西日が格納庫の壁を橙色に染め始めていた。
工具箱の前に立ったまま、ニッカはまだ動けずにいた。頭の中では、いくつもの段取りが同時に組み上がっては崩れていく。声をかけるべき言葉を探しても、どれも輪郭がぼやけたまま形にならなかった。確かめるための機材はある。問題は、誰にも気づかれずにメインを引き寄せる方法だった。
バートなら、こういう時どうしただろうか。
ふとよぎった問いに、ニッカは小さく首を振った。答えの出ない仮定に頼っても、今この場は動かない。育ての親が遺した教えの中に、人の心を測る方法までは含まれていなかった。機械の不調なら、数値を見れば一目で分かる。だが、意地を張る男を相手にどう切り出すべきかは、どんな配線図にも書かれていなかった。
昔、まだ幼かった頃。壊れた発電機を前に、ニッカが原因を探し当てられずに癇癪を起こしたことがあった。バートはそのとき、静かにこう言った。壊れた場所を叱っても直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。それが、修理の一番目だ。人間相手にも、同じことが言えるのかもしれない。ただ、震える指先という痛みの在りかを、本人はまだ認めていなかった。認めさせるところから、始めなければならない。
視線を巡らせると、作業台の隅に置きっぱなしの携帯測定器が目に入った。血糖値モニターの中身を組み替えて作った代物で、外見はただの安っぽい医療機器にしか見えない。これなら、怪しまれずに近づけるかもしれなかった。
ニッカは測定器を手に取り、袖の内側にそっと隠した。一度きりの計測では、確信を持って告げることはできない。せめてもう一度、別の角度から数値を拾っておきたかった。
格納庫の中では、夕食の支度を巡ってレベッカとファルコが軽口を叩き合っている。誰もが普段通りの空気を保ったまま、日暮れまでの時間を過ごしていた。その和やかさを壊すことになるかもしれないと分かっていながら、ニッカは測定器を握る手を緩めなかった。壊すべき均衡があるのなら、今この手で壊すしかなかった。
「メイン。ちょっと」
呼びかけると、水筒を手にしたままの大男が振り返った。
「なんだ」
「さっきの、拾ったレンチ。刃が欠けてないか見せて」
「ああ、これか」
疑う様子もなく、メインは工具棚から拾い上げたレンチを差し出した。ニッカはそれを受け取りながら、彼の右手首へさりげなく指を添える。皮膚に触れた瞬間、袖の内側の測定器が小さく振動した。数値を読み取るには、これで十分だった。
レンチの刃をためつすがめつしながら、ニッカは何気ない会話を装って時間を稼いだ。
「傷は浅い。研げば直る程度」
「そりゃよかった」
「ついでに、握力も見せて」
「握力?」
「工具の柄、片手でどれくらい締められるか。単なる興味」
投げやりな理由をつけながら、ニッカは自分の手をメインの手のひらに重ねた。案の定、メインは深く考えずに応じた。指先の脈動と、微弱な神経信号が、袖の内側の機材へ流れ込んでいく。
「変な検査だな」
「あんたには関係ない」
そっけなく答えながらも、ニッカの意識は測定器の反応だけに向けられていた。
「メイン」
「なんだ、まだ何かあんのか」
「あっちで、ちょっと」
格納庫の裏手を目で示すと、メインは片眉を上げた。
「そんな改まって、どうした」
「いいから」
急かすような口調に、メインは肩をすくめた。
「悪いが、そろそろ日が傾く。話ならここで聞く」
「駄目。ここじゃ」
「大した話じゃねえなら、後でいいだろ」
やんわりとかわされ、ニッカの表情がわずかに強張った。彼女がこれほどまでに食い下がる姿を、周囲の誰もまだ見たことがなかった。異変を察したレベッカが、少し離れた場所から首を傾げてこちらを窺い始めた。
「なあ、二人して何こそこそ話してんだよ」
「別に、こそこそなんてしてない」
即座に否定しながらも、ニッカの声には隠しきれない硬さが滲んでいた。
工具棚の傍らで、ドリオがその様子を息を詰めて見つめていた。
普段は素っ気ないだけのニッカが、今日に限って明らかに何かを急いている。その理由に、ドリオはうっすらと見当がついていた。ついてしまったからこそ、次に何が起きるのか、恐ろしくて動けずにいた。
膝の上で、彼女は自分の手を強く握りしめていた。ここ数週間、幾度となく想像してきた場面だった。想像の中では、もっと静かに、もっと穏やかに事実が明かされるはずだった。現実は、そんな都合の良い筋書きを許してはくれないらしい。
ファルコとキーウィも、いつのまにか会話を止めて成り行きを見守っていた。格納庫の中に漂っていた雑談の空気が、少しずつ張り詰めたものへ変わっていく。日差しは変わらず橙色に染まったままだったが、その光の下に立つ人々の表情だけが、確実に強張り始めていた。
袖の中の測定器から伝わる小さな振動を確かめながら、ニッカは工具棚へ向き直った。誰にも見えない角度で画面を覗き込む。
並んだ数字を見た瞬間、喉の奥が一瞬だけ詰まった。
神経信号の伝達遅延。想定していた範囲の、優に倍を超える数値だった。発熱量の推移も、右肩上がりの曲線を描いたまま止まる気配がない。二度目の計測で拾った握力のデータも、最初の値とほとんど変わらず悪化を裏付けていた。前世の記憶に刻まれた症例のグラフと、目の前の数字はほとんど重なっていた。
進行の速度から逆算すれば、答えは一つしか出なかった。
このままいけば、一月と保たない。
数字の羅列が、ただの記号ではなく人の命の残り時間として突きつけられている。その事実の重さに、ニッカはしばらく息をするのも忘れていた。工具棚の縁を握る指先に、知らず力がこもる。冷静に段取りを組んでいたはずの頭の中が、その瞬間だけ真っ白になった。
前世の記憶にある症例では、進行の初期段階で気づけるかどうかが生死の分かれ目だった。感情の起伏が鈍り、判断力が落ち、やがて自分と他人の区別すら曖昧になっていく。その先に待っているものを、ニッカは誰よりも詳しく知っていた。知っているからこそ、目の前の数字を軽く扱うことなど、最初からできるはずがなかった。
猶予は、思っていたよりずっと短い。悠長に材料を探している時間さえ、本当はないのかもしれなかった。それでも、闇雲に動けば、かえって手遅れを招く。冷静さを失わないことこそが、今の彼女に課せられた最初の仕事だった。
これまで直してきたのは、機械だった。壊れた部品を取り替え、配線を組み直せば、それで済む世界だった。目の前にいるのは、感情を持ち意地を張る、仲間思いの一人の人間だった。数字だけを根拠に、その人間の生き方へ土足で踏み込んでいいものか。迷いが胸の奥で音を立てた。
それでも、黙って見過ごすという選択肢は、最初から彼女の中になかった。
深呼吸を一つ挟んで、ニッカはようやく測定器を袖の中へしまい直した。動揺を顔に出すわけにはいかなかった。今この場で騒げば、メインは意固地になって余計に事実を認めなくなる。それだけは避けなければならなかった。
「メイン」
「なんだ、まだ何かあんのか」
「あっちで、ちょっと」
「さっきも聞いたぞ、それ」
「今度は本気」
食い下がるニッカの声に、メインはわずかに眉を寄せた。
「本気も何も、俺は聞く気満々だったろ」
「じゃあ来て」
「ここで話せって言ってんだよ」
「駄目。ここじゃ」
繰り返すやり取りに、あたりの空気がじりじりと硬くなっていく。レベッカが我慢できなくなったように、二人の間へ割り込んだ。
「おいおい、何を揉めてんだよ二人とも」
「揉めてない」
ニッカとメインの声が、同時に重なった。その息の合い方に、レベッカはますます怪訝な顔をした。
「揉めてないやつが、声まで揃うか普通」
「……いいから、大人しく座って」
ニッカがもう一度言うと、メインは苦笑しながら首を振った。
「そんな深刻な顔されると、逆に落ち着かねえよ。何の話だ」
「座ってって言ってる」
「悪いが、俺は――」
「あんたのその手」
低く遮る声に、メインの言葉が途切れた。
「さっきの水筒。今のレンチ。どっちも、震えて掴み損ねてた」
淡々と並べる言葉に、周囲の空気が一段と冷えていく。
「気のせいだって、何度も言ったろ」
「気のせいなら、伝達遅延の数値は出ない」
ニッカは袖から測定器を取り出し、画面をメインの前へ突きつけた。並んだ数字の羅列に、メインの視線がわずかに揺れた。
「これ、今さっき測った。あんたの手首から」
「……いつの間に」
「レンチを受け取った時。握力を見せてって言った時。どっちも」
短く答えるニッカの声に、もう迷いはなかった。
「二回とも同じ傾向。誤差じゃない」
「デイビッドの心配してる場合じゃない」
きっぱりとした一言が、格納庫の中に響いた。
「あんたのそのクローム、積み方が最悪。排熱の設計も、神経負荷の分散も、まともに計算されてない。素人目にも分かるくらい、いい加減な仕事」
「おい――」
「このまま放っておいたら、あと一月」
言葉を切ったニッカの声が、一瞬だけ震えた。それでも彼女は、目を逸らさずに続けた。
「一月保たない。脳の許容量が限界を超えて、暴走する。サイバーサイコシス」
その一言が落ちた瞬間、格納庫の中から音という音が消えた。
レベッカの手から、握っていた工具が滑り落ちた。金属が床を打つ乾いた音だけが、やけに大きく響いて消えていく。彼女はそれを拾い直すことも忘れ、口を半開きにしたままメインとニッカを交互に見つめていた。
「……は? 今、何て」
「聞こえたでしょ」
「いや、聞こえたけど、聞こえたけどよ……」
言葉を継げないまま、レベッカは何度もまばたきを繰り返した。いつもなら真っ先に軽口を叩くはずの口が、今は完全に強張っていた。
ファルコは帽子のつばへ添えていた手を止め、しばらく動かなかった。表情そのものは変わらないまま、ただ視線だけがメインの右手へ吸い寄せられている。長年、荒事の中でハンドルを握り続けてきた男の目が、初めて動揺に揺れていた。
「……サイコシスだと」
低く呟いたきり、ファルコはそれ以上言葉を継げなかった。荒野を渡り歩く中で、彼はその末路を持つ者を何人も見送ってきた。人格が崩れ、かつての仲間だった誰かを手にかけて終わる光景を、忘れたことは一度もなかった。
キーウィは短く息を吸い込み、それきり煙草へ伸ばしかけていた指を止めた。マスクの奥の目が、細く鋭くなっていく。彼女の中で、これまでのあらゆる違和感が一つの線として繋がっていくのが分かった。
「……道理でな」
呟く声には、皮肉めいた響きすら残っていなかった。理解できない技術を前にしていた時の余裕は、いつのまにか消え失せていた。
ルーシーは端末を握りしめたまま、声を失っていた。数字の意味を理解できるだけの知識が、かえって彼女を打ちのめしていた。アラサカの施設で過ごした日々の記憶が、意図せず脳裏をよぎる。あそこでも、崩れていく人間を何人も見た。理屈では防げないはずのものが、目の前でまた繰り返されようとしている。
少し離れた場所に立っていたデイビッドの顔から、みるみる血の気が引いていく。彼の脳裏に、あの夜の感覚がよみがえっていた。自分の中で暴走しかけていた神経の悲鳴と、それを鎮めてくれた指先の記憶だった。同じことが、目の前の男の身に起きようとしている。
「メイン、それ……本当なのか」
かすれた声で尋ねるデイビッドに、メインは答えなかった。
我に返ったように、レベッカが工具を拾い上げた。手のひらの中でそれを握りしめ、彼女は苛立ちを隠さずニッカへ詰め寄った。
「おい、じゃあどうすんだよ。一月って言ったよな、今」
「言った」
「悠長にしてる場合じゃねえだろ。今すぐ何かできねえのか」
「できる。でも、材料が足りない」
ニッカの声には、焦りよりも冷静さの方が勝っていた。
「バッファーを組むのに使えるパーツが、手元にあるだけじゃ足りない。特に、熱を逃がすための伝導体。今の在庫だと、出力の半分も支えられない」
「じゃあ、あたしが取りに行くぜ。どこの店だ、案内しろ」
「店じゃ手に入らない」
食い気味に否定され、レベッカは口を噤んだ。
「廃棄された旧型の冷却装置。それも、特定の年式のものじゃないと、伝導効率が合わない。探すのに時間がかかる」
「時間って、どれくらいだよ」
「分からない。運が良ければ数日。悪ければ、もっと」
答えを聞いたレベッカの表情が、目に見えて曇った。彼女らしくない沈黙が、しばらく続いた。
「……分かった。あたしも探す。手当たり次第にでも、何でもいいから」
「気持ちだけ受け取っとく」
にべもない返事だったが、そこに冷たさはなかった。レベッカはそれ以上何も言わず、ただ拳を握りしめたまま俯いていた。
ドリオだけは、崩れ落ちるように膝から力を抜いた。
驚きではなかった。ずっと恐れていたものが、ようやく言葉になっただけだった。安堵とも呼べない、重たい何かが胸の底からせり上がってくる。彼女は口を開こうとして、結局何も言えなかった。
「……ニッカ」
かすれた声で、ドリオがようやくそれだけを絞り出した。ニッカは短く頷いただけで、視線をメインから外さなかった。
「気づいてた?」
「……薄々。でも、確信は持てなかった」
「これで、確信になった」
短いやり取りの中に、これまで積み重ねてきた不安の重みがすべて詰まっていた。ドリオはそれ以上何も言えず、ただ拳を膝の上で握りしめていた。
沈黙を破ったのは、メイン自身だった。
「大袈裟だな。そんな数字一つで、大の男が発狂すると思ってんのか」
軽さを装った声だったが、いつもの太い響きにはない硬さが混じっていた。
「大袈裟じゃない。数字が全部証明してる」
「俺は今までだって、平気で――」
「平気に見えてただけ」
即座に返す声に、メインの言葉が止まった。
「レンチを落としたのも、水筒の蓋を開け損ねたのも、あんたが平気だと言い張ってきたことも、全部症状。本人が一番気づいてないだけ」
淡々とした指摘の一つ一つが、逃げ場を塗り潰すように積み重なっていく。メインの喉が、小さく鳴った。
「……仮に、その通りだったとして」
「うん」
「今さら何ができる。神経を作り直すことなんて、コーポの研究施設だってできやしねえ」
「私にはできる」
短い答えに、格納庫の空気がもう一段、張り詰めた。
離れた場所で一部始終を見ていたキーウィが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「一つ、聞いていいか」
「何」
「進行を止める方法はあっても、根治する方法はない。そう言ったな」
「言った」
「なら、その先の話も聞いておきたい。バッファーとやらを組んだ後、どこまで保証できる」
淡々とした問いの奥に、ネットランナーとしての職業的な冷静さがあった。感情を排して事実だけを積み上げようとするその姿勢に、ニッカはわずかに視線を上げた。
「完治はしない。負荷の蓄積そのものは、止められない」
「なら、意味がないんじゃないのか」
「意味はある。蓄積の速度を、限りなくゼロに近づけられる。人間の寿命が尽きるまで、症状が表に出ないくらいまで」
数字を交えない説明に、キーウィはしばらく黙り込んだ。
「……信じがたい話だ。だが、デイビッドの背中を見た後じゃ、笑い飛ばす気にもなれない」
「信じなくてもいい。やることは変わらない」
にべもない返答に、キーウィはかすかに口の端を上げたようだった。マスクの奥の表情までは読み取れなかったが、少なくとも敵意の色はそこになかった。
少し離れた場所で、ファルコが帽子のつばを深く下げていた。
「……昔、仲間を一人、こういう形で失くしたことがある」
低く落とされた声に、その場の空気がまた別の重さを帯びた。
「まだ発症する前に気づいてやれてりゃ、違ったのかもしれねえ。ずっと、そう思ってきた」
「ファルコ……」
デイビッドが振り返ると、ファルコはただ首を振った。
「昔の話だ、気にするな」
それだけ言って、彼はメインの方へ視線を戻した。
「メイン。お前は運がいい。気づいてくれる奴が、傍にいたんだからな」
短い一言に、メインは何も返せなかった。ただ、震える右手を反対の手でそっと押さえるだけだった。
「……できるって、簡単に言うがな」
「言葉遊びしてる時間、ない」
「そういう話じゃねえだろ」
メインの声が、初めて苛立ちを帯びた。
「お前、俺の体に何をするつもりだ。デイビッドの時とは訳が違う。相手は生まれた時から生きてる、この俺の脳みそだぞ」
「分かってる」
「分かってて、簡単にできるなんて言うのか」
「簡単だなんて、一言も言ってない」
ニッカの声が、初めて低く沈んだ。
「できる、って言っただけ。楽だなんて思ってない」
それを聞いて、メインは言葉を失った。荒事の中で幾度となく死線をくぐり抜けてきた男の目の奥に、初めて怯えが差していた。
「……失敗したら、どうなる」
しばらくの沈黙の後、メインは低く尋ねた。
「正直に言う」
「言え」
「最悪、今より早く進行する。神経経路を弄る以上、リスクがゼロってことはない」
包み隠さない答えに、周囲の空気がまた重く沈んだ。それでも、ニッカは目を逸らさなかった。
「嘘をついても、あんたのためにならない。だから正直に言う」
「……お前、そういうところ、変わってねえな」
メインが、ふっと息を吐くように笑った。呆れとも、諦めとも取れる響きだった。
「デイビッドの背中を弄った時も、たぶん同じことを言ったんだろ」
「言った。あの時も、正直に言うしかなかった」
「それで、結果はどうだ」
「あの子は、今こうして元気に立ってる」
短い答えに、メインはしばらく黙り込んだ。やがて、諦めたように肩の力を抜いた。
「……分かった。お前に任せる」
「まだ、材料が揃ってない。今すぐじゃない」
「分かってる。それでも、腹は決めておきたかっただけだ」
静かに沈んだ声には、これまでの豪快さとはまた違う、覚悟の色が滲んでいた。
「メイン」
ドリオが、震える声で名前を呼んだ。
「お願い。今回だけは、意地を張らないで」
「ドリオ……」
「あんたが強がるたび、私がどんな気持ちで見てるか、知らないでしょう」
抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。ドリオの目の縁に、うっすらと光るものが滲んだ。それでも彼女は涙をこぼすことだけは堪え、まっすぐにメインを見据え続けていた。
何年もの間、傍らで彼の背中を見送り続けてきた。荒事に出るたび、無事に帰ってくるかどうかを気に病み、それでも顔には出さずにいた。今回の不安は、これまでのどれとも種類が違っていた。銃弾や刃物なら、避ける術も戦う術もある。だが、自分自身の内側から静かに壊れていくものに、いったいどう立ち向かえばいいのか。ドリオにはその答えが分からなかった。分からないまま、ただメインの隣に立ち続けることしかできずにいた。
長い沈黙が、二人の間に横たわった。
橙色に染まっていた光が、いつのまにか赤みを増していた。誰も口を開かないまま、風だけがトタン屋根の継ぎ目を細かく鳴らし続けている。
工具棚の縁に手をかけたまま、ニッカは動かなかった。告げるべき言葉は、もう告げてしまった。あとはこの男が、その事実をどう受け止めるかだけだった。
視線の先で、メインの右手がまた小さく震えていた。今度はそれを、隠そうとする素振りすら見せなかった。
「……分かった」
長い沈黙のあとで、メインは短くそれだけを口にした。声には、これまでにない重さが滲んでいた。
「分かったって、何が」
「お前の話、聞く。逃げねえよ、もう」
短い返答に、格納庫の中の空気がわずかに緩んだ。だが、それで安心できる状況ではないことを、その場にいる誰もが理解していた。
「聞くのはいいけど」
ニッカは工具棚から手を離し、メインへ向き直った。
「材料が揃うまで、何もできない。それまでは、今まで通り無茶しないで」
「無茶って言われてもな。仕事は待っちゃくれねえ」
「待たせて。今度倒れたら、もう間に合わないかもしれない」
有無を言わさぬ口調に、メインは苦い顔で黙り込んだ。
「材料が揃ったら、どうする気だ」
「作業台に縛り付けて、配線を組み替える。デイビッドの時と同じ」
「縛り付けるって、お前……」
「暴れられたら困るから」
事もなげに言うニッカに、メインはしばらく言葉を失っていた。
「痛むのか、それは」
「分からない。神経に直接触れる作業だから、多少は覚悟して」
正直な答えに、傍らでドリオが息を呑んだ。それでも、彼女は反対の言葉を口にしなかった。今はただ、事実を受け入れることしかできなかった。
「なあ」
黙って成り行きを見ていたデイビッドが、遠慮がちに口を開いた。
「俺にも、何か手伝えることはないか」
「今のところ、ない」
「そんな、じゃあ……」
「材料が揃った時、手が要る。その時は頼む」
短い返事に、デイビッドはわずかに表情を緩めた。何もできない無力さよりも、いつか役に立てる約束の方が、今の彼には必要だった。
「私も、探すのを手伝う」
ルーシーが端末をしまいながら言った。
「旧型の冷却装置なら、廃棄記録が残ってる施設に心当たりがある。ネットの中を探れば、多少は絞り込めるかもしれない」
「助かる」
短い礼に、ルーシーはわずかに目を伏せた。今の自分にできることが、それだけしかないもどかしさを噛みしめているようだった。
「私も、伝手を当たってみる」
キーウィが煙草の箱をポケットへしまいながら言った。
「裏の解体屋に、古い機材ばかり漁ってる変わり者がいる。旧型の冷却装置くらいなら、心当たりがあるかもしれない」
「あんたが、そこまでする理由は」
ニッカが問うと、キーウィはわずかに肩をすくめた。
「理由なんざ、その都度考えればいい。今は、手を貸したいと思っただけだ」
素っ気ない答えの奥に、情の厚さが透けて見えた。ニッカはそれ以上追及せず、ただ小さく頷いた。
デイビッドは、メインの傍らへ静かに歩み寄った。
「怖くないのか」
「今さら聞くことか」
「いや……あの時の俺は、意識も朦朧としてて、怖いと思う余裕すらなかった。あんたは、ちゃんと分かった上で、それでも任せるって決めたんだろ」
デイビッドの問いに、メインはひと呼吸置いた。
「怖いに決まってんだろ、馬鹿野郎」
ぶっきらぼうな返事の中に、本音がそのまま覗いていた。
「だがな、あの女の腕を疑う理由も、もうねえ。お前の背中がその証拠だ」
「……そうだな」
小さく頷くデイビッドの顔に、わずかな安堵の色が浮かんだ。自分が生きてここに立っていること自体が、誰かの支えになる。そのことを、彼は初めて実感していた。
一同のやり取りを、ニッカは黙って見つめていた。
数か月前までなら、こんな光景を想像すらしていなかった。誰かの命を背負い、誰かと共に何かを探すことになるとは、思ってもみなかった。バッドランズのガレージに引きこもり、静かに暮らすと誓った日から、随分と遠くまで来てしまった気がした。
それでも、後悔はなかった。誓いを破ったという自覚すら、今の彼女にはもうなかった。目の前の男の右手が震え続けている限り、彼女の答えは最初から一つしかなかった。
「……今夜は、泊まる」
口を開いたのは、ファルコだった。
「日が落ちた後の荒野を走る方が、よっぽど危ねえ。それに、材料探しの相談も、まだ済んじゃいねえだろ」
「反対しない」
キーウィが短く同意すると、ルーシーとレベッカも黙って頷いた。ニッカは一瞬だけ眉を寄せたが、結局は小さく息を吐いた。
「布団は足りない。雑魚寝で我慢して」
「上等だ」
短いやり取りを経て、張り詰めていた空気がわずかに解けた。それでも、その緩み方はどこか儚く、消えかけた温もりのようだった。
格納庫の隅で、レベッカが毛布代わりの布を運び出す準備を始めている。ファルコは車両のエンジンを止め、灯りを落とす作業に取りかかった。誰もが黙々と、いつもと変わらない一夜の支度を進めている。だが、その一つ一つの動作の下に、隠しきれない緊張が薄く張りついていた。
日はまだ、完全には落ちきっていなかった。夕闇が忍び寄る荒野の只中で、静けさだけが重く長く、格納庫の中に居座り続けていた。
風がトタン屋根を鳴らすたび、その音が誰かの心臓の音のように、低く響いて消えていった。震える指先の正体は、もう誰の目にも隠しようがなかった。残された時間の中で、ニッカにできることを積み上げていく。ただそれだけが、この夜、確かなことだった。
工具箱の蓋を静かに閉じながら、ニッカは明日からの段取りを頭の中で組み立て直していた。伝導体の入手先、バッファーの回路設計、手術に要する時間。数えるべき項目は多かったが、焦りに任せて崩すわけにはいかない。一つずつ、確実に。それが、これまでずっと守ってきたやり方だった。