看板を撤去しないまま、また数日が過ぎていた。
「三本さん」という呼び名は、ニッカの意志とは無関係に、いつの間にか中央キャンプの隅々にまで広がっているらしかった。水筒を届けに来た少女は、相変わらず得意げにその名を連呼していく。今朝も母親に手を引かれながらガレージを覗き込み、開口一番でこう言った。
「三本さん、今日も元気?」
「……元気」
短く答えるニッカの声には、諦めに近い響きが滲んでいた。認めたつもりはない。それでも訂正する気力は、もうとうに尽きていた。
「昨日ね、見張りのお兄ちゃんが新しい名前考えてたよ。爆音丸だって」
「……増やさないで、そういうの」
「あと、水牛のおばさんは轟音ちゃんがいいって」
次から次へと披露される候補に、ニッカはこめかみを押さえた。誰も本人に確認を取らないまま、勝手に名前だけが増殖していく状況に、抗う気力はもうほとんど残っていなかった。荷物を届けに来ていた老女までもが、通りすがりに一言添えていく。
「なんでもいいさ、あんたが可愛がってる証だよ」
からかうでも慰めるでもない、飄々とした一言を残して老女は去っていった。少女は満足げに頷くと、母親に急かされながら小走りに去っていった。その背中を見送りながら、ニッカは工具箱の蓋に軽く肘をついた。
チャンバーの隔壁は、ようやく満足のいく絞り具合に落ち着いていた。試走のたびに響いていた不規則な破裂音も、今では滅多に顔を出さない。足回りの微調整だけが、まだ細々と続く日課として残されている。ガレージの奥に置かれた工具箱を開けるたび、ニッカはその静かな達成感を、誰に見せるでもなく一人で噛みしめていた。
その平穏を破ったのは、けたたましいエンジン音だった。
「ニッカーッ! いるかーッ!」
遠くから響いてきた叫び声に、ニッカは工具を持つ手を止めた。声の主に心当たりがないわけではなかった。むしろ心当たりがありすぎて、思わず溜め息が漏れる。
「……嫌な予感しかしない」
呟いた直後、フェンスの継ぎ目を蹴破らんばかりの勢いで、小柄な人影が飛び込んできた。改造の跡が生々しいバギーを庭先に乗り捨て、レベッカがガレージの奥まで一直線に駆け込んでくる。少し遅れて、デイビッドが自分のバイクを手前で止め、様子を窺うような足取りでついてきた。
「聞いたぜ、聞いたぜニッカ! メインから!」
「……何を」
「決まってんだろ、あんたの秘密の相棒だよ! 三本並んだ排気管の、あのイカしたバイク!」
興奮を隠しきれない様子で、レベッカは車体の周りを二周ほど回り込んだ。埃をかぶった工具や分解途中の部品には目もくれず、彼女の視線はひたすら三本の排気管に釘付けになっている。
「マジで実物、見るの初めてだわ! なにこれ、めちゃくちゃカッコいいじゃん!」
「……ありがとう。それで、用件は」
「決まってんだろ! あたしも乗せろ!」
即答する声には、迷いのかけらもなかった。慌てて割って入ったのは、少し離れた場所で成り行きを見守っていたデイビッドだった。
「おい、いきなり押しかけて、そんな要求すんなよ」
「うるせえ、デイビッドは黙ってろ」
「黙ってろって言われても……」
苦い顔で言葉を濁すデイビッドを、レベッカは軽くあしらった。仲裁になりきれていない彼の姿に、ニッカは片手で額を押さえ、二度目の溜め息をついた。
「……無理」
短く告げた答えに、レベッカは目を丸くした。
「はあ? なんでだよ!」
「二人乗り、想定してないフレームだから」
「メインが乗った時は、跨っただけで済んだんだろ? あたしなら、もっと軽いし」
「軽さの問題じゃない。荷重の分散が、そもそも違う」
「難しい話、あたしにされても分かんねえよ!」
食い下がるレベッカの勢いに、ニッカは一歩後ろへ下がった。だがこの手の押しの強さには、これまでも幾度となく苦しめられてきた記憶がある。安易に押し切られるわけにはいかなかった。
「フレームが歪んだら、直すのは私。それに、事故ったら怪我するのはあんた」
「怪我なんてしねえよ、これでも反射神経には自信あんだぜ!」
「自信と、フレームの強度は関係ない」
冷静な指摘に、レベッカは一瞬言葉に詰まった。だが諦める気配は微塵も見せず、彼女は腕を組んでニッカを睨みつけた。
「……ふうん。じゃあ、あの話、みんなに広めちまうかもな」
不穏な前置きに、ニッカは眉をひそめた。
「あの話って」
「オイル被って、アライグマみたいな顔になった話。中央キャンプの水筒嬢ちゃんから、しっかり聞いてんだよ」
思いがけない切り札に、ニッカは一瞬言葉を失った。誰にも見られていないはずの失態が、いつの間にか噂の種として流通していたという事実に、羞恥よりも先に脱力感が押し寄せてくる。
「……卑怯」
「卑怯上等だ。この際、多少は融通利かせてくれてもいいだろ」
得意げに笑うレベッカの顔を、ニッカはしばらく無言で見つめた。交渉の材料として使われるには、あまりに間の抜けた失敗だった。それでも、蒸し返される恥ずかしさは、想像するだけで十分に堪えた。押し切られる形にはなるものの、条件次第でなら検討の余地はある。そう自分に言い聞かせながら、ニッカは小さく息を吐いた。
「……じゃあさ、条件つきならどうだ」
「条件」
「あたし一人で乗る。二人乗りじゃない。それなら文句ねえだろ」
思いがけない妥協案に、ニッカはしばし黙り込んだ。単独であれば、荷重の想定からは大きく外れない。だが乗り手の技量を考えると、それはそれで別の不安が残る。
「……メインの時みたいに、跨るだけなら」
「いや、走る」
「走らない」
「走る」
「……走らない」
平行線を辿るやり取りに、ニッカは早くも疲労を感じ始めていた。見かねたデイビッドが、恐る恐る口を挟む。
「なあレベッカ、ニッカが駄目だって言ってるなら、今日は諦めろよ」
「デイビッドはさっきから黙ってろって言ってんだろ!」
一喝され、デイビッドは肩をすくめて口をつぐんだ。仲裁役としての立場は、開始早々に崩壊していた。
押し問答の末、折れたのはニッカの方だった。フェンスの外周をゆっくり一周するだけ、速度は徒歩並みに抑える、という条件でどうにか合意にこぎつける。レベッカは不服そうな顔をしながらも、渋々その条件を飲んだ。
内心では、まだ迷いが残っていた。レベッカの操縦技術を疑っているわけではない。ただ、この一台が誰かの手に渡った瞬間、彼女自身の知らない癖や反応を見せることがある。それをニッカは、半月の付き合いで嫌というほど思い知らされていた。だが、これ以上渋り続ければ、話がどこまでも長引くことも分かりきっている。腹をくくるしかなかった。
「……つまんねえ条件」
「事故られるより、よっぽどマシ」
鍋の防具を差し出すと、レベッカは怪訝な顔で受け取った。
「……何だよ、これ」
「頭を守る道具」
「鍋じゃねえか」
「鍋」
短いやり取りに、レベッカは呆れたように鼻を鳴らした。けれど大人しく紐を結び、金属板を頭に乗せる。滑稽な出で立ちにもかかわらず、彼女の目にはまだ隠しきれない期待が輝いていた。傍らでデイビッドが「似合ってるとは言わねえけど」と呟き、すかさず睨まれて気まずそうに黙り込んだ。
エンジンをかけると、丸みを帯びた低い唸りが庭先に広がった。レベッカは跨るなり歓声を上げかけたが、ニッカの鋭い視線を受けて慌てて口をつぐんだ。
「……分かってるよ、静かにすりゃいいんだろ」
「フェンス沿いを、ゆっくり」
念を押すニッカの声に、レベッカは大げさに頷いてみせた。だがスロットルを握った瞬間、彼女の指先は約束をあっさり裏切った。
唸りが一段跳ね上がる。前輪がわずかに浮き、車体が予想外の勢いで前へ飛び出した。
「うおおおおっ!?」
歓喜と悲鳴の中間のような声を上げながら、レベッカはフェンス沿いの直線を猛然と駆け抜けていく。徒歩並みという約束は、最初の三メートルで跡形もなく消え去っていた。
「ちょっ、速度! 約束したよね!?」
叫びながら追いかけるニッカの声は、エンジンの唸りにかき消されて届かない。フェンスの角を曲がりきれず、車体は大きく外側へ膨らんだ。積み上げられていた廃材の山に、あわや突っ込むかという寸前で、レベッカは強引にハンドルを切り直した。
「うわ、うわ、うわ!」
情けない悲鳴とともに、車体は大きく蛇行しながらも、どうにか転倒だけは免れる。思わず両手で顔を覆ったのは、庭の隅で成り行きを見ていたデイビッドだった。
「頼むから、そのまま止まってくれ……!」
祈るような呟きも虚しく、車体は次の角でも速度を落としきれなかった。タンクの脇に立てかけられていたはずの、あの歪んだ看板を巻き込みそうになりながら、レベッカはぎりぎりのところで進路を逸らす。看板は勢いに煽られて宙を舞い、砂地に突き刺さるようにして着地した。
最後の直線を抜け、ようやく庭の中央で速度を落としきった時には、レベッカの息はすっかり上がっていた。
「……生きてる?」
駆け寄ったニッカの問いに、レベッカは鍋の紐を緩めながら親指を立てた。
「最高だったぜ、今の!」
悪びれる様子もない返事に、ニッカは深々と息を吐いた。地面に突き刺さった看板を引き抜き、砂を払い落としながら、彼女は半眼でレベッカを見据えた。
「約束、守る気なかったでしょ」
「守ろうとは、したんだよ。手が勝手に動いただけで」
「それを、守れてないって言う」
呆れ混じりの指摘にも、レベッカはけろりとした顔で笑うだけだった。恐怖より高揚が勝った表情には、これまでの銃撃戦で見せてきたのと同じ、屈託のない好戦的な輝きが宿っている。少し遅れて追いついたデイビッドが、へたり込むようにしゃがみ込んだ。
「……心臓、止まるかと思った」
「大げさだな、デイビッドは」
「大げさじゃねえよ、あの看板に突っ込んでたら、洒落になんねえだろ」
「なあ、これ、あたしにも一台作ってくれよ」
唐突な要求に、ニッカは片眉を上げた。
「フレームから作り直しになる」
「上等じゃん。派手なやつ、頼むぜ」
「派手」
「炎の絵とか、髑髏のステッカーとか。あと、でかいマフラーで爆音出るやつ」
具体的すぎる要望に、ニッカは無言でこめかみを押さえた。彼女の中で積み上げてきた「格好良さ」の基準とは、明らかに方向性が違っていた。
「……却下」
「なんでだよ!」
「趣味じゃない」
「あたしの趣味に合わせろよ!」
「作るの、私」
きっぱりとした一言に、レベッカは不服そうに唇を尖らせたが、それ以上は言い返せなかった。横で聞いていたデイビッドが、小さく噴き出す。
「レベッカの見立てで作られたら、それはそれで見てみたい気もするけどな」
「お前は黙ってろって、さっきから言ってるだろうが!」
矛先を向けられたデイビッドは、慌てて両手を上げて降参の仕草を見せた。
却下を素直に飲み込めなかったのか、レベッカはしばらく車体の周りをうろついていたが、やがて何を思ったのか腰の銃に手をかけた。
「じゃあせめて、記念に一発ぶっ放させろよ」
「……何の記念」
「あんたのイカした相棒とご対面した記念だよ! 空に向かってドカンと一発!」
止める間もなく、レベッカは銃口を空へ向けて引き金を引いた。乾いた銃声が荒野に響き渡ると同時に、庭の隅で息を潜めていた探照灯が一斉に唸りを上げて点灯する。
「ちょ……、待って!」
弾かれたように駆け出したニッカの声は、警報の甲高い音にかき消されていた。廃品のタレットが旋回を始め、まだ調整の途中だった照準ロジックが、律儀に銃声の発生源を捉えようとする。
「敵じゃない、これ味方! 味方だから!」
制御盤に飛びついたニッカが、震える指先で緊急停止のスイッチを何度も叩き込む。ようやく静寂が戻った庭先で、彼女はしばらくその場から動けずにいた。
「……あんたの、その気の抜けた警戒網に、また泣かされるとは思わなかった」
掠れた声で呟くニッカの背後で、レベッカが気まずそうに口笛を吹いていた。
「……悪い。テンション上がって、忘れてた」
「今度、無許可の発砲禁止って、看板に書く」
「看板増やすのかよ」
「増やす。あんたの分だけ」
半眼で睨むニッカに、レベッカは肩をすくめながらも、それ以上の反論はしなかった。ようやく緊張から解放されたのか、少し離れた場所にいたデイビッドが大きく息を吐き出した。顔の強張りが、少しずつ緩んでいく。
「……頼むから、今日はこれ以上、心臓に悪いこと増やさないでくれ」
「デイビッドは、いちいち反応大げさなんだよ」
「大げさじゃねえよ、タレットに狙われかけたんだぞ、俺たち」
言い合いを始めた二人を横目に、ニッカは工具箱の蓋を一度きつく閉じ直した。今日という日の後始末が、まだしばらく続きそうな予感がしていた。
一息ついたところで、レベッカはふと思い出したように荷物袋を漁り始めた。取り出したのは、古びた金属製の飾り物だった。歯車を組み合わせて作られた、不格好な小さなオブジェで、鎖に通してぶら下げられるようになっている。
「土産、持ってきたんだよ。廃品置き場で拾った」
「……何、これ」
「知らねえ。でも、目についたから拾った。あんたのバイクに、ぶら下げとけよ」
差し出された飾り物に、ニッカの視線がしばらく黙ったまま注がれていた。歯車の噛み合わせがわずかにずれた、素朴で不器用な作りだった。装飾としての美しさは正直なところ皆無に近い。
それでも、断る気にはなぜかなれなかった。
飾りを受け取ったついでとばかりに、レベッカは作業台に転がっていた工具へ勝手に手を伸ばした。
「暇だし、あたしも何か手伝ってやるよ」
「……いい。触らなくて」
「遠慮すんなって。ほら、これ締めりゃいいんだろ?」
止める間もなく、レベッカはフロントフォークの調整ネジへレンチをかけ、力任せに回し始めた。渋みを確かめながら少しずつ詰めていくはずの微調整が、彼女の手にかかると単なる力比べに変わってしまう。
「……あ、待っ」
制止の声より早く、レンチの先が滑った。勢い余った拳が作業台の縁を打ち、積み上げられていた小箱がまとめて崩れ落ちる。ボルトやナットが四方に散らばり、乾いた音を立てて床を跳ねていった。
「……うわ、ごめん!」
さすがに気まずそうな声を上げ、レベッカはしゃがみ込んで部品を掻き集め始めた。だが分類の区別などつくはずもなく、彼女の手の中では大小のボルトが無秩序に混ざり合っていく。
「……サイズ、ばらばらにしないで」
「分かんねえよ、見た目どれも同じじゃん!」
「同じじゃない。よく見て」
半眼で見下ろすニッカの視線に、レベッカは肩をすくめて集めた部品をそのまま差し出した。仕分け直す作業が一つ増えたことを思うと、素直に礼を言う気にはなれなかったが、彼女なりに悪びれている様子だけは伝わってきた。
「……次から、勝手に触らないで」
「分かった分かった、大人しく見てるだけにするよ」
殊勝な返事とは裏腹に、レベッカの視線はすでに別の工具へと移りかけていた。ニッカはその手が再び伸びる前に、工具箱ごと自分の傍らへ引き寄せた。
「……派手なステッカーよりは、まし」
「褒めてんのか、けなしてんのか、はっきりしろよ」
「褒めてる。多分」
曖昧な返事に、レベッカは満足げに笑った。ニッカは飾り物をタンクの脇にそっと結びつける。無骨な鉄馬に、不釣り合いなほど不格好な飾りがぶら下がる様は、それでも不思議と嫌ではなかった。
飾り物の取り付けを見届けたところで、遠くから別の足音が近づいてきた。水筒を届けに来ていたはずの少女が、母親の手を振りほどくようにして駆け戻ってくる。
「あ! レベッカお姉ちゃんだ!」
「おう、久しぶりだな、嬢ちゃん」
親しげに手を上げるレベッカに、少女は目を輝かせながら詰め寄った。
「三本さんに、レベッカお姉ちゃんも乗ったの?」
「乗った乗った。最高だったぜ」
「いいなあ! あたしも乗りたい!」
無邪気な訴えに、ニッカは即座に首を振った。
「駄目」
「なんでーッ」
「サドル、届かない。あと、子供は駄目」
にべもない拒絶に、少女は頬を膨らませた。追いついてきた母親が、苦笑しながらその肩に手を置く。
「ほら、我儘言わないの。ニッカさんが駄目って言うなら、駄目なのよ」
「むー」
不服そうに唸る少女に、レベッカが横からしゃがみ込んで耳打ちした。
「その代わり、名前の候補、あたしからも一個追加していいか」
「候補?」
「三本さんの、別名。あんた、パンパン君って呼んでたんだろ」
「うん! でも、ニッカ姉が怒るからやめた!」
「じゃあ、これはどうだ。ガチャ子」
「ガチャ子?」
「歯車がガチャガチャ言うから、ガチャ子」
即興で捻り出された案に、少女は目を丸くしてから、盛大に噴き出した。
「ガチャ子! いいね、それ!」
「……勝手に、増やさないで」
割って入ったニッカの声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。だが二人はすでに盛り上がってしまっており、もはや止める術はなさそうだった。
「……ま、次来る時は、ちゃんと乗せろよ。二人乗り、諦めてねえからな」
立ち去り際、レベッカはバギーに跨りながら振り返った。
「フレーム、まだ直ってない」
「早く直せよ」
「頼まれても、優先順位、低い」
「なんでだよ!」
「今、これで手一杯だから」
素っ気ない返事に、レベッカは唇を尖らせたものの、それ以上食い下がりはしなかった。デイビッドは荷物をまとめ終えると、疲れた様子で自分のバイクへ歩み寄った。
「今日、ずっとこんな調子だったな」
「レベッカが来ると、いつもこうでしょ」
「……否定できねえのが、辛いところだ」
肩をすくめるデイビッドに、ニッカは小さく笑った。レベッカがエンジンをかけると、バギーは土煙を上げながらフェンスの向こうへ走り去っていく。デイビッドもそれを追うようにして、静かに手を上げてから走り出した。
土煙が完全に収まる前、入れ替わるようにして別の足音がフェンスの向こうから近づいてきた。荷運びの途中らしく、肩に麻袋を担いだメインが、怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでくる。
「……今、レベッカのバギーとすれ違ったが」
「来てました」
「嵐でも通ったのかと思ったぞ」
短い感想に、ニッカは無言で足元を示した。散らばったボルトの一部が、まだ拾いきれずに転がっている。地面に突き刺さったままの看板も、砂を払いきれていない。
「……大体、想像つく」
得心したように呟いたメインは、それ以上詳しくは聞かなかった。代わりに、タンクの脇へ視線を移し、そこにぶら下がった不格好な飾り物に気づく。
「新しい部品か、それ」
「土産だそうです。歯車の」
「趣味悪いな、相変わらず」
「多分、褒めてます」
素っ気ない答えに、メインは片眉を上げてから、小さく喉の奥で笑った。
「レベッカにも見せてやれって言ったのは俺だが、まさかここまで賑やかになるとはな」
「次から、言う前に一言、忠告してください」
「善処する」
軽く返した声には、まるで反省の色がなかった。荷物を担ぎ直したメインは、それ以上長居する様子もなく、麻袋を揺すり上げながら踵を返した。
「……次、俺が来た時は、静かな日に当たりてえもんだな」
「保証、できません」
素っ気ない返事に、メインは肩越しに小さく手を振り、フェンスの向こうへと姿を消していった。再びの静寂が戻ったガレージの中で、ニッカはようやく肩の力を抜いた。
一人になったガレージの中で、ニッカはタンクの脇にぶら下がった不格好な飾り物を、もう一度眺め直した。歪んだ看板と、不釣り合いな鉄の飾り。どちらも自分の意志で選んだものではないはずなのに、いつの間にか撤去する気になれない品が、また一つ増えていた。
「……別に、認めたわけじゃないんだけど」
言い訳めいた呟きは、静かなガレージに小さく吸い込まれていった。工具箱の蓋を閉じる手つきには、同時にいつもより軽い調子が滲んでいる。
看板の隣に飾り物を結び直しながら、ニッカはふと今日一日の騒がしさを思い返した。頭を抱えたくなる場面ばかりだったはずなのに、不思議と悪い後味は残っていない。誰かに強引に踏み込まれることを、以前の彼女なら苦手にしていたはずだった。それでも今は、その騒がしさごと受け止めている自分がいる。
「ガチャ子、か……」
呟いた語感を、ニッカは一度だけ小さく口の中で転がしてみた。認めるつもりはまだない。それでも、次に少女がその名を呼んだ時は、強く訂正する気になれないだろう。そんな予感だけが、なぜかはっきりと胸の中に居座っていた。
窓の外では、乾いた荒野の稜線が、変わらない静けさの中に横たわっていた。飾りの一つも、看板の一枚も、この土地で築かれてきた小さな絆の証だった。それに気づくには、彼女はまだ少しだけ素直さが足りないままだった。
夕暮れが近づく頃になって、ニッカは久しぶりに、誰に告げるでもなく車体へ跨った。点検や物資運搬とは違う、ただ乗るためだけの時間だった。エンジンをかけると、丸みを帯びた唸りが、静まり返った荒野に低く溶けていく。
フェンスの外へ出て、緩やかな砂丘の連なりを流していく。その間、タンクの脇でぶら下がった飾り物が、走行の振動に合わせてかすかに音を立てていた。歯車同士がぶつかり合う、控えめで不揃いな音だった。最初は耳障りに感じるかと思っていたそれが、走るうちに案外心地よい拍子として馴染んでいく。そのことに、ニッカは少し驚かされていた。
一人だけのために組み上げたはずの一台に、いつの間にか他人の指紋がいくつも重なっている。少女が書いた歪んだ看板も、レベッカが押し付けてきた不格好な飾りも、どちらも自分では決して選ばなかった要素だった。だが、こうして荒野を走る今この瞬間、それらが不思議と邪魔には感じられない。
日が傾き、影が長く伸びる荒地の上を、ニッカはしばらく当てもなく走り続けた。パン、パン、パンという規則正しい拍子が響く。そこに、歯車の擦れる控えめな音色が重なり合っていった。誰かに聞かせるためのものではない、ごく個人的な合奏だった。
遠くに見える中央キャンプの灯りが、一つ、また一つと灯り始めていた。荷を運ぶ音も、見張りの声も届かない距離にいる。そこでは今日一日の騒がしさが、まるで別の場所で起きた出来事のように遠く感じられた。だが耳の奥にはまだ、レベッカの歓声や、デイビッドの悲鳴じみた制止の声が微かに残っていた。
速度を落とし、来た道を引き返す頃には、空はすっかり橙色に染まっていた。ガレージへ戻ったニッカは、エンジンを止め、しばらく無言でタンクを見下ろしていた。
「……今日は、賑やかすぎた」
独り言のような呟きに、応える者はいない。それでも、その声にはどこか満ち足りた響きが混じっていた。散らばったボルトを拾い集め、看板の砂を払い、飾り物の結び目を確かめ直す。地味な後始末の一つ一つが、今日という日の余韻を丁寧になぞっていくようだった。
荒事にも、依頼にも属さない今日という一日の記憶。それを彼女は工具箱と一緒に、そっと胸の奥へしまい込んだ。
工具箱の蓋を閉じる音が、静かなガレージに小さく響いた。次にこの一台へ手を伸ばす時には、また新しい厄介事が転がり込んでくるのだろう。そんな予感すら、今のニッカには、悪くないものとして受け止められる気がしていた。
ありがとうございました。物語を進めていきます。