってあげよっか?」

[ん~。確かにそうだね]

 

 男が悩む素振りをしたので、ホシノは僅かに驚きの色を浮かべた。どうせ断られると考えていたからだ。

 だが、提案したのは彼女自身で、付け加えるのなら滅多にない機会だったから、受け取る姿勢を万全にしようと乗り気な様子でホシノは男に向き直った。

 カシャッと、金属的な音が鳴ったのはまさにその直後だった。

 

「うえっ?」

[隙あり!]

 

 間の抜けた声を発したホシノは、男の素振りが騙す為のものだったと悟ると膨れっ面で不満を呈する。だが、男にとっては表現する怒りよりも可愛さが勝っていたので、ただ笑うだけで些細な抵抗にもなりはしなかった。

 20秒程経って、白いタブがひょっこりと顔を出す。男はタブを引っ張って、更にでてきた黄色のタブを慣れた動作でゆっくり引き抜く。一連の工程を以てようやく姿を現したフィルムのネガとポジを、気長に待ってから剥がした。

 モノクロで表現された一枚の粗い世界には、自然体のホシノが静かに佇んでいた。被写体の意識がない彼女は、こちらをじっと見つめながら腕を伸ばそうとしていて、その表情は奥底まで微笑を湛えていた。

 男は可愛がる訳でも欲情する訳でもなく、ただ感慨に耽った。一通の手紙を発端とする彼女との関係を想起し、いずれ訪れるであろう別れに胸を痛めた。

 ホシノはまだ子供だ。彼女が守らんとする者達と同様に。どれだけ老成していようと、老成するだけの経験を重ねようと、彼女がまだ子供であることは覆しようのない事実であり、子供とはまた育つものだ。これだけは変わらない。彼女個人のみを惜しんでいるのではないし、同年代のどの生徒が手を振る姿を想像するのはいつだって筆舌に尽くし難い感情を覚える。だが、だからこそ悲しかったし、だからこそ男は物質的に残すのを望んだ。

 いつか忘れ去る子供達と、いつか忘れ去られる男。悪事などでは決してなく、強いて表すなら時代が為す1つの事象を前にした無力感は、遍く命に平等に訪れる。避けられはしない。

 男が写真を撮る理由の1つが、これだった。子供達はいずれ忘れていく。自分達の大切な何かすら犠牲にして、不可逆的変化を遂げる。生まれる前から築かれた社会に居る限り、この輪からは逃れられない。だから男は残した。擦れて褪せて美化されていくものだとしても。流されていかない唯一の証は、男をいつだって朗らかにしてくれるし、最期まで監視してくれるからだ。

 あるべき姿を守るのも、夜に呑まれて眠るのも。決して簡単でないと男は知っていたから、写真を懐に仕舞い込もうとした。帰宅後にアルバムに納めるべく。

 結論としては、それは叶わなかったのだが。

 

「見過ぎ」

 

 手から掠め取られる写真。鳶かに鮮やかな奇襲をしたホシノは、写真を奪い返されないようスカートのポケットに大切に隠すと、アイスをひとかじりした。

 彼女は器用にも既に食べきった棒とアイスバーを同時に把持していた。男は写真を失って残念そうにしていたが、次第に関心を他に寄せた。ホシノのアイスだ。

 彼女の2本目のアイスはどこから?新たに貰いに行ったのか?いや違うだろう。ではどこから?

 そこまで男は考えて、1つの仮説を導き出した。とても恐ろしい仮説だったが、どうやら真実なようだったから、男は肩を落として徒手をだらりと下げた。

 油断した口元に、冷たいものが当たる。

 

[冷たっ]

 

 元凶は明らかだった。しかし元凶は明らかに反省していなかった。元凶はやれやれと顔で物語りながら、男にアイスと棒を握らせる。そうして空けた手で男の頬を挟んで、双眸を交わした。

 

「おじさんに見惚れるのも良いよ。そのぐらい可愛いってコトだから、悪い気はしないし。でもね。溶けちゃうでしょ?アイス。ほら」

 

 ホシノは男の顔を握らせたアイスに向ける。一口分欠けたアイスは既に角を無くしていて、表面にソーダ味を滴らせていた。

 長くは持たない様子だった。険しい夏を前にして。雫へと置き換わりゆく空色は、男が現を抜かす間にも確かに体積を擦り減らしていた。

 

「まずは今で、自分のこと。おじさんに見惚れるのはその後。今日はそばに居るからさ。分かった?分かったなら、早くそのアイスを食べちゃいなよ」

 

 ホシノは男を解放すると、練習に励む子等をまた観覧し始める。ソファに身を預け、ホームビデオを鑑賞するかに寛ぎ休んでいる姿は、彼女なりの心配りだった。少なくとも、身近な人間にとってはそう感じられていた。

 男がアイスを含む。口腔が一気に冷え込み、甘く鋭い刺激が頭を劈く。

 一過性の痛みは、或いはホシノからの罰だった。男は自らの悪癖を認めていたから、素直に痛みを受け入れて、鮮明になる意識を今目の前のことに傾けた。

 

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