サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

18 / 41
第7.2話 廃品整理の延長で企業軍と戦うことになった

陽炎の向こうで、装甲車両の隊列はまだ動かなかった。

 

乾いた大地に立ち込める熱気が、視界の輪郭をゆっくりと歪ませていた。息を吸うだけで、喉の奥が焼けるように熱かった。焦げた砂の匂いが、鼻の奥にまとわりついている。それでも、目を逸らすことだけは、ニッカにはできなかった。逃げ場など、最初からどこにもなかった。

 

ただ、じりじりと迫る足音だけが、地面を通して低く響き続けている。ニッカは制御盤に手を置いたまま、その振動を数えていた。数えることでしか、今は何も考えたくなかった。

 

こめかみを伝った汗が、顎先から落ちる。乾いた大地に染み込む前に、指先がわずかに震えた。迎撃タレットの照準レバーに触れたまま、ニッカはまだ動けずにいる。

 

外周スピーカーから、再び機械合成の声が響いた。

 

「――最終通告。当該区画への進入を開始する」

 

抑揚のない一言が、荒野の空気に平坦に落ちていく。ニッカは奥歯を強く噛みしめた。

 

 

 

隊列の先頭で、指揮官の男は腕時計型の端末に目を落としていた。

 

回収対象の位置情報と、周辺の地形データが、画面の上で静かに重なっている。任務の内容は単純だった。回収し、持ち帰る。それ以外の判断は、彼には与えられていなかった。

 

副官が、無線越しに短く問うた。

 

「――抵抗があった場合は」

 

「規定通りだ。過剰な損耗は避けろ。だが、任務の完遂を優先しろ」

 

抑揚のない声で答えると、指揮官は端末を懐にしまった。命令された手順を、淡々とこなす。それだけが、彼のすべてだった。目の前に広がる廃車置き場に、人の暮らしが息づいていることなど、彼の判断材料には含まれていなかった。

 

装甲車両の砲塔が、油圧の低い音を立てて旋回した。まだ狙いは、ガレージの外壁に留まっている。しかし、いつでも照準を絞り込める体勢が保たれていた。

 

 

 

風が、止んでいた。

 

砂塵の帯を運んでいた乾いた風が、この瞬間だけは息を潜めているようだった。静止した空気の中で、統率された足音だけが、確実に距離を詰めてくる。前世の記憶にある戦争映画の一場面を、ニッカはふと思い出した。だが目の前にあるのは、映像でも数値でもない。自分の育った場所を、実際に踏み荒らそうとしている現実だった。

 

膝の裏が、微かに強張っている。恐怖という感情を、ニッカはこれまで何度も飲み込んできた。十四の夜、対戦車兵器の残骸を分解していた時。バートを失った、十八の夏。どの記憶にも共通していたのは、震えを止める前に、まず息を整えることだった。

 

深く、吸う。

 

ゆっくりと、吐く。

 

胸の奥にわだかまっていた冷たいものが、少しだけ薄まった気がした。

 

制御盤の隅に貼られた古い付箋が、目に入る。バートの筆跡で書かれた、燃料補給の目安値だった。もう何年も前に用済みになったはずのその紙を、ニッカは剥がさずに残していた。理由を、自分でもうまく説明できたことはない。ただ、あの筆跡が視界に入るだけで、指先の震えが少しだけ収まる気がした。

 

陽炎に揺れる地平線の向こうから、四台の装甲車両の輪郭が、じわりと滲んで見える。距離はまだあった。だが、確実に縮まり続けているという事実だけが、ニッカの神経を逆撫でし続けていた。

 

喉の渇きを覚える暇もなかった。ただ、心臓の音だけが、いやに大きく耳の奥に響いていた。

 

一人でここに立っている。その事実を、ニッカは今更のように噛みしめた。頼れる大人はもう、どこにもいない。それでも、恐怖に飲まれて立ち尽くすだけの子供でいることは、とうの昔に許されなくなっていた。

 

工具箱の重みを、腰のベルトに感じる。バートから受け継いだその重さだけが、今のニッカを支える唯一の拠り所だった。

 

 

 

装甲車両の陰から、新たな機体が姿を現した。

 

四本の細い脚を持つ小型の機械が、荷台の斜路をゆっくりと降りてくる。先端には、鈍く光る円形の刃が取り付けられていた。フェンスの支柱を狙って、機体はまっすぐに進み始める。

 

破砕装置。

 

前世の記憶が、その形状に淡々と名前を与えた。侵入経路を強引に確保するための機材だった。企業の実働部隊が、こうした道具を標準装備として持ち歩いていることに、ニッカは今更ながら息を呑んだ。

 

金属同士が擦れる、耳障りな音が響き始める。刃の先端が、支柱の根元に触れていた。

 

火花が、一つ弾ける。塗装が焦げる匂いが、微かに風に混じった。

 

最前列を進む若い兵士が、隣の同僚へ小さく声をかけた。

 

「――なあ、本当にただの廃品置き場なんじゃないのか」

 

「詮索するな。命令は、命令だ」

 

短く遮られ、若い兵士は口をつぐんだ。視線だけは、落ち着かなげに周囲を彷徨っていた。

 

映像越しに見るドローンの残骸や、統計上の被害数とは、まるで質が違っていた。目の前で今まさに削られていく金属の匂いには、痛みに似た手触りがある。バートが溶接したこのフェンスの一枚一枚を、ニッカは指先の感触で覚えていた。

 

あの日、汗を流しながら溶接棒を握っていたバートの背中を、ニッカは今でも鮮明に思い出せた。

 

 

 

タレットの照準レバーに指をかけたまま、ニッカは動けずにいた。

 

引けば、弾は正確に敵を捉えるだろう。だがそれは、後戻りのできない領域へ踏み込むことを意味していた。実弾で応じれば、相手はもう容赦しない。企業の実働部隊を相手取り、殺し合いの一線を越えることになる。

 

バートなら、どうしただろう。

 

そう考えた瞬間、記憶の奥から、あの声が蘇った。

 

「壊す前に、直す道を探せ」

 

何百回と聞かされてきた言葉だった。十四の頃、暴走しかけた古い発電機を前に、ニッカが力任せに叩き壊そうとした時のことだ。バートは黙って手を止めさせ、代わりに配線図を指先で追わせた。原因を見極めろ。壊すのは、直しようがないと分かってからでいい。

 

あの日、彼はもう一つ、別のことも教えてくれた。荒野を渡り歩くスカベンジャーの一団が、クランの水源を狙って襲ってきた時のことだ。若かったニッカは、迎撃用の火器を持ち出そうとしたバートを止められなかった。だが彼が組み上げたのは、殺傷力のある武器ではなかった。相手の車両のエンジンだけを、確実に沈黙させる装置だった。

 

「殺せば、恨みしか残らない。動けなくすれば、恨みの代わりに借りが残る」

 

低く笑いながら、バートはそう言った。あの日の言葉の意味を、ニッカは今になってようやく、指先の実感として理解し始めていた。

 

あの日、エンジンを止められたスカベンジャーたちは、悪態をつきながらも荷を捨てて逃げていった。誰も傷つかず、水源も守られた。バートは煤だらけの手を叩き合わせながら、満足げに笑っていた。あの笑顔を、ニッカは今でも鮮明に覚えている。

 

あの笑顔を最後に見たのは、いつだったか。思い出そうとするたび、十八の夏の記憶がその手前に立ち塞がる。ナイトシティの依頼に巻き込まれ、二度と戻らなかった背中。守るべき場所を持つということは、いつかまた同じ日を繰り返す覚悟を持つということなのかもしれなかった。それでも今、ニッカは逃げるという選択肢を選ばなかった。

 

あの日、遺体の前で立てた誓いは、ナイトシティに関わらないという一点に集約されていた。だが今、目の前にあるのはナイトシティそのものではなく、ナイトシティの側から押し寄せてきた脅威だった。誓いの文言と目の前の現実との間に生まれたわずかな隙間を、ニッカは今、自分の手で埋めようとしていた。

 

 

 

ニッカは、照準レバーから静かに指を離した。

 

実弾を使えば、勝てるかもしれない。だが勝ったところで、生まれるのは新たな屍だけだった。この土地を守るということは、命を奪わずに済む道を、最後まで探し続けるということだ。バートが遺してくれたものの意味を、ニッカはようやく取り戻していく。

 

制御盤の表示が、防衛システムの限界を静かに告げていた。光学迷彩のアンテナも、自動追尾の仕組みも、あくまで気配を隠し遠方からの脅威を退けるための機構でしかない。目の前まで迫った物理的な破壊行為に対して、それらはほとんど無力だった。作ってきたものの得意分野と、今この瞬間に必要なものとの間には、埋めがたい隔たりがあった。

 

破砕装置の刃が、支柱の塗装を削り取っていく音が、さらに大きくなった。

 

侵入まで、もう長くはかからない。

 

ニッカは制御盤を離れ、格納庫の奥へと駆け出した。走りながら、頭の中では既に必要な部品のリストが組み上がっていた。焦りはあっても、迷いを挟む隙はなかった。

 

 

 

廃棄室の扉を開け放つと、埃っぽい空気が顔にかかった。

 

棚には、これまで拾い集めてきたガラクタが無造作に積まれている。壊れた家電、古いモーター、剥き出しの基板。どれも一度は誰かに捨てられたものだった。その中から、ニッカは目当てのものを探し始めた。

 

必要なものは、頭の中でもう出来上がっていた。あとは、それを現実の手順へ変換するだけだった。

 

まず手に取ったのは、業務用エアコンの残骸から抜き取った大容量コンデンサだった。旧式だが、頑丈で電荷の保持率が高い。次に、焼け焦げたモーターの内部から、太い巻き線をそのまま引き抜く。前世の記憶が、必要な巻き数と配線の順序を淡々と示していた。

 

指先を動かしながら、ニッカは頭の中で構造を組み立てていく。コンデンサに蓄えた電荷を、コイルへ一気に流し込む。発生する強力な磁場が、周囲の電子機器を内側から焼き切る。原理そのものは、単純だった。問題は、それをどれだけ短い時間で、限られた材料だけで組み上げられるかだった。

 

頭の中に浮かぶ設計図は、前世で幾度となく眺めてきたクラフト画面そのものだった。必要な素材、組み合わせの手順、完成までの見込み時間。かつては数値でしか示されなかったそれらが、今は現実の重みを伴って積み上がっていく。攻略情報の暗記でしかなかった知識が、命を賭けた手順書に変わっていた。

 

 

 

棚の奥から、絶縁テープの束を引っ張り出す。

 

指先が、少しだけ滑った。焦っている自覚はあった。それでも今は、丁寧さと速さの両方が求められている。ニッカは深呼吸を一つ挟み、テープの端を巻き線の継ぎ目に押し当てた。

 

外では、破砕装置の刃が支柱の半ばまで食い込んでいた。

 

金属の軋む音が、少しずつ甲高くなっていく。時間は、確実に減り続けていた。

 

震える手で、ニッカはコンデンサの端子にコイルの一端を巻きつけた。焦れば、接続を誤る。誤れば、爆発の規模も方向も、もう制御できなくなる。呼吸を整えながら、彼女は一つ一つの手順を丁寧になぞっていった。

 

牙を研ぐように、その手は止まらなかった。

 

廃棄室の中は、外よりもいっそう蒸し暑かった。喉の渇きを覚える余裕さえ、今のニッカにはない。指先の感覚だけを頼りに、彼女は次から次へと部品を選び取っていった。

 

 

 

充電用の昇圧回路を探して、ニッカは棚の下段を漁った。

 

だが、目当ての部品はどこにも見当たらない。以前使った覚えのある基板が、記憶にある場所から消えていた。舌打ちしそうになるのを堪え、彼女は棚全体へ視線を走らせた。

 

代わりに目に留まったのは、古い保安灯のストロボ発光装置だった。用途は違うが、内部に組み込まれた昇圧回路の構造は、求めているものと近い。前世の記憶が、瞬時に代用の可否を弾き出していく。効率は落ちる。それでも、時間がない今は、これで十分だった。

 

ニッカは保安灯の筐体を素早く割り、基板だけを抜き取った。配線を繋ぎ替える指先に、迷いはなかった。完璧を求めている暇は、もう残されていなかった。

 

古い電子レンジの筐体から、制御用の小さな基板を取り出す。

 

過電流を検知した瞬間に放電を止める安全回路だった。これがなければ、装置は完成する前に自壊してしまう。指先の感触だけで端子の位置を確かめ、ニッカは基板をコイルの回路に組み込んでいった。前世の記憶に刻まれた無数の設計図が、頭の奥で静かに答えを差し出してくる。迷っている暇は、もはやなかった。

 

汗が一滴、作業台の上に落ちた。拭う余裕もないまま、ニッカは次の部品へ手を伸ばす。

 

接続を終えた瞬間、基板の端から小さな火花が散った。焦げた匂いが鼻を突く。ニッカは息を止め、原因を目で追った。予備の抵抗が一つ、耐圧を超えていたらしい。棚から値の合う抵抗器を探し出し、素早く交換する。指先に走った微かな痛みを、彼女は無視した。火傷を気にしている暇などなかった。

 

配線を繋ぎ終えた基板を、ニッカは試験用の小さな端子に当ててみた。表示ランプが、一瞬だけ明滅する。回路そのものは、生きていた。安堵する余裕もないまま、彼女は残る作業へと意識を戻す。

 

最後に、投擲時の衝撃で誤作動しないよう、起爆機構に緩衝用のスプリングを一つ挟み込んだ。指先で弾力を確かめ、問題がないことを確認する。これで、装置に必要な要素は、ひとまず揃ったはずだった。

 

筐体の外側に、緩衝材代わりの布切れを巻きつける。軽すぎれば狙った場所まで届かず、重すぎれば投げる前に自壊しかねない。バートに教わった重心の取り方を、ニッカは手のひらの感覚だけで探り当てていった。

 

起爆スイッチの安全ピンに指をかけ、ニッカはその感触を確かめた。抜けば、もう後戻りはできない。だが今は、その一線を恐れている場合ではなかった。

 

完成した装置は、拳二つ分ほどの大きさに収まっていた。継ぎ接ぎだらけの外見からは、内部に眠る力の大きさなど、誰にも想像がつかないはずだった。手のひらに伝わる重みだけが、その正体を静かに物語っていた。ガラクタでしかなかったはずのそれが、今は荒野を覆すだけの牙に変わっていた。

 

最後にもう一度、コンデンサの充電状態を確認する。表示灯は、満充電を示す色に染まっていた。あとは、投げるだけだった。

 

作業台に散らばった端材を一瞥し、ニッカは小さく息をついた。使えるものは、もう出し尽くしていた。あとに残されているのは、これを確実に届けることだけだった。

 

 

 

同じ頃、荒野を引き返す車列の中で、ドリオは端末の画面をじっと見つめていた。

 

「……まだ、繋がらない」

 

「無線も、完全に沈黙したままだ」

 

ファルコが短く答え、アクセルを踏み込んだ。悪路の振動が、車内をいつもより激しく揺らしている。

 

助手席で腕を組んでいたメインが、低く呟いた。

 

「間に合わせろ」

 

「言われなくても、そのつもりだ」

 

ファルコの声には、いつもの余裕がなかった。荷台では、レベッカが拳を握りしめたまま、地平線の彼方を睨みつけている。

 

「あのクソ野郎ども……ニッカに何かあったら、ただじゃおかねえ」

 

メインは、自分の右手を静かに握り込んだ。震えのない指先の感触を確かめるたび、あの夜の光景が蘇る。命を救われた借りを、彼はまだ何一つ返せていなかった。

 

「あいつを死なせて堪るか」

 

低く呟いた声に、誰も茶々を入れなかった。

 

荷台の隅で、レベッカは愛銃の弾倉を確かめていた。指先の動きに、いつもの軽さはなかった。

 

 

 

低く呟いたレベッカの隣で、ルーシーは端末の表示を睨み続けていた。

 

「妨害電波の出所、まだ特定できない」

 

「大体でいい。方角だけでも」

 

「ガレージの方角で、間違いない。それしか言えない」

 

ルーシーは端末の奥深くへ潜り込もうと試みたが、妨害の密度は増す一方だった。侵入経路を探る指先が、何度も弾き返される。舌打ちを堪えながら、彼女は次の突破口を探し続けた。

 

短い応答に、キーウィが煙草を挟んだ指先を持て余していた。火を点ける気にはなれないまま、彼女はただ地平線を見据えている。

 

「……厄介な相手を、あの女は釣り上げちまったな」

 

誰にともなく落とされた呟きに、答える者はいなかった。荒れた道を跳ねる車体の振動だけが、車内の沈黙を埋め続けていた。

 

キーウィは、煙草の箱を指先で弄びながら、独り言のように続けた。

 

「噂は、もう裏社会の一部にまで流れ始めている。バッドランズに、神がかった腕を持つメカニックがいる、とな」

 

誰も、それに答えなかった。だが、車内の空気には、否定できない重さが加わっていた。

 

「なあ」

 

レベッカが、乾いた声で呟いた。

 

「あいつ、あんな場所に一人で置いてきちまって、良かったのかよ」

 

「今更、そんなことを言っても始まらない」

 

キーウィが素っ気なく答えると、レベッカは唇を強く噛んだ。荷台の縁を握る手に、力がこもる。誰も、それ以上は言葉を続けなかった。

 

ドリオは窓の外へ目を向けたまま、静かに呟いた。

 

「あの子は、簡単にはやられない。そう信じるしかないでしょう」

 

答えを求めた言葉ではなかった。それでも、車内に満ちていた張り詰めた空気が、ほんのわずかに緩んだ気がした。

 

ファルコは、ハンドルを握る手のひらの汗を、太腿でそっと拭った。悪路の凹凸を読みながら、彼は車列の先頭を保ち続けた。

 

荷台の隅で、デイビッドは拳を握りしめていた。自分の背中を直してくれた指先を思い出すたび、焦燥感が募っていく。何もできずにいる今のこの時間が、誰よりも耐え難かった。

 

 

 

半日ほど離れた中央キャンプでも、重い沈黙が続いていた。

 

水筒を抱えた少女は、テントの隅にうずくまり、地平線の方角をずっと見つめている。年長の男が、無線機を握ったまま何度も呼びかけを続けていた。応答は、まだ戻ってこない。

 

「……ニッカ姉、大丈夫かな」

 

少女の呟きに、答える者はいなかった。誰もが同じ不安を抱えたまま、ただ息を潜めて待ち続けている。

 

老女が、少女の肩にそっと手を置いた。

 

「あの子は、簡単にはやられない。バートが育てた子だ」

 

言葉に、確信めいた響きがあった。けれど、地平線を見つめる老女の目もまた、微かに揺れていた。

 

老女は、遠い記憶を辿るように目を細めた。赤ん坊だったニッカを拾ってきた日の、バートの誇らしげな顔を、彼女はまだ覚えている。

 

「この子は、きっと誰かを助ける子になる」

 

そう言ったバートの声が、今も耳の奥に残っていた。

 

少女は水筒の紐を、両手で強く握りしめた。祈るという行為の形を、彼女はまだうまく知らない。だが、今できることは、それしかなかった。

 

テントの隅では、先ほど駆け戻ってきた見張りの青年が、拳を握りしめたまま俯いていた。ニッカを一人置いてきてしまった。その事実が、今になって重くのしかかってくる。年長の男が、青年の肩に手を置いた。

 

「お前がここへ戻ったから、クランの全員が助かった。それを忘れるな」

 

低い声にも、青年はすぐには顔を上げられなかった。

 

別の男が、無線機を握ったまま身を乗り出した。

 

「援護に、向かえないのか」

 

「向かったところで、今のクランの装備じゃ焼け石に水だ」

 

年長の男が静かに答えると、その場に重い沈黙が落ちた。誰もが、その通りだと分かっていた。分かっていてなお、何もできない自分たちに、苛立ちを抑えられずにいた。

 

握りしめた無線機の感触だけが、彼らにできる唯一の行動だった。

 

 

 

格納庫の奥で、ニッカは組み上げた回路を慎重に確かめていた。

 

コンデンサとコイルを繋いだ配線を、廃材のアルミ板で包み込む。外部への漏電を防ぐための、簡易的な遮蔽だった。前世の記憶にある電磁遮蔽の原理を、ありあわせの材料で再現しただけのものだ。継ぎ目の一つ一つを、指先で強く押さえてなじませていく。

 

装置の中心に、小さな起爆スイッチを取り付けた。指先で押し込めば、蓄えた電荷が一気に解き放たれる仕組みだった。

 

作業の合間、ふと少女の顔が頭をよぎった。この装置の効果が及ぶ範囲を、ニッカは即座に計算し直す。半径にして、せいぜい敷地の外周までだ。半日離れた中央キャンプまで、影響が届くことはない。それを確かめただけで、指先の迷いが少しだけ晴れた。

 

誰も傷つけたくない。だが、誰も傷つけない結末など、この状況ではもう望めないのかもしれなかった。せめて、取り返しのつかない傷だけは避けたい。その一線だけは、譲るつもりがなかった。

 

外周スピーカーから、三度目の警告が響いた。

 

「――抵抗の意志を確認。実力による制圧を許可する」

 

声色に、変化はなかった。それでも、その一言が意味するものの重さに、ニッカの背筋が冷えた。

 

装置の最終確認を進める中で、ニッカは自分の手の震えに気づいた。恐怖のせいだけではない。この一つに、あまりに多くのものを賭けすぎている自覚が、指先の感覚を鈍らせていた。

 

これだけの力を、自分は本当に扱いきっていいのか。ふとした疑問が、頭の隅をよぎる。前世ではただの攻略知識でしかなかったものが、今この手の中では、人の運命を左右する重みを持っていた。答えの出ない問いを、ニッカは奥歯で噛み潰した。今は、迷っている場合ではなかった。

 

 

 

刃はすでに、支柱の奥深くまで達していた。

 

金属の裂ける音が、辺りに響き渡る。支柱が傾ぎ、フェンスの一角が大きく歪んでいった。侵入まで、もう猶予はなかった。

 

ニッカは完成した装置を、両手で包み込んだ。手作りの、粗末な塊だった。アルミの筐体は歪み、継ぎ目からは絶縁テープがはみ出している。それでも、この一つに賭けるしかなかった。

 

装置の重みを確かめつつ、ニッカは搬出口へと駆け寄った。扉の隙間から、崩れかけたフェンスと、その向こうで前進を始めた実働部隊の影が見えた。

 

隊列の先頭に立つ指揮官らしき男が、腕を軽く上げる。無言の合図に応じ、兵士たちの歩調がわずかに速まった。統率された足並みには、迷いも躊躇いも見当たらない。

 

兵士たちの手にした銃身が、陽光を鈍く反射していた。まだ、こちらへ向けられてはいない。しかし、指はいつでも引き金にかかる位置にある。統率された歩調の一つ一つが、ニッカの肌に冷たい汗を滲ませていった。

 

 

 

心臓が、耳の奥で大きく鳴っていた。

 

守りたいものは、はっきりしている。バートが遺したこの場所。ここに集うクランの人々の暮らし。そして、まだ誰にも打ち明けられずにいる、自分自身の静かな日々。

 

レベッカの豪快な笑い声。デイビッドの不器用な礼の言葉。震えの消えたメインの右手。積み重ねてきたはずのない繋がりが、今のニッカにとって、かけがえのないものに変わっていた。

 

「……絶対に、壊させない」

 

声にならない呟きが、喉の奥で震えた。ニッカは搬出口の陰に身を寄せ、装置を握る手に力を込める。

 

だが、目の前に迫るのが命令に従うだけの人間たちであることも、ニッカは分かっていた。壊すのは、装備だけでいい。命まで奪う必要は、どこにもなかった。

 

そう決めた瞬間、指先の震えが、わずかに落ち着いた。迷いを断ち切ることでしか、今のニッカには前へ進む術がなかった。

 

支柱を断ち切る音が、辺りに響いた。フェンスの一部が、乾いた音を立てて崩れ落ちる。実働部隊の足音が、一斉に速まった。

 

崩れたフェンスの隙間から、先頭の兵士が身を屈めて進入を始めた。銃口は、まだ地面を向いたままだった。けれど、その距離はもう、確実に縮まり続けている。

 

進入した兵士たちは、そこで一旦足を止めた。指揮官の指示を待つ、統制の取れた静止だった。無線に短いノイズが走り、やがて前進の合図が返される。再び動き出した足並みに、迷いは戻っていなかった。

 

指揮官は、格納庫の奥に広がる暗がりへ目を凝らした。あまりにも静かすぎる。長年の経験が、そう告げていた。しかし、任務を止める理由には足りなかった。彼は前進の合図を、迷わず出し続けた。

 

 

 

風が、また動き始めていた。

 

乾いた砂粒が、頬をかすめて流れていく。ニッカは目を細め、フェンスの残骸越しに視線を据えた。統一された装備を纏った人影が、隊列を組んだまま前進してくる。銃口は、まだ地面へ向いたままだった。だが、その距離はもう、目と鼻の先まで縮まっている。

 

太陽は、いつの間にか天頂を過ぎていた。長く伸び始めた影が、その隙間から、じりじりと格納庫の壁を這い上がってくる。

 

今しかない。

 

ニッカは息を大きく吸い込んだ。

 

肺の奥まで、乾いた空気が満ちていく。吐き出す間際、身体の芯にわずかな震えが残っていることに、彼女は気づいていた。止まるという選択肢は、もう残されていない。

 

視界の端で、崩れたフェンスを越えた兵士の数が、また一人増えた。距離はもう、投擲の届く範囲に入っている。これ以上待てば、装置を投げる前に踏み込まれる。

 

風向きを一瞬だけ確かめ、ニッカは軌道を頭の中で組み立てた。狙いを外すことは、もう許されなかった。

 

耳の奥で、自分の鼓動だけが大きく響いていた。周囲の音は、いつの間にか遠のいている。生きて帰れという言葉を、ニッカは誰にともなく胸の内で繰り返した。バートに、そしてまだ何も知らないクランの誰かに向けた、声にならない約束だった。

 

バートが遺した工具箱の重みを、指先はまだ覚えている。ここで踏み出す一歩の先に、何が待っているのか、ニッカ自身にもまだ分からなかった。それでも、今は考えるより先に、動くべき時だった。

 

覚悟は、もう十分すぎるほど固まっていた。

 

搬出口の陰から一歩踏み出し、ニッカは装置を握る腕を大きく振りかぶった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。