サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第2話 そのサンデヴィスタン、脳が焼き切れるよ!?

 

グロリアがガレージを訪れてから、三月が過ぎていた。

 

バッドランズの乾季は相変わらず容赦がなく、風が吹くたびに赤茶けた砂が地平線を霞ませていく。ニッカの日々に、大きな変化はなかった。朝は義手の整備、昼は太陽光パネルの点検、夜は防衛システムの作動確認。同じ手順を、同じ順番で繰り返す。その反復の中に、彼女は変わらぬ安寧を見出していた。

 

季節が変わっても、クランの暮らしは相変わらず質素だった。渇水期を乗り切るための水路整備や、老朽化した車両の修繕に追われる日々。ニッカはその合間を縫って、誰に頼まれるでもなく試作品を作り続けていた。棚の奥に並ぶ布包みの数は、少しずつ増えている。

 

朝の光が差し込むたび、ニッカは決まって同じ手順で一日を始めた。工具の位置を確かめ、義手の関節に油を差し、太陽光パネルの発電量を記録する。誰に見せるためでもない記録だったが、それを欠かすと、なぜか落ち着かなかった。

 

規則正しい生活の中に、彼女は自分なりの安全を積み上げていた。予測できない未来ほど恐ろしいものはない。だからこそ、予測できる今日を、彼女は何よりも大切にしていた。

 

それでも、時折ふと手を止める瞬間があった。工具を握ったまま、視線だけがガレージの外、遠くナイトシティの方角へと向かう。灯りも届かないその距離から、何かが近づいてくるような、根拠のない予感だった。すぐに首を振って、ニッカはその考えを追い払う。考えたところで、意味のないことだ。そう自分に言い聞かせながら、彼女は再び手元の作業に意識を戻した。

 

ただ、心のどこかに小さな棘が残っていた。

 

あの日、グロリアに手渡したベストのことを、ニッカは時折思い出した。息子の学費のためにまたナイトシティへ戻っていった、あの後ろ姿のことも。

 

――余計なことをしたかもしれない。

 

そう思う一方で、後悔はしていなかった。ただの商売。自分にそう言い聞かせるたび、胸の奥で何かが小さく軋んだ。理由をうまく言葉にできないまま、ニッカはその軋みを見ないふりで日々をやり過ごしていた。

 

夜、寝る前に流す携帯ラジオのニュースは、相変わらず物騒な話題ばかりだった。パシフィカでの抗争、ウォーターフロントでの発砲事件。アナウンサーの淡々とした声を聞き流しながら、ニッカは毛布に潜り込む。ナイトシティは今日もいつも通りだ。そう思うことで、彼女は自分の平穏を確かめていた。

 

その日の昼も、クランの子供が水筒を届けにガレージへ立ち寄った。

 

「ニッカ姉、街のほうまた騒がしいらしいよ。パシフィカの近くで」

 

「そう。まあ、ここには関係ない話だよ」

 

短くそう答えて、ニッカは義手の調整に戻った。子供はすぐに駆け去っていく。何気ないやりとりのはずだったが、その日に限って、胸の奥にかすかな引っかかりが残った。理由は自分でも分からなかった。

 

 

 

その日の朝、グロリアはいつもより早く出勤していた。

 

同僚の一人が眠そうな目をこすりながら、コーヒーの入った紙コップを差し出してくる。彼女はそれを受け取り、軽く礼を言った。

 

「今日はやけに気合入ってんな」

 

「息子の学費、そろそろ本気で工面しないと。夜勤も増やそうと思って」

 

「デイビッドだっけ。元気にしてんの」

 

「生意気になってきてね。アラサカのてっぺんまで登るんだ、なんて言い出す始末よ」

 

同僚は苦笑いを浮かべた。グロリアも肩をすくめて笑い返す。それは何気ない、いつも通りの朝の会話だった。

 

出動要請が入ったのは、その直後のことだった。パシフィカ地区とウォーターフロントの境目、廃工場の並ぶ一角。負傷者ありとの通報を受け、彼女たちの救急班は現場へと急行した。

 

現地の空気は、到着した瞬間から張り詰めていた。積み荷を巡ってスカベンジャーの一団と武装グループが睨み合っている。通報を受けたトラウマ・チームの応答は遅く、先に着いたのは民間の救急班だけだった。

 

「トラウマ・チームはまだか」

 

「保険未加入エリアだから優先度は低いってさ。うちで何とかするしかない」

 

救急班のメンバーは、遠巻きに睨み合う二つの勢力を横目に、負傷者の救護を急いだ。誰もが早く現場を離れたがっていた。空気の張り詰め方が、いつもと違うことに、グロリアも気づいていた。長年培った勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。

 

負傷者の搬送を終えて撤収しようとした矢先、背後で怒声が上がった。交渉が決裂したのだ。

 

「早く車に戻れ!」

 

班長の声が飛んだ。グロリアも踵を返しかけた。だがその瞬間、視界の端で仲間の一人がよろめくのが見えた。足を滑らせたのか、狙われたのか、判断する余裕はなかった。

 

銃声が連続して響き渡り、逃げ惑う人々の悲鳴が路地に反響する。転倒した仲間へ、グロリアは反射的に駆け寄った。頭の中で、危険だという警告と、放っておけないという衝動がせめぎ合っていた。長年この仕事を続けてきた体は、考えるより先に動いていた。

 

視界の端で、何かが光った。

 

次の瞬間、衝撃が全身を貫いた。息が詰まり、視界が白く弾ける。体が地面に叩きつけられ、そのまま意識が急速に遠のいていった。

 

搬送された病院では、緊急手術のあと医師が首をかしげていた。至近距離からの被弾にしては、内臓への損傷が驚くほど少ない。焼け焦げた防護ベストの内側には、見慣れない層状の緩衝材が組み込まれていた。誰が仕立てたものか、カルテには何も記されなかった。

 

グロリアは一命を取り留めた。意識不明の重体という診断のまま、集中治療室のベッドに横たわり続けることになった。

 

処置にあたった看護師の一人が、焼け焦げたベストを片付けながら同僚に耳打ちした。

 

「これ、コーポ製の防護装備でもここまでの数値は出ないと思うんだけど」

 

「気にしないほうがいいわよ。うちにはうちの仕事があるんだから」

 

二人はそれ以上、その話題に触れなかった。ベストは廃棄処分の袋に投げ込まれ、誰の記憶にも残らないまま処理されていく。ただ、グロリアの心臓が止まらずに済んだという事実だけが、静かにそこに残されていた。

 

 

 

デイビッドがその報せを受けたのは、学校からの帰り道だった。

 

近所の住人が慌てた様子で駆け寄ってきて、母親が病院に運ばれたことを告げた。何が起きたのか、詳しいことは誰にも分からなかった。ただ、命に別状はないという言葉だけが、かろうじて彼を支えていた。

 

病院に駆けつけたデイビッドは、意識のない母の姿を前に立ち尽くした。管につながれた体は、記憶にあるよりずっと小さく見えた。頬はこけ、呼吸だけが機械の助けを借りて規則正しく続いている。

 

担当医は淡々とした口調で、現状を説明した。

 

「意識不明の重体です。外傷の割に内臓の損傷は少ないので、命に関わる状態ではありません。ただ、意識がいつ戻るかは何とも言えません」

 

「戻らないことも……あるんですか」

 

医師は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

 

「可能性としては、否定できません」

 

その一言だけで、デイビッドの足元が崩れるような感覚に襲われた。

 

「母さん」

 

呼びかけても、返事はなかった。モニターの電子音だけが、規則正しく病室に響いていた。

 

その夜から、デイビッドの生活は一変した。入院費の請求は容赦なく積み上がっていく。学費どころではなくなった。学校に通う時間さえ惜しんで、彼はアルバイトを掛け持ちするようになった。それでも、増え続ける請求額の前では焼け石に水だった。

 

夜、誰もいない部屋に一人でいると、様々な考えが頭をよぎった。母の意識が戻る保証はどこにもない。このまま眠れない夜を重ねていけば、いずれ自分自身が潰れてしまう。分かっていても、他にどうすればいいのか分からなかった。

 

「俺には……」

 

言いかけた言葉を、デイビッドは飲み込んだ。誰もいない部屋で呟いたところで、何も変わらない。分かっていても、口にせずにはいられなかった。

 

日が経つにつれ、生活はさらに逼迫していった。家賃の督促が届き、冷蔵庫の中身は日に日に寂しくなっていく。学校の課題は溜まる一方で、担任からの連絡も無視するようになった。友人からの誘いも、断り続けるうちに途絶えていった。

 

それでも、母の病室に通う時間だけは削らなかった。眠り続ける母の手を握りながら、デイビッドは自分に言い聞かせた。もう少しだけ、もう少しだけ耐えれば。だが「もう少し」がいつまで続くのか、誰にも分からなかった。

 

ある晩、支払い期限を過ぎた請求書の束を前に、デイビッドはこれまでで一番深い無力感に襲われた。母を守るはずの自分が、何一つ守れていない。その事実だけが、胸の中で重くのしかかっていた。

 

工場での夜勤を終えたある朝、デイビッドは仮眠室で顔見知りの作業員に声をかけられた。

 

「お前、大丈夫か。ここ最近、顔色が悪いぞ」

 

「平気だ。ちょっと寝不足なだけで」

 

「無理すんなよ。倒れちまったら元も子もねえだろ」

 

分かっていた。分かっていても、立ち止まる余裕はどこにもなかった。デイビッドは曖昧に頷き、また次のシフトへと向かった。積み上がっていく疲労は、日を追うごとに彼の判断力を摩耗させていった。冷静に考える力が薄れるほど、クローゼットの奥に眠るあの箱のことが、頭の片隅から離れなくなっていった。

 

 

 

物心ついたときから、父の姿は家になかった。母がどこかで一人その分まで働き続けてきたことを、デイビッドは幼い頃から肌で感じていた。だからこそ、今度は自分が母を支える番だという思いが、人一倍強かった。

 

家に一人で戻ったある晩、デイビッドは母の部屋を片付けようとして、クローゼットの奥に不自然な箱を見つけた。

 

鍵のかかったその箱を、彼は工具でこじ開けた。中に収められていたのは、見たこともない精緻な機構を持つインプラントのケースだった。ラベルには軍用規格を示す刻印がある。手に取ると、見た目以上にずっしりと重かった。

 

サンデヴィスタン。

 

その名前だけは、街の噂で聞いたことがあった。エッジランナーたちが命を賭して使う、伝説のインプラントだと。装着した人間は世界の速度そのものを凌駕し、代わりにその代償として、脳と神経を焼き尽くすのだと。

 

デイビッドの頭に、様々な考えが渦を巻いた。これを売れば、母の入院費くらいはすぐに賄えるかもしれない。だが同時に、危険な代物であることも本能が理解していた。まともな判断力があれば、迷わずそう結論づけたはずだった。

 

それでも、彼の胸には別の思いが芽生えていた。

 

――俺には何もない。

 

母のために働くことしかできない自分が、ひどく無力に思えた。特別になりたいという昔からの願望が、小さな箱の中で疼いていた。もしこれを使いこなせたなら。もし自分がエッジランナーのように稼げるようになったなら。母の治療費など、すぐに払い終えられるかもしれない。

 

その考えは、危険を承知の上でなお、彼の判断を狂わせるのに十分だった。

 

ケースを閉じ、デイビッドはしばらく床に座り込んだまま動けなかった。母がなぜこんな物を隠し持っていたのか、想像もつかなかった。仕事の関係で預かっていただけかもしれない。あるいは、もっと別の事情があるのかもしれない。だが今の彼には、その答えを探す余裕さえなかった。

 

窓の外では、いつものナイトシティの喧騒が続いていた。ネオンの光が、閉め切ったカーテンの隙間から差し込んでくる。デイビッドはケースを両手で抱えたまま、長い間、部屋の暗がりの中で息を潜めていた。

 

翌日、彼はケースを鞄に隠したまま街をあてもなく歩いた。頭を冷やすつもりだった。だが、通りに並ぶ広告の一つ一つが、彼の決意を後押しするように感じられた。大きく掲げられたミリテクの兵器広告。危険な仕事で名を上げたというエッジランナーの噂話。誰かがバーで得意げに語っていた、サンデヴィスタン使いの武勇伝。

 

耳に入るその全てが、迷いの中にいるデイビッドの背中を押していた。

 

夕暮れ時、彼は病院に立ち寄った。眠り続ける母の顔を見つめながら、デイビッドは胸の内でもう一度問いかけた。このまま何もできずに、母を失うことになったら。その想像だけで、指先が冷たくなった。

 

「母さんは、俺が守る」

 

誰にも聞こえない声で、彼はそう呟いた。その言葉を口にした瞬間、迷いは形を変え、覚悟へと固まっていった。

 

数日悩んだ末、デイビッドはリトル・チャイナの裏路地にある、非合法のリパードクを訪ねた。錆びた鉄扉の奥から漏れる消毒液の匂いが、鼻の奥にこびりついた。狭い待合スペースには、義体の調整待ちらしい客が数人、無言で座り込んでいる。誰も互いに目を合わせようとしなかった。まともな施術者なら、素人の体にこんな危険物を移植することは断るはずだった。だが金さえ積めば、話は別だった。

 

「軍用のサンデヴィスタンだと? 坊主、これは並みの改造とは訳が違うぞ」

 

「分かってる。それでも頼む」

 

「バッファーもなしにこいつを入れる馬鹿は、大抵三日と持たずに頭がイカレる。それでもか」

 

デイビッドは一瞬だけ言葉を詰まらせた。だが、母の眠る病室の光景が脳裏をよぎると、迷いはすぐに消えた。

 

「それでも頼む。他に方法がないんだ」

 

「命の保証はしねえからな」

 

薄暗い施術台の上で、デイビッドは歯を食いしばりながら痛みに耐えた。麻酔は最低限しか使われなかった。脊髄に沿って新しい回路が組み込まれていく感覚を、彼は意識の端で捉えていた。焼けるような痛みが背筋を這い上がり、視界が何度も白く弾けた。

 

「これで終わりだ。後は自己責任だぜ、坊主」

 

リパードクはそう言い残し、さっさと道具を片付け始めた。デイビッドは震える足で施術台を降り、壁に手をつきながら店を後にした。

 

裏路地を抜けて表通りに出ると、いつも通りの喧騒がデイビッドを包み込んだ。行き交う人々の誰も、彼の背中に何が仕込まれたかなど気にも留めない。その無関心さが、かえって彼を安堵させた。誰にも気づかれていない。まだ、引き返せるかもしれない。そんな考えが一瞬よぎったが、彼はすぐにその考えを振り払った。もう後には戻れない。戻るつもりもなかった。

 

 

 

数日後の深夜、デイビッドは廃工場の跡地に一人で立っていた。誰にも見られたくなかった。もし何かが起きても、この体で試すしかないと決めていた。

 

彼は意を決して、埋め込まれたインプラントを起動させた。

 

世界が変わった。

 

周囲の景色が急激に緩慢になり、風に舞う埃の一粒一粒までもがはっきりと見えた。自分の腕の動きが、まるで別人のもののように鋭く反応する。心臓の鼓動さえ、ゆっくりと引き延ばされて聞こえた。

 

――これが、サンデヴィスタン。

 

高揚感が全身を駆け巡った。今なら何にでもなれる。そんな錯覚が、束の間だけデイビッドを満たした。指先を握りしめただけで、拳が空気を切り裂く感触までもが鮮明に伝わってくる。この感覚さえ手に入れば、母を救うための道が開けるかもしれない。そんな期待が、一瞬だけ胸を満たした。

 

だが、その高揚感は数秒と続かなかった。

 

頭の奥で、何かが軋むような音がした。視界の端が明滅し始め、耳鳴りが急速に強くなっていく。まるで脳そのものが沸騰しているかのような熱が、後頭部から広がっていった。

 

視界が急速に色を失っていく。輪郭のぼやけた廃工場の影が、いくつにも重なって見えた。呼吸の仕方さえ分からなくなり、デイビッドは自分の胸を掻きむしった。

 

耳の奥で、幼い頃の記憶が唐突に再生された。母の笑い声。夕食の匂い。学校帰りに見上げた広告の光。それらの断片が、脈絡もなく明滅しては消えていく。まるで壊れた録画機のように、時間の感覚そのものが歪んでいた。

 

「な……っ」

 

膝から力が抜け、デイビッドはその場に崩れ落ちた。息が荒くなり、意識が明滅する。周囲の音が遠のいたかと思うと、次の瞬間には耳をつんざくほどの騒音として襲いかかってきた。視界の中で、廃工場の輪郭が二重にも三重にも歪んで見えた。

 

――このままじゃ、死ぬ。

 

朦朧とする意識の中、彼はポケットに入れていた母の携帯端末を取り出した。震える指で画面を操作すると、メモアプリに残された短い文章が目に入った。

 

『緊急時は、バッドランズのニッカのところへ。座標は下記』

 

理由は分からなかった。母がなぜそんなメモを残していたのかも、考える余裕はなかった。ただ、その言葉だけが、暗闇の中の唯一の光に見えた。

 

デイビッドは這うようにして駐車していたバイクに向かい、震える手でエンジンをかけた。視界は歪み、道路の線が二重に見える。それでも彼はアクセルを回し続けた。

 

 

 

荒野を走る間、意識は何度も飛びかけた。

 

頭蓋の内側で暴れる熱が、思考をずたずたに引き裂いていく。座標を示す表示だけが、唯一の頼りだった。デイビッドはハンドルを握る手に力を込め、目を開けていることさえ苦痛に感じながら、それでも速度を緩めなかった。

 

何度も路肩の岩に接触しかけた。そのたびに体が揺さぶられ、意識が飛びかけて我に返る。母の顔が、遠い記憶の中でちらついた。幼い頃、熱を出して寝込んだ自分の額に、母が濡れタオルを乗せてくれたことがあった。あの手の温もりを、今もどこかで覚えている気がした。

 

――母さん、俺は。

 

言葉にならない思いだけが、頭の中を渦巻いていた。今このまま倒れれば、母の目覚めを見届けることさえできなくなる。その恐怖だけが、消えかけた意識をかろうじて繋ぎ止めていた。

 

道の先が、いくつにも枝分かれして見えた。どれが本当の道なのか、判断する力はもう残っていなかった。それでもデイビッドは、体に染みついた勘だけを頼りにハンドルを切り続けた。

 

やがて、闇の中にぼんやりとした灯りが見えた。

 

トタン屋根の建物。そこにたどり着いた瞬間、デイビッドの意識は限界を迎えた。ブレーキをかける余裕もなく、バイクはガレージの入り口に突っ込むようにして止まった。

 

体が投げ出され、地面に転がる。

 

視界が真っ暗になる寸前、デイビッドは誰かの足音が近づいてくるのを聞いた気がした。

 

 

 

「な――」

 

作業中だったニッカは、外で響いた激しい衝突音に飛び上がった。工具を放り出し、扉に駆け寄る。

 

視界に飛び込んできたのは、倒れたバイクと、その傍らに崩れ落ちた若い男の体だった。ぴくりとも動かない様子に、ニッカは一瞬息を呑んだ。

 

「ちょ……死体が飛び込んできた!?」

 

悲鳴じみた声が、思わず喉から漏れる。しかし駆け寄って首元に触れると、かすかな脈が指先に伝わってきた。生きている。安堵する間もなく、ニッカの目は男の背中に走る不自然な配線の痕に釘付けになった。

 

粗雑な施術。焼けるような熱を発している後頭部の皮膚。皮膚の下で、何かが小刻みに痙攣している。これは――。

 

「サンデヴィスタン……!? 嘘でしょ、こんな安物の冷却系で……」

 

ニッカの声から、動揺が滲み出た。しかしそれは一瞬のことだった。作業台に並ぶ工具へ視線を走らせながら、彼女の頭の中では既に、前世の知識が高速で組み上がり始めていた。

 

どの端子を接続し直せば、暴走した熱を逃がせるか。どの部品を組み合わせれば、この粗悪な冷却機構を上書きできるか。答えは、驚くほど明瞭に浮かんでいた。まるで長年やり込んだゲームの攻略手順を思い出すように、必要な工程が次々と脳裏に並んでいく。

 

「安物の冷却系で脳が融解しかけてる。貸しなさい、ゴミ箱のパーツで直してあげるから」

 

誰に向けた言葉でもなかった。それでもニッカは、口にすることで自分の手を動かす後押しにした。男の体を引きずるようにして作業台へと運び込みながら、彼女はもう一度、闇の中で倒れていた見知らぬ少年の顔を見下ろした。

 

その顔に、どこか見覚えがある気がした。記憶の糸をたぐり寄せようとした瞬間、脳裏に一つの名前が浮かびかけた。

 

――まさか。

 

浮かびかけた予感を、ニッカはすぐに打ち消した。考えすぎだ。似たような顔立ちの人間など、この街にいくらでもいる。そう自分に言い聞かせながらも、指先の震えは治まらなかった。だが、今はそれを確かめている余裕などなかった。

 

けれど今は、それを考えている場合ではなかった。震える指先で工具箱を開けると、必要な部品を手早く選び出していく。廃棄された家電のヒートシンク、余った配線、予備の冷却液。どれもガレージの棚に眠っていたものだった。

 

ニッカは深く息を吸い込み、乱れかけた鼓動を整えた。手元さえ狂わなければ、間に合う。前世で培った知識は、そう告げていた。

 

「大丈夫。ただの部品調整だから」

 

誰に言うでもない呟きが、静まり返ったガレージに小さく落ちた。少年の背に刻まれた粗雑な回路へ、ニッカはそっと工具の先端を近づけていく。

 

浅い呼吸を繰り返す少年の背中から、異常な熱がじわりと伝わってきた。放っておけば、あと数分と持たないだろう。ニッカは奥歯を噛みしめ、迷いを振り払うように手を動かし始めた。焼け付いた基盤を一つずつ外し、代わりに手元の廃材から選び出した部品を組み込んでいく。

 

指先の感覚だけを頼りに、彼女は少年の命をつなぎ止める作業に没頭した。誰かに助けを求める声も、迷う時間もなかった。ただ、目の前の熱を、一秒でも早く逃がすこと。それだけが、今のニッカに許された選択だった。

 

少年の荒い呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。額に浮いていた脂汗も、潮が引くように和らいでいった。それでも、ニッカの手は止まらなかった。応急処置はまだ始まったばかりだ。この先どれだけの時間がかかるのか、彼女自身にもまだ分からなかった。

 

ガレージの明かりが一段と強く灯り、静寂だけが支配していた夜に、新たな喧騒が始まろうとしていた。

 

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