夜のガレージには、いつしか同じ明かりだけが灯る時間が続いていた。作業灯の白い光の下で、ニッカは分解したばかりの点火装置を、一つずつ丁寧に並べ直していく。
接点の表面は緑青に覆われ、指先で触れるとざらついた感触が返ってきた。目の細かい紙やすりで根気よく磨き上げ、光にかざして曇りのなさを確かめる。コンデンサーは廃品のラジオ基板から抜き取ったものを流用し、容量の近さだけを頼りに組み込んだ。
問題は、点火のタイミングだった。前世の記憶に刻まれた診断ツールは、この骨董品には何一つ通用しない。オシロスコープも、故障コードを読み取る端末も、ここでは飾り物にすらならなかった。
「……勘だけで、詰めろってこと」
ぼやきながらも、ニッカはフライホイールをゆっくりと回し、点火の瞬間が来る角度を指先で探り続けた。数値ではなく感触だけを頼りに追い込んでいく作業は、彼女にとって不慣れな種類のものだった。それでも、途中で投げ出す気にはならなかった。
窓の外はとうに日が落ち、虫の音だけが荒野の静けさを埋めている。時間の感覚は、こういう夜にはいつも曖昧になった。気づけば数時間、同じ姿勢で同じ部品と向き合い続けていることも珍しくなかった。
頭の中で、いつもの検索を試してみる。標準的な点火時期は何度か、プラグの隙間は何ミリが適正か。攻略データベースの奥底を漁っても、答えはやはり返ってこなかった。
――検索中。
――該当データなし。
見慣れたはずのその表示に、ニッカは今更ながら小さく苦笑した。ゲームの中でなら、こんな時こそ隠しパラメータの一つや二つ、都合よく表示されたはずだった。現実は、そこまで親切にできていない。
「……不便。前世、こういう時だけ優しくしてくれてもいいのに」
誰にともなく愚痴をこぼしながらも、指先は止まらなかった。感触だけを頼りに詰めていく作業には、数値で割り切れる仕事にはない、じれったさがある。だがそのじれったさの奥に、妙な手応えが隠れていることにも、ニッカは薄々気づき始めていた。
これまでの仕事は、たいてい答え合わせの作業だった。前世の記憶にある正解を、目の前の現実に当てはめ直すだけで、大抵のことは片付いてしまう。だが今回ばかりは、正解そのものが存在しない。手探りで進むしかないその状況が、思いのほか嫌ではない自分に、ニッカは戸惑いながらも気づき始めていた。
幾晩か同じ作業を繰り返すうち、点火系統は少しずつ形を整えていった。焼き切れたリード線を新しい被覆線に替え、点火プラグの隙間をノギスで何度も測り直す。深夜の作業台には、削り屑と焦げた匂いだけが積み重なっていった。
三晩目の夜、接点のタイミングがようやく指先の感触と一致した瞬間があった。フライホイールを回す手に、これまでとは違う小気味よい抵抗が返ってくる。
「……これ、かも」
思わず声が漏れた。数値では表せないその手応えを、ニッカはノートの隅に「ここ」とだけ書き留めた。理屈で説明しきれない発見を、そのまま形に残す。前世の攻略メモとは、まるで違う種類の記録だった。
その夜遅く、見回りを終えた見張りの青年が、ふらりとガレージを覗きに来た。作業灯に照らされたニッカの手元を見て、呆れ半分の顔で肩をすくめる。
「……まだやってたのか」
「まだやってる」
「もう真夜中過ぎだぞ」
「知ってる」
素っ気ない返事に、青年は工具箱の隅に腰を下ろした。追い出す気もないらしいニッカの様子に、彼はそれ以上小言を重ねなかった。
「……にしても、随分と根詰めてるな。いつもの依頼と、勝手が違うのか」
「違う。これ、誰かのためじゃないから」
言ってから、ニッカは自分の答えに少し驚いた。誰かを守るためでも、明日の生活のためでもない作業に、これほど本気になっている。その事実を、口に出して初めて自覚した気がした。
「……そういうのも、いいんじゃねえの」
青年は特に深追いすることなく、そう呟いてから立ち上がった。
「あんまり無理すんなよ。倒れられても、俺が困る」
「困らせない」
「その返事、あんまり信用できないんだよなあ」
苦笑を残して、青年は夜の闇へと戻っていった。一人になったガレージの中で、ニッカは再びフライホイールに手をかけた。誰のためでもない作業に、これほど心を奪われている自分を、彼女はもう不思議には思わなくなっていた。
最後の夜、ニッカは組み上がったばかりの点火装置を、ランプの下に翳して眺めた。焦げた匂いの染みついた指先に、これまでの徹夜の跡がそのまま刻まれている。
「……これで、多分」
言い切れなかった語尾に、彼女自身の自信のなさがそのまま滲んでいた。理屈の上では動くはずだった。だが理屈だけで動くと言い切れないところに、この骨組みの厄介さがある。
試運転の日は、朝から妙に静かだった。
ニッカは車体を作業台の前に引き出し、キックペダルの位置を確かめながら、腰を落として構えた。工具ベルトの重みが、いつもより肩に食い込んで感じられる。
「……いくよ」
誰へともなく告げてから、ニッカは全体重をペダルに乗せた。
鈍い金属音とともに、ペダルは虚しく空回りした。エンジンは咳の一つも上げず、静まり返ったままだった。
「……嘘でしょ」
舌打ち混じりに呟き、ニッカはもう一度足を掛け直した。二度目のキックも、乾いた音を残しただけで終わった。
三度目は、少し力の入れ方を変えてみる。踏み下ろす速さを意識しながら、体重の乗せ方を工夫したつもりだった。だが結果は同じで、ペダルはただ虚しく戻ってくるだけだった。
「……なんで」
四度目、五度目と、キックは淡々と積み重なっていった。回を追うごとに苛立ちだけが募り、冷静だったはずの手順が、いつの間にか力任せの繰り返しに変わっていく。
六度目、力の込め方を誤ったニッカは、踏み込んだ勢いのままペダルに弾き返された。反動で体勢を崩し、作業台の脚に肩をぶつける。
「痛っ……!」
思わず声を上げ、片足で跳ねながら脛を押さえる。悔しさよりも先に、痛みで目の端に涙が滲んだ。
肩をさすりながら顔を上げると、目の前のエンジンは何事もなかったかのように、静まり返ったまま鎮座している。その沈黙が、ニッカにはやけに不遜に映った。
「……この、頑固者」
悪態をついたところで、鉄の塊が言い返してくるはずもない。分かっていながら、それでも一言くらいはぶつけずにいられなかった。
しばらくその場にしゃがみ込み、脛をさすりながら息を整える。荒野で鍛えた体でも、こういう理不尽な痛みにだけは、いつまでも慣れる気配がなかった。
立ち上がったニッカは、額の汗を袖で乱暴に拭った。三度失敗しただけで、もう半分意地になっている自分に気づく。負けず嫌いの性分は、こんな場面でも律儀に顔を出すらしい。
気を取り直し、ニッカは点火プラグを抜き取って先端を確かめた。案の定、電極の周りがガソリンでべっとりと濡れている。連続して踏み込みすぎたせいで、燃焼室に混合気を送りすぎてしまったらしい。
「……かぶった」
舌打ちしながら、ニッカは布切れでプラグの先端を丁寧に拭った。前世の記憶の中にも、こういう初歩的な失敗談だけはやけに鮮明に残っている。攻略情報としては何の役にも立たないその記憶が、今になって妙に実感を伴って蘇ってきた。
プラグを乾かす間、ニッカは腰を伸ばして深呼吸を繰り返した。焦って踏み込むほど、遠回りになる。分かってはいるつもりでも、いざとなると体の方が先に意地を張ってしまう。
乾いたプラグを慎重にねじ込み直し、ニッカはもう一度キックペダルの前に立った。今度は、力よりも間合いを意識する。踏み込む速さと、体重の乗せ方。理屈で割り切れない部分を、指先と足の裏の感覚だけで探っていく。
深呼吸を一つ挟んでから、静かにペダルへ足を乗せた。急いては事を仕損じる。バートがよく口にしていた言葉が、ふと頭の隅をよぎる。急かされるように踏み込んでいた先ほどまでの自分を思い返し、ニッカは小さく苦笑した。
ゆっくりと重心を沈め、呼吸を整える。焦りだけで押し切ろうとしていたこれまでのやり方が、そもそも間違っていたのかもしれない。そう思い至った瞬間、体の力みが少しだけ抜けていくのが分かった。
工具箱の陰に貼られた古い付箋に、ふと目が留まった。バートの筆跡で残された、燃料補給の目安値。とうに用済みになったはずのその紙を、ニッカはまだ剥がさずにいた。
「……見てて」
誰に向けた言葉かも分からないまま、そう呟いてから、ニッカはもう一度ペダルに足を掛けた。
柄にもなく、胸の中で小さく祈るような言葉が浮かぶ。
「……お願い、動いて」
自分で口にしておきながら、その台詞の似合わなさに苦笑が漏れそうになった。理屈で動くはずのものに祈るなど、技術屋としては本末転倒もいいところだった。それでも、今このときばかりは、理屈だけでは埋まらない何かにすがりたい気分だった。
息を大きく吸い込み、ニッカは渾身の力でペダルを踏み抜いた。
最初に返ってきたのは、滑らかな唸りではなかった。
パン、と乾いた破裂音が一つ、ガレージの空気を切り裂いた。
驚いたニッカがペダルから足を離す間もなく、少し間を置いてまたパン、と音が続く。等間隔にはほど遠い、まだらな破裂がガレージ中に反響した。
「……な、なに、この音」
思わず後ずさりながら、ニッカは目の前で震え続けるエンジンを凝視した。滑らかな爆音を想像していた自分の予想は、見事なまでに裏切られていた。
パン、と間を置いてまた一つ。今度は少し早い間隔で、パパン、と二連続。予測のつかない拍子で、破裂音が勝手気ままに鳴り続けている。
我に返ったニッカは、震える手でエンジンの回転を止めた。静寂が戻ったガレージの中で、耳の奥にはまだ破裂音の余韻がこびりついていた。
鼓動が、いつもより速く胸を叩いている。恐怖のせいなのか、それとも別の理由なのか、ニッカ自身にもすぐには判別がつかなかった。
少し遅れて、じわりと込み上げてくるものがあった。動くはずのないものが、確かに動いた。理屈の外にあった鉄の塊が、たった今、彼女の呼びかけに応えたのだ。
「……動い、た」
声に出してみると、実感が少しだけ現実味を帯びた。両手を握りしめ、思わずその場で軽く飛び跳ねる。誰にも見られていないと分かっていながら、こみ上げる高揚を抑えることができなかった。
「動いた、動いた……!」
繰り返すうちに、口元には隠しきれない笑みが広がっていく。荒野で暮らす十八年の間、こんなふうに手放しで喜んだ記憶は、数えるほどしかなかった。
膝に手をついて呼吸を整えながら、ニッカは頭の中で状況を整理し直した。
「……混合気の濃さが、安定してない」
独り言が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。点火が成功する瞬間と、失敗する瞬間が入り混じっているのだと、ニッカにはすぐに見当がついた。濃すぎればくすぶり、薄すぎれば空回る。ちょうどいい按配を外れた混合気が、律儀に順番を守らず、思い出したように点火しているだけだった。
もう一つの要因にも、ニッカはすぐに思い至った。サイレンサーの内部は、隔壁がとうに抜け落ちてただの筒と化している。本来なら内部で幾重にも反響し、和らげられるはずの爆発音が、そのまま生々しく外へ吐き出されているのだった。
「……直す気、なかったけど。これは、ちょっと予想以上」
乾いた笑いが漏れる。静かに走らせるつもりなど、最初からなかった。それでも、これほど無遠慮な音になるとは、さすがに想定の外だった。
物音に驚いた足音が、ガレージの外から近づいてくる。振り返ったニッカの視界に、息を切らした見張りの青年の姿が飛び込んできた。手には得物代わりの杖を握り、辺りを警戒するように目を走らせている。
「な、なんだ今の音! 銃撃戦か!?」
「違う」
「違うって、今の絶対、銃声みたいな音だっただろ!」
「銃声じゃない。エンジン」
あっさりと返された答えに、青年は握っていた杖を下げながら、しばし言葉を失っていた。
「……エンジンって、あの音が?」
「そう」
「いや、どう聞いても、あれは爆発音だろ」
「爆発、してる。エンジンの中で」
真顔で返された理屈に、青年は毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。緊張していた分だけ、脱力の反動も大きいらしい。
「……脅かすなよ、ほんとに。心臓止まるかと思った」
「心臓、丈夫でしょ。荒野で鍛えてるんだから」
「丈夫さにも限度があるんだよ」
ぼやきながらも、青年の視線は落ち着かなげに車体へ吸い寄せられていた。三本並んだ排気口から、まだ薄く煙が立ち上っている。
「……で、直ったのか、これ」
「まだ」
「まだって、今の音出しといて、まだ、はキツいな」
率直な感想に、ニッカは反論する言葉を見つけられなかった。事実、まだらな破裂音は、およそ完成と呼べる状態には程遠かった。
背後の見張り小屋の方角から、さらに二つ、三つと足音が重なって近づいてくる。中央キャンプへの連絡係を務める若者が、息を切らしながら顔を出した。
「おい、今の音! まさか、ガレージが襲われて――」
「襲われてない」
言い終わる前に遮られ、若者は拍子抜けした顔で立ち止まった。青年が苦笑しながら肩を叩く。
「エンジンだとよ。ニッカ姉の、例のガラクタだ」
「エンジンで、あんな音出るのか……?」
「出るらしい。俺も今、初めて知った」
二人のやり取りを聞き流しながら、ニッカは工具箱の陰でひたすら気まずさに耐えていた。騒ぎを大きくするつもりは、まったくなかった。
「……もう、大丈夫だから。戻っていいよ」
「いや、気になるだろこれは」
若者はそう言いながらも、それ以上詮索せず、安堵の息を吐いて踵を返していった。残ったのは見張りの青年だけだった。
もう一つ、別の足音が近づいてきた。水筒を届けに来ていた老女が、驚いた顔のまま立ち止まっている。手にした水袋を抱え直しながら、彼女はしばらく無言でエンジンを見つめ続けていた。
「……ばあさん、大丈夫か。今の音、心臓に悪かっただろ」
青年が声をかけると、老女はゆっくりと首を横に振った。だがその表情に浮かんでいたのは、驚きよりも、どこか懐かしむような色だった。
「……いいや。驚きはしたけどねえ。それより」
「それより?」
「昔、聞いたことがある気がしてね。この、パンパンいう音」
思いがけない一言に、ニッカは思わず手を止めた。
「……聞いたこと、あるの」
「さあ、どこでだったかねえ。もう、うまく思い出せないよ」
老女は自分でも戸惑うように眉根を寄せ、記憶の糸をたぐろうとするように視線を宙に泳がせた。だが結局、それ以上の言葉は出てこなかった。
「……年のせいかね。若い頃の記憶ほど、こういう時に限って出てこないもんだ」
困ったように笑いながら、老女はそれ以上深追いすることなく水袋を差し出した。
「これ、届けに来たんだよ。喉、渇いてるだろう」
「……ありがとう」
素直に受け取ったニッカは、水袋を傾けて喉を潤しながら、老女の言葉を頭の片隅に留め置いた。誰も知らないはずの音に、なぜか覚えがあると言う者がいる。理由の見当たらないその引っかかりを、今すぐ解く手立てはなかった。
老女はもう一度、車体の排気口へ目を細めた。皺の刻まれた顔に浮かんでいたのは、困惑よりも、遠くを懐かしむような柔らかさだった。
「……不思議なもんだねえ。音一つで、何十年も前の何かが、胸の奥でちょっとだけ揺れる」
「……何十年、前」
「さあ。あたしも、正確なところは分からないよ」
はぐらかすような口ぶりだったが、嘘をついている響きではなかった。ただ本人にも、その記憶の正体がまだ掴めていないだけなのだと、ニッカには何となく伝わってきた。
「思い出したら、教えて」
「ああ、忘れなきゃね」
軽い調子でそう答えると、老女は空になった水袋の紐を結び直した。
二人の背中を見送りながら、ニッカはふと自分の中にも、似たような何かが微かに残っていることに気づいた。パン、という乾いた響きを思い返すたび、小さな疼きが胸をかすめる。懐かしいのか、落ち着かないのか、自分でもうまく説明がつかない感覚だった。
前世の記憶を辿ってみても、そこに紐づく映像は何も出てこない。ただ、体のどこか奥の方だけが、その音の連なりに小さく反応している気がした。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞かせるように呟いてから、ニッカは頭を軽く振ってその感覚を追い払った。理由の見当たらないものにいちいち構っている暇はない。今は、目の前の調整の方がよほど優先順位が高かった。
「……にしても」
青年が、車体を覗き込みながら口を開いた。
「タンクもシートも、ずいぶん急ごしらえなのに、音だけは一丁前だな」
「うるさい」
「褒めてんだよ、これでも」
「褒め方、下手すぎ」
軽口を叩き合う二人の様子に、老女が小さく笑い声を漏らした。
「相変わらず、仲がいいことだねえ」
「仲、良くない」
即座に否定したニッカの声は、我ながら早口すぎて説得力に欠けていた。
「……にしても」
青年は興味を隠しきれない様子で、車体にもう一歩近づいた。
「さっきの、まだらな音。ありゃ結局、何が原因なんだ」
その一言に、ニッカの目の色がわずかに変わった。
「混合気の濃さが安定してない。濃い時は燃えきらずにくすぶって、薄い時は火花が飛んでも爆発力が足りない。だから点火が成功する瞬間と失敗する瞬間が、順番も守らずに勝手にばらけて出てくる。あと、サイレンサーの中身がもう筒みたいなものだから、本来なら内部で何度も反響して和らぐはずの音が、そのまま生で外に抜けてる。だから余計に耳につく音になってる」
立て板に水のごとく続いた説明に、青年はしばし呆気にとられた顔で立ち尽くしていた。
「……悪い、半分も分からなかった」
「……あ」
我に返ったニッカは、急に気恥ずかしくなって視線を逸らした。焦ると早口になる癖は、自分でも自覚しているつもりだったが、こうして直接指摘されるとやはり具合が悪い。
「別に、分からなくていい」
「いや、聞きたかったんだけどな、俺は」
からかうでもなく、素直にそう返され、ニッカはますます言葉に詰まった。何気ない一言のはずなのに、妙に落ち着かない気分にさせられる。理由を深く考える前に、ニッカは誤魔化すように咳払いを一つ挟んだ。
「……見張り、戻るわ。何かあったら呼べよ。ちゃんと駆けつけるから」
「別に、頼んでない」
「頼まれなくても、駆けつける」
あっさりと言い切られ、ニッカは毒気を抜かれたように口をつぐんだ。青年はそのまま踵を返し、老女とともにガレージを後にしていった。二人の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、ニッカはもう一度エンジンへ向き直った。
工具箱からドライバーを取り出し、ニッカはキャブレターの調整ネジに指をかけた。ほんのわずかに回し、混合気を薄める方向へ詰めていく。
もう一度、ペダルに足を掛ける。
パン。
間隔は、まださっきと大差ないように聞こえた。だがよく耳を澄ませば、破裂と破裂の間隔が、ほんの少しだけ均されているような気がした。
もう一段階、ネジを絞る。
パン、パン。
二度目の破裂までの間が、心なしか短くなっていた。ニッカは眉を寄せ、頭の中でその変化を数値化しようと試みる。だが感覚の話でしかないその手応えを、彼女はひとまず信じることにした。
その後も、調整と試運転は根気よく繰り返された。ネジをほんの四分の一回転締めては、ペダルを踏み込む。破裂の間隔を数え、また少し締める。単調な作業だったが、ニッカの中では、パズルの最後のピースを探すのに似た緊張感が続いていた。
途中、締めすぎて逆に間隔が乱れる場面もあった。慌てて半分ほど緩め直すと、破裂音はまた落ち着きを取り戻す。行き過ぎては戻り、戻ってはまた少し進む。その繰り返しの中に、正解の在り処が少しずつ絞られていった。
「……このへん、かな」
独り言が、いつの間にか前向きな響きに変わっていた。ネジを回すたび、破裂の呼吸が少しずつ整っていく。まだ完成にはほど遠い。それでも、頑固に沈黙を守り続けていた鉄の塊が、ようやく応え始めている感触だけは、確かにニッカの指先に伝わってきていた。
油だらけの手の甲で額の汗を拭いながら、ニッカは一度作業の手を止めて水袋に口をつけた。老女が届けてくれた水は、すでにぬるくなっていたが、渇いた喉にはそれでも十分すぎるほど染み渡った。
視線を落とすと、指先の関節にいくつも小さな擦り傷ができている。荒野暮らしで慣れているはずの傷だったが、今日ばかりは、その一つ一つに理由のない愛着めいたものを感じてしまう自分がいた。
「……別に、痛くて当然の作業だし」
誰へともなく言い訳するように呟いてから、ニッカは水袋の紐を結び直し、再びしゃがみ込んだ。
傾きかけた太陽の光が、作業台の隅に置かれたドライバーの柄をぼんやりと照らしている。単調な調整作業の繰り返しにも、いつしか一定のリズムが生まれていた。ネジを回し、耳を澄まし、また少し回す。焦りに任せて力任せに踏み込んでいた朝方とは、まるで別人のような手つきだった。
作業の手を止めた拍子に、ニッカはふと自分の格好を振り返った。腕にも頬にも黒い油汚れがべったりとこびりつき、髪はほつれて額に張り付いている。誰かに見られたら、さぞかし滑稽な姿だったに違いない。
「……まあ、いつものことだけど」
開き直るように呟いてから、ニッカはもう一度手の甲で頬を拭った。かえって汚れを広げただけだと分かっていたが、今更取り繕う気にもなれなかった。
これまで直してきた廃品は、どれも「誰かのために」という理由の中で意味を持っていた。壊れた銃も、震える手も、崩れかけたフェンスも、すべて生き延びるための理屈に沿っていた。だが目の前の鉄の塊には、そういう理屈が一つも当てはまらない。ただ、格好良く仕上げたい。それだけの一心で、これほどの時間と根気を注ぎ込んでいる自分がいる。
その事実を、ニッカはようやく素直に認める気になっていた。バートなら、こんな理由で夜を徹する自分を見て何と言っただろうか。呆れるだろうか、それとも笑って見守ってくれるだろうか。答えの出ない問いを、ニッカは軽く頭を振って追い払った。
「……別に、悪くないよね。たまには」
誰に言い訳するでもない呟きが、静かなガレージの中に溶けていった。
日が傾き始める頃には、破裂音の間隔はいくらか揃うようになっていた。パン、パン、パンと続く拍子の合間に、時折思い出したように乱れる呼吸が挟まる。それでも、最初のまだらさに比べれば、明らかに一つの意志を持ち始めているように聞こえた。
汗を拭いながら、ニッカはペダルから足を離した。静寂が戻ったガレージの中に、焦げた匂いだけが漂い続けている。
しゃがみ込んだまま、ニッカはしばらくエンジンを見つめ続けた。生存にも防衛にも役立たないこの鉄の塊に、これほど長い時間をつぎ込んでいる自分を、彼女はまだうまく説明できずにいた。それでも、投げ出すという選択肢は、いつの間にか頭の隅からすっかり消えてしまっていた。
「……もう少し」
呟きながら、ニッカはキャブレターにもう一度手を伸ばした。あと少しで、このまだらな呼吸が、確かな拍子に変わる。理屈では説明のつかないその予感だけを頼りに、彼女は再びドライバーを握り直した。
工具箱の隅に置かれたノートには、数値の代わりに感触だけを頼りにした走り書きが、いくつも積み重なっている。前世の記憶にも、攻略データベースにも載っていない、彼女だけの記録だった。ページをめくり返すたび、ニッカの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
窓の外では、橙色の光が荒野の稜線を静かに染め始めていた。作業灯の下、ピクルスの匂いを残したタンクと歪んだシートを纏った鉄の骨組みが、次の一蹴りを待つように、じっと横たわっていた。破裂の呼吸が確かな拍子を刻み始めるまで、あと少し。その予感だけを道連れに、ニッカの夜はまだ、静かに続いていく。
遠くで、見張り小屋の明かりが一つ灯るのが見えた。今日一日だけで、随分と多くの人間を騒がせてしまった。それでも、誰一人として本気で怒っている様子はなかったことに、ニッカは密かに安堵していた。
工具を握り直しながら、ニッカは小さく息を吐いた。まだらな破裂音が確かな拍子に変わるその瞬間を、今はただ、静かに待ち続けるしかなかった。
明日もきっと、同じ作業の続きになる。それでも構わないと、ニッカは素直に思えていた。答えのないものを、答えが出るまで詰めていく。そんな時間の使い方を、彼女は今、密かに気に入り始めていた。
工具箱の蓋を静かに閉じながら、ニッカは最後にもう一度だけ、排気口から立ち上る薄い煙を見つめた。明日には、この頼りない呼吸が、もっと確かな拍子を刻んでいるはずだった。