太陽が完全に顔を出す前に、ニッカは廃品置き場へ向かっていた。
昨夜のうちに描いた設計図もどきを丸めて工具袋に突っ込み、欠伸を噛み殺しながら砂利道を進む。徹夜明けの頭はまだ半分眠っているような感覚だったが、体だけは勝手に先へ進もうとしていた。目当てのものが見つかるまで戻るつもりはない。そう決めて、彼女は積み上がったジャンクの山に足を踏み入れた。
朝の空気はまだひんやりとしていて、廃品の山からは夜露に湿った金属特有の匂いが立ち上っていた。踏みしめるたびに軋む瓦礫の感触に、半月前の後始末を思い出す。あの夜のことを思えば、パイプ探しでつまずく程度の苦労など、取るに足らないものだった。
「……パイプ、ちょうどいい太さの」
呟きながら瓦礫をどけていくと、まず出てきたのは片方だけの形をした排水管だった。続いて錆びついたトースターの残骸、片輪だけが残ったローラースケート、用途の分からない金属の輪っかが次々と積み重なっていく。使えそうなものは、なかなか見当たらなかった。
「……これじゃ、ただのゴミ拾い」
ぼやきつつさらに奥へ進んだところで、足元の瓦礫の隙間から、小さな影が勢いよく飛び出した。
「うわあっ!」
短い悲鳴とともに尻餅をつくと、逃げていく先には、痩せこけた荒野トカゲの尻尾が揺れているだけだった。心臓の音がしばらく収まらないまま、ニッカは自分の情けなさに小さく舌打ちする。
「……トカゲに、驚かされるとか」
呆れ混じりの呟きを漏らしつつ立ち上がり、彼女はズボンについた砂を払った。気を取り直して奥へ進むと、今度は錆びた針金の網が足首に絡みつき、体勢を崩しかけた。慌ててもがくうちに、隣に積まれていた空き瓶の山が崩れ、耳障りな音を立てて転がっていく。
「……もう、静かにしてよ」
八つ当たり気味に呟いて、絡まった針金を丁寧に解いていく。ようやく自由になった足で瓦礫を踏み分けると、崩れた棚の下敷きになっていた古いバイクの排気管がようやく目に入った。表面は錆びているが、直径も肉厚も悪くない。引っ張り出そうと力を込めた拍子に、隣の瓦礫が崩れ、ニッカは再び地面に転がり落ちた。
「うぐっ……今日、厄日?」
痛みに顔をしかめながらも、手の中にはしっかりとパイプが握られている。それだけで十分な収穫だった。埃を払って立ち上がった彼女は、もう一往復して、足回りに使えそうなショックユニットも二本ほど見繕った。フォークリフトの部品らしい太いものと、小型トラックから外れたと思しき細身のもの。硬さの違いを比べるには、ちょうどいい組み合わせだった。
帰り際、彼女はふと目についた古い鍋の蓋にも足を止めた。半月前に頭を守ってくれた鍋の相棒――正確には防具だった――の予備になるかもしれないと思い、拾い上げてみる。裏返すと、内側に小さな凹みがいくつも並んでいた。誰かが調理中に何かをぶつけた跡なのか、それとも別の用途で使われていたのか、想像するだけで少し楽しかった。
「……予備の兜、確保」
冗談めかしてそう呟くと、それも工具袋に押し込んだ。荷物が増えるたびに肩が重くなっていくが、この程度の重みなら苦にはならない。むしろ、使い道の分からない拾い物が増えていくことにこそ、ちょっとした喜びを覚える性分だった。
朝日が完全に昇りきる頃には、工具袋はすっかり重みを増していた。肩に食い込む紐の感触を確かめながら、ニッカは踵を返してガレージへの道を戻り始めた。廃品置き場の匂いが遠ざかるにつれ、頭の中では今日一日の段取りが少しずつ形になっていった。
ガレージへ戻ると、ニッカは作業台の上に戦利品を並べ、満足げに腕を組んだ。
「よし。まずは、こっちから」
パイプを万力に固定して切断用の刃を当てると、昨夜の設計図を横目で確認した。膨らみの位置と、絞り込む角度。頭の中の記憶を頼りに寸法を割り出したつもりだったが、実際に鉄を切り分けていく作業は、想像していたよりずっと骨が折れた。
バーナーで炙った金属を、万力とハンマーで少しずつ膨らませていく。焼けた鉄の匂いが狭いガレージに立ち込め、額から落ちる汗が作業台の上に小さな染みを作った。何度も冷ましては叩き、叩いては炙り直す。単調な繰り返しの中で、彼女の意識は次第に手元だけへ絞られていった。
「……もうちょっと、こう、丸く」
独り言を挟みながら形を整えていたところで、炙りすぎた部分がわずかに歪んだ。慌てて水をかけて冷ますと、じゅっという音とともに白い蒸気が立ち上る。その拍子に、軍手の先端がバーナーの炎に触れ、焦げた匂いがつんと鼻をついた。
「あちっ! ……もう、危ないなあ」
軍手を脱いで指先を確かめると、幸い火傷にまでは至っていない。胸を撫で下ろし、新しい軍手に替えて作業を再開した。
一つ目の膨らみが仕上がったところで、ニッカは満足げに頷いた。設計図に描いた形と見比べても、悪くない出来だと自分では思っていた。だが取り付けて試しに軽くエンジンをかけた瞬間、継ぎ目のあたりから、しゅうっという息漏れのような音が聞こえてくる。
「……あ、これ、駄目な音」
案の定、溶接が甘かった箇所から排気が漏れていた。せっかく仕上げた一つ目を早々に諦め、ニッカはもう一度パイプを切り出すところからやり直すことにした。
二つ目の挑戦では、膨らみの角度をやや強めに取り、絞り込みも計算し直した寸法で仕上げていく。切り出した鉄板を炙る手つきにも、一度目より迷いがなくなっていた。溶接の際は継ぎ目を重ねる幅を増やし、強度を優先する。
作業の途中、炙った鉄片から飛んだ火花が、近くに置きっぱなしだった油染みの布に燃え移った。
「――うわ、火!」
慌てて足で踏み消し、自分の迂闊さに舌打ちする。布はすぐに消し止められたものの、焦げた匂いがしばらく鼻にまとわりついていた。
「……危なかった。次から、ちゃんと片付けよう」
反省の言葉を漏らしつつ、彼女は散らかった作業台の周りを一度整理してから、改めて溶接の続きに取り掛かった。
二つ目のチャンバーを車体に取り付け、ニッカは意気込んでキックペダルに足をかけた。エンジンが目を覚ますと同時に、これまでとは違う低い唸りが漏れ聞こえてくる。
「……お、いい感じ?」
期待に胸を膨らませながらスロットルを軽くひねった瞬間、拍子は整うどころか、獣の唸り声のような重い異音に変わった。ぶおおん、と喉の奥から絞り出すような音が響いた。次の瞬間、溶接した継ぎ目の一箇所がぱっくりと割れる。
「わあっ!」
裂けた隙間から白い煙が噴き出し、辺りに焦げた金属の匂いが広がる。慌ててエンジンを止め、ニッカはしばらくその場に立ち尽くした。
「……溶接、また甘かったか」
肩を落としながら継ぎ目を確かめると、案の定、力を込めて叩いた部分の厚みが均一ではなかった。膨らませすぎた箇所に圧力が集中し、耐えきれずに裂けてしまったらしい。二度続けての失敗に、さすがのニッカも作業台へ突っ伏したくなる衝動を堪えた。汗ばんだ額を袖で拭い、彼女は一度大きく息を吐いた。腕の疲労はとうに限界に近づいていたが、ここで投げ出せば、今日という一日がただの徒労で終わってしまう。その事実だけが、鈍り始めた指先をもう一度動かす理由になった。
「……三度目の正直、信じるしかない」
自分を鼓舞するように呟き、彼女は錆びた鉄くずの山から新しいパイプを選び直した。
新しいパイプに手をかける前に、ニッカはしばらく腕を組んで考え込んだ。二度の失敗は、現れ方こそ違えど、根は同じだった。溶接も、金属を叩く加減も、どこかで焦りが先に立っていた。膨らみを急に作ろうとするあまり、叩く力が一箇所に集中し、そこだけ薄く伸びてしまう。反射波を生み出す膨らみの形そのものは間違っていないはずだった。問題は、その形に至るまでの過程にある。前世の記憶が教えてくれるのは完成形の理屈だけで、そこへたどり着く手順までは教えてくれない。当たり前のことに今更気づき、ニッカは自分の詰めの甘さに小さく苦笑した。
「……レシピは分かっても、手順書までは、ついてこないんだよね」
誰へともなく漏らした呟きに、答える者はいない。それでも言葉にしたことで、次にやるべきことの輪郭が少しはっきりした気がした。叩く力を分散させ、一箇所に負担を集中させないこと。焦らず、少しずつ膨らみを育てていくこと。単純ではあるが、これまでの二度の失敗が身をもって教えてくれた教訓だった。
三度目の作業では、膨らみの角度をさらに緩め、絞り込みも急にしすぎないよう寸法を引き直した。厚みが均一になるよう、叩く回数と力加減を一定に保つことにも気を配る。溶接の継ぎ目は、これまでで一番丁寧に重ね、冷ましながら何度も指先で強度を確かめた。
仕上げの前に、ニッカは念のため水を張った古い盥にチャンバーを沈め、内部に空気を送り込んでみることにした。継ぎ目に亀裂が残っていれば、水面に小さな泡が立つはずだった。息を詰めて見守っていると、水面はしばらく静かなままだった。
「……よし、漏れてない」
安堵の呟きが漏れた瞬間、盥の縁に置いていた工具が滑り落ち、水しぶきがニッカの顔に跳ねた。
「つめたっ!」
驚いて後ずさった拍子に足を滑らせ、彼女は尻から地面に座り込んでしまう。濡れた顔を拭ったものの、しばらく天井を見上げたまま動けなかった。
「……検査は成功、姿勢は失敗」
自分でも笑ってしまうくらい間の抜けた総括を残し、彼女は濡れた作業着のまま立ち上がった。
仕上がった三つ目のチャンバーを陽にかざすと、しばらくその形に見入った。膨らみと絞りの曲線が、頭の中に描いていた像にようやく近づいている気がした。
「……今度こそ」
車体に取り付け、恐る恐るエンジンをかける。継ぎ目が裂けることもなく、低い音が滑らかに続いた。
期待を込めてスロットルを開けると、拍子の谷はいくらか浅くなっている。だが、ある回転域を超えた瞬間だけ、わずかに息継ぎをするような引っかかりが残った。完璧とは言い難いが、一度目や二度目とは比べ物にならない進歩だった。
「……悪くない。あとちょっと」
満足と物足りなさの入り混じった呟きを残し、ニッカはエンジンを止めた。耳をそばだてて周囲の気配を確かめる癖は、もうすっかり体に染みついている。荒野の静けさの中で、この程度の音がどこまで届くのか、彼女は改めて考え込んだ。
電子信号を一切発しないこの車体は、追跡装置には引っかからない。だが騒々しいエンジン音そのものは、隠しようがない弱点でもあった。ミリテクの重装部隊を退けたばかりのこの荒野で、無駄な物音を立てて余計な目を引き寄せるわけにはいかない。チャンバーの改良は、出力を整えるだけでなく、この音を多少なりとも御しやすくする意味も持っていた。
「……静かにする方法まで、いっぺんには無理か」
独り言を挟んだ後、排気音の余韻に耳を澄ませつつ、頭の中に新しい課題を一つ書き加えた。今日のところは、出力の谷を埋めることだけで手一杯だった。
音の確認をもう少し詰めてみようと思い立ち、ニッカは廃材置き場から拾ってきた古いスプーンと、ひしゃげたボウルを取り出した。前世のうろ覚えの知識では、金属を叩いた音の高さで、内部の反射がどう起きているかをある程度推測できたはずだった。スプーンでチャンバーの表面を軽く叩き、耳を澄ませる。
「……こういう時、ちゃんとした測定器があればなあ」
ぼやきながらも、彼女は音の高さと響き方を頼りに、絞り込みの位置をわずかに調整することにした。数値の裏付けはない、感覚だけの微調整だった。けれど、こういう泥臭さこそが今のガレージにできる精一杯の技術だと自分に言い聞かせた。
叩く手つきに熱が入りすぎた拍子に、スプーンの柄がぽっきりと折れる。飛んだ破片が、庭先に設置してあった警戒センサーの端末に軽く当たった。
けたたましいアラーム音が、静かなガレージに突然鳴り響いた。
「ちょっ……、また!?」
心臓が縮み上がる思いで振り返ると、探照灯が一斉に点灯し、廃品で組んだ迎撃タレットの銃口が旋回を始めている。半月前、空き缶の破裂音で同じ騒ぎを起こしたばかりの記憶が、嫌でも脳裏をよぎった。
「敵じゃない、これ私! 私だから!」
制御盤に駆け寄り、震える指先で緊急停止のスイッチを叩き込む。ようやく静寂が戻ったガレージの中で、ニッカはしばらくへたり込んだまま、乱れた息を整えていた。
「……自分の作った警戒網に、二度も泣かされるとは思わなかった」
掠れた声で呟きながら、彼女は折れたスプーンの柄を拾い上げ、工具袋の隅にそっとしまった。今度こそ、これ以上の脱線はやめようと心に決める。
昼が近づく頃、ニッカは作業を一旦中断し、棚の奥から合成食材の栄養バーを引っ張り出した。座り込んだまま袋を破ろうとしたが、油で滑る指先がうまく力を入れられず、何度も空振りする。
「……こんな簡単なことすら、うまくいかない日ってあるんだ」
自嘲めじりに呟きながら、ようやく袋を開けたニッカは、味も素っ気もない栄養バーを黙々と口に運んだ。合成タンパク由来の味気なさには慣れきっていたが、水筒を届けに来る少女の母親が焼く手作りパンの記憶が、ふと頭をよぎる。あの香ばしさを思い出すたび、目の前の栄養バーがいっそう味気なく感じられた。
「……今度、また持ってきてくれるかな」
その呟きに応える者は、誰もいなかった。壁にもたれたまま少しだけ目を閉じると、疲労が一気に押し寄せ、ニッカはそのまま浅い眠りに落ちた。夢の中で、彼女は前世のゲーム画面を思い出していた。パーツを組み合わせるたび、画面の隅に「合成成功」の文字が涼しい顔で表示され、耐久値のゲージが気持ちよく満タンになっていく。
「……いいなあ、あの頃は」
夢の中で呟いた声が、そのまま現実の呟きになって漏れていたらしい。何かが頬を撫でる感触に驚いて目を覚ますと、風で舞い上がった埃が顔にかかっていただけだった。
「……脅かさないでよ、まったく」
胸を撫で下ろしながら体を起こし、ニッカは首を軽く振って眠気を追い払った。頬に張り付いた埃を払い落としながら、彼女はしばらくぼんやりと天井の染みを見つめていた。ゲージも成功判定もない現実の作業は、結局のところ自分の手と目、何度でも繰り返す根気だけが頼りだった。理不尽だとは思いつつも、それが今のニッカにとっては当たり前の景色になっている。
夢の余韻に浸っていたのも束の間、彼女はふと日課を思い出した。井戸の水位計を確認しに行く時間が、いつの間にか近づいている。今日ばかりはバイクを使わず、久しぶりに徒歩で向かうことにした。分解したままの車体を放置していく後ろめたさに、彼女は小さく肩をすくめる。
「……ちょっとだけ、待ってて」
留守番をさせられる相棒に声をかけるような口調で呟き、ニッカは工具袋を担ぎ直した。徒歩での道のりは、思っていたよりずっと長く感じられた。バイクという足の速さに、いつの間にかすっかり慣れてしまっていたらしい。水位計の確認を終えて戻る頃には、太陽はすでに真上を過ぎていた。
午後になり、ニッカは足回りの作業に取り掛かった。廃品置き場から拾ってきた二本のショックユニットを作業台に並べ、それぞれを分解していく。フォークリフト由来の太いバネは、指で押しても微動だにしないほど硬かった。反対に、小型トラックのものは拍子抜けするほど柔らかい。
「……どっちも極端すぎ」
ぼやきながら、彼女はまず柔らかい方のバネを組み込んでみることにした。荒地の凹凸を吸収するには、ある程度の柔らかさが要る。だが柔らかすぎれば、今度は着地のたびに車体が跳ね返り続けてしまう。ちょうどいい塩梅を探るには、実際に組んで試すしかなかった。
仮組みした車体に跨り、軽く体重をかけただけで、車体は面白いくらい大きく沈み込んだ。試しに数回弾ませてみると、まるでトランポリンにでも乗っているかのように、いつまでも上下に揺れ続ける。揺れが収まらないまま胃の中身まで浮き上がるような感覚に襲われ、ニッカは慌てて足をついて車体を止めた。
「……これは、これで駄目だ」
真顔でそう呟くと、バネを外して今度は太い方に戻した。締め付けを緩め、有効巻数を減らすことで、多少は硬さを調整できるはずだった。バネを切り詰める作業は根気のいるものだったが、前世の記憶が寸法の見当をつける助けになった。
減衰の調整には、ダンパー内部のオイルの粘度を変える必要がある。手元にちょうどいい専用オイルなどあるはずもなく、ニッカは棚を漁って代用品を探した。目についた食用油の瓶を一瞬手に取りかけたところで、さすがに思いとどまる。
「……いや、さすがにそれは、駄目でしょ」
苦笑しながら瓶を戻し、代わりに見つけたのは古いパワーステアリング用のフルードだった。粘度も色も、記憶にある専用オイルに近い。これなら使えるはずだと判断し、彼女はダンパーの内部に慎重に注ぎ込んでいく。
蓋を閉め直そうとした瞬間、手元が滑ってボトルが傾いた。とろりとしたフルードが勢いよく噴き出し、ニッカの顔と作業着に飛び散る。
「うわっ、ちょ……!」
咄嗟に目を閉じたおかげで実害こそなかったものの、頬から顎にかけて茶色い筋が幾筋も垂れていた。慌てて布で拭ったが、拭いきれない部分がまだらに残ってしまう。作業台に立てかけてあった割れた鏡の破片に、ふと自分の顔が映り込んだ。
「……アライグマみたい」
間の抜けた感想が、思わず口をついて出た。しばらくその顔を眺めていたニッカは、やがて諦めたように小さく噴き出した。誰に見られているわけでもないのに、無性におかしくて仕方がなかった。
レベッカあたりに見られていたら、間違いなく腹を抱えて笑われていただろう。そんな想像をしただけで、恥ずかしさよりも先に、ふっと肩の力が抜けていく感触があった。誰も見ていない一人だけの失敗は、案外悪いものではないのかもしれない。そう思い直し、布で顔をもう一度拭った。
汚れを拭い終えると、ニッカは改めてダンパーを組み上げ、車体に取り付け直した。フォークの内部にも同じ要領でオイルを足し、量を少しずつ調整しながら、跳ね返りの強さを探っていく。
作業がひと段落したところで、彼女は庭先に組んだ簡易コース――装甲車の残骸から切り出した鉄板を並べただけの、粗末な段差の連続だった――にバイクを走らせてみることにした。頭には、以前の試走で被った鍋の防具を、律儀に紐で結び直してから被る。
「……この格好、いつまで続けるんだろう」
自嘲めじりに呟きながらも、走る先が荒地である以上、笑われるより頭を守る方が優先だった。
エンジンをかけ、ゆっくりと段差に近づく。前輪が乗り上げた瞬間、車体はこれまでのように跳ね上がることなく、代わりにゆったりと沈み込みながら衝撃を受け流した。
「……お、おお?」
期待に頬が緩みかけたところで、後輪が同じ段差を越えた拍子に、今度は逆に沈み込みすぎて車体の底が地面を擦った。ごり、という嫌な音とともに、火花が散る。
「痛たた……ッ、底、擦った!」
慌てて速度を緩め、ニッカは車体を止めて底部を確認した。目立った損傷はないものの、擦れた跡がくっきりと残っている。柔らかくしすぎた反動が、今度は別の形で顔を出したらしい。
「……足したり引いたり、忙しい」
肩をすくめながら、彼女は再び工具箱を開いた。今度はほんの少しだけバネを硬めに戻し、車高をわずかに持ち上げる方向で調整し直す。細かな数値の綱引きは、一度で正解にたどり着けるようなものではないと、彼女自身がよく分かっていた。
微調整を終えて跨り直したところで、今度はサドルの高さが変わったことに気づかず、ニッカは片足を地面に届かせようとして体勢を崩しかけた。とっさにハンドルを掴んで持ちこたえたものの、心臓には十分すぎる負荷がかかっていた。
「……こういう地味な変化が、一番危ない」
苦笑しながらサドルの位置を確かめ直し、彼女は改めて足つきの感触を確認してから、ようやくエンジンをかけ直した。小さな油断が積み重なった先に大怪我が待っていることを、彼女はこの半月で嫌というほど学んでいた。
調整を終えて再び段差に挑むと、今度は底を擦ることもなく、沈み込みも大人しく収まった。安堵の息を吐きかけたところで、フロントフォークの継ぎ目からわずかにフルードが滲み出ていることに気づく。
「……あ。締め付け、甘かったか」
工具を取り、締め直す。単純な見落としではあったが、こういう細部の詰めこそが荒地を走り抜けるための足回りには欠かせない。ニッカは改めてそれを実感していた。
日が傾きかけた頃、三度目の試走に出たニッカは、ようやく満足のいく感触を得ることができた。段差を越えるたびに車体は程よく沈み込み、行き過ぎることなく姿勢を戻す。エンジンの拍子も、朝の頃と比べれば見違えるほど滑らかになっていた。
「……いい。今度こそ、いい」
弾んだ声でそう呟き、コースをもう一周する。完璧にはまだ遠いかもしれない。けれど、確かな手応えがハンドル越しに伝わってきていた。頭に被った鍋の防具の中で、彼女は柄にもなく小さく笑っていた。
風を切る感触が、朝の頃とは違う滑らかさを帯びている。段差を越えるたびに聞こえていた耳障りな金属音も、今はほとんど鳴りを潜めていた。代わりに響くのは、拍子の整った低い排気音だけだった。その変化を確かめるたび、疲労で重くなっていた体の奥に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
満足げにガレージへ戻ると、彼女はエンジンを止め、作業台の縁に腰を下ろした。鍋を脱いで全身を見下ろすと、油と埃、正体不明のフルードの染みで汚れきっている。折れたスプーンの柄も、焦げた軍手も、今日一日の失敗の数だけ工具袋の底に増えていた。それでも不快感より先に、疲れきった満足感が体の芯を満たしていた。
「……今日は、これくらいにしとこう」
誰へともなく呟くと、工具を一つずつ片付け始めた。窓の外では、荒野の稜線が夕焼けに赤く染まりつつある。タンクの脇に立てかけられたままの少女の書いた歪んだ看板も、橙色の光を浴びて、いつもより少しだけ誇らしげに見えた。
工具箱の蓋を閉じる前に、ニッカはふと手を止め、棚の奥に横たわるバートの古いレンチへ目をやった。壊れた場所を叱っても直りはしない、まず痛んでいる場所を見つけてやれ。かつての口癖が、疲れた頭の中でふと蘇る。今日一日、彼女がやってきたことは、突き詰めればその繰り返しに過ぎなかった。何度失敗しても、痛んでいる場所さえ見つければ、必ずどこかに直し方がある。子供の頃は半分も理解できなかったその一言が、油と埃にまみれた今になって、ようやく体の実感として馴染んでいる気がした。
「……今日だけで、何回失敗したっけ」
数える気にもなれず、ニッカは小さく笑って車体にそっと触れた。焚き火を囲んで交わされた「また来る」という素っ気ない約束が、ふと頭の隅に浮かぶ。次にメインとファルコが顔を出す時までに、この暴れ馬もいくらかは大人しくなっているだろうか。見せられるものなら、今よりましな走りを見せてやりたい。誰に頼まれたわけでもない、ちょっとした意地だった。生き延びるためではなく、ただ格好よく見せたいという動機に突き動かされるのは、これまでの自分にはなかった感覚だった。それでも今は、悪くない気分だと素直に思えた。
「……次会う時までに、もうちょっと、格好つけさせてよね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からないまま、その呟きは静かなガレージに溶けて消えた。
工具袋の中で、折れたスプーンの柄が小さく音を立てた。片付けの手を止め、ニッカは最後にもう一度だけ車体を振り返った。三本の排気管が、夕闇の中でぼんやりと鈍い光を放っている。舗装路の上でしか本領を発揮できなかった相棒が、今日という一日を経て、少しだけ荒野に馴染む顔を覚えた気がした。
「……明日も、続きね」
小さく息を吐きながら呟き、ニッカはようやく工具箱の蓋を閉じた。ガレージの明かりを落とし、扉に手をかける。窓の外の夕焼けは、いつの間にか濃い橙から静かな紫へと色を変えつつあった。崩れたフェンスの向こうに広がる荒野は、今日も変わらず乾いた静けさに沈んでいく。ミリテクの脅威も、まだ見ぬアラサカの影も、この瞬間だけは遠い話に思えた。焼け焦げた鉄の匂いと、油とフルードの染みついた作業着の重みだけが、今のニッカを現実につなぎ止めていた。