サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第6.3話 壊れてるくらいが、ちょうどいい

 

 

夜明け前の荒野は、まだ星の名残を空の端に留めていた。

 

冷えた風が、錆びたトタン屋根の隙間を抜けて小さく鳴った。誰かが荷物を動かすたびに、砂を噛んだ床がかすかな音を立てる。それだけが、この時間の格納庫を満たす唯一の音だった。

 

格納庫の中では、雑魚寝から起き出した一同が、それぞれの荷物をまとめ直している。昨夜の重い沈黙は消えていないものの、朝の光がそれをわずかに薄めていた。ニッカは作業台に地図代わりの端末を広げ、指先で座標を示しながら短く告げた。

 

「探すのは、旧型の熱交換ユニット。型番はこれ」

 

「こんな古い機種、まだ現物が残ってるのか」

 

デイビッドが端末を覗き込みながら尋ねた。

 

「残ってる。ただし、稼働品じゃなくて廃棄品。動かないほど、都合がいい」

 

「動かない方が、いいのか」

 

「劣化して電力を食わなくなった分、熱の逃げ道として使いやすくなる。壊れてるくらいが、ちょうどいい」

 

事もなげに言うニッカへ、キーウィが煙草に火を点けながら目を細めた。

 

「壊れたものを、壊れたままの方が使い勝手がいいと言い切る技術者を、私は他に知らない」

 

「褒めてるつもり?」

 

「さあ、どうだろうな」

 

短いやり取りの後、ニッカは端末の地図に三つの印を落とした。数値の上では単純な部品探しに過ぎない。だが、前世の記憶に照らせば、それは残り時間そのものを買い戻す作業だった。旧式の廃棄品は市場に出回らず、解体屋の奥や忘れられた廃棄場に沈んだまま朽ちていく。探し出すまでの一日一日が、そのままメインの猶予を削っていく。

 

「候補は三箇所。手分けして当たって」

 

「あたしとファルコで、西の解体場を回る」

 

レベッカが真っ先に名乗りを上げると、ファルコが帽子のつばを軽く持ち上げて頷いた。

 

「私は伝手を当たる。裏の解体屋に、古い機材ばかり漁ってる男がいる」

 

キーウィが煙を吐きながら言うと、ルーシーも端末を握り直した。

 

「私は廃棄記録を洗う。ネットの中でなら、現地を歩くより早く絞り込めるかもしれない」

 

三つの役割が決まると、格納庫の空気にわずかな緊張が満ちた。誰も口には出さなかったが、それぞれが同じ数字を胸の内で数えていた。一月。その猶予が、今この瞬間も減り続けている。

 

頭の中で、ニッカは残された工程を数え直していた。部品が揃った後、組み上げに半日。動作確認に数時間。試作を重ねる余裕はほとんどない。前世の記憶に蓄積された設計例をなぞれば、理屈の上では完成できるはずだった。だが理屈と現実の間には、いつも見えない隙間がある。その隙間を埋める時間こそが、今の彼女には一番足りていなかった。

 

「見つからなかった場合は、どうする」

 

黙って話を聞いていたルーシーが、静かに尋ねた。

 

「代替の候補も、一応ある。ただし、性能は落ちる。蓄積を遅らせる速度が、今より鈍くなる」

 

「それでも、やらないよりはましか」

 

「まし、というだけ。最善ではない」

 

正直な答えに、ルーシーは小さく息を吐いた。理想と現実の落差を、誰よりも冷静に測る技術者の声だった。

 

出発の準備を整えながら、ニッカは格納庫の隅にある制御盤を一瞥した。迎撃タレットと光学迷彩型のアンテナは、彼女が留守にする間も休みなく敷地を見張り続けるはずだった。人手が減ろうと、この場所の防衛だけは揺るがない。数か月かけて磨き上げてきた仕組みが、今この瞬間の安心を支えていた。

 

「デイビッドは残って」

 

ニッカが素っ気なく告げると、デイビッドは少し不服そうな顔をした。

 

「俺も探しに行きたい」

 

「あんたには別の仕事がある。メインの傍にいて」

 

「傍にいるだけなら、誰でもできる」

 

「誰でもは、できない」

 

きっぱりと言い切られ、デイビッドは口をつぐんだ。ニッカの視線が、一瞬だけ和らいだ。

 

「あんたの背中は、私が直した。何かあった時、一番早く異変に気づけるのは、同じ処置を受けたあんたの体の方かもしれない。理屈じゃなくて、勘の話」

 

「……分かった」

 

納得したわけではなかったが、デイビッドはそれ以上食い下がらなかった。何もできない無力さより、いつか役に立てるかもしれない役目の方が、今の彼には必要だった。

 

工具棚の陰で、ドリオがまだ膝の力を取り戻せずにいた。昨夜の言葉が、まだ体の内側に重く残っている。メインはその隣で、いつもと変わらない仕草で水筒に水を詰めていた。震える指先を、今はもう隠そうともしていない。

 

「無理はしないで」

 

「探しに行くのは、お前らだろうが」

 

「あんたが、無理をしないでって話」

 

ドリオの声に、メインは一つ息を吐いた。

 

「分かってる。今日は大人しく座ってる」

 

「本当に」

 

「本当だ。約束は破らねえ」

 

短い約束を交わすと、ドリオはようやくわずかに肩の力を抜いた。それでも、車列が動き出すまでの間、彼女の視線はメインの右手から一度も離れなかった。

 

車に乗り込む直前、レベッカがメインの肩を軽く叩いた。

 

「大人しく座ってろよ、あんたらしくねえけどな」

 

「うるせえ。行ってこい」

 

「行ってくるっつうか、絶対見つけてくるからな。あたしらが手ぶらで帰ると思うなよ」

 

ぶっきらぼうな激励に、メインはわずかに口の端を上げた。荒事の中で共に生き延びてきた者同士だからこそ通じる、飾らない言葉だった。

 

レベッカとファルコの車、そしてキーウィの車が、それぞれ別の方角へ土煙を上げて去っていく。その二筋を、ニッカはしばらく見送っていた。地平の彼方へ消えるまで、彼女は工具箱の縁に手をかけたまま動かなかった。誰かに命を預けられるという重みを、これほど強く感じたことは、これまでの人生になかった。

 

エンジン音が完全に途絶えると、荒野特有の静けさが取って代わった。風の音だけが、やけに大きく耳に残った。

 

格納庫の隅では、ルーシーが端末を抱えたまま、すでに廃棄記録の検索を始めていた。彼女の戦場は荒野ではなく、目に見えないネットの奥にあった。

 

西の解体場は、風化した鉄骨の墓場だった。錆びた筐体の山が、何列にもわたって荒野に突き刺さっている。かつては誰かの生活を支えていたはずの機械が、今は朽ちるためだけに積み上げられていた。

 

「にしても、こんな広い場所、当てもなく歩き回るのかよ」

 

「当てはある。年式ごとに、廃棄された区画がだいたい決まってる」

 

ファルコが遠くの一角を指差すと、レベッカは訝しげに目を細めた。

 

「なんで、そんなこと知ってんだよ」

 

「昔、似たようなブツを探しに来たことがあるだけだ」

 

ファルコはそれだけ答え、それ以上多くを語らなかった。過去の話に深入りする暇は、今の二人にはなかった。

 

「なあファルコ、こんな山みたいな屑鉄の中から、一個のユニットを探すのかよ」

 

「文句言う暇があったら、手動かせ」

 

淡々と応じながら、ファルコは崩れかけた棚を一つずつ検分していく。長年の勘が、当たりを付ける速度を支えていた。

 

「型番、これで合ってるか」

 

差し出された端末の画像と、目の前の錆びた筐体を見比べる。刻印はかろうじて読み取れたが、年式が一つ違っていた。

 

「駄目だ。型が近いだけで、中身は別物だ」

 

「クソ、また空振りかよ」

 

レベッカが屑鉄を蹴りつけると、鈍い音が乾いた空気に響いて消えた。舞い上がった土埃が、喉の奥にざらついた感触を残す。太陽はすでに中天に近く、影が短くなっていく。時間だけが、容赦なく削られていった。

 

「焦るな。急いだところで、見つからねえもんは見つからねえ」

 

ファルコの声には、荒事を潜り抜けてきた者特有の落ち着きがあった。だが、その目の奥には、レベッカと同じ焦りが確かに宿っていた。

 

「あんたは、こういう時、いつも冷静だな」

 

「冷静に見えるだけだ。焦って動きゃ、見落としが増える。それだけの話だ」

 

そう答えたファルコは、また別の棚へ手を伸ばした。積み重なった廃品を一つずつどかしていく作業は、単調で、そして残酷なほど時間を食った。

 

手を動かしながら、ファルコの脳裏には昔の記憶がよぎっていた。かつての相棒が、震える指先を隠しながら現場に立ち続けた日々。誰も気づかないまま進行は続き、気づいた時にはもう手の施しようがなかった。あの日の後悔を、今度こそ繰り返させるわけにはいかない。帽子のつばの下で、彼の目が一段と鋭くなった。

 

「今度は、間に合わせる」

 

低い呟きに、レベッカが顔を上げた。

 

「何か言ったか」

 

「独り言だ。気にすんな」

 

軽く受け流したファルコは、また次の棚へ手をかけた。

 

日が傾き始めた頃、ようやく目当ての型に近い筐体が見つかった。だが、覆いを外してみると、内部の配管はすでに腐食で潰れていた。

 

「これも駄目か」

 

「駄目だ」

 

短い答えに、レベッカは屑鉄の山に背をもたれさせ、天を仰いだ。

 

「三箇所のうち、ここが一番望み薄いって話だったよな」

 

「そうだ。だから、他の連中に期待しろ」

 

ファルコの声には、それでも諦めの色はなかった。荒野を渡り歩いてきた男の粘り強さが、その横顔ににじんでいた。

 

端末が振動したのは、二人が次の棚へ移ろうとした時だった。ファルコが画面を確かめ、小さく息を吐いた。

 

「キーウィから連絡だ。もう見つかったらしい」

 

「マジかよ、あの女、仕事早すぎだろ」

 

「文句を言うな。帰るぞ」

 

言葉を交わし終えると、二人は車へ乗り込んだ。空振りに終わった徒労感は消えなかったが、それでも猶予が一つ確保されたという事実が、二人の足取りをわずかに軽くしていた。

 

裏の解体屋は、街灯すらまともに点いていない路地の奥にあった。錆びた看板が、風に揺れて軋んだ音を立てている。煙草の匂いが、閉ざされた空気の中に微かに漂っていた。

 

「あんたが噂の女か」

 

薄暗い店の主が、値踏みするような目でキーウィを見た。

 

「噂は要らない。これと同じ型を探してる」

 

キーウィが端末の画像を突きつけると、男はしばらく黙り込んだ。

 

「ないこともない。だが、簡単には出せねえ代物だ」

 

「値段の話をしてる」

 

「値段だけの話じゃねえよ。あれを欲しがる連中は、大抵ろくな用途に使わねえ」

 

低く笑う男の言葉に、キーウィは表情を変えなかった。長年ナイトシティの裏側を渡り歩いてきた彼女にとって、この手の駆け引きは慣れたものだった。

 

「私が、ろくでもない用途で欲しがってると思うのか」

 

「思わねえよ、正直言えばな。あんたの目を見りゃ分かる」

 

男は煙草の煙をゆっくり吐き出し、奥の棚へ視線をやった。

 

「今回は、人を救うために使う。それだけは言っておく」

 

「珍しいこと言うじゃねえか、キーウィが」

 

「珍しくもない。ただの事実だ」

 

「あんたが誰かのために動くとこ、あんまり見たことねえけどな」

 

「見たことがないだけで、なかったわけじゃない」

 

素っ気ない返しに、男は肩をすくめて笑った。長年の付き合いの中で、この女がめったに本音を漏らさないことを、彼はよく知っていた。だからこそ、今の一言には妙な重みがあった。

 

しばらくの沈黙の後、男は奥の棚から埃をかぶった箱を取り出した。

 

「変わってんな、あんたも。まあいい、持ってけ」

 

「借りにしとく」

 

「借りなんざ要らねえよ。気が向いたら、また面白い話でも聞かせてくれりゃいい」

 

それだけを言い残すと、キーウィは箱を抱え直し、店を後にした。路地を抜ける間、彼女の胸の内には、これまで感じたことのない種類の落ち着かなさが残っていた。誰かのために動くという行為に、まだ自分自身が慣れていないことを、彼女はようやく自覚し始めていた。

 

その頃、ガレージに残っていたルーシーは、端末の画面と睨めっこを続けていた。モニターの光だけが、薄暗い室内で彼女の横顔を照らしている。

 

旧トラウマ・チームの廃棄記録、軍用施設の解体台帳、闇に沈んだ流通ログ。表の検索では引っかからない情報の断片を、彼女は一つずつ拾い集めていった。アラサカの施設で叩き込まれた技術が、皮肉にも今この瞬間、誰かの命を繋ぐために使われている。その事実に、ルーシーはどこか救われるような気持ちを覚えていた。

 

あの施設では、崩れていく人間を何人も見てきた。実験の名の下に神経を弄られ、人格を失っていく姿を、彼女はただ見ていることしかできなかった。あの頃の自分に、今のような手立てがあったなら。詮無い仮定だと分かっていても、指先を止めることができなかった。今度こそ、目の前で誰かが崩れていくのを、黙って見ているわけにはいかない。

 

「見つかった。旧トラウマ・チームの廃棄記録に、該当の型番が三台。うち二台は、パシフィカ寄りの廃棄場に眠ってる」

 

情報を拾い上げた瞬間、彼女はそれを共有回線へ流した。応答は、思ったより早く返ってきた。

 

「回収の必要はもうない。こっちで一つ、確保した」

 

キーウィの声に、ルーシーは強張っていた肩をそっと下ろした。

 

「早かったわね」

 

「早かったんじゃない。運がよかっただけだ」

 

会話はそこで途切れ、車列は再びガレージへ向きを変えた。ガレージまでの道のりを、誰もが無言のまま走り続けた。窓の外を流れる荒野の景色は、行きに見たものと同じはずなのに、帰り道はどこか長く感じられた。

 

ガレージでは、ニッカが一人、作業台の前で工具を磨き直していた。

 

手を動かしている間だけは、余計な想像が頭の隅へ退いてくれる。だが、指先が止まるたびに、前世の記憶に刻まれた症例のグラフが勝手に脳裏へ浮かび上がってきた。進行の速度、蓄積の限界、そこから先に待つもの。数字の羅列は、いつも同じ結末を指し示していた。

 

デイビッドは少し離れた場所で、メインの様子を静かに見守っていた。

 

「調子は、どうだ」

 

「悪くねえよ。むしろ、暇でしょうがねえ」

 

軽口を叩くメインの声に、いつもの豪快さがまだ残っていた。だが、水筒を持つ右手は、以前よりも明らかに強張った動きをしていた。ニッカはその様子を横目で捉えながら、工具を磨く手を止めなかった。今すぐ騒ぎ立てても、状況は変わらない。材料が揃うまでは、時間を無駄にしないことだけが、彼女にできる唯一の仕事だった。

 

「なあ、メイン」

 

「なんだ」

 

「怖くないのか、って前に聞いたよな。あの時、ちゃんと答えてもらってなかった気がする」

 

デイビッドの問いに、メインはしばらく黙り込んだ。水筒の蓋を閉じる手が、わずかに止まる。

 

「怖いさ。当たり前だろ」

 

「それでも、ニッカに任せるって決めたのか」

 

「決めたっつうより、他に道がねえだけだ。あの女の腕を疑う理由も、もうねえしな」

 

低く答えたメインの声には、諦めとも覚悟ともつかない響きがあった。風が格納庫の隙間を抜け、二人の間に短い沈黙を運んでいく。デイビッドはそれ以上何も言わず、ただ隣に座り続けた。何か特別な言葉をかけられるわけではなかったが、傍にいるという事実だけで、十分だと信じたかった。

 

「お前の背中は、どうだ。今も、あの時の感覚、覚えてるか」

 

「ほとんど覚えてない。気づいたら、ノイズが消えてた。それだけだ」

 

「羨ましい話だな」

 

「怖くなかったわけじゃない。ただ、意識が朦朧としてて、怖がる余裕すらなかっただけだ」

 

正直な答えに、メインはふっと息を吐くように笑った。

 

バートの遺した工具箱に、彼女は何度も視線を落とした。壊れた場所を叱っても直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。育ての親が遺したその言葉を、ニッカは今、これまでのどんな時よりも深く噛みしめていた。

 

昼を過ぎても、外周センサーに反応はなかった。時間だけが、じりじりと過ぎていく。ニッカは何度も工具箱の中身を並べ替え、同じ手順を確かめ直した。手を止めれば、余計な想像が這い上がってくる。それを振り払うように、彼女はひたすら指先を動かし続けた。

 

日が西へ大きく傾いた頃、二手に分かれていた車列が、次々とガレージへ帰り着いた。

 

「遅い」

 

出迎えたニッカの声に、レベッカが言い訳がましく答えた。

 

「悪かったな、屑鉄の山を掘り返すのに時間がかかった」

 

その声は、いつもの勢いを欠いていた。キーウィが埃をかぶった箱を差し出すと、ニッカは無言でそれを受け取り、蓋を開けた。中の筐体を一目見ただけで、彼女の表情がわずかに緩んだ。

 

「型番、合ってる。劣化具合も、ちょうどいい」

 

「使えそうか」

 

「使える。十分すぎるくらい」

 

「私が洗った廃棄記録の方は、結局出番なしか」

 

端末を抱えたまま、ルーシーが小さく肩をすくめた。

 

「無駄にはなってない。見つからなかった時の保険にはなった」

 

「保険で終わって、よかったってことね」

 

そう言って、ルーシーはわずかに口元を緩めた。役に立てなかった悔しさよりも、間に合ったことへの安堵の方が、今は大きかった。

 

束の間のやり取りの中に、これまでの緊張がわずかに解ける気配があった。だが、その安堵は長くは続かなかった。ニッカの視線は、すでに奥のベンチへ向いている。デイビッドが、青ざめた顔で立ち上がった。

 

「ニッカ、さっき――」

 

言いかけたところで、当のメインが工具棚の前で膝をついているのが見えた。レベッカの手から、抱えていた銃が滑り落ちそうになる。

 

「おい、嘘だろ……」

 

かすれた声が、そのまま尻すぼみに消えていった。荒野を駆け回り、部品を探し当てた高揚感は、目の前の光景の前で一瞬にして消し飛んでいた。

 

「メイン!」

 

駆け寄ったドリオの声に、メインは片手を上げて制した。額には、じっとりと汗が滲んでいる。荒事の中で幾度となく傷を負ってきた体が、今は目に見える傷一つないまま、内側から軋んでいた。

 

「大した事じゃねえ。ちょっと、めまいがしただけだ」

 

「めまいで、膝までつくか普通」

 

低く遮ったニッカが、無言でメインの手首を掴んだ。測定器の数値が、彼女の眉間へ深い皺を刻んだ。

 

「進行が速い。想定より、ずっと」

 

「なんだと」

 

「材料が揃った今、悠長にしてる時間、もうない。今日中にやる」

 

きっぱりとした宣告に、格納庫の空気が一気に張り詰めた。

 

「今日中って、お前……」

 

「言った通り。時間が、奪われてる」

 

ニッカの声には、これまでにない硬さがあった。運ばれてきた箱を開け、旧型の熱交換ユニットを取り出す手つきにも、迷いはなかった。頭の中では、必要な工程がすでに一本の道筋として組み上がっている。迷っている暇があるなら、その道筋をなぞるだけでよかった。

 

作業台の脇に部品を並べ終えると、ニッカは無言のまま組み立てに取りかかった。熱交換ユニットの配管を切り出し、廃家電から抜き取った基板へ接続していく。手順の一つ一つに、前世の記憶が刻んだ設計図が重なっていた。半田の匂いが立ち込める中、彼女の指先だけが迷いなく動き続けた。

 

「これで、間に合うのか」

 

黙って見ていたレベッカが、声を潜めて尋ねた。

 

「間に合わせる」

 

短い返事だけが、静まり返った格納庫に落ちた。誰もそれ以上、何も聞けなかった。

 

離れた場所から様子を窺っていたキーウィが、珍しく歩み寄ってきた。

 

「今度は、聞いても答えてくれるのか」

 

「答えてる暇、ない」

 

「だろうな」

 

それだけで、キーウィはそれ以上何も尋ねなかった。ただ、組んだ腕をほどかないまま、ニッカの指先の動きを一つも見逃すまいと見つめ続けていた。理解できないものを前にした時の警戒心は、今はもう彼女の中になかった。代わりにあるのは、結果を見届けたいという、もっと単純な感情だった。

 

「作業台に、寝て」

 

「待て、心の準備ってもんが――」

 

「準備してる暇、あんたにはもうない」

 

にべもなく遮られ、メインは苦い顔をした。それでも、体はすでに作業台へ向かって動き始めていた。

 

「俺は、まだ大丈夫だ」

 

「大丈夫じゃないから、今すぐやる」

 

「本当に、平気――」

 

「ガレージの前で発狂されたら、私が一番迷惑」

 

言い切ったニッカの目に、これ以上の反論を許さない光があった。メインはしばらく黙り込み、やがて観念したように作業台の上へ体を横たえた。

 

「拘束具、出して」

 

ニッカが低く告げると、傍らに控えていたデイビッドがベルトを取り出した。太い腕を、頑丈な革帯が締め上げていく。ドリオはその一部始終を、拳を握りしめたまま見つめていた。

 

「暴れたら、器具が刺さる場所を間違える。だから、縛る」

 

「分かってる。分かってるが……」

 

メインの声に、隠しきれない怯えが滲んだ。荒事の中で幾度となく死線をくぐってきた男の目に、今は違う種類の恐怖が浮かんでいる。刃物や銃弾なら、避ける術も戦う術もあった。だが、自分自身の脳へ他人の手を委ねるという行為には、抗う術がなかった。

 

「痛みは、殺せない。麻酔の代わりになるようなものは、この場所にはない」

 

「殺さなくていい。ただ、終わらせてくれ」

 

短い願いに、ニッカは黙って頷いた。工具箱から取り出した器具の一つ一つを、彼女は淡々と並べていく。手の震えは、ニッカ自身にはなかった。あるとすれば、それはメインの右手だけだった。

 

「バートも、こんな気持ちだったのかな」

 

ふと漏れた呟きに、メインが片眉を上げた。

 

「誰だ、それは」

 

「私を拾った、育ての親。壊れた機械を前にすると、いつも同じ顔をしてた。直せるかどうか分からないまま、それでも手を止めない顔」

 

「今のお前も、同じ顔してるってわけか」

 

「かもね」

 

それだけを言うと、ニッカは器具を握る手にわずかに力を込めた。誰かの命を預かるという行為の重みを、彼女はこれまでのどんな仕事でも感じたことがなかった。それでも、今さら引き返すという選択肢は、彼女の中に存在しなかった。

 

「みんな、下がって」

 

低い指示に、レベッカとファルコが一歩下がった。デイビッドだけは、作業台のすぐ傍に立ち続けている。

 

「デイビッド、あんたは残って。手が要る」

 

「分かった」

 

そう応じたデイビッドの顔から、先刻までの怯えが引いていく。何もできない無力さより、いま任される役目の方が、彼を支えていた。

 

「ドリオ」

 

名前を呼ばれ、ドリオが顔を上げた。

 

「あんたは、ここにいちゃ駄目。見てられる光景じゃない」

 

「私は……」

 

長年連れ添ってきた男の弱さを、これまで誰よりも間近で見てきたつもりだった。だからこそ、最後まで見届ける責任があると、ドリオは信じていた。だが、ニッカの言葉には、その信念を打ち砕くだけの重みがあった。

 

「見たいんじゃなくて、見ておくべきだと思ってるんでしょ。でも、今回は無理」

 

きっぱりとした言葉に、ドリオはしばらく唇を噛んだ。長年連れ添ってきた相手の痛みを、傍で見届けたいという気持ちと目を背けたいという気持ちが、彼女の中でせめぎ合っていた。

 

「メイン」

 

震える声で名前を呼ぶと、作業台の上のメインがゆっくりと顔を向けた。

 

「戻ってきて。ちゃんと、あんたのままで」

 

「ああ。約束する」

 

短いやり取りを最後に、ドリオは崩れるように格納庫の出入り口の方へ後ずさった。振り返らず立ち去ることだけが、彼女に残された最後の抵抗だった。

 

工具の並びを最後に確かめ終えると、ニッカは深く息を吸い込んだ。

 

前世の記憶にある症例では、この種の処置に成功した例よりも、失敗した例の方が多く記録されていた。神経経路へ直接触れるという行為そのものが、常に賭けだった。だが、目の前で震え続ける右手を見てしまった以上、賭けをしないという選択肢は彼女の中にはもう存在しなかった。

 

離れた場所で、レベッカが両手を強く握り合わせていた。普段なら軽口の一つも飛ばすところを、今は言葉一つ出せずにいる。ファルコも帽子のつばを深く下げたまま、身じろぎ一つしなかった。キーウィだけが、いつもの調子で腕を組んでいたが、その視線はニッカの指先から一度も離れなかった。デイビッドは息を潜め、傍らで拳を握りしめていた。誰も声を発さないまま、時間だけが張り詰めた沈黙の中を進んでいく。

 

「始める」

 

短い宣言に、格納庫の中から音という音が消えていく。西日はすでに傾き切り、赤みを帯びた光がトタン屋根の隙間から差し込んでいた。ベルトに締め付けられたメインの右手が、最後にもう一度だけ大きく震え、それきり動きを止めた。

 

デイビッドが、ニッカの傍らで息を潜めている。数か月前、自分自身がこの作業台の上で味わったはずの感覚を、彼はもう思い出せなかった。だが今、傍らで震えを止めた大男を見つめながら、あの日の恐怖の輪郭だけがじわりと蘇ってくるのを感じていた。

 

器具の先端が、皮膚の継ぎ目へ触れる。

 

その瞬間、格納庫全体が息を止めたように静まり返った。トタン屋根を鳴らしていた風の音さえ、その一瞬だけは聞こえなくなっていた。

 

夕闇が、荒野の稜線をゆっくりと呑み込んでいく。誰も口を開かないまま、赤い光だけが徐々に紫色へ変わっていった。残された猶予の中で、ニッカの指先だけが、静かに次の一手を刻み続けていた。この一夜が明けるまで、格納庫の静寂を破る者は、もう誰もいなかった。

 

全員生存を、と誓ったはずの日々の中で、今この瞬間ほどその誓いの重さを実感したことはなかった。奪われた猶予を取り戻せるかどうかは、この手の中にかかっている。ニッカはそのことだけを胸に刻み、器具を握る指先にゆっくりと力を込めていった。

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