乾いた風が、トタン屋根の継ぎ目を細かく震わせていた。
ニッカは作業台に向かい、太陽光パネルの接続端子を一つずつ確かめていた。緩みの有無は、もう指先の感触だけで判断がつく。単調な点検を繰り返すうち、頭の中を巡っていた余計な考えが少しずつ後ろへ退いていった。
デイビッドたちが最後にここへ来てから、十日が過ぎている。
あの日以来、ガレージの空気はどこか落ち着かなかった。誰も訪れない日常に戻ったはずなのに、静けさの底に小さな予感が居座っている。約束というほどのものは交わしていない。それでも、あの少年が別れ際に口にした「また様子を見に来てもいいか」という一言が、ニッカの記憶の隅でずっと燻り続けていた。
格納庫の隅では、修理途中のドローンが分解されたまま放置されている。手をつけかけて、また別の作業に気を取られてしまったものだった。散らかった部品の山を横目に、ニッカは小さく苦笑した。訪れる人間が増えるたび、こなすべき仕事の優先順位も少しずつ変わっていく。以前のような単調な日々には、もう戻れそうにない。
「……別に、来るとは限らないし」
誰に言い聞かせるでもなく呟いて、ニッカは端子の締め直しを終えた。工具を置き、汗ばんだ額を袖で拭う。窓の外では、乾いた大地が正午の日差しに白く炙られていた。
デイビッドの背中に施した処置のことを、ニッカは毎日のように思い返していた。神経負荷を逃がすバッファーが、あの粗末な配線の中でどこまで持ちこたえているのか。理屈の上では問題ないはずだった。それでも、実際に経過を確かめるまでは、心のどこかに小さな棘が刺さったままだった。
前世の記憶には、過剰なインプラントがもたらす末路が数え切れないほど蓄積されている。神経の許容量を超えた改造は、初めのうちはごく些細な違和感として現れるものだった。指先の遅れ、感情の起伏の鈍り、眠りの浅さ。放置すれば、その違和感はやがて人格そのものを侵食していく。ゲームの中では単なる数値の一つに過ぎなかったその過程を、ニッカは現実の知識として誰よりも正確に把握していた。だからこそ、経過観察という言葉の重みを、軽く扱う気にはなれなかった。
工具箱を整理し終えたところで、外周センサーの端末が短く鳴った。振動を感知した知らせだった。ニッカは一瞬身構え、それからすぐに肩の力を抜いた。数か月前のような恐怖は、もうそこになかった。代わりに込み上げてきたのは、もっと厄介な種類の緊張だった。
「……今度は、何人で来る気なの」
呟きながら、ニッカは端末の画面に映る土煙の帯を見つめた。振動の周期から数えて、車両は三台。前回と同じ数だった。
砂塵を巻き上げながら進むトラックの運転席で、ハンドルを握っていたのはメインではなかった。
「揺れるぞ、掴まってろ」
低くよく通る声で言うと、男は器用にハンドルを切り、路面の窪みを避けていく。カウボーイハットのつばが、荒野の日差しを遮っていた。豊かな口髭が、話すたびにわずかに揺れる。
「あんた、運転うまいな」
荷台のレベッカが感心したように言うと、男は片方の口角だけを上げて笑った。
「ファルコだ。ハンドル握ってりゃ、誰にも追いつかせねえよ」
「なんであんたが運転してんだよ。いつもメインだろ」
「今日は代わってくれって頼まれた。そんだけだ」
短く答えたファルコの視線が、一瞬だけバックミラーへ向いた。後部座席で、メインは窓に肘をつき、外の景色を眺めている。いつもの豪快な軽口は少なく、腕を組んだ姿勢が今日はやけに硬かった。
「その髭とハット、どこで手に入れたんだよ」
レベッカが話題を変えるように尋ねると、ファルコは片手でつばを軽く持ち上げた。
「もらいもんだ。昔世話になった男の形見でな。ハンドル握るときだけは、これがねえと落ち着かねえ」
「渋いこと言うじゃんか」
「渋いんじゃねえ、験担ぎだ」
軽口を交わしながらも、ファルコの目は路面から一瞬たりとも離れなかった。荒れた地面の凹凸を的確に避け続けるその運転には、無駄な力みが一切なかった。
その隣に座るドリオは、口には出さないまま、メインの右手の指先へ何度も視線を落としていた。窓枠に置かれた指が、路面の振動に紛れてかすかに動く。それが本当にただの揺れなのか、それとも別の何かなのか、この距離では判別がつかなかった。数日前から続くその小さな違和感を、彼女はまだ誰にも打ち明けられずにいた。
助手席の後ろでは、初めて同乗する女が煙草を挟んだ指先を窓の外へ出していた。頬から顎にかけて、マスク状の機械が覆っている。低くくぐもった声が、その隙間から漏れた。
「……こんな何もない場所に、ネットランナーが太刀打ちできない技術が転がってるっていうの」
「キーウィ、疑うんならついてこなきゃよかったでしょ」
助手席のルーシーが、振り返らずに答えた。
「疑ってるんじゃない。確かめたいだけ」
キーウィと呼ばれた女は、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。先日ルーシーが持ち帰った端末のログを、彼女は何度も読み返していた。既存の暗号理論では説明のつかない構造。侵入経路そのものが存在を拒むような防壁。師として積み上げてきた経験の中に、似た事例は一つもなかった。
「誰の仕事も鵜呑みにはしない。それが私の流儀だ」
「知ってる。だから連れてきたんでしょう、あんた自身が」
ルーシーが小さく肩をすくめると、キーウィはそれ以上何も言わずに、また窓の外へ視線を戻した。赤茶けた大地が、どこまでも続いている。
「あのログ、見た? あんたが持ち帰った銃のデータ」
「見た。三回、読み返した」
「感想は」
キーウィは煙草を挟んだ指先を、しばらく宙で止めていた。
「侵入経路の記述が、途中で欠落してるんじゃない。最初から存在しない。壁の向こうに何もないなら、まだ理解できる。だけど、これは壁そのものが記録から抜け落ちてる。そんな真似、ブラックウォールの管理AIにだって容易くはできない」
「だから、確かめに来たんでしょう」
「そうだ。誰の言葉も信じない。自分の目で見て、それでも分からなければ、それはそれで一つの答えだ」
低くくぐもった声には、皮肉とも諦観ともつかない響きが混じっていた。長年ナイトシティの裏側を渡り歩いてきた彼女にとって、理解できない技術を前にすること自体が、久しく忘れていた感覚だった。
荷台では、レベッカが自慢の銃を膝に抱えたまま、上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。焼け跡の残っていたグリップは、今では見違えるほど滑らかに仕上がっている。
「なあデイビッド、あの銃、まだ信じらんねえよ。反動ゼロだぜ、反動ゼロ」
「もう何回聞いたか分からない、それ」
「何回言っても言い足りねえんだよ」
笑いながら答えるレベッカの横で、デイビッドは黙って窓の外を見つめていた。十日ぶりのこの道を、彼はもう迷わず辿ることができた。荒野の景色に見覚えが増えていくことが、自分でも不思議だった。
助手席の後ろに座っていたメインが、ふと小さく息を吐いた。ドリオがすぐに気づき、横目で様子を窺う。
「大丈夫」
「別に、何ともねえよ」
いつもの返事だった。だが今日はその声に、いつもより張りがなかった。ドリオはそれ以上追及せず、ただ膝の上に置いたメインの右手をそっと見つめ続けた。指先が、車の振動とは違う周期でわずかに動いている。本人が気づいているのかどうかは、この距離からでは判断がつかなかった。
「にしても、今日はやけに大所帯だな」
ファルコが運転席から呟いた。
「キーウィまで連れてくるとはよ」
「文句あるの」
「いや、ねえよ。ただ、あの引きこもり嬢ちゃんが卒倒しなきゃいいがな」
ファルコの言葉に、レベッカが荷台から身を乗り出して笑った。
「ギャハハ、卒倒どころか、また砲台向けられんじゃねえの」
「今度撃たれたら、俺は真っ先に逃げるぞ」
軽口が車内を巡るたび、張り詰めていた空気がわずかに緩んでいく。
「そういや、後ろの二台は」
ファルコがバックミラー越しに尋ねると、キーウィが煙を吐きながら答えた。
「私が操ってる。無人だ。運転手なんて要らない」
「無人で、この荒れた道を走らせてんのか」
「積んである処理能力だけは、下手なフィクサーより高性能だからね。……電波が切れたら、その場で自動停止する。前は簡易オートパイロットの丸投げだったんでしょ、これ。誰が組んだのか知らないけど、詰めが甘すぎる」
「悪かったな、詰めが甘くて」
低く応じたメインに、キーウィは肩をすくめただけだった。
「今回は私が手を入れといた。伊達に連れてこられたわけじゃない」
それでも、後部座席の隅では、ドリオの視線だけが変わらずメインの手元に注がれ続けていた。
尾根を越えた先に、見覚えのあるトタン屋根が見えてきた。
車列が速度を落とし、砂埃を巻き上げながらガレージの敷地へ近づいていく。今回は迎撃の気配も、砲身の唸りもなかった。
尾根の手前で、後方の二台がふいに速度を落とし、そのまま静かに停止した。先頭のファルコの車だけが、変わらぬ速度でガレージへ向けて進み続けた。開け放たれた門扉の前で、ニッカが腕を組んで立っているのが見えた。
「ほら、ちゃんと出迎えに来てくれてんじゃねえか」
「出迎えじゃない。見張ってるだけ」
車が完全に停止するより早く、ニッカの声が届いた。仏頂面のまま、彼女は車列の全体をぐるりと見回した。三台分の車と、以前より一人多い人数。眉間の皺が、わずかに深くなる。
「……今日はまた、随分と連れてきたね」
「悪いね」
デイビッドが車を降りながら、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「経過観察に来ただけだ。それと……何人か、あんたに会いたがってた」
初めて顔を見せたファルコが、帽子のつばに指を添えて軽く会釈した。
「初めまして、嬢ちゃん。ファルコだ。今日はこいつらの足を任された」
「……嬢ちゃんって呼ばないで。名前がある」
「そりゃ悪かった。ニッカ、だったな」
淡々と名乗り直したファルコに、ニッカはそれ以上何も言わず、視線を後部座席から降りてきたキーウィへ移した。マスク状の機械越しに向けられる視線には、値踏みするような冷たさがあった。
「あんたが、噂の」
「噂って、何」
「常識の外にある腕を持つ女、って話」
くぐもった声で言いながら、キーウィは煙草の火を靴底で消した。
「私はキーウィ。ネットランナーだ。あんたの仕事を、この目で確かめに来た」
「別に見せる予定ないけど」
にべもなく返すニッカに、キーウィはわずかに口角を上げたようだった。マスクの下の表情までは読み取れなかったが、少なくとも気分を害した様子はなかった。
「そう来なくちゃ、な。誰にでも心を開くような相手なら、逆にこっちが警戒する」
言い終えるより早く、キーウィは端末を軽く操作し、周辺の電波状況を探り始めていた。数秒と経たないうちに、その眉間へ深い皺が寄る。
「……嘘でしょう」
「どうかした」
「何も引っかからない。測位も、通信も、まるでここに何も存在していないみたいに沈黙してる」
ルーシーが以前に味わったのと同じ感覚を、キーウィもまた今、味わっているようだった。
「それに、後ろの二台からも応答が来ない。自動停止したっていう確認信号すら、届いてこない」
いつもなら苛立ちに変わるはずのその一言に、今日はどこか感嘆の色が混じっていた。彼女は端末をしまい、代わりに周囲の景色をゆっくりと見回した。廃車の山、錆びたトタン屋根、どこにでもありそうな荒野のガレージ。その見た目と、今しがた端末が返してきた沈黙との落差に、彼女はしばらく言葉を失っていた。
車両を降りたファルコは、帽子のつばを持ち上げながら格納庫の周囲を一通り見渡していた。
「……この規模の敷地を、たった一人で維持してんのか」
「悪い?」
「悪かねえよ。ただ、只者じゃねえってことは、遠目からでも分かる」
低く呟いたファルコの視線が、格納庫の奥に佇む迎撃タレットの輪郭に一瞬だけ留まった。それ以上は言葉を継がず、彼は軽く肩をすくめただけだった。
遠くの見張り台から、バイクに乗った青年が緩い速度で近づいてきた。以前のような緊迫した形相はどこにもない。彼は車列を一瞥すると、慣れた仕草で片手を上げた。
「また来たのか、あんたら」
「悪いか」
デイビッドが答えると、青年は苦笑しながら首を振った。
「悪かねえよ。ニッカ姉が愚痴らなきゃ、それでいい」
短いやり取りを交わすと、青年はそのまま持ち場へ戻っていった。その背中を見送りながら、ニッカは短く息をついた。数か月前まで、この道を車で近づく者はすべて脅威でしかなかった。それが今では、見張りの少年ですら片手で挨拶を済ませる程度の出来事になっている。変化の速さに、彼女自身がまだついていけずにいた。
ガレージの奥へ一同を促しながら、ニッカはひとつ息をついた。
前回と同じ人数、いや、それ以上の来客だった。それでも、以前ほどの動悸は感じなかった。その事実に、彼女自身が一番戸惑っていた。慣れてしまったのか、それとも諦めたのか。答えの出ない問いを頭の隅へ追いやり、彼女はデイビッドへ向き直った。
「上、脱いで。背中、見せて」
「ここでか」
「他にどこがあるの」
作業台の脇に立たされたデイビッドが、素直に上着を脱いだ。露わになった背中の配線に、ニッカは指先を這わせていく。以前より皮膚に馴染んだ様子の継ぎ目を、彼女は一つずつ丁寧に確かめていった。
「痛みは」
「ない。頭のノイズも、あれから一度も出てない」
「眠りは」
「よく眠れてる。前は、途中で何度も飛び起きてたのに」
短いやり取りを重ねながら、ニッカは携帯用の測定器を配線の端子へ当てた。表示された数値を、彼女は無言で見つめた。神経信号の伝達速度、発熱量、負荷の分散比率。どれも想定していた範囲に収まっている。バッファーは、正しく機能していた。
「……いい感じ。このまま様子見でいい」
「よかった」
デイビッドが小さく息を吐くと、傍らで見守っていたルーシーの表情もわずかに緩んだ。端末を握ったまま、彼女はニッカの手つきを一挙一動見逃すまいと見つめ続けていた。
「その測定器も、廃品なの」
「うん。壊れた血糖値モニターの中身を、別の用途に組み替えただけ」
「血糖値モニターで、神経信号を測ってるの」
「原理は似てるから。電気信号を拾って数値化するだけなら、何にでも応用できる」
事もなげに答えるニッカの横で、ルーシーは静かに首を振った。理解を諦めたのではなく、理解の速度が追いつかないことを認めた仕草だった。
「バッファーの中身、聞いてもいいか」
デイビッドが尋ねると、ニッカは配線を辿っていた指を止めないまま答えた。
「熱を電力に変えて、余った分を神経経路の外へ逃がしてる。あんたの体に入れる前と後で、負荷のかかり方そのものを変えたの。だから、サンデヴィスタンを使っても脳への蓄積が起きにくい」
「起きにくいってことは、ゼロじゃないのか」
「ゼロにする方法は、今のところない。理論上は誰にも作れない。ただ、蓄積の速度を極限まで遅らせることはできる。あんたの場合、今のペースなら心配する必要はしばらくない」
数字を交えた説明に、デイビッドは半分も理解できていない様子だったが、それでも頷いた。理解できなくても、信じるに足る根拠がそこにあることだけは、彼にも分かった。
上着の袖を通しながら、デイビッドはふと思い出したように尋ねた。
「あんたの方は、変わりないのか」
「私? 別に、いつも通りだけど」
「いや、なんとなく。この前より、ちょっと疲れてる気がして」
「気のせいでしょ」
そっけなく返しながらも、ニッカは内心で虚を突かれていた。訪問者の体調ばかり気にかけてきたつもりで、まさか自分の様子まで見られているとは思っていなかった。誰かに心配される感覚に、彼女はいまだにうまく慣れずにいた。
配線の点検を続けるニッカの視界の端で、ふとした動きが目に留まった。
作業台から少し離れた場所で、メインがベンチに腰を下ろしている。何気なく水筒の蓋を開けようとしていたその手が、一瞬だけ止まった。指先が小刻みに震え、蓋の縁を捉えられずにいる。
ニッカの手が、無意識のうちに止まった。
数秒後、メインは何事もなかったかのように蓋を開け、水を一口飲んだ。振る舞いに乱れはない。だが、あの一瞬の停滞は、確かにそこにあった。
デイビッドの背中に向けていた意識が、わずかに逸れる。ニッカは慌てて視線を戻し、測定器の表示を確かめる振りをした。だが、頭の中では別の計算が勝手に走り始めていた。
以前、荷台の縁で見た指先の震え。今、水筒の蓋にすら手こずった一瞬。単なる古傷や疲労では説明のつかない、何か規則性を帯びた症状のように思えた。
しばらくして、メインは工具棚の傍らへ移動し、置かれていたレンチを何気なく手に取ろうとした。太い指がその柄をかすめ、金属が乾いた音を立てて床に落ちる。
「おっと」
短く呟いて拾い上げるメインの様子に、周囲の誰も気を留めなかった。ただの不注意にしか見えない、ありふれた仕草だった。だがニッカだけは、その一部始終を横目で捉えていた。
握力そのものが落ちているわけではない。荷物を運ぶ姿を見る限り、腕力に衰えは感じられなかった。だとすれば、問題は力ではなく、指先へ信号を送る経路の方にある。神経の伝達に、ごくわずかな遅延が生じ始めている。前世の知識が導き出す答えは、一つしかなかった。
「……ニッカ?」
デイビッドの声に、ニッカは我に返った。
「何でもない。もう終わり。着ていいよ」
「本当に、何でもないのか」
「何でもないって言ってるでしょ」
いつもより早口になった返事に、デイビッドは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。上着を羽織りながら、彼はニッカの視線がどこへ向いていたのかまでは気づいていないようだった。
ベンチのそばで、ドリオがメインの様子をずっと見つめていた。
「今の、見た?」
小声で問いかけると、メインは軽く肩をすくめた。
「ただの寝不足だ。昨夜、あんまり眠れなかった」
「毎回、そう言うわね」
「事実だからな」
いつもの調子で受け流すメインに、ドリオはそれ以上言葉を重ねなかった。その代わり、彼女の視線は作業台の方角へ、確かめるように動いた。ニッカの表情に浮かんだ一瞬の翳りを、ドリオは見逃していなかった。あの女が何かに気づいたのだとしたら、それはもう、自分たちだけの秘密ではいられなくなるということだった。
いつからだったか、ドリオにも正確には思い出せない。最初は本当に些細な仕草だった。カップを持つ手が、ほんの一瞬だけ迷う。それだけのことだった。だが、その一瞬は日を追うごとに、ほんのわずかずつ長くなっているように感じられた。本人に尋ねても、返ってくる答えはいつも同じだった。古傷だ、疲れだ、大した事じゃねえ。その言葉を繰り返すたび、メインの声には、自分自身にも言い聞かせているような響きが混じっていた。
長年連れ添ってきた相手の強がりを、ドリオは誰よりもよく知っている。だからこそ、これ以上問い詰めることができずにいた。真正面から向き合えば、メインは意地でもその事実を認めないだろう。認めさせるには、本人以上に確かな根拠を突きつけるしかない。その根拠を持つ人間が、今この場所にいるのかもしれない。そう思うと、ドリオの胸に複雑な感情がせり上がってきた。安堵と、恐れと、その両方だった。
ガレージの隅で、キーウィは腕を組んだまま、格納庫の内部をゆっくりと見回していた。
「……見た目より、随分と手が込んでる」
呟いた声に、応じる者はいなかった。彼女は棚に並んだ工具の一つ一つに視線を這わせ、壁際に据えられた迎撃タレットの残骸めいた輪郭にも目を止めた。廃品の寄せ集めにしか見えないその機構の内側に、どれほどの理屈が詰め込まれているのか。想像するだけで、彼女の中の警戒心がじりじりと疼いた。
「あんた」
不意に声をかけられ、ニッカが振り返った。
「何」
「あの砲台、動作原理を聞いてもいいか」
「駄目」
即答に、キーウィは小さく笑ったようだった。
「だろうな。聞くだけ聞いてみた」
「聞くだけなら、いくらでも聞けばいい。答える気はないけど」
「そういう返し方、嫌いじゃない」
キーウィはもう一本、煙草を取り出しかけて、結局は箱にしまい直した。彼女なりの間合いの詰め方なのか、それとも単に興味を失っただけなのか、その真意は読み取れなかった。
「一つだけ言っておく」
「何」
「ネットランナーってのは、理解できないものを一番嫌う生き物だ。だが、理解できないまま放っておく胆力も、同じくらい必要になる」
「私に忠告してるつもり」
「忠告じゃない。ただの独り言だ」
素っ気なく言い残し、キーウィはそのまま格納庫の奥へと歩いていった。その背中を、ニッカはしばらく無言で見送っていた。
格納庫の反対側では、レベッカがファルコとキーウィを相手に、自慢の銃を掲げて熱弁を振るっていた。
「見ろよこれ、反動ゼロだぜ。前は連射すると銃身が焼けてたのに、今じゃ何百発撃っても平気だ」
「へえ、大したもんだな」
ファルコが銃を受け取り、重さを確かめるように何度か持ち上げた。内部の仕組みまでは分からないが、外見の仕上がりだけでも素人の手によるものではないことは見て取れた。
「中身、見せてもらってもいいか」
「駄目に決まってんだろ。あたしの相棒だぞ」
レベッカが慌てて銃を引ったくると、傍らでキーウィが煙を吐きながら呟いた。
「独占欲まで移されたか」
「うるせえよ」
軽い笑いが起こる一角を、少し離れた場所からニッカが横目に捉えていた。誰かに囲まれて笑うレベッカの姿は、以前よりも肩の力が抜けているように見えた。そのことに、ニッカ自身も気づかないうちに小さな安堵を覚えていた。
作業を片付けながら、ニッカはもう一度メインの方へ視線を向けた。
水筒を片手に、彼は相変わらず豪快な笑い声を上げている。傍から見れば、いつも通りの姿だった。だが、さっき目にした一瞬の停滞が、ニッカの頭から離れなかった。
排熱と神経負荷の計算式が、勝手に頭の中で組み上がっていく。あの震えの周期、蓋を掴み損ねた一瞬の遅れ。前世の知識が警告する症例の一つが、輪郭を帯びて浮かび上がってきた。考えたくない可能性だった。それでも、目を逸らすことだけは、彼女の性分が許さなかった。
工具箱の蓋を閉じる手を止め、ニッカはしばらくの間、動けずにいた。
夕方までにはまだ時間がある。今すぐ確かめるべきか、それとももう少し様子を見るべきか。答えの出ない天秤を胸の内で揺らしながら、彼女はメインの背中をじっと見つめ続けた。
一度、声をかけようとして、ニッカは思いとどまった。今この場で切り出せば、周囲の誰もが一斉に振り返るだろう。憶測だけで人前に恥をかかせるような真似は、彼女の性分が許さなかった。確証もないまま騒ぎ立てれば、メインは意固地になって余計に事実を隠すはずだった。それだけは、避けなければならない。
ならば、まずは確かめること。数値として、疑いようのない形で突きつけること。それができて初めて、あの男は自分の言葉に耳を貸すだろう。ニッカは工具箱の蓋をそっと閉じ、代わりに頭の中で段取りを組み立て始めた。誰にも気取られないうちに、二人きりで話せる機会を作る必要があった。
「……ニッカ、何ぼーっとしてんだよ」
不意にレベッカの声が飛んできて、ニッカは我に返った。
「別に。ちょっと考え事」
「珍しいじゃんか、あんたが」
「うるさい。それより、そろそろ日が傾いてくる。長居する気なら、水と食料の心配くらいはしてよね」
いつもの素っ気ない口調で応じながらも、ニッカの視線はもう一度だけ、メインの方角へ流れていった。水筒を傾け、豪快に笑うその姿は、傍目にはどこまでも普段通りだった。だが、その普段通りの奥に何が潜んでいるのか、ニッカにはもう見えてしまっていた。
夕暮れにはまだ早い西日が、格納庫の隙間から長い影を落としている。荒野を渡る乾いた風が、トタン屋根を小さく鳴らし続けていた。誰も気づかないまま流れていくその時間の中で、ニッカだけが一人、静かに次の一手を思案していた。
視線の先で、メインはドリオと何か言葉を交わし、豪快に笑っている。その笑い声の下に、彼自身すら気づいていない綻びが静かに広がりつつあることを、今この場で知っているのはニッカだけだった。誰かに打ち明けることも、まだできない。憶測を口にして、この賑やかな時間を壊すことだけは避けたかった。
工具棚に並んだ廃品の一つ一つへ、ニッカは視線を巡らせた。バートの遺したレンチ、拾い集めたモーター、使い道の定まらない基板の山。この場所にあるものはすべて、いつか誰かの命を繋ぐための材料になり得る。そう信じて、彼女はここまで手を動かし続けてきた。
震える指先の正体を突き止める日は、そう遠くないうちに訪れることになる。だが今はまだ、荒野に差す西日と賑やかな笑い声だけが、その予兆を静かに包み込んでいた。