主人公は、前世の記憶と原作の知識を持った一人の少女。ナイトシティという「関われば破滅する街」の結末を知っている彼女は、その運命から距離を置き、バッドランズの片隅で静かに生きることだけを望んでいます。
ですが、この街は人を放っておいてはくれません。
原作の流れは尊重しつつも、「もし原作を知る人物が少しだけ未来へ手を伸ばしたら」という視点で物語を描いています。大きく歴史を変える英雄譚ではなく、小さな選択が誰かの運命を少しずつ変えていく、そんな物語を目指しました。
原作キャラクターとの解釈違いが生じないよう心掛けていますが、本作独自の設定やオリジナル要素も含まれます。
それでも、「こんな物語もナイトシティのどこかで起きていたかもしれない」と思っていただければ幸いです。
それでは――
『サイバーパンク:ジャンク・アルケミー』
開幕です。
赤茶けた大地に、乾いた風が唸っていた。
バッドランズの空はどこまでも乾いていて砂埃が地平線を霞ませている。錆びついたコンテナと骨組みだけになった車両が寄り添うように並ぶ廃車置き場の奥に、トタン屋根のガレージがひっそりと建っていた。近くを走る幹線道路からは離れていて、地図にも載っていない。それがこの場所の値打ちだった。
朝の光がガレージの隙間から差し込むと、埃が細かく舞う様子が見える。油と金属の匂いが染みついたこの空間を、ニッカは誰よりも知り尽くしていた。棚に並ぶ工具の位置も、床のどこが軋むかも、目を閉じたままでも歩けるほどだ。
作業台の上で、ニッカは旧世代の義手の関節部を分解していた。手元の照明が油まみれの指先を照らしている。工具の触れ合う小さな音だけが、静かな空間に響いていた。
彼女はときどき手を止めてパーツの内部を覗き込んだ。前世の記憶が呼び覚ますのは、ゲームの中で覚えた最適化の手順だ。どの端子を繋ぎ替えれば熱暴走を防げるか。どの配線を間引けば出力が跳ね上がるか。誰に教わったわけでもないその知識は、もう体に染みついている。
――ここには誰も来ない。
その静けさだけが、ニッカにとっての生きる意味だった。
義手の分解が一段落すると、ニッカは水を張った鍋を火にかけた。朝食といっても、乾燥保存食を戻すだけの簡単なものだ。前世であれば味気ないと感じたかもしれないが、この体になってからは、そんな贅沢を望んだことすらなかった。生きて、動いて、機械をいじれる。それだけで十分だった。
食事を済ませたあとは、必ずガレージの外周を一周する。倒れた廃材が風で移動していないか。センサーの配線が砂に埋もれていないか。誰に頼まれたわけでもないその点検を、ニッカは毎朝欠かさず続けていた。
点検の途中、クランの子供の一人が水筒を届けに来ることがある。今朝もそうだった。まだ十歳にもならない少女が、遠慮がちにガレージの入り口から顔を覗かせた。
「ニッカ姉、これ。みんなで分けた分」
「ありがとう。助かるよ」
短いやりとりだけを交わし、少女はすぐに駆け戻っていく。クランの誰もが、ニッカの引きこもり気質を知っていながら、それでも変わらずに気にかけてくれていた。その事実に、ニッカは戸惑いながらもどこかで安堵していた。深く関わるつもりはない。それでも、完全に独りではいたくない。矛盾したその感情を、彼女は誰にも言わないまま抱えていた。
ニッカがこの世界に生まれ落ちたときの記憶は、今もかすかに残っている。
砂嵐の唸る夜、半壊したコンテナの陰で、赤ん坊だった彼女は泣いていた。前世の記憶を抱えたまま、見知らぬ体に閉じ込められている恐怖だけがあった。拾い上げてくれたのは、小さなノーマッドクラン「ダスト・ウォーカーズ」の老メカニック、バートだった。
バートは若い頃、街のガレージで働いていたという。腕は確かだったが、コーポの下請けに嫌気が差し、いつしか荒野を渡り歩くノーマッドの群れに身を投じたらしい。詳しい経緯を、ニッカは聞いたことがなかった。バート自身が、昔のことをあまり語りたがらなかったからだ。
分かっているのは、彼が誰よりも機械を大切に扱う男だったということだけだ。壊れた部品でも、簡単には捨てなかった。「まだ使える場所がある」が、彼の口癖だった。
バートは何も聞かずにニッカを育てた。名前も、彼がその場でつけてくれたものだ。クランの誰もが彼女を家族のように扱った。それでもニッカの中には、拭いきれない違和感がずっと残っていた。
言葉を覚えていくうちに、彼女は理解した。ここは自分が前世でやり込んだゲームの世界だと。「アラサカ」も「ナイトシティ」も、画面の向こうの設定ではなく、現実にそこにある名前だった。
その事実は、幼いニッカを震え上がらせた。
命がゴミよりも軽く扱われる街。関わった人間はみな、遅かれ早かれ命を落とす。そういう物語を、彼女は前世で何十時間もかけて追いかけてきた。だからこそ、その恐ろしさを誰よりもよく知っていた。
夜、焚き火を囲んでクランの大人たちが語る話も、幼いニッカを怯えさせるには十分だった。ナイトシティに出稼ぎに行った知り合いが戻らなかったという話。フィクサーに騙されて臓器を抜かれたという話。子供に聞かせるには些か生々しすぎるそれらの噂を、ニッカは息を潜めて聞いていた。
関わったら死ぬ。
その一点だけを胸に刻み、幼いニッカはバートのガレージに引きこもるようになった。工具の音に囲まれていれば、街の気配を忘れられた。機械の中に潜り込んでいる間だけは、恐怖が遠のいた。
クランの子供たちは、そんなニッカを不思議がった。同年代の子らは荒野を駆け回り、狩りの真似事をして遊んでいる。誘われることも一度や二度ではなかった。
「ニッカ、また工具いじってんのかよ」
「今日は外、埃っぽいから」
「口実ばっかだな、お前」
そう言われても、ニッカは苦笑いを返すだけだった。本当の理由を話す気はなかった。この世界の裏側を知っているなどと言えば、頭がおかしくなったと思われるだけだ。孤立しているという自覚はあったが、それでも彼女はガレージの中を選び続けた。安全は、何よりも優先すべきものだったからだ。
それでも、クランの子供たちが完全にニッカを見放すことはなかった。誰かが怪我をすれば真っ先にニッカのもとへ運ばれてきたし、壊れたおもちゃを持ち込んでは修理をせがまれることもあった。距離を置きたいはずのニッカも、そうした頼み事だけは断らなかった。矛盾していると自分でも分かっていたが、無下にする気にはどうしてもなれなかった。
最初は暇つぶしのつもりだった。
バートの作業を手伝いながら、ニッカはふと気づいた。前世でゲームのために覚え込んだ最適化のレシピが、目の前の現実の部品にそのまま通用することに。どの端子を短絡させれば効率が上がるか。どんな組み合わせで冷却液を混ぜれば熱暴走を防げるか。ゲームの中の裏技だったはずのものが、この世界では紛れもない技術として機能していた。
「なあニッカ、このアーム、もう寿命だと思ってたんだが」
バートがそう言って持ち込んできた廃品のアームを、ニッカは何気なく手直ししてみせた。数時間後、動作確認をしたバートは絶句した。軍用規格を超える滑らかさで、アームは動いていた。
「……どうやったんだ、これ」
「別に。ちょっと配線変えて、端子磨いただけだよ」
ニッカ本人にとっては、それは本当にただの部品調整だった。前世の知識に基づいた、当たり前の手順を踏んだだけのつもりだった。しかしバートの目には、それは常識を覆す魔法のように映っていたらしい。
それからというもの、バートはニッカに多くのことを教えてくれるようになった。回路の基礎、金属の癖、壊れた機械の見分け方。ニッカにとっては前世の知識の裏付けにすぎなかったが、その一つ一つの説明を、彼女は静かに嬉しく思っていた。誰かに何かを教わるという時間は、前世でも今世でも、そう多くはなかったからだ。
ある夜、古いエンジンの整備をしながら、バートがぽつりと言ったことがある。
「機械ってのはな、正直なもんだ。ちゃんと向き合えば、ちゃんと応えてくれる」
ニッカは黙って頷いた。人間はそう単純にはいかない。だからこそ、機械と向き合っている時間が、彼女にとっては何よりも心地よかった。バートはそれを見抜いていたのかもしれない。理由を問い詰めることもなく、ただ隣で作業を続けてくれていた。
十五歳になる頃には、ニッカはクラン一番のメカニックとして知られるようになっていた。廃品置き場に持ち込まれるあらゆる機械が、彼女の手にかかれば見違えるように甦る。噂は狭いクランの中だけに留まらず、近隣のノーマッドたちの間にも少しずつ広がっていった。
きっかけは、隣接するクランの給水トラックが故障した一件だった。バッドランズの乾季に水源を絶たれることは、命に関わる。誰もが修理を諦めかけていた古い車体を、ニッカは三日かけて甦らせた。エンジンだけでなく、濾過装置の効率まで底上げして返したことに、持ち主は言葉を失っていた。
「こいつは……新品の頃より調子がいいくらいだ」
その一件以来、周辺のクランの間で「ダスト・ウォーカーズには規格外の腕を持つ小娘がいる」という噂が静かに広まっていった。ニッカ自身は面倒事が増えるだけだと顔をしかめていたが、バートは誇らしげにその噂を聞いていた。
それでもニッカは変わらなかった。ナイトシティには近づかない。誰かに深く関わらない。ガレージの中で静かに生きる。それだけを守り続けていた。
十八歳のとき、その平穏に亀裂が入った。
ナイトシティのフィクサーが、バートのもとに一つのギグを持ち込んだのだ。ミリテクの輸送車を狙う仕事だった。報酬は破格で、クランの財政を大きく助けるはずのものだった。
その日、フィクサーを名乗る男がガレージまで乗り込んできたことを、ニッカは今でも覚えている。仕立てのいいジャケットを着た、街の匂いを纏った男だった。バートと二人で交わしていた会話の断片を、ニッカは工具棚の陰で聞いていた。
「腕のいいノーマッドがいるって聞いてね。護衛と、簡単な足止めだけでいい」
「簡単、ね」
「終わればあんたのクランは当分食うに困らない」
バートは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。フィクサーの提示した金額は、確かにクランの暮らしを大きく楽にするものだった。渇水期の備蓄も、老朽化した車両の更新も、まとめて片付けられる額だった。
「相手はミリテクか」
「輸送車の護衛が薄い区間があるんだ。あんたらノーマッドなら、荒野の抜け道を知ってるだろう」
フィクサーは笑みを崩さずにそう言った。ニッカにはその笑みが、値踏みをする商人のそれにしか見えなかった。男の背後に停められた車は、クランの誰も持っていないような高級車だった。同じ荒野に立っていても、住む世界がまるで違う。ニッカは子供心に、その差をはっきりと感じ取っていた。
その頃のクランは、決して楽な状況ではなかった。老朽化した車両が次々に不調を訴え、渇水期の備蓄も心もとなくなっていた。バートの表情に迷いが浮かんでいたのを、ニッカは覚えている。彼は仲間たちの暮らしを背負っていた。その重さを、まだ十八の小娘だったニッカは、完全には理解できていなかった。
ニッカは、その場で止めるべきだったと今でも思う。しかし当時の彼女には、大人たちの決定に割り込む勇気がまだ足りなかった。
「ナイトシティの仕事には関わらないで」
その夜、ニッカは何度もバートにそう繰り返した。バートは笑って答えた。
「心配するな。俺は昔から荒事は慣れてる」
その言葉を最後に、バートは戻らなかった。
出発の朝、バートはいつもと変わらない顔をしていた。工具袋を担ぎ、車に乗り込む前に、ニッカの頭を軽く叩いた。
「留守番、頼んだぞ」
それが、最後に交わした言葉だった。
日が暮れても、車は戻らなかった。ニッカはガレージの前に立ち、何度も闇の奥を見つめていた。無線機からは雑音だけが流れ続け、誰の声も届かなかった。
深夜近くになって、傷だらけの仲間の一人がようやく戻ってきた。彼はニッカの顔を見るなり、言葉に詰まった。
輸送車の護衛には、想定を超える戦力が配置されていた。巻き込まれた仲間たちは撤退したが、バートだけが間に合わなかった。遺体すら満足に回収できなかったと、後から聞かされた。
葬儀と呼べるようなものもなかった。クランの仲間たちが、砂の中に小さな墓標を立てただけだった。
ニッカはその墓標の前で、長い間立ち尽くしていた。涙は出なかった。ただ、腹の底に冷たい怒りと後悔が渦を巻いていた。
ナイトシティに関わったから、バートは死んだ。
その事実だけが、ニッカの中で揺るぎない結論になった。
その日から彼女は誓った。二度とナイトシティの依頼には関わらない。フィクサーの仕事も、街の連中とのつながりも、すべて断ち切る。バッドランズのこのガレージで、静かに一生を終える。
それが、ニッカの生き方のすべてになった。
義手の関節に新しい潤滑剤を流し込んだところで、ニッカは作業の手を止めた。窓の外の光が、いつのまにか傾いている。
彼女は伸びをして、ガレージの奥にある機材へと目を向けた。太陽光パネルの制御盤と、その脇に組み込まれた小さなアンテナ群だ。傍目には粗末な廃品の寄せ集めにしか見えないが、内部の回路は前世の知識を注ぎ込んで作り上げたものだった。
軍用規格すら凌ぐ発電効率と蓄電容量。そして、上空を通過する偵察衛星の目を欺く光学迷彩型のアンテナと、侵入者を自動で迎撃するシステム。バートが遺したこのガレージを、誰にも奪われないように。誰にも踏み込まれないように。ニッカはそれだけを考えて、日々少しずつ改良を重ねてきた。
制御盤の表示を確かめると、電力供給に不審な数値の乱れはない。周辺のセンサーも異常なしを示している。それを見届けてから、ニッカはようやく肩の力を抜いた。
「まあ、これだけあれば当分は安心か」
独り言をつぶやいて、ニッカは制御盤の蓋を閉じた。誰にも頼られたくない。誰にも見つかりたくない。ここでの安全は、すべて自分の手で確保する。そのためだけに積み重ねてきた改造だった。
棚の奥には、布に包まれたいくつかの試作品が並んでいた。断熱材と衝撃吸収パッドを縫い込んだベストや、簡易的な防弾繊維を仕込んだジャケットの類だ。誰に頼まれたわけでもなく、ニッカが暇を見つけては作り溜めているものだった。
その多くは、彼女が知っている「この先危険な目に遭う誰か」のために用意されたものだ。原作の記憶の中で、名もなく命を落としていった人々の顔が、ときどきニッカの脳裏をよぎる。すべてを救えるわけではない。それでも、目の届く範囲の誰かにだけは、そっと手を伸ばしておきたかった。
そのとき、外から車のエンジン音が近づいてきた。
ニッカは顔を上げた。聞き覚えのある音だった。
ガレージの扉が軋みながら開き、日に焼けた女性が姿を見せる。制服の袖には応急医療のワッペンが縫い付けられていた。
「邪魔するわよ、ニッカ」
グロリアだった。ナイトシティの救急隊員でありながら、裏では横流しのサイバーウェアを扱っている常連客の一人だ。彼女がここに来るのは、たいてい鑑別か修理の依頼のときだった。もう何度目の訪問になるか、ニッカは数えるのをやめていた。
「今日は品定め? それとも壊れ物?」
ニッカは工具を置き、椅子から立ち上がった。
「両方かな。息子の学費、馬鹿にならないのよ」
グロリアは苦笑しながら、鞄からくすんだパーツをいくつか取り出した。ケースに入った小型の神経インターフェースと、包みを解いていない義眼らしきパーツだった。
「これ、コーポの横流し品だって話で買ったんだけど。本物かどうか、あんたの目で確かめてほしくて」
ニッカはそれを一つずつ手に取り、内部の配線をじっと確かめていく。粗悪な密造品と、まだ使える正規品が入り混じっていた。手先の感覚だけで、内部の作りが透けて見えるようだった。
「この神経インターフェース、外側は本物のケースだけど中身は違う。基盤が偽物にすり替えられてる」
「やっぱりね……」
「こっちの義眼は本物。ただし保証は切れてる。使うなら自己責任」
グロリアはさらにもう一つ、小さな部品を取り出した。掌に収まるほどの、聴診器めいた円盤状の装置だった。
「これは、簡易診断キットって触れ込みだったんだけど」
ニッカはそれを手に取り、裏蓋を開けてみた。中の基盤は簡素で、値段の割に作りが粗い。
「動くには動くけど、精度は期待しないほうがいい。緊急時の目安程度に考えて」
「参考になるわ。ありがとう」
グロリアは肩をすくめて、小さくため息をついた。
「相変わらず的確ね、あんた」
「見りゃわかることだよ。誰でもできる」
「誰でもはできないから、こうやって足を運んでるんじゃない」
そう言われて、ニッカは口を噤んだ。褒められることには慣れていない。慣れたくもなかった。褒められれば、それだけこの場所に留まる理由が増えていく。ニッカが求めているのは、静かに忘れられることだけだった。
グロリアは荷物を作業台に置きながら、ふと窓の外に目をやった。
「今日は風が穏やかね。街のほうは埃っぽくて敵わないのに」
「バッドランズはいつもこんなもんだよ」
「羨ましい話。空気だけは、こっちのほうが贅沢ね」
軽口を交わしながらも、グロリアの視線はときどきガレージの奥へと向けられていた。積まれた廃品の山と、その中に紛れる規格外の技術。彼女はそれを詮索することなく、ただ眺めているだけだった。
「にしても」
グロリアは作業台の上を見回した。棚に並んだ工具や、隅に積まれた廃品の山。その中に紛れている、明らかに規格外の性能を持つパーツの数々。
「あんたの腕、こんな場所で腐らせておくのはもったいないと思うけどね」
「余計なお世話」
「はいはい」
グロリアは慣れた様子で肩をすくめた。この手のやりとりも、もう何度目かになる。彼女はニッカの頑なさを、無理に崩そうとはしなかった。それが、この二人の距離感だった。
作業をしながら、ニッカの頭の奥では別の記憶が疼いていた。
この女性がどんな未来を辿るか、ニッカは知っている。数か月後、ナイトシティの路地でスカベンジャーとギャングの銃撃戦に巻き込まれる。流れ弾が数発、防護もされていない体を貫く。原作の物語では、それがグロリアの命を奪う出来事だった。
生きるか死ぬかは、紙一重だった。
常連客に死なれては困る。
それだけが理由だと、ニッカは自分に言い聞かせた。誰かを助けたいからではない。ただ、今の暮らしを壊されたくないだけだ。何度もそう繰り返して、自分の中の何かをごまかしていた。
「グロリア、これ持ってって」
作業台の下から、彼女は継ぎ接ぎだらけのベストを取り出した。廃材の断熱材と衝撃吸収パッドを縫い込んだ、見た目こそ粗末な代物だ。
「なにこれ」
「防護ベスト。廃材で作った試作品だから、タダ同然でいいよ」
グロリアは目を丸くして、それを受け取った。裏地に走る配線の意匠に、彼女は指を這わせる。
「これ……ただの防護服じゃないでしょう」
「気のせいだよ。ただの排熱処理と緩衝材の組み合わせ」
ニッカはそっけなく答えて、視線を逸らした。本当のことなど言うつもりはない。この一着が、いずれグロリアの命を繋ぎ止めることになる。それを知っているのは、この世界でニッカただ一人だった。
「重さは気にならないと思う。動きも制限しない設計にしたから」
「へえ……随分、本格的ね」
グロリアはベストを羽織ってみせた。腕を上げ下げして、動きを確かめる。彼女の表情に、わずかな驚きが浮かんでいた。
内側に仕込んだ層は、廃棄された家電の断熱材を細かく裁断し、衝撃吸収用のゲル状パッドと交互に重ねたものだった。単なる緩衝材の寄せ集めに見えて、その配置には前世の知識に基づいた計算がある。衝撃の分散角度、熱の逃がし方、それぞれの層の厚みの比率。すべてに意味があった。ニッカ自身にとっては、ゲームで覚えた「軽量高耐久ビルド」の手順をなぞっただけの作業だったが、この世界の基準からすれば、それは軍用規格の防護装備に匹敵する代物だった。
「軽い。それに、なんだろう……妙に馴染む感じがする」
「気に入ったならよかった」
ニッカは短くそう言って、それ以上は語らなかった。語れば、何かを見透かされる気がした。
グロリアはしばらくニッカの顔を見つめていた。それから、ふっと微笑んだ。
「あなた、優しい子ね」
その言葉に、ニッカは小さく肩をすくめただけだった。
「別に。ただの商売」
「商売にしては、値段が安すぎるじゃない」
グロリアは笑いながら、鞄から紙幣を取り出そうとした。ニッカはそれを手で制した。
「いいから。その代わり、絶対に脱がないでよ。仕事中は特に」
「仕事中は、って随分限定するのね」
「……気休めみたいなものだから。念のため」
ニッカは目を逸らしたまま、そう答えた。グロリアはそれ以上追及せず、小さく笑うだけだった。
「はいはい、わかったわよ」
グロリアはベストを羽織ったまま、鞄を担ぎ直す。扉の向こうには、乾いた大地とその先に霞むナイトシティの灯りが待っていた。
「デイビッドの学費、あと少しなの。稼がなきゃ」
その名前を聞いて、ニッカの中で何かがかすかに反応した。デイビッド・マーティン。物語の中心にいた少年の名前だ。しかし今は、その先の記憶を深く辿るつもりはなかった。関わらない。それが誓いだった。
「息子さん、元気にしてる?」
なんとなく尋ねると、グロリアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「あの子、最近ちょっと生意気になってきてね。将来はアラサカのてっぺんまで登るんだ、なんて言い出す始末よ」
「大きく出たね」
「でしょう。夢を見るのは自由だけど、あんまり大きな夢は危なっかしくて、母親としては気が気じゃないわ」
グロリアはそう言って、小さく肩をすくめてみせた。その仕草には、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。ニッカはそれを黙って聞いていた。何か言いたい気持ちが胸の奥をよぎったが、言葉にはしなかった。息子の話をするときのグロリアの顔は、普段の飄々とした表情とはどこか違って見えた。
「……無理しないでよ」
ニッカの声は、思いのほか小さかった。
「あんたに言われるとはね」
グロリアは軽く笑って、そのまま踵を返した。
グロリアは振り返らずに手を振り、車のエンジン音とともに走り去っていった。土煙が舞い上がり、やがて静けさだけが残る。
ニッカはしばらくその場に立ち尽くしていた。
夕暮れの光が、廃車置き場の輪郭をオレンジ色に染めていく。エンジン音が完全に聞こえなくなっても、彼女はまだ扉の外を見つめていた。
なぜ、あそこまでしてしまったのか。自分でもうまく説明がつかなかった。ただの商売だと言い聞かせても、心のどこかで納得しきれない部分がある。関わらないと誓ったはずなのに、気づけば手が勝手に動いていた。
その矛盾を、ニッカはまだうまく処理できずにいた。
胸の奥にわだかまる予感を、彼女はまだ言葉にできずにいた。ただ何かが、静かに動き始めている気配だけがあった。
「……気のせい、だといいけど」
つぶやいた声は、誰に届くこともなく、乾いた風にさらわれて消えていった。
ガレージの中に戻ったニッカは、作業台の明かりを消さないまま、義手の分解作業に戻った。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。それが、彼女がずっと続けてきたやり方だった。
作業台の隅には、古びたレンチが一本置かれている。バートが最後まで使っていた工具だった。刃こぼれした柄には、彼の手の跡がうっすらと残っている。ニッカはそれを磨くこともせず、ただそこに置き続けていた。捨てる気にはなれなかったし、かといって特別扱いする気にもなれなかった。それがちょうどいい距離だった。
夜が更けていく中、ニッカは寝る前に必ず行う習慣をこなした。太陽光パネルの蓄電状況の確認、周辺センサーの再起動、そして防衛システムの作動確認。すべてが正常だと分かってから、ようやく彼女は毛布に潜り込んだ。
天井を見上げながら、ニッカはグロリアの言葉を思い返していた。
――あの子、将来はアラサカのてっぺんまで登るんだ、なんて言い出す始末よ。
その言葉の奥に、ニッカの知る物語の欠片が確かに潜んでいた。目を閉じても、なかなか眠気は訪れなかった。
枕元に置いた携帯ラジオから、低い音量でナイトシティのニュースが流れていた。パシフィカ地区での抗争、ウォーターフロントでの発砲事件。いつもと変わらない、乾いた口調のアナウンサーの声だった。ニッカはそれを聞き流しながら、まぶたを閉じた。
――関わらない。私はただ、ここで静かに生きるだけ。
何度も繰り返してきた言葉を、今夜も胸の内でなぞる。それでも、グロリアに手渡したベストの感触が、いつまでも指先に残っていた。
窓の隙間から、乾いた風の音が絶え間なく聞こえてくる。いつもと変わらないはずのその音が、今夜だけはどこか落ち着かなく感じられた。ニッカは寝返りを打ち、毛布を強く引き寄せた。
バッドランズの静けさは、まだ保たれている。
しかしその静けさが、あとどれだけ続くのか。ニッカ自身は、まだ知る由もなかった。
窓の外では、乾いた星空が音もなく広がっていた。バッドランズの夜は、いつもと変わらぬ顔をして更けていく。