器具の先端が皮膚の継ぎ目に触れた瞬間から、ニッカの意識は指先だけに凝縮されていた。
神経の走行を辿る感触は、前世の記憶に刻まれた設計図と寸分違わず重なっていく。深く沈めすぎれば、伝達経路そのものを損なう。浅すぎれば、バッファーは機能しない。許される誤差は、髪の毛一本ほどの幅しかなかった。
呼吸を、意識して整える。焦りは、指先の震えとなって現れる。今この場で震えていいのは、作業台の上に横たわる男の右手だけだった。
前世の記憶の中には、この種の処置に関わる症例がいくつも積み重なっていた。成功した例よりも、途中で経路を見誤り、取り返しのつかない損傷を残した例の方が多かった。ゲームの画面越しに眺めていた頃は、それも単なる数値の一つに過ぎなかった。だが今、目の前に横たわっているのは、数値ではなく体温を持った一人の男だった。手元が一ミリ狂えば、その温もりごと消してしまうかもしれない。その事実の重さを、ニッカは指先の先まで感じ取っていた。
格納庫の中に、物音はなかった。
風がトタン屋根を鳴らす音さえ、今この瞬間だけは誰の耳にも届いていないようだった。デイビッドは作業台の脇に立ち、差し出された器具を無言で受け取っては、次の器具をそっと手渡していく。動作の一つ一つに、迷いはなかった。かつて自分がこの台の上で味わったはずの感覚を、彼はもう正確には思い出せない。それでも今、息を殺して横たわる大男の姿が、あの夜の記憶の輪郭を静かになぞり直させていた。
熱交換ユニットから切り出した配管を、ニッカは基板の接続端子へ通していく。廃品同然だった部品が、指先の動き一つで意味を変えていく様子を、デイビッドは何度見ても不思議に思わずにいられなかった。
作業台から少し離れた場所で、レベッカとファルコが並んで立っていた。二人とも、口を挟む余裕はなかった。ファルコは帽子のつばを深く下げたまま、身じろぎ一つしない。レベッカは両手を強く握り合わせ、爪が食い込むほどの力を込めていた。
キーウィだけが、いつもの調子で腕を組んでいた。だが、その視線は一度もニッカの指先から離れなかった。理解できないものを前にした時の警戒心は、今はもう彼女の中にない。代わりにあるのは、結果を見届けたいという、もっと単純な感情だけだった。
作業は、想像していたよりも長く続いた。
配線を一本組み替えるたび、ニッカは携帯測定器の数値を確かめ、また次の工程へ進んだ。焦って進めれば、それだけ見落としが増える。前世の記憶が積み上げてきた失敗例の一つ一つが、彼女の指先を慎重にさせていた。
夜が更けるにつれ、格納庫の温度は徐々に下がっていった。それでもニッカの額には絶えず汗が滲み、工具を握る手だけは一度も止まらなかった。
不意に、測定器が甲高い警告音を鳴らした。
ニッカの手が、一瞬止まる。画面に映る発熱量のグラフが、想定していた範囲を大きく超えて跳ね上がっていた。
「……なに」
低く呟いた声に、デイビッドが息を詰めた。
「駄目なのか」
「黙ってて」
短く遮り、ニッカは視線を配線の接続部へ走らせた。熱源の分岐点で、電流が一箇所に集中している。放っておけば、数秒のうちに周辺の神経組織ごと焼き切ってしまうはずだった。
指先が、迷わず動いた。予備の伝導体を素早く継ぎ足し、電流の逃げ道を作り替える。前世の記憶が、無数の失敗例の中から、この状況に一番近い解法を引き当てていた。考える時間はなかった。手が、頭より先に答えを出していた。
グラフの跳ね上がりが、山を越えたところで緩やかに沈み始めた。警告音が止む。
ニッカは、詰めていた息を静かに吐いた。
「……危なかった」
呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。だが、その一言の裏にある緊張の大きさだけは、隣に立つデイビッドにも伝わっていた。彼は何も聞かなかったふりをして、次の器具を黙って差し出した。
「……あと少し」
誰に向けたものでもない呟きが、静寂の中に小さく落ちた。デイビッドは何も言わず、ただ次の器具を差し出した。
言葉のいらないやり取りが、何度も繰り返された。ペンチ、細径のコード、絶縁体の切れ端。求められる前に差し出せるようになった自分に、デイビッドは少しだけ驚いていた。数か月前、ここへ足を踏み入れた時の自分なら、こんな役目を任されるとは思いもしなかった。
壁際に座り込んだレベッカは、膝を抱えたまま、作業台の方角から目を離せずにいた。いつもなら誰かが黙り込んでいるだけで耐えられず、軽口の一つも飛ばしてしまう。だが今は、その口を開く気力すら残っていなかった。
「……なあ」
かすれた声で、隣に座るキーウィに話しかける。
「あの女、いつもこんな顔して仕事してんのか」
「知らない。見るのは、私も初めてだ」
短く答えたキーウィは、煙草を挟んだ指先を、珍しく持て余していた。火を点ける気にもなれないまま、彼女はただ煙草を指の間で回し続けている。
「……怖くねえのかな、あの女」
「怖くないわけがない。だが、怖さを顔に出す暇があったら、手を動かす。そういう性分なんだろう」
冷静な分析に、レベッカは何も言い返せなかった。膝を抱える腕に、無意識のうちに力がこもる。時間の流れが、ひどく遅く感じられた。
神経経路の分岐点に、最後のバッファーを接続する。
その瞬間、測定器の画面に映る数値が、ゆっくりと形を変え始めた。伝達遅延を示す曲線が、右肩上がりの軌跡から、緩やかな水平線へと変わっていく。発熱量のグラフも、危険域を示す赤い帯から静かに離れていった。
ニッカは息を止めたまま、数値の推移を見つめ続けた。前世の記憶にある成功例と、目の前の曲線とが、少しずつ重なっていく。
「……安定した」
短い呟きに、デイビッドが顔を上げた。
「終わったのか」
「まだ。慎重に、確認する」
即座に返しながら、ニッカは測定器をメインの手首へ当て直した。数値は、揺らがなかった。何度確かめても、同じ結果が返ってくるだけだった。
工具を置いたのは、空が白み始める少し前だった。
ニッカは拘束具のベルトを一つずつ緩めていった。皮膚に食い込んでいた革帯の跡が、赤く残っている。彼女はその跡を指先でそっと確かめ、それ以上は何も言わなかった。
「メイン」
低く名前を呼ぶと、閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いた。
「……終わったのか」
「終わった」
短い答えに、メインはしばらく動かなかった。天井を見つめたまま、彼は自分の右手を、ゆっくりと持ち上げた。
指先を、握る。開く。
もう一度、握る。
震えは、どこにもなかった。
「……嘘だろ」
かすれた声で呟き、メインは自分の手のひらをまじまじと見つめた。頭の奥で、ずっと鳴り続けていた低いノイズの気配を探す。だが、探そうとした先に、何もなかった。
「静かだ」
「何が」
「頭の中が……何年ぶりかってくらい、静かだ」
呆然とした声に、ニッカは短く頷いただけだった。
「バッファーが、ちゃんと機能してる証拠」
事もなげに言うニッカの横で、メインはゆっくりと上体を起こした。関節の一つ一つを確かめるように、肩を回し、指を折り曲げる。長年連れ添ってきたはずの右手が、まるで別人のものみたいに軽かった。
「……治ったわけじゃ、ないんだよな」
「治ったわけじゃない。蓄積を、限りなくゼロに近づけただけ」
「なら、この先もずっと、こうやって静かなままなのか」
「今のペースなら、あんたの寿命が尽きるまで、症状は表に出ない。そう設計した」
淡々と告げるニッカの言葉に、メインはしばらく黙り込んだ。数字の意味を、まだ完全には飲み込めていない様子だった。だが、静まり返った頭の中の感覚だけは、疑いようもなく本物だった。
「……信じるしかねえな、それは」
「信じなくてもいい。あんたの体が、もう答えを出してる」
言い返す言葉もなく、メインはもう一度だけ、その手を握り直した。
「メイン!」
弾かれたように、ドリオが駆け寄った。
「大丈夫なの、体は」
「……ああ」
答えながら、メインはもう一度、指を握っては開いた。何度繰り返しても、震えは戻ってこなかった。
「震えて、ない」
呟くドリオの声が、かすかに揺れた。
「ああ。震えてねえ」
短いやり取りの後、ドリオはメインの手を両手で包み込んだ。指先の感触を、確かめるように何度も撫でる。長年、この手が震えるのを見続けてきた。その震えが、今この瞬間、跡形もなく消えていた。
「……よかった」
絞り出すような声で、ドリオはそれだけを口にした。それ以上の言葉は、続かなかった。堪えていたはずのものが、目の縁からゆっくりと溢れていく。彼女はそれを拭おうともせず、ただメインの手を握り続けていた。
離れた場所で、レベッカが両手で口を覆っていた。
「マジかよ……マジで、直っちまったのかよ」
震える声で呟くと、彼女は工具棚に手をついて、深く息を吐いた。強がっていた緊張が、その一息で一気に抜け落ちていくのが分かった。
「当たり前でしょ。ちゃんと直したんだから」
「いや、当たり前じゃねえだろ! 発狂まで一月だって言われてたんだぞ!」
「言われてたけど、材料が揃ったから直した。それだけの話」
にべもない返答に、レベッカは何かを言い返そうとして、結局は言葉を失った。代わりに彼女は、工具棚に額を押し付けたまま、しばらく肩を震わせていた。
荒事の世界に身を置く中で、レベッカはこれまで何度も仲間を失ってきた。銃弾や刃物で失われる命なら、まだ受け入れる覚悟の持ちようがあった。だが、体の内側から静かに壊れていくものには、抗う術を知らなかった。その恐怖の正体を、彼女は今日、初めて間近で突きつけられていた。そして今、その恐怖が跡形もなく取り払われていく様を、彼女は自分の目で確かに見届けていた。
「……あたし、あんたのこと、本気で神様だと思うことにするわ」
顔を上げたレベッカが、洟をすすりながら呟いた。
「神様じゃない。ただの、廃品整理が得意なメカニック」
「その廃品整理で、人の命救ってんじゃねえか」
言い返す声に、いつもの勢いが少しずつ戻り始めていた。
ファルコは、帽子のつばを上げ、メインの様子をしばらく見つめていた。
「……よく、耐えたな」
低く落とされた声に、メインは小さく笑った。
「耐えたのは、俺じゃねえよ」
視線が、作業台の脇に立つニッカへ向いた。
「あんたが、耐えたんだろ」
呟きに応じる者はいなかった。ファルコは黙ったまま、ただ帽子のつばを深く下げ直した。かつて救えなかった相棒の記憶が、今この光景と静かに重なっていくのを、彼は誰にも気づかれないよう、胸の奥へしまい込んだ。
昔の相棒も、こんな風に手が震えていた。当時の彼には、その震えの意味を読み取る知識も、頼れる相手も、何一つなかった。気づいた時にはもう、荒野のどこかに埋めるしかない姿になっていた。その日から、ファルコは誰かの弱さに気づくたび、必要以上に目を凝らす癖がついた。今日、その癖がようやく報われた気がした。形見のハットのつばに指を添えたまま、彼はしばらく空を仰いでいた。声には出さなかったが、その一瞬だけ、彼の目の縁がわずかに光っていた。
キーウィは、腕を組んだまま、ニッカの手元をなおも見つめ続けていた。
「……見せてもらっても、いいか」
「何を」
「バッファーの、構造」
「駄目」
即答に、キーウィは小さく笑ったようだった。
「だろうな」
「見せる理由、ないでしょ」
「理由なんざ、こっちも持ち合わせちゃいない。ただ、見てみたいと思っただけだ」
素っ気ないやり取りの奥に、これまでとは違う響きが滲んでいた。理解できないものへの警戒は、もうそこにはなかった。代わりにあるのは、もっと単純な、敬意に近い何かだった。
ルーシーは、端末を握りしめたまま、身動きできずにいた。
数値の推移を、彼女は最初から最後まで記録し続けていた。だが、記録された数字を何度読み返しても、その意味の全てを飲み込むことはできなかった。
「……信じられない」
呟いた声に、力はなかった。ただの驚きではなく、理解の限界を突きつけられた者特有の、重たい響きだった。
「あの短い時間で、神経経路そのものを組み替えた。既存のどんな医療技術にも、こんな真似はできない」
「できたから、やった。それだけ」
短い答えに、ルーシーはそれ以上何も言えなかった。彼女は端末を握りしめたまま、ニッカの横顔をしばらく見つめ続けていた。アラサカの施設で見てきた、崩れていく者たちの姿が、頭の隅を掠めては消えていく。あの場所には、こんな手立てを持つ者は誰一人としていなかった。
幼い頃、実験台にされていく仲間たちの姿を、ルーシーはただ見ていることしかできなかった。助けを求める声に応える術も、力も持っていなかった。あの無力感だけは、脱走から何年経った今でも、体のどこかに染み付いたまま消えることがなかった。だが今、目の前でその無力感を軽々と踏み越えていく人間がいる。信じたい気持ちと、信じきれない戸惑いが、ルーシーの中で静かにせめぎ合っていた。
デイビッドは、少し離れた場所で、静かに息を吐いていた。
自分の背中に施された細工と、今しがた目の当たりにした光景とが、頭の中で重なっていく。あの夜、痛みの記憶さえ残さず眠りに落ちた自分と、今、震えの消えた手を見つめる大男の姿。どちらも、同じ指先が導いた結果だった。
「……あんた、本当に何者なんだよ」
小さく呟いた言葉に、答えを持つ者はいなかった。
工具を片付け始めたニッカの背中に、メインが低く声をかけた。
「ニッカ」
「何」
「礼を、言わせてくれ」
「別に。ただの調整」
いつもの調子で流そうとするニッカに、メインは首を振った。
「ただの調整で、片付けていい話じゃねえ」
低く落とされた声には、これまでにない重みがあった。
「俺は、お前に命を救われた。それも、二度目だ」
「二度目?」
「一度目は、デイビッドの背中を直した時。あいつが助かったことが、俺にとっても支えだった。今回は、俺自身の番だった」
淡々と続けられる言葉に、ニッカは工具を持つ手を止めた。
「これで、あんたに何かあったら、俺は一生かけても償いきれねえ借りを背負うことになる」
「借りとか、そういうのいらないから」
「いらなくても、俺の中には残る」
きっぱりとした一言に、ニッカは反論の言葉を見失った。
「これからは、何があってもお前の味方だ。誰が相手だろうとな」
短い宣言に、ニッカはしばらく黙り込んだ。誰かに、これほど真っ直ぐな言葉で恩を返されることに、彼女はまだ慣れていなかった。
「……勝手にすれば」
素っ気ない返事だったが、その声には、いつもよりわずかに柔らかい響きが混じっていた。
窓の外では、夜がゆっくりと明け始めていた。
薄い青が、地平線の際からにじみ出てくる。格納庫の中に満ちていた張り詰めた空気は、時間をかけて少しずつ緩んでいった。誰も口には出さなかったが、全員が同じ安堵を分かち合っていた。
ドリオは、メインの傍らに座ったまま、彼の手を離そうとしなかった。震えの消えた指先を、何度も確かめるように握り直す。その仕草に、レベッカが横からそっと声をかけた。
「よかったな、姐さん」
「……ええ」
短い返事に、レベッカは珍しく茶化さず、ただ小さく頷いただけだった。
夜明けの光が格納庫に差し込み始めた頃、ニッカは工具箱の蓋を閉じ、ようやく作業台から離れた。
肩に、鉛のような疲労がのしかかっていた。それでも、指先には確かな充足感が残っていた。壊れかけていたものを、また一つ、正しい形に戻せた。その事実だけが、今の彼女を支えていた。
椅子に腰を下ろすと、張り詰めていた気力が、糸の切れたように緩んでいく。手のひらを見下ろせば、細かい震えが残っていた。メインの右手を止めるために動かし続けた指先が、今になってようやく本来の疲労を思い出したかのようだった。
「……お疲れさん」
不意にかけられた声に、ニッカは顔を上げた。ファルコが、水の入ったコップを差し出している。
「あんたも、寝てないだろ」
「別に、平気」
「平気なやつが、そんな顔するかよ」
指摘され、ニッカは黙ってコップを受け取った。冷たい水が、乾いた喉を通り過ぎていく。その感触だけで、体の輪郭がわずかに戻ってくる気がした。
朝の支度が始まると、格納庫の空気は少しずつ、いつもの騒がしさを取り戻していった。レベッカが伸びをしながら大あくびをすると、ドリオが呆れたように肩をすくめる。ファルコは車両の点検を始め、キーウィは煙草に火を点けたまま、朝焼けの空を見上げていた。
「そろそろ、帰り支度するか」
ファルコの声に、レベッカが名残惜しそうに顔をしかめた。
「もうちょい、いてもいいだろ」
「駄目。ここは病院じゃない」
すかさず返すニッカに、レベッカは唇を尖らせたが、それ以上は粘らなかった。荷物をまとめる彼女の手つきには、いつもの軽やかさが戻っていた。
出発の準備が整う頃、メインがニッカの前に立った。
「また、来る」
「勝手にすれば」
「今度は、土産くらい持ってくる。あんたに礼をしないと、俺の気が済まねえ」
「別に、いらないから」
「いらなくても、持ってくる」
譲らない口調に、ニッカは小さく息を吐いた。誰かの気遣いを断りきれない自分に、彼女はまだ慣れていなかった。
車両に乗り込む一同を、ニッカは格納庫の前まで見送った。
「ちょっと待って」
呼び止める声に、荷物を運び込んでいたデイビッドが振り返った。ニッカは格納庫の奥から水のボトルをいくつか抱えて戻ってくる。給水タンクから汲んだばかりのものだった。
「荒野の道中、喉が渇いてからじゃ遅い。持っていって」
「……いいのか、こんなに」
「余ってるものだから。気にしないで」
そっけない口調の裏に滲む気遣いに、レベッカが横からにやりと笑いかけた。
「優しいじゃんか、結局」
「うるさい。あんたは水より寝る時間の方が必要でしょ、その顔」
「なんだと、失礼な。あたしは元気満々だっつうの」
言いながらも、レベッカは大きなあくびを一つ漏らした。その様子に、周りから小さな笑いがこぼれる。張り詰めていた夜がようやく終わったのだと、誰もがその笑いで確かめ合っているようだった。
「ドリオ」
呼び止められ、ドリオが振り返った。
「あんたも、たまには自分の体、気にかけて」
「……あんたに言われるとはね」
苦笑するドリオに、ニッカは小さく肩をすくめただけだった。
「ずっと、こいつの手ばっかり気にしてたでしょ。少しは自分のことも見なさい」
「善処する。約束はしない」
正直な返事に、ニッカも今度は思わず笑ってしまった。
「ニッカ」
デイビッドが、少し離れた場所から声をかけてきた。
「ありがとな。メインのことも、俺の背中のことも」
「別に、感謝される筋合いない。私は自分がやりたいようにやっただけ」
「それでも、だ」
短く言い切ったデイビッドの目には、初めて会った夜には見られなかった強さが宿っていた。あの日、痩せこけた少年だった彼は、今ではもう、仲間の命を案じるだけの力を持つ一人の男に育ちつつあった。ニッカはその変化を、口にはしないまま、そっと胸に留めた。
車列が動き出す直前、キーウィがニッカのそばへ歩み寄った。
「なあ、ニッカ」
「何」
「一つ、聞いておきたいことがある」
煙草を取り出しかけて、キーウィはそれに火を点けないまま、指の間で挟み続けた。
「あの熱交換ユニット。旧トラウマ・チームの廃棄記録から辿ったものだ」
「それが、どうかした」
「廃棄品とはいえ、元は軍事系企業の管理下にあった機材だ。持ち出しの記録が、どこかに残っている可能性はある」
静かな指摘に、朝の空気が、わずかに冷えた。
「……追跡される、ってこと」
「可能性の話だ。今すぐどうこうという話じゃない」
素っ気なく答えながらも、キーウィの目には、隠しきれない用心の色が浮かんでいた。長年、裏社会を渡り歩いてきた者だけが持つ、消えることのない警戒心だった。
「用心しておくに、越したことはない」
「……具体的に、何をすればいいの」
「今のところは、何も。ただ、頭の片隅に置いておけばいい。忘れた頃に、一番厄介な形で戻ってくるのが、この手の話の常だからな」
言い終えると、キーウィはようやく煙草の箱をポケットへしまい直した。数えきれない修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、乾いた確信がその声には滲んでいた。
「あんたの腕は本物だ。だが、本物であればあるほど、探しに来る連中も本気になる。それだけは、覚えておいた方がいい」
短い忠告を残し、キーウィは口を噤んだまま車へ乗り込んだ。ニッカは工具袋の紐を握ったまま、動かなかった。
三台の車列が、砂塵を巻き上げながら遠ざかっていく。
荷台の上でレベッカが何か叫んでいたが、その声は風にさらわれて届かなかった。デイビッドが最後に一度だけ振り返り、小さく頭を下げる。ニッカは片手を上げただけで、それ以上の言葉は返さなかった。
車列が尾根の向こうへ消えるまで、ニッカはその場に立ち尽くしていた。
静けさが、いつも通りにガレージへ戻ってくる。だが、その静けさの手触りは、以前とは確かに違っていた。命を預けられ、そして無事に返せた。その重みだけが、まだ体のどこかに残り続けている。
腰のレンチに、彼女はそっと手を添えた。バートなら、今日のことを何と言っただろう。答えの出ない問いを、ニッカはゆっくりと胸の奥へしまい込んだ。
工具箱を片付けながら、彼女はふと、キーウィの残した言葉を思い出していた。旧トラウマ・チームの廃棄記録。持ち出しの痕跡。可能性の話だと、キーウィは言った。だが、その言葉の底に沈んでいた用心の色だけは、ニッカの記憶に小さな影を落としたまま消えずにいた。
朝日が、荒野の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。震える指先の正体は、もう誰の目にも見えなくなっていた。それでも、静かな朝の光の底で、まだ誰も気づいていない何かが、ゆっくりと動き始めていた。
一人になった格納庫の中で、ニッカは工具棚の前に立ち尽くしていた。
バートの遺した工具箱に、彼女はもう一度視線を落とした。壊れた場所を叱っても直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。育ての親の教えを、今日という一日ほど深く噛みしめたことはなかった。誰かの命を預かり、そして無事に返す。その重みを知った今、彼女の中で何かが静かに、しかし確かに形を変えていた。
鍋に水を張り、乾燥保存食を戻す。いつもと変わらない、一人分の昼食の支度だった。それでも、鍋をかき混ぜる手の先に、昨夜の緊張の余韻がまだ微かに残っている。湯気を眺めながら、ニッカは椅子に深く腰を下ろした。
格納庫を満たすのは、鍋の底で湯が揺れる小さな音だけだった。窓から差し込む朝の光が、宙を舞う埃の粒を淡く照らし出している。あれほど張り詰めていた昨夜の空気は、もう跡形もなく消えていた。
「……疲れた」
誰に向けたものでもない呟きが、静かな格納庫に落ちて消えた。だがその声には、これまでにない充足の色が滲んでいた。壊れかけていた何かを、また一つ、元の形に取り戻せた。それだけで、十分だった。
十八の夏に立てた誓いは、まだ胸の中にある。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。けれど震えの消えた右手を思い返すたび、あの誓いの輪郭が以前よりも一段と柔らかく感じられて、ニッカはそのことに気づかずにはいられなかった。喜ぶべきことなのか、それとも警戒すべきことなのか。その答えはまだ彼女自身の中にも見つからなかった。
同じ頃、荒野を戻るトラックの荷台で、ドリオはメインの右手にそっと目を落としていた。
震えは、もうどこにもなかった。それでも、彼女はしばらくの間、その手を離そうとしなかった。掌に伝わる体温だけが、いつもと変わらず確かだった。指先の感触を確かめる仕草には、安堵と、まだ拭いきれない不安の両方が滲んでいる。
「もう、大丈夫だ」
メインが低く呟いた。震えの消えた声には、いつもの豪快さが少しずつ戻り始めていた。
「分かってる。分かってるけど」
「まだ、信じきれねえか」
「……そうかもしれない」
正直な答えに、メインはふっと息を吐くように笑った。
「あの嬢ちゃんの腕は、本物だ。この体が、何よりの証拠だろうが」
「……そうね」
短く答えながらも、ドリオの視線は、遠ざかっていくガレージの方角へ、もう一度だけ向けられた。あの場所に残してきたものが、水のボトルだけではない気がしていた。何か、言葉にできない予感が、荒野を渡る風の中に微かに混じっているような気がしてならなかった。それが何を意味するのか、今の彼女にはまだ分からなかった。
その正体を、この場にいる誰かが知る日は、そう遠くないうちに訪れることになる。だが今はまだ、荒野に差す朝日と遠ざかっていく車列の砂塵だけが、その予兆を静かに包み込んでいた。誰にも気づかれないまま、それはそこにあり続けていた。