破裂音が、ようやく等間隔に落ち着いたのは、四日目の朝だった。
パン、パン、パン、と規則正しく続くその拍子を聞いた瞬間、ニッカはドライバーを握ったまま、しばらく動けなくなった。数え切れないほど繰り返してきた微調整の果てに、鉄の塊がついに一つの呼吸を覚えたのだと分かる。
「……できた」
実感の薄い声で呟いてから、ニッカはエンジンを止めた。静寂の戻ったガレージの中に、焦げた匂いだけが名残のように漂っている。指先の関節にできた無数の擦り傷を眺めながら、彼女はゆっくりと息を吐いた。徹夜の連続で目の下には濃い隈ができていたが、達成感の方がその疲労をあっさり上回っていた。
しゃがみ込んだまま、ニッカは何度もエンジンを掛け直しては止め、掛け直しては止めを繰り返した。疑い深い性分が、たった一度の成功を素直に信じることを許してくれない。五度目に同じ拍子が返ってきたところで、ようやく彼女は工具を作業台に置いた。
「……疑いすぎ、かな」
誰へともなく呟いてから、ニッカは油まみれの両手を見下ろした。爪の間まで染み込んだ黒ずみは、もう何日も落ちる気配がない。それでも不思議と、汚れが増えるほど気分は軽くなっていった。
思い返せば、まだらな破裂音に振り回された夜がいくつも続いていた。キャブレターのネジを四分の一回転締めては試し、乱れれば緩め、また締め直す。数値に頼れない分だけ、指先の感覚だけを信じるしかない作業だった。何度も心が折れかけたが、そのたびに工具を握り直す手が勝手に動いた。理由の説明できないその粘り強さに、ニッカ自身が一番驚かされていた。
顔を上げると、視界いっぱいに車体の全貌が広がっていた。掘り出した骨組みから、幾日もかけて組み上げてきた、紛れもない一つの機械がそこにあった。
潰れた燃料缶を叩き出して作ったタンクは、装飾のない無骨な曲面をそのまま晒している。継ぎ目の凹凸をあえて残した、実用だけを追った形だった。その後ろに続くシートは、廃材のFRP板を炙って成形した短い一人掛けで、後端にはささやかなカウルの膨らみが控えめに立ち上がっている。二人乗りを許さない、この車体の性格をそのまま映す部分だった。
ハンドルは廃パイプを炙って曲げた低いクリップオン風で、握るたびに上体を自然と前へ傾けさせる。丸型のヘッドライトが一灯だけ、その先端に収まっていた。フレームは煤けた黒い金属に覆われ、あちこちに溶接跡と継ぎ接ぎが走っている。飾り気のないその肌には、ニッカ自身の手癖と苦労がそのまま焼きついていた。
完成したばかりのチャンバーから伸びる三本の排気管は、行儀よく一列に並んでいる。塗装は施していない。無塗装のガンメタルと黒錆びた鉄肌が、朝の光を鈍く弾き返すだけだった。電子部品も、配線の類も、どこにも見当たらない。ただの金属と燃料と、彼女の意地だけで動く一台だった。
「……悪くない、かも」
誰へともなく漏れた呟きは、いつもの実利的な口調とはどこか違う響きを帯びていた。
試走の話を切り出すと、真っ先に反応したのは見張りの青年だった。
「今日、走らせるのか」
「うん」
「あの音出す物騒な鉄の塊、初めて外で走らせるのか」
「物騒じゃない。ただの、エンジン」
あっさり返したニッカに、青年は疑わしげな目を向けた。それでも止める気はないらしく、腕を組んで小さく肩をすくめただけだった。
「……見てるだけなら、俺も付き合うよ」
「別に、頼んでない」
「頼まれなくても、見る」
いつもの応酬に、ニッカは小さく苦笑した。噂はその日のうちに中央キャンプへも伝わったらしく、昼過ぎには報告書を届けに来た年長の男までもが、興味を隠しきれない様子でガレージの前に姿を現していた。
「例の鉄馬、いよいよ走らせるのか」
「うん」
「バッテリーの残量報告、まだ埋まってないぞ」
「……後で、書く」
案の定な小言に、ニッカは目を逸らしながら答えた。年長の男はそれ以上追及せず、代わりに荷車の陰から小さな折り畳み椅子を引っ張り出してきた。すでに見物する気満々の様子だった。
噂を聞きつけた中央キャンプの若者が数人、水を運ぶついでだと言い訳しながら顔を出す頃には、ガレージの前はちょっとした人だかりになっていた。誰かが「何刻に走るんだ」と尋ね、別の誰かが「見逃したら惜しいぞ」と勝手に盛り上がっている。ニッカはその輪の端で、居心地の悪さに肩をすくめるしかなかった。
「……そんなに、大した見世物じゃないんだけど」
「バッドランズじゃ、これくらいしか娯楽ないんだよ」
見張りの青年の即答に、周りから同意の笑いが漏れた。誰も悪気があって集まっているわけではないと分かっていても、注目される居心地の悪さは拭いきれなかった。
水筒を届けに来ていた少女も、母親に手を引かれながらガレージへ顔を出した。組み上がった車体を目にした途端、少女の顔がぱっと輝く。
「わあ、動くの!? 今日走るの!?」
「多分」
「多分って何、絶対走らせてよ!」
無邪気にせがまれ、ニッカは曖昧に頷くしかなかった。少女はそのままタンクの脇にしゃがみ込み、排気口を指でなぞりながらもう一度顔を上げた。
「ねえ、やっぱり名前つけようよ。三本さんとか」
「つけない」
「じゃあ、パンパン君は?」
「……それも、つけない」
容赦のない命名候補の連発に、ニッカは頭を抱えたくなった。少女の母親が「こら、邪魔しちゃだめ」とやんわり窘めながらも、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「勝手に名前決まりそうな勢いだねえ、こりゃ」
「……決まってない。まだ、決めてない」
言い張るニッカをよそに、少女は指折り数えながら候補をさらに増やそうとしていた。「じゃあ三本パンパン丸は?」という新案が飛び出した瞬間、ニッカは会話を打ち切る決意を固めた。
工具ベルトを締め直し、廃材から自作した簡易ゴーグルを首元にかけながら、ニッカは念のためにと古い鍋を頭に被ってみた。持ち手の部分がちょうど後頭部に引っかかり、思いのほか安定する。鏡代わりに磨いた金属板へ映してみると、我ながら間の抜けた格好だったが、頭を守れるならそれで十分だった。
その姿を見た見張りの青年が、露骨に噴き出した。
「……鍋、被ってるのか」
「防具、代わり」
「防具って言うには、ちょっと」
「文句あるなら、代案出して」
言い返された青年は、それ以上何も言えずに口をつぐんだ。ニッカは構わず鍋の位置を整え直し、車体の前に立った。集まった顔ぶれを見渡すと、いつの間にか小さな観客席のようになっている。
「……別に、見世物じゃないんだけど」
「見世物みたいなもんだろ、これ」
青年の即答に、周囲から小さな笑いが漏れた。誰かが折り畳み椅子を追加で並べ始め、別の誰かが手持ちの干し肉を賭け金代わりに差し出して、ニッカが何メートル走れるかを勝手に予想し合っている。年長の男に至っては、指を三本立てて「三十メートルもいけば上等」と自信ありげに宣言していた。
「……賭け事の対象にしないで」
「面白いから仕方ないだろ」
ぼやくニッカに悪びれもせず返され、彼女は諦め混じりに肩を落とした。中央キャンプから来た若者の一人が「五十メートルに賭ける」と手を挙げれば、別の一人が「いや、十メートルも怪しいね」と即座に反論する。誰も彼女の腕前を心配していないのだけは、はっきりと伝わってきた。
工具ベルトを締め直しながら、ニッカは煮え切らない声で呟いた。
「……せめて、応援して」
「応援も込みの賭けだよ、これは」
見張りの青年に軽くあしらわれ、ニッカは反論する気力を失った。恥ずかしさを誤魔化すように咳払いを一つ挟み、彼女はキックペダルに足を掛けた。
「いくよ」
誰へともなく告げてから、渾身の一蹴りを繰り出す。
パン、パン、パン、と小気味よい拍子が連続で刻まれ、ガレージの中に確かな鼓動が響いた。これまでの試行錯誤とは明らかに違う、迷いのない連なりだった。
「……鳴った」
思わず漏れた声に、観客席と化した面々からも小さな拍手が上がる。誇らしさに口元を緩めかけたのも束の間、ニッカはすぐに次の課題へ意識を切り替えた。
「じゃあ、乗る」
「おい、いきなりか」
「今日、走らせるって言った」
止める間もなく、ニッカはまたがった車体のクラッチレバーに手をかけていた。
最初の数メートルは、順調だった。
ゆっくりと発進した車体は、思いのほか素直に前へ進んだ。手応えに気を良くしたニッカは、もう少しだけスロットルを開いてみることにした。
それが、間違いだった。
軽量な車体は、開けた分だけそのまま力を跳ね返してきた。前輪が地面から浮き上がる感触に、ニッカの喉から短い悲鳴が漏れる。
「……うわ、ちょっ」
慌ててスロットルを戻そうとした手が、逆に力んで開いてしまう。加速はさらに増し、ハンドルは意思を持ったように左右へぶれた。
「危ない、避けろ!」
誰かの叫び声が背後で響いた直後、車体は大きく右へ逸れ、積み上げられた廃材の山へ真正面から突っ込んでいった。
崩れ落ちる金属片の音が、しばらくガレージの敷地に反響し続けた。
埃が晴れた頃、廃材の山に半分埋もれるようにして、ニッカが仰向けに転がっていた。頭の上には、潰れた空き缶がいくつも降り注いだ跡が残っている。首元まで滑り込んだ空き缶が一つ、ちょうど彼女の顎の下でかちんと音を立てて止まった。
「……いった」
情けない声で呻きながら身を起こすと、周囲からどっと笑いが弾けた。真っ先に駆け寄ってきた見張りの青年も、心配そうな顔をしながら、口の端では笑いを堪えきれずにいる。
「大丈夫か、って聞くべきなんだろうけど……」
「笑うなら、素直に笑って」
「……我慢、してるつもりなんだけどな」
全然堪えられていない声で答えられ、ニッカは顔についた油汚れを拭いながら盛大にため息をついた。頭に載ったままの空き缶を払い落とすと、それを見た年長の男が横から手を伸ばして拾い上げた。
「これ、記念に取っとくか」
「……いらない」
即座に拒否したニッカだったが、年長の男はどこ吹く風で空き缶を懐にしまい込んでいた。
少女は少し離れた場所で、興奮気味に飛び跳ねている。
「すごい、爆走した! 三本さん、めちゃくちゃ元気!」
「……名前、つけてない」
「もう半分ついてるようなもんじゃない?」
母親に窘められながらも笑いを止められない少女の姿に、ニッカは反論する気力を失っていた。年長の男は折り畳み椅子に座ったまま、報告書に何やらメモを書き加えている。
「点検報告に、一行追加しとくか。『試走にて廃材へ突入、被害軽微』とでも」
「……勘弁して」
「賭けは俺の勝ちだな。三十メートルどころか、五メートルも進んでない」
乾いた声で懇願するニッカをよそに、年長の男は愉快そうに肩を揺らしながら、集まった干し肉をちゃっかり回収していた。五十メートルに賭けていた若者が「話が違う」と食い下がったが、年長の男は「五メートルも五十メートルも似たようなもんだろう」と強引に押し切っていた。
「……そういう理屈、どうかと思う」
ニッカが横から口を挟んでも、二人のやり取りは止まる気配を見せなかった。結局、干し肉の分配は年長の男の総取りという、誰の得にもならない結末に落ち着いた。
服についた埃を払いながら、ニッカは倒れた車体を引き起こした。フレームに大きな損傷はない。安堵する一方で、悔しさが胸の奥でじわじわと燻っていた。
「……もう一回」
「おい、懲りてないのか」
「懲りてない」
即答したニッカに、青年は呆れ半分の笑みを浮かべながらも、それ以上は止めなかった。荷車の陰から替えの手袋を取り出し、無言で差し出してくる。
「手、震えてるぞ」
「震えてない」
「震えてるって。無理すんな」
指摘された通り、握った手袋の中で指先はかすかに震えていた。それでも引き下がる気にはなれなかった。転んだまま終わるのは、荒野育ちの意地が許してくれなかった。
二度目の発進は、慎重に速度を抑えることから始めた。前輪が浮きかけた瞬間、体重を前へ逃がすことでどうにか押さえ込む。何度か蛇行しながらも、車体はどうにか砂地の道を進み始めた。
「……なんとか」
安堵混じりの呟きが漏れる。だが油断した数秒後、路面の小さな段差に前輪を取られ、車体は再び大きく傾いだ。
「わ、わ、わっ」
情けない声を上げながら、ニッカは全身の力でハンドルにしがみつく。転倒こそ免れたものの、車体は制御を離れたまま数十メートルをジグザグに走り抜け、ようやく速度を落として止まった。
息を切らしながら振り返ると、遠くで観客たちが手を叩いている。歓声というより、拍手混じりの爆笑に近かった。
「もういいから戻ってこい! こっちの心臓が持たない!」
青年の叫びに応えるように、ニッカは肩で息をしながら車体の向きを変えた。戻ってきた彼女を出迎えたのは、拍手と共に容赦のない野次だった。
「乗馬より下手だな、あんた」
「……馬、乗ったことない」
「乗ったことなくても分かる下手さだった」
容赦のない指摘に、ニッカは反論の言葉を見つけられなかった。悔しさよりも、疲労の方が勝っていた。
三度目の挑戦は、もう少し慎重に始めるつもりだった。だが今度は別の落とし穴が待っていた。発進の反動で工具ベルトの留め金が緩み、スパナが一本、走行中にぽとりと路面へ落ちる。慌てて振り返った拍子にバランスを崩し、車体は緩やかな速度のまま横倒しに転がった。
幸い勢いは弱く、ニッカは軽い擦り傷だけで済んだ。それでも、続けざまの失態に周囲の笑いは収まる気配を見せなかった。
「……何回転ぶんだよ、あんた」
「……数えないで」
顔を赤くしながら立ち上がったニッカに、青年は差し出した手を引っ込めるのも忘れて笑い続けていた。
見かねた老女が、水袋と一緒に小さな救急箱を提げてやってきた。ニッカの腕についた擦り傷を覗き込み、慣れた手つきで消毒液を含ませた布を当てる。
「……染みる」
「我慢おし。転んだ回数の分だけ、傷も増えるんだから」
「……次から、気をつける」
「その台詞も、もう何度目だったかねえ」
からかうような口調に、ニッカは返す言葉を失った。手当てを受けながら、彼女は妙に居心地の悪い、それでいて悪くない気恥ずかしさを味わっていた。
息を整えながら、ニッカは車体を見下ろした。軽量なフレームと、抑えの利かない出力。整備した本人が誰よりも痛感していた、この乗り物の気性の荒さだった。
「……乗りこなせる代物じゃ、ないかもしれない」
弱音めいた呟きに、老女が小さく笑いながら口を挟んだ。水筒を届けに来ていた老女は、いつの間にか木陰の椅子に腰を下ろし、一部始終を眺めていたらしい。
「そういうもんだろう、暴れ馬ってのは。乗りこなすんじゃなくて、なだめすかしながら付き合っていくもんさ」
「……なだめ、方が分からない」
「そりゃあ、これから覚えるしかないねえ」
のんびりした口調に、ニッカは肩の力が抜けていくのを感じた。悔しさで張り詰めていた気持ちが、いくらか和らいでいく。
「にしても」と老女は続けた。「今日ばかりは、何回転んでも懲りないところが、あんたらしくて面白いよ」
「……褒めてる、つもり?」
「半分くらいはね」
答えになっていない返事に、ニッカは苦笑するしかなかった。
夕方近く、汚れを落としたニッカは、作業台の脇でぼんやりと車体を眺めていた。荒野に沈む夕日が、傷だらけのフレームを淡く照らしている。
「……電子部品、一つも積んでない」
独り言が、静かなガレージに小さく響いた。これまで直してきた武器も、防具も、必ずどこかに信号を発する装置が組み込まれていた。追跡され、あるいは追跡し返すための道具として、彼女の技術はいつも「見つかること」と隣り合わせだった。
だがこの鉄の塊には、探知される要素が何一つない。走る音は隠しようもなく騒々しいが、電波としての痕跡はどこにも残らない。皮肉にも、それがこれまでの創作物にはなかった価値だと、ニッカはようやく気づき始めていた。
「……追いかけられない、乗り物」
呟いた言葉には、これまでの実利主義とは違う響きが混じっていた。誰かを守るためでも、生き延びるためでもない。ただ格好良さだけを頼りに仕上げた一台が、思いがけない形で新しい意味を帯びている。その事実に、ニッカ自身が一番戸惑っていた。
ふと、育ての親の顔が脳裏をよぎった。バートなら、この頑固な鉄の塊を前にして何と言っただろうか。「まだ使える場所がある」が口癖だった彼のことだ。きっと理屈より先に手を伸ばし、ニッカ以上に夢中になって分解を始めていたに違いない。
「……バートなら、絶対、名前つけてたよね」
誰へともなく漏れた呟きに、ニッカは自分でも意外なほど穏やかな気持ちになっていることに気づいた。名前をつけない意地は、まだ崩すつもりがなかった。それでも、育ての親の記憶がこんな形でふっと顔を出したことに、彼女はしばらく目を細めたまま動けずにいた。
様子を見に来た年長の男が、その独り言を耳ざとく拾い上げた。
「追いかけられない、ねえ。物騒な考え方だな、相変わらず」
「別に、そんなつもりじゃ」
「まあ、悪くはないさ。信号を出さない乗り物なんて、この街の連中は喉から手が出るほど欲しがるだろうよ」
感心半分、呆れ半分の口調で言われ、ニッカは居心地悪そうに視線を逸らした。
「ただ、あの音じゃ、隠れて逃げるのには向かないけどな」
「……それは、否定できない」
律儀に認めたニッカに、年長の男は愉快そうに笑いながら折り畳み椅子を畳み始めた。
様子を見に来た見張りの青年が、隣に腰を下ろしながら煙たそうに車体を眺めた。
「……にしても、今日の転びっぷりは語り草になるぞ」
「言わないで」
「クランの半分が見てたからな。もう手遅れだ」
容赦のない現実を突きつけられ、ニッカは天を仰いだ。それでも青年の口調に悪意はなく、むしろどこか嬉しそうな響きが滲んでいる。
「あんたがあんなに無防備に転げ回るとこ、初めて見た気がする」
「……普段は、転ばない」
「普段は、な。今日は完全に、ただの意地っ張りだった」
図星を突かれ、ニッカは何も言い返せずに黙り込んだ。悔しさよりも、なぜか気恥ずかしさの方が強く込み上げてくる。
「……次は、ちゃんと乗りこなす」
「その台詞、三回目くらいに聞いたな」
「……四回目」
律儀に訂正したニッカに、青年は堪えきれずに噴き出した。つられて、ニッカの口元にも隠しきれない笑みが浮かんだ。
夜が更け、クランの人々がそれぞれの寝床へ戻っていった後も、ニッカはしばらく作業台の前を離れなかった。
昼間の失態を思い返すたび、羞恥心と愉快さが入り混じった妙な感情が込み上げてくる。誰かのために完璧を求められてきたこれまでの仕事とは、まるで違う手触りだった。
完璧でなくてもいい。転んでも、また立ち上がって挑めばいい。そんな気楽さを、ニッカはこの一台からいつの間にか教わっている気がした。
「……格好悪いとこ、見せすぎた」
自嘲混じりの呟きに、隠しきれない笑いが混じっていた。荒野で暮らす十八年の間、これほど盛大に人前で転げ回った記憶は、他に一つも思い当たらなかった。
工具箱の隅に転がっていた、あの潰れた空き缶を見つけて、ニッカはしばらく手のひらの上で転がしてみた。年長の男がしまい込んだはずのそれが、いつの間にか作業台に戻されている。誰かの意地悪な置き土産だと、すぐに察しがついた。
「……返しに行こうかな、これ」
呟きながらも、結局その空き缶を工具箱の奥にしまい込む自分に、ニッカは小さく苦笑した。
空が白み始めるより前に、ニッカは静かに寝床を抜け出した。
見張り小屋の灯りはまだ落ちたままで、青年は交代の当番に入る直前らしく物音一つしなかった。物音を立てないよう車体を押して砂地へ出ると、ニッカは深く息を吸い込んだ。
「……見つかったら、また怒られる」
小さく呟きながらも、その足取りに迷いはなかった。誰かに告げれば、きっと止められる。だからこそ、この時間だけは誰にも知らせずにおきたかった。
キックペダルに足を掛け、一度だけ深呼吸を挟む。
パン、パン、パン、と規則正しい拍子が、静まり返った荒野に響き渡った。
走り出した瞬間、昨日までの暴れ馬ぶりが嘘のように、車体はすんなりと前へ進んだ。まだ油断はできない。だが慣れない癖を少しずつ飲み込むたび、ハンドルを通して伝わる振動が、次第に扱いやすい呼吸へと変わっていく。
地平線の向こうから、朝日の気配がわずかに滲み始めていた。前傾したハンドルに体を預け、ニッカは風の音と破裂音だけを道連れに荒野を駆けた。頬に当たる風は冷たく、それでいて不思議と心地よかった。誰かに見せるためでも、記録に残すためでもない、ただ自分だけのための速度だった。
砂丘の稜線が、群青から橙へと少しずつ色を変えていく。普段なら点検リストの文字と睨めっこしているはずのこの時間が、今日だけはまるきり違う手触りをしていた。エンジンの拍子に合わせて体が上下に揺れるたび、昨日の失敗の数々が遠い出来事のように感じられてくる。
誰かを守るためでも、依頼をこなすためでもない。ただ自分のためだけに、格好良さだけを基準に仕上げた初めての相棒。御しきれないその気性さえも、今はどこか愛おしく感じられた。
「……次、乗る時は、絶対に転ばない」
風に紛れて消えていく呟きには、悔しさよりも隠しきれない高揚が滲んでいた。夜明け前の荒野を独り占めにしたまま、ニッカはしばらくの間、束の間の自由を味わい続けた。
昼過ぎ、埃だらけの姿でガレージへ戻ってきたニッカを、見張りの青年が腕を組んで待ち構えていた。
「……黙って抜け出したこと、気づいてないと思ってるのか」
「……気づかれないように、したつもりだった」
「その乗り物、俺でも音で目が覚めるレベルなんだよ」
もっともな指摘に、ニッカは返す言葉もなく視線を逸らした。青年は呆れたようにため息をつきながらも、口元にはやはり笑みを浮かべている。
「まあ、無事に帰ってきたなら、今日のところは大目に見てやる」
「……ありがとう」
「その代わり、次は俺も連れてけ。一人だけずるいだろ」
思いがけない要求に、ニッカは目を丸くした。それから小さく吹き出し、頷く代わりに軽く肩をすくめてみせた。
「……なら、今から少し乗ってみる?」
「え、今か」
「今」
からかい半分の申し出のつもりだったが、青年は案外あっさりと乗り気になった。周囲で見ていた者たちが、面白がって輪を作り直す。年長の男などは、わざわざ折り畳み椅子を座り直させるほどの熱心さだった。
青年は勇んで車体にまたがり、ニッカに教わった通りの手順でクラッチを握った。
「……見た目より、重心低いんだな、これ」
「うん。だから、油断すると」
「油断すると?」
「跳ねる」
説明が終わるより早く、青年はキックペダルを踏み抜いていた。エンジンは素直に目を覚まし、パン、パン、と拍子を刻む。だが発進の一瞬、スロットルの反応の鋭さを甘く見ていた青年の手が、ほんのわずかに開きすぎた。
「うおっ……!」
前輪が浮き上がる感触に、彼の顔から余裕が消える。数メートル進んだところで体勢を崩し、青年はあっけなく横倒しの車体もろとも砂地へ転がった。
響いた音は、昨日ニッカが立てたものとほとんど同じだった。埃が晴れると、砂まみれになった青年が仰向けに寝転がっている。
「……あんた、これ、毎回こうなるやつじゃないか」
「言ったでしょ。油断すると、跳ねる」
「先に言えよ、それ!」
抗議する青年の声に、周囲からどっと笑いが弾けた。年長の男は満足げに頷きながら、懐から先ほどの潰れた空き缶を取り出し、今度は青年の頭の上にそっと乗せてみせる。
「お揃いだな、これで」
「……勘弁してくれ」
項垂れる青年の姿に、ニッカは思わず吹き出した。悔しさに焦がれていた昨日までの自分が、今は誰かと分け合える種類のものに変わっている。そのことが、なぜか妙にくすぐったかった。
「……あんたも、なだめ方から覚える必要あるみたい」
「他人事だと思って、楽しそうに言うなよ」
ぼやきながらも立ち上がった青年の顔には、悔しさよりも、隠しきれない愉快さの方が色濃く滲んでいた。
背後から、年長の男の呆れ声が追い打ちをかけるように飛んでくる。
「今度は報告書の空欄、全部埋めてから走らせろよ」
「……分かってる」
言いながらも、ニッカの声にはまるで反省の色がなかった。傍らで少女が「三本さん、お帰り!」と無邪気に手を振っているのを見て、ニッカは今度こそ訂正する気力もなく、ただ小さくため息をついた。
少女は懐から、廃材のブリキ板に自分で書いたらしい文字を取り出した。歪んだ字で「三本さん」と書かれた即席の看板を、タンクの脇に得意げに立てかける。
「……つけないって、言ったのに」
「もう書いちゃったもん」
悪びれる様子もなく笑う少女に、ニッカは看板を取り上げる気力さえ湧いてこなかった。母親が苦笑しながら「ほら、迷惑になるから」と少女の手を引いても、看板だけはタンクの脇に残されたままだった。
「……別に、認めたわけじゃないから」
誰へともなく言い訳するように呟いたニッカの声は、我ながら説得力に欠けていた。それでも、看板を撤去する手は、なぜか最後まで動かなかった。
破裂音の余韻がまだ耳に残る中、ニッカは工具箱の蓋を静かに開けた。明日からの点検業務も、溜まった報告書の空欄も、今はまだ現実感が薄いままだった。それでも構わないと、彼女は素直に思えていた。
格好良さだけを基準に選んだ、初めての危うい相棒。転んでも、また乗ればいい。そんな単純な結論に辿り着いた自分を、ニッカはまだどこか不思議に思いながらも、悪くない気分で受け止めていた。
タンクの脇に立てかけられたままの、歪んだ文字の看板を横目に見ながら、ニッカは小さく笑みを漏らした。認めるつもりはまだない。それでも、明日もきっと同じように転び、同じように誰かに笑われながら、この頑固な相棒と付き合っていくのだろうという予感だけは、なぜかはっきりと胸の中に居座っていた。
工具箱の蓋を閉じる音が、静かなガレージに小さく響いた。窓の外では、傷だらけの車体が夕暮れの光を浴びながら、次の一蹴りを気長に待っている。
またこんな感じで話で作る予定です。