ミリテクの重装部隊を退けてから、半月ほどが過ぎていた。
崩れたフェンスの継ぎ目には新しい支柱が立ち並び、庭の隅に転がっていた装甲車両の残骸も、大半が荷台に積まれて運び出された後だった。それでも拾いきれない金属片や、焼け焦げた配線の切れ端はまだいくつも埃をかぶったまま眠っている。後始末の続きは、当分の間ニッカ一人の仕事として残されていた。喧騒が去ったガレージには、以前よりもいくらか密度の高い静けさが満ちていた。誰かに急かされることもない、ニッカ一人だけの時間だった。
朝の空気はまだ乾いた冷たさを残していたが、日が高くなるにつれて、荒野特有の白っぽい熱気が地面から立ち上ってくる。その頃合いを見計らって、ニッカは点検用の工具袋を肩に掛け、ガレージの奥へと足を向けるのがすっかり習慣になっていた。奥に停めてある三気筒の車体へ視線を向けると、タンクの脇には、少女が書いた歪んだ文字の看板がまだ立てかけられている。撤去する気になれないまま、いつの間にか半月が経っていた。
「……別に、認めたわけじゃないんだけど」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、ニッカは車体の埃を軽く払った。以前は徒歩か古い四輪でこなしていた点検回りや荷運びを、今ではこの一台に任せることが多くなっている。理由を突き詰めれば単純だった。速くて燃費が良く、何より電子信号を一切発しない。追跡される心配をせずに済む乗り物は、この荒野で暮らす者にとって、それだけで十分すぎる価値を持っていた。
キックペダルに足を掛けるたび、四日がかりで拍子を合わせたあの徹夜の記憶がよみがえる。パン、パン、パンという規則正しい破裂音を初めて聞いた瞬間、実感は驚くほど薄かった。廃材の山へ全力で突っ込んだ間抜けな記憶も、今ではどこか懐かしい手触りに変わっている。転んでも、また乗ればいい。あの時辿り着いた結論のまま、ニッカはこの一台と半月あまりを付き合ってきたことになる。
朝の点検を終えて工具を仕舞う前に、タンクの表面を布で軽く拭う。いつの間にか身についたその一手間に、意味らしい意味はなかった。ただ、自分で組み上げた鉄の塊が、少しでも綺麗な顔をしているのを見ると、理由の説明できない安心感が胸の奥に広がる。埃だらけのガレージの中で、その儀式めいた仕草だけが、ここしばらくのニッカにとって数少ない穏やかな時間になっていた。遠くで風が鳴るだけの、他には何の音もしない時間だった。
その日から数日、ニッカの日課には新しい光景が加わっていた。
朝一番にフェンスの継ぎ目を見回り、昼過ぎには離れた井戸の水位計を確認しに行く。かつては半日仕事だった道のりが、キックペダル一つで縮まっていくことに、彼女はまだ慣れきれない喜びを覚えていた。パン、パン、パンという小気味よい拍子を立てて舗装の残る道を走る限り、車体は驚くほど素直だった。ハンドルを軽く傾けるだけでラインを変え、スロットルに応じて滑らかに速度を乗せていく。熱くなった砂の匂いが、風に乗って鼻先をかすめていった。
「……悪くない。うん、悪くない」
満足げに呟く声には、隠しきれない愛着が滲んでいた。バートの遺したガレージで、ただ生き延びるためだけに積み上げてきた技術とは違う、格好良さだけを基準に仕上げた初めての相棒だった。舗装路を走っている限り、それは紛れもない自慢の一台になっていた。
水位計の点検でいつもより遠回りの荒れ地を突っ切った日、ニッカは初めて異変に気づいた。
砂利混じりの斜面に差し掛かった途端、エンジンの拍子がわずかに乱れる。パン、パン、と続いていたはずの拍子が一瞬だけ間延びしたかと思うと、すぐにまた元へ戻った。ほんの一呼吸の狂いに過ぎず、ニッカはさして気にも留めず走り抜けた。
「……気のせい、かな」
独り言を挟みながらも、その日は特に対処せずに済ませてしまう。舗装路に戻れば、車体はまたいつも通りの素直さを取り戻していたからだった。
翌々日、崩れた見張り台の脚を継ぎ足す資材を運んだ帰り道、同じ違和感がもう一度顔を出した。荷台に積んだ角材が段差のたびにかたかたと音を立て、緩んだ拍子に合わせるように小さく跳ねる。速度を落とせば収まる程度の揺れではあったが、今度は間延びの度合いが前より少し大きく、荷台に積んだ資材がかすかに揺れるのを感じるほどだった。
「……前より、ひどくなってる?」
首を傾げながらも、ニッカはやはりその場では深く考えなかった。舗装路さえ選んで走れば問題は起きない。都合のいいその理屈に、彼女はしばらく甘えていた。
三度目の兆候は、日暮れ間際の見回りで訪れた。外周センサーの反応を一つずつ確かめながら荒れ地の縁を流していると、薄暗がりの中で不意にエンジンが息を詰まらせ、そのまま失速しかけたことがあった。前方に転がっていた岩の影に気づくのが遅れ、慌ててハンドルを切ったせいで、車体は大きく蛇行しながら停止する羽目になった。
「……今の、危なかった」
薄闇の中で、ニッカはようやく胸を撫で下ろした。そのまま、しばらくその場から動けずにいた。夜目の利かない状況で、この気まぐれな失速癖に付き合わされるのは、さすがに笑い話では済まされない。けれど、作業に取り掛かる決心には、まだあと一押しが足りなかった。日中の舗装路さえ走っていれば大きな問題は起きない。その都合の良い理屈に、彼女はもう一度だけ縋ろうとしていた。
そんな都合の良さに、最後の見切りをつけたのは、装甲車両の残骸から部品を回収してくるという用事のためだった。
出発の前、ニッカは棚の奥から古い鍋を引っ張り出した。以前の試走で頭に被った、あの間の抜けた防具の代わりだった。持ち手の部分を布で巻き直し、顎紐代わりの紐を新しく結び付けてから、彼女はそれを頭に被ってみた。鏡代わりの金属板に映る自分の姿は、相変わらず滑稽だったが、走る先が荒地である以上、笑われるより頭を守る方が優先だった。
「……よし」
一人きりの決意表明に応える者はいない。それでも小さく頷いてから、ニッカは工具袋と鍋を抱えたまま、いつもの三気筒に跨った。
荷台代わりに括り付けた鉄籠には、ロープでまとめた工具袋と、空の麻袋がいくつか詰め込まれている。舗装路を抜け、砂利の混じった荒れ地へ入った途端、エンジンの調子がはっきりと変わった。
一定だったはずの拍子が、急に間延びしたかと思うと、次の瞬間には詰まったように早鳴りする。スロットルを開けても、思ったほど速度が乗らない場面があるかと思えば、逆にわずかに開けただけで前輪が浮きかけることもあった。まるで気まぐれな生き物の手綱を握っているような感触だった。
「……なんで、こう、まだらなの」
ぼやきながらも速度を緩めることはせず、ニッカは岩場の隙間を縫うように車体を進めた。荒地に足を踏み入れて数十メートル、大きな段差に前輪を取られた瞬間、鉄籠に括り付けていたロープの結び目がふいに緩んだ。
「――あ」
短い声を上げる間もなく、麻袋の一つが宙へ舞い、続けて工具袋の口から古いスパナが転がり落ちていく。荒地の斜面を、鈍い金属音を立てながらスパナが滑り落ちていくのを、ニッカは横目で捉えた。
「待って、待って!」
ブレーキをかけようとした手が、逆に力んでクラッチを握り込んでしまう。エンジンの回転数だけが空しく跳ね上がり、車体はその場でわずかに前のめりになった。慌てて体重を後ろへ逃がしたことで転倒こそ免れたものの、勢いを失った車体は緩やかな坂の途中で完全に止まってしまう。
エンジンが止まった静寂の中、ニッカはしばらく呆然と斜面を見下ろした。スパナは、なおも斜面を転がり続けている。鍋の防具の縁からこぼれた前髪が、汗で額に張り付いていた。
「……ちょっと」
抗議めいた声を漏らしたところで、聞いている者は誰もいなかった。仕方なく車体を降り、ニッカはスパナを追いかけて斜面を駆け下りることになった。
砂利に足を取られながら十数メートルほど追ったところで、ようやくスパナは平らな窪地に落ち着いた。拾い上げた工具を握りしめ、息を切らしながら振り返ると、置き去りにした車体が、坂の途中で所在なさげに傾いたまま止まっている。その光景に、ニッカは思わず乾いた笑いを漏らした。
「……荷物より先に、転がり落ちる乗り物なんて、聞いたことない」
自嘲めいた呟きを残しながら、彼女は斜面を登り直した。息が上がる頃には、額に浮いた汗が乾いた土埃と混じって、頬に薄い泥の筋を作っていた。頭を守った鍋だけが、こんな時にも律儀に役目を果たしていることに、彼女は妙な感心を覚えた。
膝には、いつの間にかできていた擦り傷が新しく加わっている。数え切れないほど繰り返してきた荒地での格闘の中で、こうした小さな傷跡はすっかり見慣れたものになっていた。老女がいたら、また消毒液を片手に小言を並べただろう。そんな想像が浮かんで、ニッカはつい頬を緩めた。
再びキックペダルを踏み込むと、エンジンは案外あっさりと目を覚ました。だが動き出した直後、今度はタイヤが小石の山を踏み越えた拍子に、車体全体が跳ね上がる。前傾したハンドルへ突っ伏すような姿勢になりながら、ニッカはどうにか手綱を立て直した。
「……跳ねすぎ」
低く呟いた声には、悔しさよりも純粋な困惑が滲んでいた。整備した本人が誰よりもよく知っている通り、この足回りは荒れ地の凹凸を吸収するようには作られていない。舗装路を軽快に走ることだけを考えて選んだ硬いショックが、荒野の段差をそのまま拾い上げ、律儀に車体へ突き上げてくる。
装甲車両の残骸に近づく直前、今度は積み荷を固定し直していたせいで視線が下がり、目の前に転がっていた大きな瓦礫にニッカは気づくのが遅れた。慌てて避けようとハンドルを切った拍子に後輪が滑り、車体は横倒しになる寸前でどうにか踏みとどまる。心臓が縮み上がる感触を味わいながら、彼女は片足を地面に突いたまま、しばらく動けなかった。
「……危なかった」
上ずった声で呟き、ニッカは額の汗を拭った。誰に見られているわけでもないのに、恥ずかしさだけが妙に強く込み上げてくる。
装甲車両の残骸群は、崩れたフェンスからさらに離れた窪地に沈むように横たわっていた。焼け焦げた装甲板の隙間から、まだ乾ききらない焦げ臭さが漂っている。あの夜、誰も殺さずに済んだことだけを確かな救いにして立ち去った現場を、ニッカは今こうして一人で歩き回っていた。
配線を引き剥がす手を止め、ニッカはふと足元に転がっていた留め具の切れ端に目を留めた。あの夜、手当てをした若い兵士の傷口に使ったものと、よく似た形をしている。壊れた場所を見れば放っておけない性分は、相手が敵であっても変わらなかった。誰かに褒められるためでも、恩を売るためでもない。ただの性分だと、あの朝レベッカに言い返した言葉を、ニッカは思い出しながら小さく苦笑した。拾い上げた切れ端を工具袋の隅にしまい、彼女は作業を再開した。
車体を降りようとした瞬間、砂の柔らかい場所に沈んだサイドスタンドが、支えきれずにゆっくりと傾いた。慌てて体を離した拍子に、鉄籠が地面へ落ちて中身がまた散らばる。
「……もう、いい加減にしてよ」
半ば呆れた声でそうぼやくと、散らばった工具をニッカは一つずつ拾い集めた。日差しの下で額の汗を拭いながら見上げた空には、雲一つない乾いた青が広がっている。誰かに見られていたら、間違いなく笑われていただろう有様だった。
目当ての配線と装甲板を回収し、慎重に荷台へ括り直してから、彼女はようやく一息ついた。帰り道は行きよりも速度を落として走った。だが荒地特有の揺れと出力の谷は、最後まで解消されないままだった。
ガレージへ戻ったニッカは、エンジンを止めるなり作業台に腰を下ろした。汗と埃で汚れた顔を袖で拭い、鍋の防具をようやく脱ぎながら、しばらく天井を見上げたまま動かなかった。
「……とりあえず、生きて帰ってきた」
誰へともなく漏らした呟きに、ガレージの静けさだけが返ってきた。荷台から回収した部品を降ろし終える頃には、体の節々が鈍く痛み始めている。とはいえ安静にする気にはなれず、ニッカは真っ先にキャブレターの点検に取り掛かった。
「……とりあえず、詰まりかな」
独り言をこぼしながら、彼女は燃料経路を一通り洗浄し、ジェットの穴を丁寧に磨き直した。前世の記憶を頼りに、混合気の濃さを微調整することも忘れなかった。それでも、根本の原因がそこにない予感は、作業をしながらも拭いきれずにいた。
日が落ちる頃、ニッカはふと思いつき、廃材置き場から拾ってきた古い空き缶を排気口の先にかぶせてみることにした。抜けたサイレンサーが騒々しい音の元凶なら、応急処置として何か被せてやれば、少しはましになるかもしれない。単純といえば単純すぎる思いつきだったが、試してみる価値はあると彼女は判断した。
針金で空き缶を固定し終えると、ニッカは満足げに頷いた。
「……これで、少しは静かになるはず」
自信ありげな呟きとは裏腹に、エンジンを掛けた瞬間の結果は予想を大きく裏切るものだった。抜け道を失った排気の圧力が行き場をなくし、空き缶ごと弾け飛ぶような凄まじい破裂音が、夜の静寂を切り裂いた。
「うわあっ!」
思わず尻餅をついたニッカの頭上を、千切れた空き缶の破片が飛び越えていく。その轟音に反応したのか、庭の隅で息を潜めていたはずの自作の警戒システムが、けたたましいアラームを鳴らし始めた。太陽光発電で賄われた探照灯が一斉に点灯し、廃品で組んだ迎撃タレットの銃口が、ぎこちない駆動音を立てながら旋回を始める。
「ちょっ……、待って、待って! 敵じゃない、これ私!」
慌てて立ち上がったニッカは、光の中を右往左往しながら制御盤へ駆け寄った。タレットの銃口が真っ直ぐ自分へ向きかけたのを見て、心臓が縮み上がる。震える指先で緊急停止のスイッチを叩き込むと、ようやく探照灯とタレットの駆動音が静かに収まっていった。
静寂が戻ったガレージの中、ニッカはしばらくその場にへたり込んだまま動けなかった。自分の作った防衛システムに、自分が撃たれかけるという間抜けな結末を、笑うべきか青ざめるべきか判断がつかなかった。
「……自分の警戒網に、自分がやられるところだった」
掠れた声でひとりごちて、ニッカは地面に散らばった空き缶の破片を拾い上げていった。頬には新しく煤の跡が増えている。今夜のところは、これ以上手を出さない方がよさそうだった。
だが、翌朝の試走でも、結果は変わらなかった。舗装路では相変わらず素直に走る車体が、庭先の荒れ地に入るなり、同じようにまだらな拍子を刻み始める。
「……嘘でしょ」
肩を落としたニッカは、車体を降りたまましばらく動けずにいた。キャブレターの問題ではない。空き缶で塞いでも意味がない。だとすれば、原因はもっと根本的なところにある。
作業台に座り直し、ニッカは指先で宙に見えない図を描くように考えを巡らせた。前世の記憶が、こういう時だけは律儀に働いてくれる。
まず、排気の問題だった。抜けたままのサイレンサーは、爆発的な排気の脈動をそのまま外へ垂れ流している。単純な筒であるがゆえに、燃焼室から吐き出される圧力波が反射せずに素通りしてしまい、回転域ごとに混合気の効率がまちまちになる。低回転では吹け上がりが鈍く、逆にある回転域を超えた途端、唐突に力が乗る。あの「谷と山」を繰り返す挙動の正体は、突き詰めればそこにあった。ただ蓋をするように塞いでも、行き場を失った圧力が暴れるだけだと、昨夜の失敗が身をもって教えてくれていた。
排気管の内側で、圧力の波をどう反射させ、どこで絞ってやるか。その設計次第で、特定の回転域だけを狙って出力を持ち上げることもできれば、逆にまだらな谷を生むこともある。前世でさんざん読み込んだクラフト解説の記憶が、断片的に頭の中でよみがえってきた。単なる筒ではなく、途中で膨らみ、出口に向かって絞り込んでいく形――そんな部品を、確か遠い昔にどこかで作った覚えがある。詳しい寸法までは、まだ像を結ばない。ただ、方向性だけは見えていた。ゲームの世界なら装備欄の隅に小さく書かれているだけの数値が、現実ではこうして体ごと振り回してくる。その理不尽さが、なんだかおかしくて仕方なかった。
次に足回りだった。二人乗りをそもそも想定していない軽量フレームに合わせて選んだ硬いサスペンションは、舗装路でこそ本領を発揮する代物でしかなかった。荒地の凹凸を吸収する余裕がまるでなく、跳ねるたびに車体が浮き上がる。舗装路用のカフェレーサーの骨格のまま荒野を走らせている以上、当然の帰結だった。
バネの硬さをどこまで緩めるか、減衰をどれだけ利かせるか。前世の記憶を辿れば、荒地向けの足回りにはもっと沈み込みに余裕を持たせた設定が定石だったはずだった。硬すぎる今のバネでは、段差の衝撃をそのまま車体へ跳ね返してしまう。かといって緩めすぎれば、今度は着地のたびに揺り返しが収まらなくなる。ちょうどいい塩梅を探る作業は、数値だけで完結する話ではない。実際に走らせては感触を確かめる、地道な繰り返しになるはずだった。廃品置き場のどこかに、ちょうどいい硬さのショックユニットが眠っているに違いない。バネの硬さと減衰の効き、その両方を荒野向けに組み直さない限り、この暴れ馬は大人しくならない。ニッカはそう見積もった。
「……そりゃ、暴れもするか」
独り言に近い呟きが、静かな格納庫に落ちた。整備した本人でありながら、これまで舗装路での挙動ばかりを気にして、荒地での走りをまともに詰めていなかった自覚がある。日々の点検回りや物資運搬に使い始めた今になって、その粗が容赦なく表面化していた。
ニッカは立ち上がり、車体の脇にしゃがみ込んだ。タンクの下から伸びる抜けたサイレンサーの筒を撫で、続けてリアショックの取り付け部分を軽く指で弾く。硬い感触が、そのまま指先に跳ね返ってきた。
「……直すしか、ないか」
ため息とも決意ともつかない声が漏れる。誰かに命じられたわけでも、頼まれたわけでもなかった。ただ、自分が仕上げた一台が、思うように応えてくれないことが、単純に気に入らなかった。
電子部品を一つも積んでいないこの乗り物には、探知される要素が何一つない。走る音は隠しようもなく騒々しいが、電波としての痕跡はどこにも残らない。舗装路しか走れないままでは宝の持ち腐れだと、ニッカは今更ながらに思い直した。荒地さえ思うように駆け抜けられれば、この鉄の塊はきっと、これまでの創作物にはなかった種類の価値を持つはずだった。今はまだ、漠然とした予感に過ぎなかったが。
タンクの脇に立てかけられたままの、少女の書いた歪んだ看板を、ニッカはしばらく見つめていた。「三本さん」の三文字は、半月分の埃を被って、いくらか色褪せている。撤去するつもりはやはり起きなかった。
「あんたも、まだ本気出してないだけなんでしょ」
看板へ向けたのか、車体へ向けたのか、自分でも判然としない呟きだった。荒野育ちの老女がかつて口にした言葉が、ふと頭をよぎる。暴れ馬というのは、乗りこなすのではなく、なだめすかしながら付き合っていくものだと。あの日は乗り手としての未熟さを言われたつもりだったが、今になって思えば、なだめる側の手つきそのものにも、まだ足りない部分があったのかもしれない。
「……なだめ方、まだ全然分かってないけど」
看板の文字を見つめているうちに、あの日のやり取りがふと蘇ってきた。三本さんは嫌だと言い張ったはずが、パンパン君、三本パンパン丸と、命名候補は際限なく増えていった。頭を抱えたくなったあの記憶も、今となっては笑い話に近い。認めるつもりはまだない。そう自分に言い聞かせながらも、口の中で小さく「三本さん」と呟いてみる。思いのほかしっくりくる響きに、ニッカは苦い顔をするしかなかった。
苦笑を滲ませながら、ニッカは工具箱の蓋を開け直した。埃を被った溶接道具やパイプの切れ端が、いつも通りの雑然とした顔で出迎えてくる。棚の奥には、バートの古いレンチが今日も静かに眠っていた。
指先でその柄をなぞるうち、ニッカはふと幼い日の記憶を思い出した。まだ工具の名前もろくに覚えていなかった頃、拾ってきた壊れた発電機を前に、バートは何時間でも飽きずに分解を続けていた。「壊れた場所を叱っても、直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ」。口癖のように繰り返されたその一言を、幼いニッカは半分も理解できないまま、ただ隣で相槌を打っていた記憶がある。今になってようやく、その意味の輪郭がはっきりと形を持ち始めている気がした。
「……これも、痛んでる場所を見つけるだけ」
短く息をついてから、ニッカはバートの古いレンチを一度だけ強く握りしめ、それから元の場所へそっと戻した。この道具そのものを使う予定はまだない。とはいえ、こうして棚の奥から引っ張り出して確かめるだけで、なぜか背筋が伸びる気がした。
改めて自分のレンチを手に取り直すと、ニッカは大きく息を吐いた。荒地の岩場でスパナを追いかけて転げ回った記憶も、空き缶が弾け飛んだ間抜けな失敗も、まだ生々しく体に残っている。それでも作業台に向き直った横顔には、悔しさよりも、次の一手を思案する職人めいた光が宿っていた。
日が傾き始める頃、ニッカは古い紙切れを一枚見つけ出し、鉛筆代わりの焼け残った炭で、思いつくままに簡単な図を描き始めた。膨らんだ筒の断面と、絞り込まれた出口。炭の粉で指先を黒く汚しながら、膨らみの位置をずらしては消し、絞り込みの角度を書き直す。歪んだ線ばかりの落書きに近い図だったが、頭の中の像を紙に落とすだけで、次にやるべきことが少しずつ形を持ち始めていく。描いては消し、消してはまた描く。その繰り返しに没頭するうち、いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。
外はまだ午後の日差しが強く残っていた時間から始まった作業だったはずが、気づけば崩れたフェンスの向こうに広がる荒野は、いつも通りの乾いた静けさへと沈んでいた。ミリテクの脅威も、まだ見ぬアラサカの影も、この瞬間だけは遠い話に思えた。焚き火を囲んで交わされた温かな約束も、企業という組織の非情さも、今は一旦棚の奥にしまわれている。ニッカの意識は、目の前の抜けたサイレンサーと、まだ言葉にならない改良の構想だけに、静かに絞られていた。
紙切れを片手に持ったまま、ニッカはいつの間にか作業台に突っ伏して眠り込んでいた。目を覚ましたのは、頬に当たる紙の端がくすぐったかったからだった。よだれの跡がついた設計図もどきを慌てて拭い、彼女は気恥ずかしさに小さく咳払いをした。
「……誰も見てないから、いいけど」
言い訳めいた呟きが、静かなガレージに小さく響いた。窓の外はすでに白み始めている。徹夜になってしまったことに今更ながら気づき、ニッカは首を鳴らしながら伸びをした。
白んでいく空の下、廃材置き場の輪郭が少しずつはっきりしてくる。荒野に転がる無数のジャンクの山は、昨日までとなにも変わらない姿でそこに広がっていた。だがその中のどれかに、ちょうどいい太さのパイプと、狙い通りの硬さを持つショックユニットが、きっと眠っている。そう思うと、見慣れたはずの廃品の山が、いつもより少しだけ宝の山めいて見えてくるから不思議だった。
そういえば、と彼女はふと思い出す。次にメインたちが顔を出す時には、この暴れ馬もいくらか大人しくなっているだろうか。あの焚き火の夜、ぶっきらぼうに交わされた「また来る」という約束を思い返すと、悔しさとは違う種類のむず痒さが胸の奥をくすぐった。見せられるものなら、今よりはましな走りを見せてやりたい。誰に頼まれたわけでもない、ちょっとした意地だった。
パン、パン、パンという拍子の記憶が、耳の奥にまだ残っていた。この気まぐれな鉄の相棒を、次はどう手懐けてやろうか。工具を手に取ったニッカの口元に、疲労とは別の色をした小さな笑みが浮かんでいた。
荒野に朝日が差し込み始める中、彼女は改めて工具箱の中身を並べ直した。溶接棒の残量を確かめ、使えそうなパイプの切れ端を選り分け、油で汚れた手袋を新しいものに替える。今日から始まる本格的な作業に備えて、ニッカは袖を大きくまくり上げた。誰かに見せるためではない。それでも今度は少しだけ、次にガレージへ顔を出す誰かの顔を思い浮かべながら、彼女は工具を握り直した。タンクの脇に立てかけられた看板の文字だけが、朝の光をゆっくりと浴びながら、静かに、その一部始終を見守り続けていた。