作業台の上に転がされたフレームは、朝の光の下で見ても、やはり侘しい姿をしていた。
トタン屋根の隙間から差し込む光が、埃の粒子をゆっくりと舞わせている。その光の筋の先で、フレームだけが黙って横たわっていた。
タンクもシートも配線も、何一つ残っていない。あるのは錆びた骨組みと、固着したピストンを抱えたエンジンだけだった。ニッカはしばらく腕を組んだまま、その骨組みを睨みつけた。
「……材料が、一個もない」
いつもならこうはならない。廃車を持ち込まれても、大抵は制御基板の欠片か、腐りかけの配線くらいは残っている。そこから逆算して直すのが彼女のやり方だった。だが今回に限っては、逆算する対象そのものが存在しない。
「タンクがない。シートがない。ライトも配線も何もない」
指折り数えるように呟くうち、だんだんと声が小さくなっていった。得意分野の対極にある仕事だという自覚だけが、じわじわと胸の中で膨らんでいく。
「……つまり、全部、一から作れってこと」
誰へともなく確認するように言ってから、ニッカは深いため息をついた。ガレージに満ちた静けさだけが、その息の音に静かに応えていた。
これまで持ち込まれた廃品のほとんどは、少なくとも骨格の周りに何かしら手がかりが残っていた。焦げた基板一枚あれば、そこから回路図を推測できる。潰れた銃身一つあれば、内部構造の見当がつく。だが今回は、その手がかりそのものが最初から存在しない。
「……銃の配線直す方が、百倍楽」
愚痴めいた比較が、思わず口を突いて出た。それでも工具箱に伸ばした手は止まらなかった。
「よお。今日も朝から唸ってんのか」
顔を出したのは見張りの青年だった。フレームを覗き込み、彼はわずかに眉を上げる。
「相変わらず、裸のままだな」
「これから、着せる」
「着せるって、何を」
「タンク。シート。ハンドル。ライト」
「全部かよ」
「全部」
あっさり言い切ったニッカに、青年は口笛でも吹きそうな顔をした。
「じゃあいっそ、髑髏のペイントでも入れてみたらどうだ」
「……余計な提案、いらない」
真顔で切り捨てられ、青年は肩をすくめながらガレージを後にした。
廃品置き場は、長年かけて積み上がった宝の山であり、同時にただのゴミの山でもあった。ニッカは腰を屈め、山の中から使えそうなものを一つずつ引っ張り出していく。
最初に出てきたのは、潰れたヘルメットだった。中身のクッションはとうに朽ちていて、被り物としては使い物にならない。
「……違う」
放り出し、次を漁る。今度出てきたのは羽根の欠けた扇風機だった。
「これも違う」
続いて出てきたのは、弦の切れた古いギターだった。木部は湿気でふやけ、指で押すとぶよぶよと沈む。
「……論外」
その次には、片方だけの長靴が転がり出た。
「……何で、片方だけ」
もう片方を探す気にもなれず、ニッカはそのまま脇へ放った。次に指先が触れたのは、針の止まった古い置き時計だった。文字盤には蜘蛛の巣状のひびが走り、内部の歯車は錆でひとつに固まっている。
「……これも、違う」
迷いなく放り、次を漁る。続いて出てきたのは、目玉の取れた古い人形だった。空っぽの眼窩がこちらを見つめている気がして、ニッカは思わず後ずさる。
「……気持ち悪い」
二度と触れないよう、砂を被せて元の位置に戻しておいた。さらに掘り進めると、今度は錆びついた鳥かごが出てきた。中には干からびた羽根が一枚だけ残っている。
「……もう、住人はいない、と」
物悲しい気分になりかけたところで、ニッカは頭を振ってその感傷を追い払った。感傷に浸っている場合ではない。手を止めず、次を探る。
六つ目に手が触れた瞬間、指先に鈍い痛みが走った。
「……痛っ」
引き抜いてみると、それは大きく凹んだ金属の缶だった。かつては何かを保存していたのだろう、側面には錆びた文字がかろうじて読み取れる。潰れ方は無残だったが、素材そのものはまだしっかりしていた。
「……これ、使える」
抱え上げた瞬間、鼻先にツンとした匂いが漂った。ニッカは思わず顔をしかめる。
「……何、この匂い」
嗅ぎ慣れない、酸っぱいような刺激臭だった。燃料の匂いとも違う、もっと得体の知れない何かがこびりついている。
「おい、朝から何漁ってんだ」
戻ってきた見張りの青年が、缶を覗き込んで顔をしかめた。
「その缶、確か古いピクルスの保存缶じゃなかったか」
「……ピクルス」
言われて、ようやく匂いの正体に納得がいった。金属越しに染みついた酸っぱい匂いは、長年の漬け汁の名残らしい。
「別に、いい。中身は関係ない」
「関係なくはないだろ。そのままタンクにしたら、走るたびに酢の匂いしそうだけど」
「……焼けば、消える」
自信なさげな声で言い返しながら、ニッカは缶を作業台まで引きずっていった。青年はまた肩をすくめ、追及せずに立ち去っていく。
金槌を握り、凹んだ缶を丁寧に叩き伸ばしていく作業は、思っていたよりも根気の要る仕事だった。金属を伸ばしては歪みを直し、直しては別の場所が歪む。単純な形を保つことが、これほど難しいとは想像していなかった。
「……電子回路の方が、まだ楽」
愚痴をこぼしながらも、手は止まらない。数十回叩いたところで、ようやく丸みを帯びたタンクらしい輪郭が姿を見せ始めた。
勢い余った一撃が的を外れ、金槌の柄がニッカの指の付け根を掠めた。
「……っ、痛い」
悲鳴混じりの声を上げ、彼女はしばらく指を振って痛みをやり過ごした。誰にも見られていないことを確認してから、何事もなかったような顔で作業を再開する。
試しにフレームへ仮置きしてみると、タンクの取り付け穴とフレーム側のステーの位置が、微妙に噛み合わないことに気づいた。
「……あと、五ミリ」
定規を当てて確かめ、ニッカは小さく舌打ちした。既製品を流用するならまだしも、これは一から叩き出した缶だった。寸分の狂いなく既存の穴を合わせろというのが、そもそも無茶な話だった。
やすりを取り出し、根気強く穴の縁を削っていく。数分おきに仮合わせを繰り返し、少しずつ誤差を詰めていった。
「……もう少し」
削っては合わせ、合わせては削る。単調な繰り返しに、時間の感覚が徐々に曖昧になっていく。ようやく穴の位置が揃った瞬間、ニッカは思わず両手を突き上げた。
「……よし」
誰に見せるでもない達成のポーズを、彼女は少しの間そのまま保っていた。
続けてボルトを通そうとしたところで、今度は規格の合うワッシャーが一枚もないことに気づいた。工具箱の底をひっくり返しても、それらしき部品は見当たらない。
「……ない」
途方に暮れかけたニッカの目に、廃品置き場で見かけた古い瓶の蓋が浮かんだ。急いで拾いに行き、中心に穴を開けて即席のワッシャーに仕立て上げる。
「……これでいい」
規格外の代用品ではあったが、締め付けてみると存外しっかりと役目を果たしてくれた。廃品の寄せ集めで急場をしのぐ、荒野暮らしで染みついたやり方だった。
陽が高く昇り、地面からの照り返しが肌を焦がし始めた頃だった。燃料と補修用の樹脂を分けてもらうため、ニッカは荷物を抱えて中央キャンプの交易所へ足を運んだ。顔なじみの古参の男が、カウンター越しに片眉を上げる。
「また来たのか、嬢ちゃん」
「今日は、樹脂と、あと革の切れ端が欲しい」
「革? 何に使うんだ」
「シートの、詰め物」
「シートって、あの得体の知れない鉄くずのか」
古参の男は苦笑しながら奥の棚を漁り、使い古した革の端切れを何枚か放ってよこした。
「代わりに、何か持ってきたか」
「これ」
ニッカは背負っていた袋から、先週直しておいた古いトースターを取り出した。焼き網の歪みを直し、断線した箇所を巻き直しただけの簡単な仕事だったが、古参の男は満足げに受け取った。
「相変わらず、こういうのは上手いな」
「壊れたもの、直すの、得意」
「そっちは得意で、あっちは苦手ってか」
「……あっちは、まだ、慣れてないだけ」
むきになって言い返すと、古参の男は声を立てて笑った。
「にしても、あんな骨だけの代物に、そこまで熱心になるとはな。まるで恋煩いだ」
「……違う。ただの、修理」
「そういうことにしといてやるよ」
からかい交じりの一言を背に受けながら、ニッカは革の束を抱えて足早にガレージへ戻った。途中、水を汲みに来ていた老女とすれ違い、荷物の中身を目ざとく見咎められる。
「また随分と、変わったもの抱えてるね」
「……ただの、部品」
「バートの若い頃を思い出すよ。あの人も、傍から見りゃガラクタにしか見えないもの、いつも大事そうに抱えてたもんさ」
懐かしそうに目を細める老女に、ニッカは何と答えていいか分からず、曖昧に頷くだけで通り過ぎた。
シートの成形には、廃材のFRP板を使うことにした。型紙を作り、慎重に切り出していく作業は、根気だけでなく段取りの良さも要求される仕事だった。
単独乗車分だけの、短いシート。後端にはささやかなカウルの膨らみを持たせる。図面代わりの落書きを見ながら、ニッカは板を削っては炙り、その繰り返しの中で少しずつ理想の形へ近づけていった。
樹脂を扱う工程では、独特の刺激臭が作業場に立ち込める。むせながらも布で口元を覆い、根気強く作業を続けた。頭の芯がわずかにくらくらして、視界の端が少しだけ歪んで見える。指先に付いた樹脂は、乾く前に触れると糸を引くように伸びた。
「……くさっ。頭、痛くなってきた」
小さく漏らした声に、応える者は誰もいなかった。窓を開け放ち、深呼吸を挟んでから、ニッカは再び板に向き直った。
その最中、水筒を届けに来ていた少女がひょっこりと顔を出した。
「わあ、それシート? かっこいい」
「うん」
「色、塗らないの? ピンクとか、キラキラとか」
「塗らない」
「なんで。せっかく作ったのに」
「余計なもの、足さない主義」
「じゃあ、ちっちゃいシールだけでも」
「……それも、駄目」
食い下がる少女に、ニッカは頑として首を縦に振らなかった。少女はしばらく不満げに口を尖らせていたが、やがて興味の対象をタンクの匂いへと移していった。
「ねえ、これ、なんか酸っぱい匂いする」
「……気にしないで」
「ピクルスの匂いだ! ニッカ姉、お昼ごはん食べた?」
「……別の話」
微妙に噛み合わない会話を続けたまま、少女はけらけらと笑いながらガレージの奥へ駆けていった。その背中を見送りながら、ニッカは小さく息を吐いた。
ハンドルは、廃パイプを炙って曲げることにした。バーナーの炎で炙り、頃合いを見計らって一気に曲げる。低く伏せるクリップオン風の形を目指すには、勘と経験が同時に必要な工程だった。
最初の一本は、力加減を誤って変な角度に折れてしまった。
「……失敗」
二本目は、炙りが足りずに戻ってしまう。
「……また失敗」
三本目は、逆に炙りすぎて先端がだらしなく垂れ下がった。
「……もう、失敗」
積み重なる失敗に、さすがのニッカも肩を落とした。だが四本目に取りかかる頃には、コツらしきものが指先に馴染み始めていた。炎に当てる角度と、力を込めるタイミング。そのわずかな加減だけが、少しずつ体に刻まれていく。
油断した指先が、炙ったばかりのパイプに触れた。
「……あつっ」
悲鳴を上げて手を引っ込め、ニッカはしばらく指先を振り続けた。荒野育ちの手にも、火傷への耐性まではついていないらしい。
「……道具、使えばよかった」
我に返ってから軍手をはめ直し、五本目の挑戦に取りかかる。今度こそ、狙い通りの低く伏せた曲線が仕上がった。
「……できた」
達成感に頬を緩めながら、ニッカはパイプを両手でそっと持ち上げた。
握り手の部分には、古参の男から分けてもらった革の切れ端を使うことにした。古びた革特有の乾いた匂いが指先から立ち上る。細く切り分けた革紐を、パイプの先端から丁寧に巻き付けていく。
最初のうちは力加減が分からず、緩く巻いた部分がすぐにずれてしまった。
「……緩い」
巻き直しては確認し、確認してはまた巻き直す。四度目でようやく、握った時にしっくりくる硬さと厚みに落ち着いた。
「……これなら、滑らない」
試しに両手で握ってみると、革の質感が掌に心地よく吸い付く。無骨な金属剥き出しのパイプが、この一手間だけで急に「乗り物の一部」らしい顔つきに変わった。
勢いのついでに、キックペダルも廃材の丸パイプから削り出すことにした。フレーム側の軸受けに合わせて長さを切り詰め、踏み込む先端には滑り止め代わりの溝を刻んでいく。
組み付けて試しに踏んでみると、根元がわずかにぐらついた。
「……甘い」
舌打ちしながら軸受けを外し、内径をもう一段狭く削り直す。再度組み付けてから踏み込むと、今度はしっかりとした手応えが返ってきた。
「……よし、これでいい」
小さな部品ひとつにも、こうして丁寧に手間をかけていく。地味な積み重ねが、少しずつ車体の輪郭を確かなものに変えていった。
ヘッドライトは、丸型一灯だけと決めていた。廃品箱の底から見つけた小さな丸レンズを、迷いなく前端に据える。
水筒の少女がまた顔を出し、今度はライトの周りを指差した。
「これも、もっと大きいのつけないの? 光る飾りとか」
「つけない」
「なんで、また」
「余計な重さ、増やさない」
「じゃあ、二個つけるのは?」
「……一個で、いい」
譲らないニッカに、少女は分かったような分からないような顔で頷いた。それ以上は何も言わず、興味の対象を別の場所へ移していく。
外装一式が仮組みできたところで、ニッカはふと出来上がったシートに軽くまたがってみた。前傾したハンドルに手を伸ばし、握り込んでみる。
支えのない車体は当然のように傾ぎ、彼女は慌てて片足を突いて体勢を立て直した。
「……うわ、危な」
心臓が跳ねたのも束の間、ニッカは辺りを見回して誰もいないことを確かめた。今のはなかったことにしたい、そんな気恥ずかしさが胸の奥をちくりと刺す。
それでも、前傾姿勢のまま前方を見据えた一瞬だけは、悪くない気分だった。誰かを守るためでも、稼ぐためでもない。ただ格好をつけたいだけの、他愛もない時間。そんな贅沢を味わうのは、思い返してみても初めてのことだった。
「……別に、格好つけてるわけじゃ」
誰へともなく言い訳しながら、ニッカは名残惜しそうにハンドルから手を離した。
外装がある程度形になったところで、ニッカは組み上がりつつある車体をランプの下に並べてみた。ピクルスの匂いを残したタンク、火傷の跡が残るハンドル、片側だけ樹脂の乾きが甘いシート。どこを取っても完璧とは言い難い仕上がりだったが、それでも骨組みだけだった頃とは、まるで違う輪郭を持ち始めていた。
「……悪くない」
満足げに呟いてから、ニッカはようやくエンジン本体の分解に取りかかった。固着したピストンを取り出し、内部の構造を一つずつ確かめていく。
見慣れた電子部品も複雑な配線もない。あるのはただの金属の筒と、それを上下する一枚の円盤だけだった。
「……こんな単純な作りで、本当に動くの」
半信半疑のまま、ニッカはピストンの動きを指先でなぞってみた。冷却フィンの縁に不用意に触れ、鋭い切り口に指の腹を掠める。
「……っ」
小さな傷口を吸いながら、ニッカはふとシリンダー表面に並んだフィンの列を見つめ直した。回路の熱暴走を防ぐため、これまで数えきれないほど排熱経路を組み直してきた。だが目の前のこの放熱設計には、電子部品への配慮など一切ない。ただ空気に触れる面積を稼ぐためだけに、無骨な板が何枚も並んでいるだけだった。
似たようなことを、昔バートにも言われた覚えがある。回路図の読み方より前、まだ工具の名前もろくに覚えていなかった頃の話だ。難しい理屈より先に、手で触れて確かめろ。あの老メカニックの口癖が、不意に耳の奥で蘇った。前世の知識に頼らず、目の前の金属だけを見つめて答えを探るこの感覚は、思えばあの頃からずっと変わっていない。
「……力技すぎる」
呆れ半分、感心半分の呟きが漏れる。緻密な回路の排熱と、力任せの空冷。両極端のはずの二つが、結局は同じ「熱を逃がす」という一点に行き着くという事実が、なんだか妙におかしかった。
傷口を吸いながら、それでも作業の手は止めなかった。上へ動けば、上部の空間が圧縮される。同時に下側では、空いた分だけ空間が広がる。
「……あ」
小さく声が漏れた。下側の空間が広がるということは、そこに負圧が生まれるということだった。
「下がると、上で圧縮。同時に、下で吸気」
独り言のペースが、次第に早口になっていく。
「圧縮された混合気に、火花が飛ぶ。爆発。ピストンが押し下げられる」
押し下げられる過程で、まず排気口が開く。燃え終えたガスが押し出される。さらに下がると、別の通路が開き、下で圧縮されていた新しい混合気が吹き上がってくる。古いガスを押し出しながら、次の分の場所を空けていく仕組みだった。
「……たった二行程で、一回転で全部終わる」
感嘆混じりの声が、静かなガレージに響いた。四行程のエンジンなら二回転かかる工程を、これはたった一回転でこなしてしまう。カムシャフトも吸排気バルブもいらない、ただピストンの上下だけで呼吸するその単純さに、ニッカは思わず息を呑んだ。
「……凄い。カムシャフトもバルブも、要らないなんて」
興奮のあまり、声はどんどん早口になっていく。
「弁機構がない分、部品点数も激減する。整備性も上がる。なのに、なんでこんな原始的な仕組みが、今まで私の攻略データベースに一件も引っかからなかったの」
誰に問いかけるでもない疑問が、勢いよく口をついて出た。
「シリンダーの中で、圧縮と吸気を同時にやってのけるとか、正直、盲点だった。二行程で一回転って、効率だけ見ればとんでもない発想。なのに構造だけ見れば、馬鹿みたいに単純」
一息にまくし立てたところで、背後から乾いた咳払いが聞こえた。振り返ると、報告書を届けに来ていた年長の男が、微妙な表情で立っていた。
「……独り言、随分と熱がこもってるな」
我に返ったニッカの頬に、じわりと熱が上る。
「……つい」
「別に責めちゃいない。ただ、機械相手にそこまで喋る奴、初めて見た」
からかいとも呆れとも取れる口調に、ニッカは工具箱の中身を漁るふりをして視線を逸らした。年長の男は興味深そうにエンジンを覗き込む。
「……つまり、弁みたいなものが、丸ごといらないってことか」
「……うん。ピストンの位置だけで、全部制御してる」
「そりゃまた、乱暴な話だな」
「乱暴なんじゃなくて、合理的」
むきになって言い返すと、年長の男はにやりと笑った。
「へえ。合理的な乱暴者ってわけだ」
うまい返しに、ニッカは何も言い返せず口をつぐんだ。年長の男は報告書だけ置いて、満足げに去っていった。
興奮が落ち着いた頃、ニッカは車体に残っていた小さな給油ポンプの跡に気づいた。分解して調べてみると、それは本来スロットル開度に応じて自動でオイルを送り込む機構だったらしい。だが内部のダイヤフラムはとうに硬化していて、指先で触れただけで小さく砕け散った。
「……壊れてる」
残念そうな声とは裏腹に、ニッカの判断は早かった。
「……面倒な自動給油は、もう直さない」
原始的だが確実な方式に切り替える。ガソリンに直接オイルを混ぜる、混合燃料という手段だった。
廃品の計量カップを取り出し、慎重に目盛りを確かめながら量っていく。
「ガソリン二十に対して、オイル一」
几帳面な手つきで呟きながら調合する様子は、外装作りの荒っぽさとは対照的だった。壊れた鉄くずを相手にしていても、数字だけは絶対に手を抜かない。試しに調合した少量を、瓶に入れて勢いよく振ってみる。蓋の締めが甘かったのか、隙間から中身がわずかに飛び散った。
「……うわ」
慌てて拭き取りながら、ニッカは自分の詰めの甘さに小さく肩を落とした。改めて蓋をきつく締め直し、もう一度振ってみる。
「……均一になった。多分、これでいい」
満足げに頷きながら、ニッカは瓶を作業台の隅にそっと置いた。その几帳面さこそが、彼女の技術屋としての性分だった。
最後に確認したのは、サイレンサーの内部だった。覗き込んでみると、隔壁がとうに抜け落ち、ただの筒と化している。試しに息を吹き込むと、がらんとした筒の奥から、くぐもった反響だけが返ってきた。
「……これじゃ、静かに走れるわけない」
呟きながらも、直す気にはならなかった。理由をあえて言葉にするなら、そこまで手が回らないというより、単純に面倒だったからだ。荒野のど真ん中で、多少うるさく走ったところで誰に迷惑がかかるわけでもない。そう自分に言い聞かせ、ニッカは工具を置いた。
気づけば太陽はすっかり西へ傾き、ガレージの奥までオレンジ色の光が長く伸びていた。そこへ見張りの青年がまた顔を出した。作業台に散らばった工具と、油だらけになったニッカの手元を見て、彼は小さく噴き出す。
「……何、笑ってるの」
「いや、顔にまで油ついてるぞ。狸みたいだ」
「……狸」
「そのまま鏡見せてやりたいくらいだ」
からかうような声に、ニッカは眉を寄せた。言われて頬を拭ってみると、手のひらにべったりと黒い筋がついた。ニッカは無言のまま、青年に向けてその手を突き出す。
「触らないでよ」
「触ってねえよ! 見せてくるのはそっちだろ」
軽口を叩き合ったところで、青年はふと真顔になった。
「……水、ちゃんと飲んでるか」
「……多分」
「多分って、また忘れてるだろ」
図星を突かれ、ニッカは気まずそうに視線を逸らした。青年は呆れたようにため息をつきながら、持っていた水袋を作業台に置いていく。
「今日はもう休め。続きは明日でいいだろ」
「……あと少しだけ」
「その『あと少し』、絶対に少しじゃ済まないやつだ」
呆れながらも、青年は懐から干し肉の包みを取り出し、作業台の隅にそっと置いた。
「飯も食ってないんだろ」
「……多分」
「多分じゃなくて、食え」
押し付けるように言われ、ニッカは油まみれの手のまま包みを受け取った。指先の煤が紙に黒く移るのも構わず、一切れを口へ放り込む。
「……美味しい」
「そりゃよかった。手、洗ってから食えばもっと美味いと思うけどな」
苦笑交じりに言い残し、青年は今度こそガレージを後にした。ニッカはその背中を見送ってから、水袋に手を伸ばし、一気に喉を潤した。
夜が更けた頃、作業台の周りには工具と削りかす、そして焦げた樹脂の匂いが散らかっていた。組み上がりつつある車体を、ニッカはランプの明かりの下でしげしげと眺めた。
油と煤で真っ黒になった両手を、彼女はぼんやりと見下ろす。爪の隙間まで染み込んだ黒さは、水で流したくらいでは落ちそうになかった。
「……前は、こんなに汚れなかったのに」
基板をピンセットでつまんでいた頃の指先とは、まるで別人の手のようだった。爪の間には煤が入り込み、指の付け根には金槌の当たった痕がうっすらと残っている。掌のあちこちに散った小さな火傷の跡も、今日一日の格闘の証だった。それでも不思議と、嫌な気分はしなかった。
タンクには、まだピクルスの匂いがうっすらと残っている。シートは片側だけ樹脂が固まりきらず、少し歪んでいる。ハンドルの片方には、火傷の跡が黒く焦げついていた。
どこを取っても、完璧とは言い難い仕上がりだった。それでも、骨組みだけだったフレームに、少しずつ形が宿り始めている。その事実だけで、ニッカの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「……あとは、火を入れるだけ」
誰へともなく呟いた声が、静まり返ったガレージに小さく響く。エンジンの中で、まだ何も語らないピストンが、ランプの光を鈍く跳ね返していた。
明日はいよいよ、点火系統を組む番だった。上手くいくかどうかは、まだ誰にも分からない。それでも工具箱の蓋を閉じるニッカの手つきには、疲労よりも次への高揚の方が、はっきりと色濃く滲んでいた。
ランプを消す直前、彼女はもう一度だけ車体に目をやった。ピクルスの匂いのするタンク、火傷だらけのハンドル、歪んだシート。粗だらけの仕上がりを数え上げれば、きりがないほどだった。
それでも、粗の一つ一つに見覚えがある。どの傷も、どの匂いも、今日一日で自分の手が刻んだものだった。誰かに褒められるための仕事ではなく、誰かに頼まれた仕事でもない。それだけで、こんなにも気分が軽くなるものかと、ニッカは半ば呆れながら思う。
バートなら、こんな回り道をどう見ただろうか。鼻で笑うか、それとも黙って工具箱を差し出すか。今となっては、確かめる術もない。それでも、答え合わせのできない問いを抱えたまま手を動かし続けるのも、悪くない一日の終え方のように思えた。
「……明日も、頑張ろ」
誰へともなく呟いてから、ニッカはようやくランプの灯りを落とした。暗くなったガレージの中で、骨組みだけだった頃の面影は、もうどこにも残っていなかった。