指先を離れた装置が、乾いた空気を裂いて弧を描いていく。
破砕装置のアームが、フェンスの支柱にあと数センチまで迫っていた。金属同士が擦れ合う耳障りな音が、辺り一帯に響き渡っている。ニッカは搬出口の陰に身を伏せ、両耳を強く塞いだ。
弧を描く小さな塊を、ニッカは瞬きもせずに見つめ続けた。狙いが逸れていないか、風に流されていないか。確かめる術はもうどこにもなかった。すべての計算を終えた今、残されているのは、ただ結果を待つことだけだった。
弧の頂点を越えた装置が、破砕装置のすぐ脇に落ちる。
一拍の間があった。
光が、弾けた。
轟音ではなかった。むしろ、静電気の膨らんだような、低く籠もった破裂音だけがその場に響いた。空気の粒子までもが一瞬だけ帯電したような、肌を刺す感触がニッカの頬を撫でていく。だが、その一瞬の光を境に、辺り一帯の様相は一変していた。
上空を旋回し続けていた偵察ドローンが、二機とも同時に姿勢を崩した。羽ばたく力を失った鳥のように、機体は力なく傾ぎ、砂塵の上へ音もなく墜落していく。破砕装置のアームが、支柱まであと数センチというところで動きを止めた。駆動音が途切れ、油圧の唸りが消え去ると、機体はそのまま石像のように固まった。
装甲車両の隊列に、次々と異変が広がっていった。
車体の側面に並んでいた表示灯が、一斉に明滅を止める。統率の取れた足並みで前進していた実働部隊の動きが、まるで映像を一時停止したかのように硬直した。誰かが小さく呻く声が、静まり返った荒野に漏れ聞こえた。
盾を構えていた兵士たちの手から、力なく装備が滑り落ちていく。強化されたグローブの握力補助が沈黙したことで、指先の感覚だけでは重い装甲板を支えきれなかった。金属の落ちる乾いた音が、いくつも重なって荒野に響いた。誰も、それを拾い上げようとはしなかった。拾い上げるだけの力さえ、今は残されていないようだった。
隊列の後方で、通信を司っていたはずの兵士が、ヘッドセットを何度も叩いていた。応答のない沈黙だけが、彼の耳の奥に居座り続けている。指揮系統そのものが、音もなく断たれていた。
搬出口の陰で、ニッカはしばらく動けずにいた。
耳を塞いでいた手を、そっと外す。聞こえてくるのは、風の音だけだった。あれほど規則正しく響いていた駆動音も、機械音声も、すべてが同時に沈黙していた。
「……効いた?」
掠れた声で呟きながら、ニッカは搬出口からゆっくりと顔を出した。目に映った光景に、彼女はしばらく言葉を失った。
装甲車両の周囲に立っていた人影が、誰一人として動いていない。武器を構えたまま、あるいは前進の姿勢のまま、彼らは硬直したように立ち尽くしていた。近づいてみなければ分からないが、意識までは失っていないらしい。ただ、身に着けた装備のすべてが、機能を止めているように見えた。焦げた絶縁体の匂いが、乾いた風に混じって鼻先をかすめていく。
前世の記憶が、その光景に淡々とした解説を加えていく。強化外骨格も照準補助も通信機器も、すべてが電子制御に依存した設計だった。過剰なまでに洗練されたその設計思想こそが、皮肉にも彼らの動きを一斉に奪う結果を招いていた。
ガラクタを寄せ集めて作った回路が、これほどの規模の技術を黙らせる。頭では理解していたはずの理屈が、目の前の現実として突きつけられると、実感を伴って胸に落ちてくるまでには少し時間がかかった。指先はまだ、細かく震えたままだった。
破砕装置の傍らで、一人の兵士がよろめきながら膝をついた。
背負ったパワーアシストが完全に沈黙し、装備の重量がそのまま体にのしかかっている。彼は苦しげに呻きながら、ヘルメットの内側で明滅していたはずの表示が、真っ暗に落ちていることに気づいた。
「……なん、だ。何が起きた」
誰にも届かない呟きが、装甲板の隙間から漏れた。周囲を見回しても、答える者は誰もいなかった。並んでいたはずの仲間たちも、同じように硬直したまま、地面へ膝をついている。
指揮を執っていた男は、端末を握りしめたまま茫然としていた。画面はとうに真っ黒に沈み、何度スイッチを押しても反応はなかった。組織立った手順と物量さえあれば、いかなる抵抗も均せる。そう信じて疑わなかった彼の前提が、たった一発のガラクタによって根こそぎ覆されていた。
その頃、荒野を引き返す車列の中で、ドリオが最初に異変に気づいた。
「……今の、光」
「見えた。あの方角だ」
ファルコが短く答え、ハンドルを大きく切った。地平線の彼方、ガレージのある方角に、一瞬だけ膨らんだ淡い光が見えた。轟音を伴わない、静かな閃光だった。
「ニッカの奴、まだ生きてんのか」
レベッカが荷台の縁から身を乗り出し、目を凝らした。土煙の向こうに、光の余韻らしきものが薄く漂っている。それ以上の情報は、この距離からでは読み取れなかった。
助手席で拳を握りしめていたメインが、短く息を吐いた。
「あれが敵の仕業か、ニッカの仕業か。今の距離じゃ分からねえ」
「悪い方には、考えたくねえな」
低く呟いたファルコの声に、車内は再び沈黙した。誰もが同じ不安を抱えながら、ただ前方を見据え続けていた。
「急ぐぞ」
メインの一言に、ファルコはさらにアクセルを踏み込んだ。悪路を跳ねる車体の振動が、いつもより激しく車内を揺らした。誰も、それを気にする余裕はなかった。
ルーシーは端末に視線を落としたまま、小さく息を呑んだ。
「……通信の妨害、消えた」
「本当か」
「ノイズが晴れてる。何かが、あの一帯の電子機器を丸ごと沈黙させた」
呟きながら、ルーシーは信じられないという表情を隠せずにいた。国家に近い規模の技術を持つ組織の妨害電波を、たった一つの信号で丸ごと消し去る。そんな真似が可能な人間に、彼女はこれまで一度も出会ったことがなかった。
半日ほど離れた中央キャンプでも、地平線の彼方に膨らんだ淡い光が見えていた。
「……今の、見たか」
年長の男が目を細めて呟くと、周囲の人々が一斉にその方角へ視線を向けた。轟音は届かなかった。それでも、その光の質には、これまで見てきたどんな稲光とも違う異様さがあった。
「ニッカ姉の、方だよな」
水筒を抱えた少女が、震える声で問いかけた。答える者は、すぐには現れなかった。
「……あの子なら」
老女が静かに口を開いた。
「あの子なら、きっとやり返す。バートが遺したものを、簡単に踏みにじられるような子じゃない」
確信めいた響きを持つその一言に、周囲の空気がわずかに緩んだ。誰もが不安を拭い去れたわけではなかった。それでも、祈るような沈黙よりは、幾分か前を向ける言葉だった。少女は水筒の紐を握りしめたまま、いつまでもその方角を見つめ続けていた。
しばらくして、途絶えていたはずの無線に、ノイズ混じりの応答が返ってきた。
「――こちら、ガレージ。聞こえるか」
聞き覚えのある声に、テントの中がにわかにざわめいた。年長の男が慌てて無線機を掴み取る。
「ニッカか! 無事なのか!」
「……無事。あんたたちも、そのまま待機してて」
短い応答だったが、そこに滲む安堵の色を、誰もが聞き取っていた。テントの中に、堪えきれない歓声がいくつも上がった。少女は水筒を抱きしめたまま、その場に座り込んでしまった。安堵の涙が、乾いた砂の上にぽたぽたと落ちていった。
装甲車両の隊列を見つめながら、ニッカは搬出口から静かに外へ出た。
足元に転がる硬直した人影を横目に、彼女はゆっくりと歩を進めた。恐怖はまだ胸の奥にわだかまっていたが、それ以上に、目の前の光景を確かめずにはいられなかった。
倒れた兵士の一人一人に、命の気配はまだ確かに宿っていた。呼吸をする胸の動き、時折こぼれる呻き声。それを確かめるたび、ニッカの喉の奥から詰まっていた息がわずかに緩んだ。殺すつもりはなかった。動きを封じるだけでいい。前世の記憶が導いた設計の狙いは、間違っていなかったらしい。
自分の作った装置が、ここまでの規模を無力化するとは、ニッカ自身も完全には予測しきれていなかった。市販の兵器規格には遠く及ばないはずの粗末な回路が、洗練された軍用装備のすべてを黙らせている。前世の知識が導いた答えを、目の前の現実がそのまま証明していた。
膝をついたままの兵士の一人が、こちらへ視線を向けた。
「……お前、が」
「動かないで」
短く告げると、ニッカは工具箱から取り出した結束バンドを構えた。武器と呼べるようなものは、彼女の手には何もなかった。それでも、目の前の相手が今は起き上がれないことだけは分かっていた。
装甲車両の陰から、指揮官の男がふらつく足取りで立ち上がろうとしていた。
強化された義足の駆動系が沈黙している今、その動きはひどく鈍かった。それでも、彼の目に浮かぶ光は、まだ消えていなかった。組織の命令を最後まで遂行するという意志だけが、崩れかけた体を無理やり支えているようだった。
「……回収は、続行する」
掠れた声で呟きながら、男は腰の予備武装へ手を伸ばした。電子制御に頼らない、旧式の機械式拳銃だった。こうした不測の事態に備え、あらかじめ装備していたものらしい。指先が引き金にかかりかけたその瞬間、荒野の向こうから土煙を巻き上げて三台の車両が滑り込んできた。
ニッカの喉から、小さな悲鳴が漏れた。
「危な……!」
叫びかけた声は、途中で別の声にかき消された。
「――止まれ!」
野太い声が、乾いた大気を切り裂いた。
車両から真っ先に飛び降りたメインが、地面を蹴って距離を詰める。強化されていたはずの敵の反応は、明らかに鈍かった。義足の駆動が沈黙したまま、指揮官の男は体勢を崩した。
「な……!?」
驚愕の声が漏れる間もなく、メインの太い腕が拳銃を握った手首を掴んでいた。骨が軋む音とともに、拳銃が乾いた地面へ落ちる。硬直したままの体を、メインはそのまま地面へ押さえつけた。
「……お前ら、二度とこの土地に足を踏み入れるな」
低く告げた声には、有無を言わせぬ重みがあった。
地面に押さえつけられたまま、指揮官の男は歯を食いしばっていた。
「……お前らが何者か知らんが、企業を敵に回して、ただで済むと思うなよ」
「思ってねえよ、そんなことは」
メインは押さえつけた手に力を込めながら、静かに続けた。
「だがな、ここに住む連中を踏みにじろうとしたのは、そっちが先だ。落とし前は、そっちがつけるべきだろうが」
反論の言葉を、男は持ち合わせていないようだった。腕を捩じられたまま、彼はただ荒い息を吐き続けていた。組織の威光を笠に着てきた男にとって、これほど無力な体勢に置かれる経験は、恐らく初めてのものだった。
続いて飛び降りたレベッカが、荷台から取り出した愛銃を構えていた。反動ゼロ、威力三倍にチューニングされたその銃身は、機械式の単純な機構だった。だからこそ、先ほどの光にも影響を受けていなかった。
自分の右手を、メインはふと見下ろした。指先には、もう震えの気配すらなかった。あの夜ニッカが施してくれた処置が、こんな土壇場でも確かに体を支え続けている。震えていたはずの手で、今こうして誰かを押さえつけられている。その事実だけで、彼の胸に得体の知れない熱が込み上げてきた。命を救われたというだけでは足りない。この先の人生そのものを、あの女に握られているような気さえした。
「動くんじゃねえぞ、てめえら」
威勢の良い声とともに、彼女は硬直した兵士たちを一人ずつ睨みつけていった。抵抗する力を失った相手に、あえて発砲する必要はなかった。ただ、動けば容赦しないという気迫だけが、彼女の構えに滲んでいた。
視線の端に、動けずにいる若い兵士の怯えた顔が映った。武器を握る手に力を込めかけて、レベッカはふと動きを止めた。目の前にいるのは、命令に従っているだけの、ただの兵隊の一人でしかない。憎むべき相手が、もっと別のどこかにいることを、彼女はよく知っていた。荒野で幾度となく修羅場を潜ってきた経験が、無駄な発砲を許さなかった。銃口をわずかに下げ、彼女はそれ以上手を出さなかった。
その兵士の傍らに、ニッカがふと膝をついた。
「……怪我、してる?」
問いかけに、若い兵士はびくりと肩を震わせた。答える代わりに、彼はただ荒い呼吸を繰り返していた。強化外骨格の重みに押し潰されかけているらしく、顔色は青白かった。ニッカは工具箱から予備の留め具を取り出し、外骨格の関節部を手早く緩めていった。
「動くな。これ、下手に外すと骨が軋む」
「……なんで」
掠れた声で、兵士が問うた。
「敵、なのに」
「敵じゃない。ただの、下っ端でしょ」
素っ気なく答えながら、ニッカは手を止めなかった。壊れた場所を叱っても直りはしない。バートの教えは、相手が誰であっても変わらないものだった。目の前で誰かが苦しんでいるなら、それを放っておく理由にはならなかった。
少し離れた場所から、その様子を見ていたレベッカが呆れたように肩をすくめた。
「甘いな、あんたも」
「甘くない。ただの、後始末」
言い返しながらも、ニッカの手つきに迷いはなかった。命を救うことと、誰かを退けることの間に、彼女の中で明確な線引きはできていなかった。目の前で困っている誰かがいれば、直してやる。それだけのことだった。レベッカはそれ以上何も言わず、小さく笑って視線を逸らした。
デイビッドもまた、車を降りて周囲を見渡していた。彼のサンデヴィスタンも、ニッカの施したバッファーのおかげか、先ほどの光を浴びても何の異常も感じられなかった。むしろ、いつも通りの明瞭な感覚のまま、彼は倒れ伏す兵士たちの間を静かに歩いていった。
「……これ、全部ニッカがやったのか」
呟きながら、デイビッドは辺りに転がる機体の残骸に目をやった。偵察ドローンの一つが、羽根を折られた鳥のように地面へ突き刺さっている。この数か月、ニッカの技術には幾度となく助けられてきた自覚があった。それでも、これほどの規模を目の当たりにするのは初めてだった。信じがたい光景を前に、彼はしばらく言葉を継げずにいた。
ドリオとキーウィも、遅れて車両から降り立った。
キーウィは煙草を咥えたまま、周囲に転がる無力化された装備の一つ一つに視線を這わせていた。
「……本当に、化け物じみてるな」
呟いた声には、いつもの皮肉めいた響きの奥に、隠しきれない驚嘆が滲んでいた。国家規模の予算を注ぎ込んだ実働部隊の装備一式を、たった一つのガラクタで丸ごと沈黙させる。そんな真似ができる人間が、この荒野の廃車置き場にひっそりと暮らしていたという事実に、彼女は改めて言葉を失っていた。誰も信用しないと決めてきた自分の目にすら、この光景は異様に映った。
遅れて端末を抱えたまま駆けつけたルーシーは、地に落ちた偵察ドローンの残骸にしゃがみ込み、内部の基板を覗き込んでいた。
「……回路が、まるごと焼き切れてる。復旧の見込みはない」
呟いた声には、専門家としての驚きがそのまま滲んでいた。ネットランナーとして数えきれないほどの防壁を突破してきた彼女にとって、これほど徹底した無力化は初めて目にするものだった。
ドリオは、地面に横たわる兵士たちを一瞥した後、メインの背中へ静かに歩み寄った。
「怪我は」
「ねえよ、平気だ」
短く答えるメインの声に、いつもの余裕が戻りつつあった。ドリオはその横顔をしばらく見つめ、小さく息を吐いた。安堵の色が、ようやく彼女の表情にも浮かび始めていた。
長年連れ添ってきた相手の強がりを、ドリオは誰よりもよく知っていた。それでも今日ばかりは、その強がりの奥に確かな力強さが宿っていることを、彼女ははっきりと感じ取ることができた。震える指先の記憶に、ずっと寄り添ってきた分だけ、今日という日の重みは深かった。
格納庫の入り口で、ニッカは結束バンドを握りしめたまま立ち尽くしていた。
目の前に広がる光景を、彼女はまだうまく現実として受け止めきれずにいた。倒れ伏す兵士たちの群れ、墜落した偵察ドローン、そして駆けつけてきたメインたちの姿。守り抜いたという安堵と、自分がやったことの重さとが、胸の中でせめぎ合っていた。
誰かを傷つけるための道具ではなく、誰も傷つかせないための道具にしたい。バートと交わした約束は、今も違えていないつもりだった。だが、目の前に転がる硬直した体を見るたび、指先の震えが完全には収まらなかった。守るために選んだ手段であっても、それが誰かの痛みを伴う形を取ったという事実は、消えてなくなるものではなかった。
「……ニッカ!」
呼びかける声に、ニッカは顔を上げた。
土煙にまみれたメインが、こちらへ大股で歩いてくる。その後ろに、デイビッドとレベッカの姿が続いた。少し遅れて、ドリオとキーウィ、ルーシーも駆けつけてくる。誰の顔にも、安堵と驚きの入り混じった表情が浮かんでいた。
駆け寄ってきたデイビッドが、ニッカの前で足を止めた。
「怪我は、ないか」
「……ない。私は」
答える声の途中で、喉の奥が詰まった。張り詰めていた気が、緩んだ拍子に一気に緩んでいくのを、ニッカは自分でも止められなかった。膝が崩れかけたところを、メインの太い腕が咄嗟に支えた。
「無理すんな。もう、終わったんだ」
低い声が、耳のすぐそばで響いた。その一言に、ニッカはようやく詰めていた息を吐き出した。
レベッカが銃を下ろし、辺りを見回しながら口笛混じりに呟いた。
「……マジかよ。これ、全部あんたがやったのか」
「……成り行き、で」
「成り行きで軍の部隊を丸ごと沈黙させんじゃねえよ、化け物か」
軽口めいた響きの中に、隠しきれない称賛が滲んでいた。ニッカは何と答えていいか分からず、ただ視線を逸らした。
動けずにいる兵士たちの間を歩きながら、ルーシーは端末を取り出し、装甲車両の通信ログへ静かに侵入していた。今回の作戦に関する記録を、痕跡だけ拾い上げていく。
電子的な防壁そのものが沈黙している今、侵入は拍子抜けするほど容易だった。かつて幾重にも張り巡らされていたはずの防壁は、ただの空箱と化していた。指先を滑らせるたびに、隠されていたはずのログが次々と画面に浮かび上がってくる。
「……この部隊、単独行動の私設回収班ね。正式な軍事作戦としての記録はどこにも残されてない」
「どういう意味だ」
キーウィが問うと、ルーシーは端末の画面を示した。
「表沙汰にできない類の仕事だったってこと。だから、これ以上の増援が来る可能性は低い」
「……今のところは、な」
キーウィが煙草の灰を落としながら呟くと、ルーシーは小さく頷いた。当面の危険は去った。それでも、根本的な問題が解決したわけではない。企業という組織が一度目をつけた獲物を、簡単に見逃すとは思えなかった。長年ナイトシティの裏側を見てきたキーウィの目には、この勝利が長くは続かないことなど、最初から見えているようだった。
ログの末尾に、回収対象の座標として記録されていたガレージの位置情報が残されていた。ルーシーはそれを丁寧に削除し、代わりに存在しない場所を示す偽の座標を書き込んでいく。せめてもの時間稼ぎになればいい。そう思いながら、彼女は最後まで指を止めなかった。
ドリオは、硬直したまま倒れている兵士たちを見下ろしながら、低く尋ねた。
「この人たち、どうするの」
「装備を回収したら、放り出す」
メインが答えると、キーウィが付け加えた。
「……このまま連れ帰っても、面倒が増えるだけだ。企業の下っ端に情けをかける義理もない」
冷たい響きの中にも、一定の理屈があった。彼らを見殺しにするつもりはないが、必要以上に関わる理由もない。荒野で生きる者たちの、割り切った判断だった。
ニッカは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
自分が組み上げたガラクタ一つが、これほどの騒ぎを引き起こした。その事実の重さが、今になってようやく肩にのしかかってくるようだった。誰も殺していない。それだけは確かだった。それでも、この先ミリテクという組織がどう出るか、彼女には見当もつかなかった。一度目をつけられた獲物を、企業が簡単に手放すとは思えない。今日という一日で、静かな暮らしを取り戻すどころか、むしろ新たな火種を抱え込んでしまったのかもしれなかった。
そう考えた途端、張り詰めていた気が、堰を切ったように緩んでいった。
膝から力が抜け、視界が大きく傾ぐ。とっさに伸びた誰かの手が、その体を支えた。
「――おい、大丈夫か」
デイビッドの声が、すぐそばで響いた。ニッカは目を瞬かせ、自分が地面に座り込みかけていたことにようやく気づいた。
「……大丈夫。ちょっと、気が抜けただけ」
答える声は、自分でも情けないほど掠れていた。それでも、支えてくれる腕の温もりに、彼女はしばらく身を委ねたままでいた。長い間、誰にも頼らず一人でやってきた身に、この温もりはまだうまく馴染まなかった。けれど今この瞬間だけは、抗う気力すら残っていなかった。
デイビッドは、支えた腕をそっと緩めながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「あんたのおかげで、俺は今も普通に立ってられる。今日だって、そうだ」
「……礼を言われるようなこと、してない」
「してるだろ」
短く返され、ニッカは言葉に詰まった。誰かに感謝されることに、彼女はまだ慣れていなかった。慣れないからこそ、その言葉の一つ一つが、思っていた以上に重く胸へ落ちてくる気がした。
荒野に吹く風だけが、ようやく静けさを取り戻しつつあった。硬直したままの実働部隊と、それを見下ろす傭兵たちの間に、束の間の沈黙が横たわっていた。太陽は西へ傾き始め、長く伸びた影が、乾いた大地に静かに横たわっていく。
墜落した偵察ドローンの残骸が、夕日を鈍く反射していた。焼け焦げた配線の匂いが、かすかに風に乗って漂ってくる。誰もしばらくは口を開かず、ただそれぞれの場所で、この一日の重さを噛みしめていた。
砂塵の向こうに転がる装甲車両の残骸を、ニッカはぼんやりと見つめていた。壊すつもりで作ったものではなかった。それでも、目の前に広がる光景は、紛れもなく破壊の跡そのものだった。守るための行いと、壊すという結果とが、彼女の中でまだうまく重なりきっていなかった。
メインは、支えたままのニッカの肩に、そっと手を置いた。
「よくやったな」
短い一言だったが、そこに込められた重みは、これまでのどんな言葉よりも確かだった。ニッカは俯いたまま、小さく頷くことしかできなかった。震えの止まった右手が、今は自分の肩を支えてくれている。その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
かつて誰かに頼られることも、誰かを頼ることも、彼女の生き方の外側にあるものだった。バートを失ってから、なおのことだった。それが今、こうして誰かの手のひらの重みを肩に受け止めている。積み重ねてきた孤独の日々が、少しずつ形を変えていくのを、ニッカはようやく実感し始めていた。誰かにこうして支えられる感触を、彼女はまだうまく言葉にできずにいた。
装甲車両の残骸の向こうで、日は静かに沈んでいこうとしていた。橙色に染まった空の下、硬直した兵士たちの影と寄り添う傭兵たちの影が、同じ地面の上に長く伸びていた。誰も声を張り上げなかった。それでも、この静けさの中に確かな安堵が満ちていることを、その場にいた誰もが感じ取っていた。
荒野の彼方から、乾いた風が最後の砂塵を運び去っていく。長かった一日が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
それでも、ニッカの胸の奥には、消えない小さな棘が残ったままだった。今日という一日で、自分の存在は確実にナイトシティの側へ知られてしまった。静かな引きこもり生活を守るために積み重ねてきた歳月が、たった一度の閃光で覆ってしまったのかもしれない。傾いていく夕日を見つめながら、ニッカはその予感を、誰にも打ち明けられないまま胸の奥にそっとしまい込んだ。
隣に立つメインが、そんな彼女の横顔にふと目をやった。何か言いたげに口を開きかけて、しかし結局、彼はそれ以上何も言わなかった。今はまだ、そっとしておくべき時間なのかもしれない。そう判断したのか、彼はただ黙って隣に立ち続けた。
橙色の光が、荒野の隅々にまで静かに満ちていた。誰も声を発さないまま、その光景を見つめ続けていた。長い一日の終わりに、それぞれの胸の内にどんな思いが渦巻いているのか、この場の誰にもまだ確かなことは分からなかった。