夜が、荒野をゆっくりと塗り替えていく。
橙色に染まっていた空は、いつの間にか濃い藍色へと沈み込んでいた。硬直したままの兵士たちの周りに、傭兵たちの持ち込んだ簡易灯りが等間隔に灯される。光の輪の中で、装甲車両の残骸だけが場違いなほど無機質に沈黙していた。
ニッカは工具箱を抱えたまま、その光景をぼんやりと眺めていた。膝の震えは、いつの間にか収まっている。それでも指先に残った微かな痺れだけは、まだ消えてくれなかった。
焼け焦げた配線の匂いが、まだ夜気の中にうっすらと漂っていた。乾いた土の匂いに混じるその異臭だけが、これが夢や作り話ではないのだと、彼女に静かに突きつけ続けていた。
灯りの届かない場所で、動けずにいた兵士たちが一人また一人と身を起こし始める。強張った体を引きずるようにして、彼らは装備を一つずつ剥ぎ取られていった。誰も抵抗しなかった。抵抗する力そのものが、もうどこにも残されていないようだった。
「これで、装備は全部回収した」
キーウィが煙草を挟んだ指先で、積み上げられた武装の山を示した。
「あとは、放り出すだけだ」
「連れ帰らなくて、いいの」
ニッカが問うと、キーウィは煙の向こうで薄く笑った。
「連れ帰っても、面倒が増えるだけだ。歩ける奴は自分の足で帰る。歩けない奴は、仲間が担いでいけばいい」
素っ気ない答えだったが、その裏には荒野で生き延びてきた者だけが持つ、割り切った理屈があった。ニッカはそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。
倒れ伏していた指揮官の男が、地面に押さえつけられたまま、掠れた声を絞り出した。
「……この落とし前、必ずつけさせてもらう」
「好きにしろ」
メインが低く答えると、男はそれ以上何も言えなくなった。腕を捩じられたまま、彼はただ荒い息を吐き続けていた。組織の威光を笠に着てきた男にとって、これほど無力な体勢に置かれる経験は、恐らく初めてのものだった。
拘束を解かれた兵士たちは、装甲車両の陰に集まり、互いの肩を借りながら夜の荒野へと歩き去っていった。その背中を見送りながら、ニッカは詰めていた息をようやく吐き出した。誰も殺さずに済んだ。それだけは、確かな事実として胸の中に残った。
半日ほど離れた中央キャンプから、車両の音が近づいてきたのは、夜がすっかり更けた頃だった。
先頭のトラックから飛び降りたのは、水筒を抱えた少女だった。彼女は転がりそうな勢いでガレージへ駆け込んでくると、ニッカの腰にしっかりとしがみついた。
「ニッカ姉!」
「……ちょっと、危ないから走らないで」
窘める声とは裏腹に、ニッカは少女の頭にそっと手を置いた。震える小さな肩の感触が、これまでの緊張をゆっくりと溶かしていくようだった。
少女の後から、年長の男や老女、見張りの青年が次々と降り立ってくる。誰の顔にも、隠しきれない安堵が浮かんでいた。
「無事で、良かった」
老女が皺の刻まれた手で、ニッカの頬にそっと触れた。
「あんたが無事なら、それでいい」
「……大袈裟。ただの、後始末だから」
そっけない返事に反して、ニッカの声はいつもよりわずかに掠れていた。老女は何も言い足さず、ただ静かに目を細めた。赤ん坊だったニッカを拾ってきた日のバートの誇らしげな顔を、彼女はまだ覚えていた。
見張りの青年が、俯いたまま近づいてきた。
「……悪かった。俺が、一人であんたを置いてきちまったから」
「あんたが戻ったから、クランの全員が助かった。それでいいでしょ」
「でも」
「でも、じゃない」
言い切るニッカの声に、青年はようやく顔を上げた。その目の縁に、堪えきれない涙が滲んでいた。
少女を追うように歩き出した老女と年長の男が、崩れた装甲車両の残骸を一瞥してから、ニッカのそばで足を止めた。
「……このガレージを、このまま使い続けるつもり、なんだろうな」
低く問う年長の男に、ニッカは工具箱の縁を握り直した。
「他に、行く当てなんてないでしょ」
「クランの安全を考えれば、拠点を移すという選択肢も、頭の隅に入れておくべきだ」
「バートが遺した場所を、そう簡単に手放せない」
きっぱりとした答えに、年長の男はしばらく黙り込んだ。長年この土地を渡り歩いてきた者にとって、拠点を移すという判断は、決して軽々しく口にできるものではなかった。それでも、今日という一日を目にした以上、無視することもできない話だった。
「今すぐに、とは言わない。だが、頭の片隅には置いておいてくれ」
「……分かった」
短いやり取りの後、年長の男は焚き火の支度が進む方角へと歩き去っていった。その背中を見送りながら、ニッカは自分の選んだ暮らしがもう自分一人だけの問題ではなくなっていることを、改めて突きつけられた気がした。
焚き火が組まれ、荷台から運び込まれた鍋が湯気を立て始める頃、ガレージの前庭には束の間の穏やかな空気が漂っていた。装甲車両の残骸だけが、その光景の中で異物のように黒く沈んでいる。
離れた場所で、メイン・ドリオ・レベッカ・デイビッド・ルーシー・キーウィが円座を組んでいた。誰からともなく、視線がニッカへと向けられていく。
「なあ」
レベッカが、椀を膝に置いたまま口を開いた。
「これ、笑い話にできる日、来んのかな」
「さあ」
ドリオが短く答えると、レベッカは肩をすくめた。
「軍の実働部隊を、ガラクタ一つで丸ごと沈黙させたんだぜ。あたしらの武勇伝としちゃ、上出来すぎるだろ」
軽口めいた響きの中に、隠しきれない緊張が滲んでいた。誰も、それを本当に笑い話として片付けられるとは思っていなかった。
火を挟んで向かいに座ったニッカへ、メインが静かに視線を向けた。
「ニッカ」
「何」
「今日のこと、感謝してもし足りない」
「もう聞いた、その台詞」
軽くいなそうとするニッカに、メインは首を振った。
「今日は、別の話だ」
低く落とされた声に、周囲の空気が引き締まった。
「お前は、この土地で静かに暮らしたいだけなんだろう。それは、分かってるつもりだ」
「なら」
「だが、今日という日を見た以上、もう放っておけない」
短く言い切られた一言に、ニッカは椀を持つ手を止めた。
「ミリテクが、お前の存在に気づいた。今回は、私設の回収班だったから収まった。だが、次は分からない。企業ってのは、一度目をつけた獲物を、簡単には手放さない生き物だ」
「……知ってる。それくらい」
「知ってても、一人でどうにかできる規模の話じゃなくなってきてる。それくらいは、お前にも分かってるはずだ」
メインの言葉に、ドリオが静かに頷いた。
「私たちは、もうあなたを他人事として見られない。ここで見捨てるほど、薄情なつもりもない」
「別に、見捨ててなんて言ってない」
「言ってなくても、あんたは一人で全部背負い込もうとするだろ」
レベッカが割って入ると、ニッカは口をつぐんだ。図星を突かれた自覚が、胸の奥にじわりと広がっていく。
誰かに深く踏み込まれることを、ニッカは長い間、恐れてきた。近づいた分だけ、失った時の痛みも大きくなる。バートを失ったあの夏、彼女はその理屈を骨身に刻み込んでいた。それでも今、目の前に並ぶ顔ぶれを前にして、その理屈だけでは説明のつかない何かが胸の奥で静かに膨らんでいくのを感じていた。
「これからは、定期的に顔を出す。装備の面倒も見てもらう。ついでに、お前の身の回りにも、目を配らせてもらう」
「専属の、メカニックにでもさせるつもり?」
皮肉めいた問いに、メインは真顔で頷いた。
「悪くない話だと思うがな」
「冗談でしょ」
「冗談で言ってるように、聞こえるか」
低く返された声に、ニッカは言葉を失った。焚き火の炎が、メインの横顔にゆらゆらと影を落としている。その表情には、これまでのどんな軽口とも違う、確かな重みが宿っていた。
「無理に頷けとは言わねえ。だが、断る理由も、お前にはもうねえはずだ」
「……勝手なこと、ばっかり」
「勝手で構わねえ。今日ばかりは、こっちも譲る気はない」
譲らない声に、ニッカはそれ以上言葉を継げなかった。
「あたしも、しょっちゅう来るからな」
レベッカが椀を掲げながら、明るく言い放った。
「この銃のメンテだって、あんたにしか頼めねえし。文句言われても、来るもんは来る」
「……あんたの都合じゃない」
「あたしの都合で悪いかよ」
言い返され、ニッカはそれ以上反論できなかった。焚き火を挟んだ向こう側で、レベッカが得意げに笑っている。その笑顔に、これまでの緊張がわずかに緩んでいくのを、ニッカは感じずにはいられなかった。
デイビッドが、少し離れた場所から静かに口を開いた。
「あんたのおかげで、俺は今も普通に走れてる。今日だって、そうだ」
「もう、聞いた」
「何度でも言う」
きっぱりとした声に、ニッカは視線を落とした。誰かに感謝されることに、彼女はまだ慣れていなかった。慣れないからこそ、その言葉の一つ一つが、思っていた以上に重く胸に落ちてくる気がした。
「あんたを一人にしとくのは、もう俺の中でも無理な話だ」
「……大げさ」
「大げさじゃねえよ」
デイビッドの声には、初めて会った夜には見られなかった芯の強さが宿っていた。痩せこけた少年だったはずの彼は、今ではもう、仲間の行く末を案じるだけの覚悟を持つ一人の男に育ちつつあった。
「ルーシー」
キーウィが、隣に座るルーシーの名を呼んだ。
「あの通信ログの後始末、どうなった」
「消せるだけは消した。座標も、偽のものに書き換えてある」
端末をしまいながら、ルーシーは静かに続けた。
「でも、完全に消えたとは思わない方がいい。今日みたいな真似をした人間の存在は、きっと別の経路からも漏れていく」
「別の経路?」
ニッカが問うと、ルーシーは端末を握る手に力を込めた。
「噂よ。裏社会の噂は、電子の記録より厄介。誰かが見た。誰かが聞いた。それだけで、事実以上の形になって広まっていく」
「……もう、広まってる」
キーウィが煙草の灰を落としながら、静かに付け加えた。
「バッドランズに、神がかった腕を持つメカニックがいる。その噂は、今日より前から一部の連中の耳に入り始めていた。今日の一件で、それがどこまで大きくなるか。正直、私にも読み切れない」
低く落とされた言葉に、円座の空気がわずかに沈んだ。誰も、それを軽く受け流すことはできなかった。
ルーシーが、端末を握ったまま静かに続けた。
「私が消せるのは、電子の記録だけ。人の記憶までは、消せない」
「……脅かしてる?」
「事実を言ってるだけ」
短いやり取りに、ニッカは視線を落とした。ルーシーはそれ以上追及せず、淡々と続けた。
「今日ここにいた兵士たちは、いずれ別の場所で今日のことを話すでしょうね。止める術は、私にもない」
「……知ってる」
「それでも、あなたが一人で背負う必要はない」
抑揚のない声だったが、その言葉には確かな温度があった。
「デイビッドの背中を直したのも、メインの震えを止めたのも、あなた一人の手柄じゃない。ここにいる全員が、その結果の上に立ってる」
ニッカは何も言い返せず、ただ小さく頷いた。誰かにそう言い切ってもらえたことが、思っていたよりずっと胸の深いところへ落ちてくる気がした。
「怖がらせるつもりで、言ってるんじゃない」
キーウィが、ニッカの表情を見て付け加えた。
「ただ、目を逸らしても消えない話だ。企業だけじゃない。フィクサーも、荒事を生業にする連中も、遅かれ早かれこの噂を嗅ぎつける。その時に、あんたが一人きりでいる状況だけは、避けた方がいい」
「……分かってる、それくらい」
答える声は、思っていたよりずっと小さかった。ニッカは膝の上で、両手を強く握り合わせた。十八の夏に立てた誓いが、頭の奥で鈍く響いていた。ナイトシティには、関わらない。誰にも深く踏み込ませない。あの誓いが、もう完全な形では守れなくなっていることを、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
しばらくの沈黙の後、ドリオが静かに口を開いた。
「一人で抱え込まなくていい、とだけ言っておく」
「……ドリオ」
「あなたが望む暮らしを、無理に変えろとは言わない。ただ、危険が近づいた時に頼れる相手を、一つでも多く持っておいて損はない。それだけの話」
穏やかな声だったが、そこには揺るぎない確信があった。ニッカは何も言えないまま、焚き火の炎を見つめ続けた。
頼るということが、これほど静かな言葉で差し出されるとは思っていなかった。押し付けでも、恩着せがましさでもない。ただ、そこにあるだけの手のひらだった。その温度に、ニッカはどう応えていいのか、まだ分からずにいた。
炎が爆ぜる音だけが、しばらくの間、円座の沈黙を埋めていた。
やがて、レベッカが空気を変えるように、わざと明るい声を上げた。
「湿っぽい話は、もう終わりだ! せっかく勝ったんだから、飯食おうぜ!」
「……そうね」
ドリオが小さく笑うと、円座の空気がようやく緩んでいった。少女が椀を抱えて駆け寄り、老女が焚き火に薪を足す。年長の男が、無事に戻ってきた見張りの青年の肩を、何度も強く叩いていた。
夜が更けても、焚き火の周りには賑やかな声が絶えなかった。
ニッカは椀を膝に置いたまま、その光景を少し離れた場所から眺めていた。誰かの笑い声、誰かの軽口、誰かの安堵の吐息。長い間、意図して遠ざけてきたはずのそれらが、今は自然と自分の周りに満ちていた。
腰のレンチに、彼女はそっと手を添えた。バートなら、今日のことを何と言っただろう。答えの出ない問いを、ニッカはゆっくりと胸の奥へしまい込んだ。
「――ニッカ」
隣に腰を下ろしたメインが、低く声をかけてきた。
「何」
「疲れた顔、してるな」
「あんたに言われたくない」
軽く返すと、メインは小さく笑った。その笑い方には、これまでにない穏やかさが滲んでいた。
「今日は、よく休め。話の続きは、また今度でいい」
「……勝手に決めないで」
「決めさせてくれ、今日くらいは」
言い切ったメインの横顔を、ニッカはしばらく見つめた。震えの消えた右手が、椀を静かに支えている。あの震えを止めたのは、間違いなく自分の指先だった。その事実だけが、今の彼女に、小さな誇りに似た熱を残していた。
夜半を過ぎた頃、賑わいは少しずつ静まっていった。
疲れ切った者から順に、毛布にくるまって横になっていく。焚き火の傍らで、ドリオがメインの肩にそっと寄りかかっていた。レベッカは毛布を抱えたまま、いびきをかいて眠りに落ちている。デイビッドは焚き火を見つめたまま、静かに目を閉じていた。
ニッカだけが、しばらくの間、眠る気になれずにいた。工具箱の蓋を撫でながら、彼女は星の散らばる夜空を見上げ続けた。
夜明けと共に、崩れたフェンスの周りに人が集まり始めていた。
中央キャンプから駆けつけた男たちが、壊れた装甲板を運び出し、代わりに手持ちの資材を組み上げていく。ニッカは彼らの間を回りながら、支柱の継ぎ目や溶接の強度を一つずつ確かめていった。
「ここ、もう少し傾き直して」
「あいよ」
何気ないやり取りが、あちこちで交わされる。誰も、それを特別なことだとは思っていないようだった。壊れたものを直す。それだけの、いつも通りの作業だった。その手つきの一つ一つに、昨日とは違う確かさが宿っているのをニッカは感じていた。
作業の合間、老女がふと手を止め、フェンスの向こうに広がる荒野を見渡した。
「バートが、初めてこのフェンスを組んだ日を覚えてるよ。溶接が下手で、何度もやり直してた」
「……そうなんだ」
「今のあんたの腕を見せてやりたかったね、あの人に」
しみじみと呟く老女の声に、ニッカは言葉を返せないまま、黙って手を動かし続けた。指先に灯った小さな熱だけが、その日一日の疲労を、わずかに和らげてくれるようだった。
朝の光が地平線を淡く染め始める頃、荷を積み直す作業を終えたキーウィが、静かにニッカの隣へやってきた。
「一つ、言い忘れていたことがある」
「何」
「今日みたいな真似ができる人間は、そう多くない。だが、それだけ厄介な連中の目にも留まりやすいということだ」
煙草を挟んだ指先を、キーウィは珍しく持て余していた。
「あんたの腕は、本物だ。だからこそ、探しに来る連中も、いずれ本気になる。それだけは、忘れずにいてほしい」
短い忠告を残し、キーウィはそれ以上何も言わずに車両へ戻っていった。ニッカは工具袋の紐を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
朝の見回りの途中、ニッカは前夜手当てをした若い兵士のことをふと思い出した。ミリテクの部隊はすでに姿を消していたが、彼が座り込んでいた辺りに、応急処置に使った留め具の切れ端がまだ落ちている。
拾い上げたそれを、ニッカはしばらく手のひらの上で転がした。敵だったはずの誰かに向けた処置が、今になって妙に生々しい重みを持って蘇ってくる。壊れた場所を見れば、放っておけない。その性分だけは、相手が誰であっても変わらないままだった。
「あんな奴ら、放っておけば良かったのに」
いつの間にか隣に立っていたレベッカが、呆れたように呟いた。
「怪我人を放っておくのと、これは別の話」
「相変わらず甘いこと」
「甘くない。ただの、性分」
短く返すと、レベッカは小さく肩をすくめただけだった。
出発の準備が整うより先に、ニッカは崩れた装甲車両の残骸へと歩み寄っていた。
装甲板の継ぎ目に指をかけ、内部の配線を覗き込む。焼き切れた回路の奥に、まだ使えそうな部品がいくつか眠っていた。前世の記憶が、その一つ一つに素早く用途を割り振っていく。
「……おい、あんた。こんな時に何やってんだよ」
呆れた声で、レベッカが近づいてきた。
「使えるものは、使う。もったいないでしょ」
「軍用の残骸から、パーツ抜き取ろうってのか。とんでもねえ女だな、ほんとに」
呆れながらも、レベッカはニッカの手元を興味深そうに覗き込んだ。焼け残った金属片の一つを摘み上げ、彼女は小さく笑った。
「今度は、これで何作るつもりだよ」
「まだ、決めてない。とりあえず、拾っておくだけ」
「相変わらず、意味わかんねえな、あんたの頭ん中」
そっけない答えに、レベッカは肩をすくめた。それでも、廃材を見つめるニッカの目に宿る職人めいた光だけは、隠しようもなく滲んでいた。誰に何を言われようと、その光だけは消えたことがなかった。壊されたはずの脅威の残骸が、彼女の手にかかれば、また新しい何かに生まれ変わっていく。その循環だけは、今日という一日を経ても、何一つ変わっていなかった。
朝日が完全に昇りきる頃、車列は帰り支度を終えていた。
「また、来る」
メインが、ニッカの前に立って短く告げた。
「勝手にすれば」
「土産くらいは、持ってくる。今度は、ちゃんとしたものをな」
「別に、いらないから」
「いらなくても、持ってくる」
譲らない口調に、ニッカは小さく息を吐いた。
「ニッカ姉、また来てね」
少女が水筒を抱きしめながら、無邪気に手を振った。
「うん。また」
短く答えるニッカの声には、いつにない柔らかさが滲んでいた。少女はそれに気づいたのか、嬉しそうに笑ってから、老女の手を引いて車両へ向かっていった。
三台の車列と中央キャンプの一団が、砂塵を巻き上げながら遠ざかっていく。荷台の上でレベッカが何か叫んでいたが、その声は風にさらわれて届かなかった。デイビッドが最後に一度だけ振り返り、小さく頭を下げる。ニッカは片手を上げただけで、それ以上の言葉は返さなかった。
車列が尾根の向こうへ消えるまで、ニッカはその場に立ち尽くしていた。
静けさが、いつも通りにガレージへ戻ってくる。だが、その静けさの手触りは、以前とは確かに違っていた。
装甲車両の残骸は、まだ庭の隅に黒く沈んでいる。片付けなければならない後始末は、まだいくつも残っていた。それでも、ニッカの胸の中でいちばん重く残っていたのは、瓦礫の重さではなかった。
ナイトシティには、関わらない。誰にも深く踏み込ませない。けれど今、その誓いを守り抜く道そのものが少しずつ細く遠のいていくのを、ニッカは感じずにはいられなかった。
同時に、何かを失っていくだけではないと、彼女は薄々気づき始めていた。焚き火を囲んで交わされた軽口も、震えの消えた右手の重みも、押しつけがましいだけの厄介事とはもう思えなくなっている自分がいた。
遠く離れたナイトシティの一角、明滅する無数のモニターに囲まれた執務室に、一枚の報告書が静かに届けられていた。
「私設回収班、行方不明。装備一式、損失」
読み上げる声に、抑揚はなかった。座標情報は、すでに存在しない場所を示す偽のものへと書き換えられている。それでも、失われた装備の総額と消息を絶った部隊の規模だけは、動かしようのない数字として画面に残っていた。
「バッドランズの、ただの廃車置き場だと聞いていたが」
呟いた声の主は、粗い解像度で映し出された一枚の映像へと視線を移した。黒髪を一つ結びにした女の後ろ姿が、そこにぼんやりと浮かんでいる。
「……調べておけ。時間はかかっても構わない」
短い指示が下されると、部屋には再び機械的な静寂だけが満ちていった。荒野の片隅で交わされた誓いも、焚き火を囲んだ束の間の温もりも、この部屋にはまだ届いていなかった。ただ、一つの名もない影だけが、静かに動き出そうとしていた。
工具箱を抱え直し、彼女はガレージの奥へと歩き出した。
棚の奥に置かれたバートの古いレンチに、指先がそっと触れる。刃こぼれた柄の感触は、もう何百回となく確かめてきたものだった。壊れた場所を叱っても、直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。育ての親の教えを、今日ほど深く噛みしめたことはなかった。
壊れかけたフェンスを組み直しながら、老女が語った昔話が、頭の奥でまだ小さく響いていた。溶接の下手だったバートが、それでも諦めずに継ぎ目を重ね続けた日々。誰かを守るための場所は一度の作業で完成するものではなく、こうして幾度も手を入れ直しながら、少しずつ形を保っていくものなのかもしれなかった。
一人で生きていくつもりだった。誰にも頼らず、誰にも頼られず、この荒野でただ静かに朽ちていくつもりだった。だが今、焚き火を囲んだ声の記憶が、その静かな終わり方をどこか遠いものにしてしまっている。
鍋に水を張り、乾燥保存食を戻す。いつもと変わらない、一人分の昼食の支度だった。だが、湯気の向こうに浮かぶのは、昨夜の焚き火とそこに集った顔ぶれだった。
椅子に深く腰を下ろし、ニッカは小さく息をついた。
「……疲れた」
誰に向けたものでもない呟きが、静かな格納庫に落ちて消えた。だがその声には、今までとは違う何かが滲んでいた。恐怖でも、後悔でもない。名付けようのない、静かな温もりだった。
外周モニターの表示は、いつもと変わらない平常の数値を示していた。太陽光パネルの蓄電量、振動センサーの反応、通信帯域の走査結果。何も、異常は検出されていない。けれど、ニッカはその画面をしばらく見つめ続けた。
平穏は、もう戻らないのかもしれない。ふとした確信が、静かに胸の底へ沈んでいく。それでも、その確信を前にした自分が思っていたほど絶望していないことに、彼女は少し驚いていた。
窓の外では、朝の光が荒野の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていた。焼け落ちた装甲車両の残骸だけが、朝の光の中でなお黒く沈んでいた。片付けなければならない仕事は、山ほど残っていた。それでも今は、しばらくこのまま座っていたい気がした。
遠くの尾根の向こうに、車列の巻き上げた砂塵が、まだ薄く漂っているのが見えた。あの向こうに、これから何が待ち受けているのか、ニッカにはまだ分からなかった。都市伝説のように広まっていく噂も、企業という組織の非情さも、これから彼女の静かな日々をどれだけ揺さぶってくるのか見当もつかなかった。
あの砂塵の向こうに、確かに繋がった誰かの手のひらがある。その事実だけが、今の彼女を静かに支えていた。
いつか、この温もりの代償を払う日が来るのかもしれない。今はまだ、その日を恐れて手を離すよりも、繋いだままでいることを選びたかった。バートなら、きっとそう言うだろう。根拠のない確信が、静かに胸へ落ちてくる。
朝の光が、ゆっくりと格納庫の奥まで差し込んでくる。ニッカは湯気の立つ鍋を見つめたまま、しばらくその光に目を細め続けていた。
静寂は、もう昨日までのものとは違う形に変わりつつある。それでも、その変化を恐れるだけの理由は、今のニッカにはもう見当たらなかった。
鍋の湯気が、細く立ち昇っては消えていく。その頼りない揺らめきを見つめながら、ニッカはゆっくりと目を閉じた。長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
遠くで、乾いた風が荒野を撫でていく音だけが、いつまでも続いていた。工具箱の縁に置いた指先に、微かな温もりがまだ残っている。それだけで、今はもう十分だった。