装甲車両の残骸は、まだ庭の隅に横たわっていた。
錆びついた鉄の匂いが、朝の乾いた風に混じって漂う。ニッカは工具箱を提げたまま、その残骸の周りをゆっくりと歩いていた。使えそうな部品を選り分ける作業は、もう三日目に入っている。急ぐ理由はどこにもなかった。それでも、手を止めれば余計なことを考えてしまいそうで、彼女は指先を動かし続けていた。
装甲板の継ぎ目に指をかけ、内部の配線を一本ずつ確かめていく。焼け切れた回路の奥に、まだ使えそうな端子がいくつか残っていた。前世の記憶が、それぞれの用途を静かに教えてくれる。集めた部品を布に包みながら、ニッカはふと手を止めた。
――今度は、これで何を作ろうか。
そう考えかけて、彼女は小さく苦笑した。以前ならこんな考え事に時間を割くことはなかった。壊れたものを直す。それだけが、彼女の全てだったはずだ。今は、直した先に誰かの顔が浮かぶようになっている。その変化を、まだうまく飲み込みきれずにいた。
フェンスの修繕は、昨日のうちに終わっていた。中央キャンプから駆けつけた男たちの手を借り、崩れた支柱は新しいものに替えられている。溶接の跡は、まだ少し歪んでいた。
「ここ、もう少し詰めた方がいいかも」
作業を手伝っていた青年に、ニッカはそう声をかけた。
「あいよ。任せてくれ」
短いやり取りが交わされ、青年は手早く工具を持ち直した。以前のニッカなら、この程度の会話にすら気を遣っていたはずだった。今は迷う間もなく言葉が出てくる。その変化に、彼女自身がいちばん戸惑っていた。
昼過ぎ、水筒を抱えた少女がいつものように顔を出した。
「ニッカ姉、お昼ごはん持ってきたよ」
「ありがとう。助かる」
差し出された包みを受け取ると、少女はその場にしゃがみ込み、瓦礫の山を興味深そうに覗き込んだ。
「これ、まだ片付け終わってないんだね」
「うん。使える部品、まだ結構あるから」
「もったいながり、なんだね」
無邪気な指摘に、ニッカは小さく肩をすくめた。壊れたものを見過ごせない性分は、今も昔も変わっていない。ただ、その性分に付き合ってくれる誰かがいるという事実だけが、以前とは違っていた。
少女はしばらくの間、瓦礫の山を興味深そうに眺め続けていた。焼け焦げた配線や、歪んだ装甲の欠片を指先でつつきながら、時折ニッカの手元を覗き込む。危ないから触らないで、と何度も注意する羽目になったが、その仕草を邪険にする気にはなれなかった。
十四の頃、自分もこうしてバートの手元を覗き込んでいたことを、ニッカはふと思い出した。危険な配線に触れそうになるたび、彼は何も言わずに後ろから手を添えてくれた。叱るでもなく、褒めるでもない。ただ黙って隣に立ち、失敗の一つ一つを見届けてくれた。今、自分がその役目を引き継ぎつつあるのだと思うと、胸の奥にくすぐったいような感覚が広がった。
少女が去った後、ニッカは瓦礫の陰に腰を下ろし、しばらく手を止めていた。
焚き火を囲んだ夜のことを、彼女は何度も思い返していた。メインの低い声、レベッカの明るい軽口、ドリオの静かな眼差し。誰かに深く踏み込まれることを、長い間恐れてきたはずだった。近づいた分だけ、失った時の痛みも大きくなる。バートを失ったあの夏に、その理屈を骨身に刻み込んできたつもりだった。
それでも今、あの焚き火の温もりを思い出すたび、胸の奥に何かが灯る。その正体を、恐れる気持ちだけではもう説明しきれなくなっていた。誓いを緩めた自覚は、ずっとあった。それを後悔していないことにも、彼女はようやく気づき始めていた。
昼食を終えた後、ニッカは制御盤の前に座り、いつもの日課に取りかかった。外周の警戒レベルは、まだ引き上げたままにしてある。太陽光パネルの蓄電量、振動センサーの反応、通信帯域の走査結果。数値はどれも平常の範囲に収まっていた。だが、確かめる手を緩める気にはなれなかった。
キーウィの忠告が、今も耳の奥に残っている。噂は電子の記録より厄介だ。誰かが見た。誰かが聞いた。それだけで、事実以上の形になって広まっていく。あの言葉の重みを、ニッカはまだうまく飲み込みきれずにいた。
走査を終えた画面に、これといった異常は表示されなかった。ニッカは小さく息をつき、制御盤から手を離した。
夕方、中央キャンプから年長の男と老女が連れ立って訪れた。
「フェンスの様子、見に来た」
年長の男は溶接跡を指先でなぞりながら、満足げに頷いた。
「悪くない仕事だ」
「あんたたちの手も、悪くなかった」
二言三言を交わした後、老女がふと表情を曇らせた。
「例の話、覚えているかい」
「拠点を移す話、なら」
「クランの中でも、少しずつ声が上がり始めている。あんたを責めているわけじゃない。ただ、この土地に留まり続ける危うさを、みんな肌で感じ始めたんだ」
老女の言葉に、ニッカは工具箱の縁を握り直した。バートが遺したこの場所を手放すという選択肢が、現実味を帯びて胸に落ちてくる。それでも、簡単に頷けるものではなかった。
「……まだ、決めなくていい話でしょう」
「ああ。今すぐにとは言わない。だが、頭の片隅には置いておいてほしい」
年長の男の言葉に、ニッカは黙って頷いた。二人はそれ以上何も言わず、夕暮れの道を戻っていった。
二人を見送った後、ニッカは装甲車両の残骸から抜き取った部品を、作業台の上に並べ直した。
軍用規格の駆動ユニットが一つ、無傷のまま残っている。強化外骨格に使われていたものらしく、内部の構造は民生品とは比べ物にならないほど精緻だった。前世の記憶が、このユニットの改造手順を次々と提示してくる。義手の応答速度をさらに引き上げる回路も、外周センサーの感度を底上げする仕組みも、頭の中には既に出来上がっていた。
だが、ニッカは工具を手に取ったまま、しばらく動けずにいた。
敵の装備を糧にして、自分の腕をまた一段上げる。理屈としては単純だった。だが、壊れたものを直すという行為の延長線上に、誰かを退けるための力が積み重なっていく。その事実に、彼女はまだ慣れることができずにいた。攻略知識でしかなかったはずのものが、今は現実の命運を左右する重みへと変わり続けている。
「……使えるものは、使う。それだけ」
誰にともなく呟いて、ニッカはドライバーを握り直した。迷いを断ち切ることでしか、今の彼女には前へ進む術がなかった。
駆動ユニットの外殻を開け、内部の制御基板を取り出す。軍用規格の精密さに、ニッカは思わず息を呑んだ。回路の一本一本が、無駄なく効率だけを追求して並んでいる。誰の手作業の跡も感じられないその均質さを、彼女はしばらく指先でなぞり続けた。
信号増幅の経路を一つ組み替え、余剰な出力を光学迷彩アンテナへ回す。単純な作業ではなかったが、迷う余地もなかった。手順はすべて、頭の中に既に描き終えている。
基板をアンテナの制御盤に接続し終えると、表示灯が一瞬だけ強く明滅した。ニッカは息を止めて反応を待った。やがて灯りは安定し、感度を示す数値が、これまでよりも一回り広い範囲を表示し始めた。
「……よし」
短い呟きに、達成感はほとんどなかった。ただ、見えない何かに備えるための一つの手立てを、確かに積み上げただけだった。
その頃、ガレージから半日ほど離れた交易所では、いつもと変わらない喧騒が続いていた。
錆びついたトタン屋根の下、露店が並び、行き交うノーマッドたちの声が絶えず響いている。燃料や水、古い部品を求める者たちが、値切り交渉に熱を上げていた。
その一角に、見慣れない男が一人、静かに佇んでいた。継ぎ接ぎだらけの上着に、砂避けのゴーグルを首から提げている。身なりだけを見れば、他のノーマッドと大差ないように映る。それでも、その立ち姿には荒野で生きてきた者とは違う、どこか作られた自然さがあった。
男は露店の一つに近づき、並べられた古い工具を眺めながら、店主にさりげなく声をかけた。
「この辺りで、腕のいいメカニックを探してるんだが」
「メカニックなら、うちの店の連中で十分間に合うぞ」
「いや、噂に聞いたんだ。バッドランズのどこかに、とんでもない腕を持つ奴がいるって」
店主は一瞬だけ手を止め、男の顔を見返した。
「……さあな。そんな噂、聞いたことねえよ」
素っ気ない返事に、男は薄く笑っただけだった。噂の出所を探る態度には見えなかった。ただ、店主の反応そのものを、静かに観察しているようだった。
別の露店では、若い女がドリンクを売りながら、常連客と世間話に興じていた。
「そういえばさ、聞いたか。あの砂漠の外れに、化け物みたいな腕を持つメカニックがいるって話」
「ああ、あれな。何でも、軍の部隊を一人で丸ごと沈黙させたとか」
「大袈裟だろ、それ」
「大袈裟でも何でも、噂ってのは広まるもんさ」
笑い交じりの会話を、少し離れた場所から、先ほどの男が静かに聞き取っていた。手元のメモには何も記されていない。ただ、記憶にだけ刻み込んでいくような、静かな仕草だった。
さらに奥まった一角では、古びた部品商が、天幕の下で油の染みた手を拭っていた。男はそこにも足を止め、何気ない調子で声をかけた。
「バッドランズの外れに、腕のいいメカニックがいるって聞いたんだが。心当たりは」
部品商は手を止め、値踏みするような目で男を見た。
「……あんた、フィクサーの類か」
「ただの物好きだよ。噂の真偽が気になっただけだ」
「物好きにしちゃ、随分熱心だな」
部品商はそれ以上取り合わず、天幕の奥へと引っ込んでいった。男はその背中をしばらく見送り、小さく肩をすくめただけだった。警戒されている。それも織り込み済みだというように、表情に変化はなかった。
男は交易所を一通り回り終えると、砂埃の積もったバイクに跨り、静かにエンジンをかけた。行き先を告げる者は、誰もいなかった。ただ、彼の視線は一貫して、ガレージのある方角へと向けられていた。
しばらく走ったところで、男は道の脇に車体を止めた。懐から取り出した小型の端末に、短い文字列を打ち込んでいく。
「――対象、確認中。噂の域を出ない。追って報告する」
端末の向こうから、抑揚のない声が短く返ってきた。
「――急ぐ必要はない。裏を取り切ってから戻れ」
「了解」
言葉少なにやり取りを終えると、男は端末をしまい、再びエンジンをかけた。表情に、焦りの色は微塵もなかった。ただ、定められた手順を淡々とこなす、その静かな徹底さだけがあった。
同じ頃、ナイトシティの薄暗いバーの一角で、キーウィは煙草をくわえたまま周囲の話し声に耳を澄ませていた。
「聞いたか。バッドランズの噂、また大きくなってるらしいぜ」
隣の席の男が、酒杯を傾けながら誰にともなく漏らす。
「軍の部隊を丸ごと沈黙させたとか、そういう類の話だろう。眉唾もいいところだ」
「いや、今度は情報屋まで嗅ぎ回ってるって話だ。裏で金が動いてる証拠だろうよ」
聞くともなしに拾った会話に、キーウィは煙を吐き出しながら小さく舌打ちした。噂に尾ひれがつくたび、その出所を探ろうとする者の数も比例して増えていく。荒野の片隅で静かに暮らしたいだけの女に、今どれほどの視線が集まりつつあるのか、当人はまだ気づいていないだろう。
端末を取り出し、キーウィはルーシーへ短い文字列を送った。
「――そろそろ、また顔を出した方がいい」
返信は、すぐに届いた。
「――同感。メインにも伝える」
簡潔な返信を確かめ、キーウィは端末をしまった。約束した「また来る」の一言が、思っていたより早く果たされることになりそうだった。
その夜、自室の暗がりで、ルーシーはネットへ深く潜っていた。
裏社会の噂が流れる掲示板や、非合法の情報屋が管理する共有領域を、彼女は一つずつ辿っていく。バッドランズの伝説めいたメカニックについて、断片的な書き込みがいくつも見つかった。どれも憶測の域を出ないものばかりだったが、その中に一つだけ、質の異なる痕跡が紛れ込んでいた。
暗号化された小さなファイルの残滓。削除されたはずの記録の断片が、ネットの奥深くにわずかに残っている。ルーシーは指先を止め、その痕跡を慎重に辿り始めた。
「……調査、依頼」
呟いた声が、暗闇に小さく落ちた。誰かが、対象の身元を洗うよう、正式な形で依頼を出した形跡だった。依頼主の名前までは辿り着けなかったが、その周到さだけは、はっきりと伝わってきた。
潜行を切り上げ、ルーシーは端末を静かに閉じた。額に滲んだ汗を拭いながら、彼女はしばらく暗い天井を見つめ続けた。ニッカに知らせるべきかどうか、判断はまだつかなかった。確証のないまま不安だけを煽ることが、果たして正しい選択なのか、彼女自身にも分からなかった。
「……今度会った時に、話す」
小さな呟きを残し、ルーシーは端末をしまった。すぐに動くべきか、それとも直接確かめてから伝えるべきか。答えの出ない問いを抱えたまま、彼女は静かに目を閉じた。
暗闇の中、天井を見つめる彼女の脳裏に、焚き火を囲んだ夜の光景がふと蘇った。震えを止められたメインの右手、軽口を叩き合うレベッカとニッカ、そしてその輪の端で、居心地悪そうにしながらも確かにそこに馴染み始めていた黒髪の女の横顔。守りたいと思う相手が増えるほど、失うことへの恐れも比例して膨らんでいく。その理屈を、ルーシー自身、誰よりもよく知っていた。
夕暮れが近づく頃、ニッカは外周モニターの前で、ふと画面の端に映る小さな輝点に気づいた。
これまで見たことのない反応だった。振動センサーの感度に引っかかるほど近くはない。それでも、光学センサーの端に、確かに何かが映り込んでいる。
「……何、これ」
呟きながら、ニッカは表示を拡大した。画面に映るのは、一台のバイクだった。エンジンを止め、丘の陰にひっそりと停まっている。乗り手らしき人影は、じっと動かないまま、こちらの方角を見つめているようだった。
心臓が、静かに音を立て始めた。
前回とは違う。装甲車両でもなければ、隊列を組んだ実働部隊でもない。ただの一人の人影が、ただガレージを見つめているだけだった。だが、その静けさこそが、ニッカの背筋に冷たいものを走らせた。
ミリテクの重装部隊とは、明らかに質が違う。だとすれば、誰が、何の目的で、ここを見張っているのか。答えの出ない問いだけが、頭の中を巡り続けていた。
ニッカは光学センサーのズームを最大まで引き上げた。粗い解像度の中に、男の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。継ぎ接ぎの上着。首から提げたゴーグル。装備そのものは、ありふれたノーマッドの旅装に見えた。
それでも、その佇まいには、荒野を渡り歩いてきた者特有の疲れが感じられなかった。まるで、初めからこの場所を目的地として選んで来たかのような、迷いのない静けさがあった。
しばらくの間、男は動かなかった。丘の上から、ただガレージを見下ろし続けている。その視線の先に何があるのか、ニッカには見当がついていた。だが、確かめる術は残されていなかった。
拡声器を使って呼びかけるべきか。ニッカは一瞬迷い、結局その考えを取り下げた。相手の意図が分からないまま、こちらの存在を大きく主張する理由はどこにもない。今はただ、様子を見るしかなかった。
日が完全に沈む頃、丘の上の輝点が、ふいに消えた。
ニッカは画面を凝視したまま、しばらく動けずにいた。エンジン音は、風に紛れて聞こえてこなかった。ただ、丘の稜線に残る一筋の土煙だけが、そこに何かがいたことを示す唯一の証だった。
「……何だったの、今の」
誰へともなく漏らした声が、静かな格納庫に吸い込まれて消えた。応える者は、どこにもいなかった。
ニッカは制御盤の前に座り込んだまま、しばらく画面を睨み続けた。ミリテクの一件は、まだ終わっていない。あの日、報告書が届けられた先で誰かが「調べておけ」と告げたことを、ニッカはもちろん、まだ知る由もなかった。だが、あの夜以来ずっと胸の奥にわだかまっていた予感があった。それが今この瞬間、確かな形を持ち始めていた。
その夜、ニッカはなかなか寝つけなかった。
毛布にくるまりながら、天井の染みをぼんやりと見上げる。丘の上に佇んでいた人影が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。武器を構えていたわけでもない。ただ見ていただけの相手が、なぜあれほど不気味に感じられたのか。理由を言葉にしようとするたび、輪郭だけがぼやけて逃げていった。
工具箱の中で眠るバートの古いレンチに、ニッカは手を伸ばした。刃こぼれた柄の感触を指先で確かめる。壊れた場所を叱っても、直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。育ての親の教えを、こんな夜にまで頼ろうとしている自分に、彼女は自嘲めいた笑みをこぼした。
うとうとと微睡む意識の中で、ニッカは古い記憶を辿っていた。十二の頃、見張りの順番を待つ間、彼女はバートの隣で星を数えていたことがある。
「怖い夜は、遠くを見ろ」
低い声が、記憶の底からそのまま蘇ってくる。
「近くばかり見てると、影に飲まれる。星まで届く目を持て」
意味も分からず頷いていたあの夜のことを、ニッカは今になって少しだけ理解できる気がした。目の前の丘に佇んでいた人影も、いずれ遠く霞んでいく一つの点に過ぎないのかもしれない。そう思おうとしても、胸の底に沈んだ不安は、簡単には晴れてくれなかった。
見えない相手の正体を、今すぐ突き止める術はどこにもない。それでも、何もしないまま朝を待つことだけは、性に合わなかった。
翌朝、水筒を抱えた少女がいつものように顔を出した時、ニッカは何気ない口調で尋ねた。
「昨日、交易所の方で、何か変わったことあった?」
「んー、特には。あ、でも」
少女は少し考え込んでから、思い出したように続けた。
「見慣れない人が来てたって、お母さんが言ってた。メカニックのこと聞いて回ってたって」
「……メカニックの、こと」
「うん。バッドランズにすごい腕の人がいるって、噂を確かめに来たんじゃないかって」
無邪気な報告に、ニッカは表情を変えないよう努めた。だが、指先に力がこもるのを、自分でも止められなかった。
「その人、どんな見た目だった?」
「さあ。お母さんも、よく覚えてないみたい。ただ、なんか、変な感じの人だったって」
「変な感じ?」
「うまく言えないけど……普通のノーマッドと、何か違ったって」
少女の言葉に、ニッカは丘の上で見た人影を重ねずにはいられなかった。
少女が去った後、ニッカは工具箱を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
キーウィの忠告が、改めて頭の中で鳴り響く。噂は電子の記録より厄介だ。人の記憶は、消せない。あの言葉の意味を、ニッカは今になってようやく、肌で理解し始めていた。
自分の腕一つが、こんな形で誰かの標的になる。前世では、ただの攻略知識でしかなかったはずのものが、今は現実の重みを帯びていた。その重みが今、見知らぬ誰かの興味を引き寄せていた。
昼過ぎ、見張りの青年が巡回の合間に立ち寄った。
「ニッカ姉、何かあったのか。顔色、あんまり良くねえぞ」
「別に、何も」
「嘘つけ。あんた、隠し事すると分かりやすいんだよ」
図星を突かれ、ニッカは思わず口をつぐんだ。青年はしばらく彼女の表情を窺っていたが、それ以上は追及せず、代わりに拳を軽く握ってみせた。
「何かあったら、いつでも呼んでくれ。今度は、絶対に一人で背負わせねえから」
「……大袈裟」
「大袈裟でいい。この前、あんたを一人にしちまった負い目、まだ返しきれてねえんだ」
真剣な声に、ニッカは何と答えていいか分からず、視線を逸らした。青年はそれ以上何も言わず、軽く手を上げてから巡回へと戻っていった。その背中を見送りながら、ニッカは胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
制御盤の前に戻り、ニッカは外周センサーの設定を見直した。振動感度をさらに引き上げ、光学迷彩アンテナの出力パターンを、これまで以上に複雑な周期へと書き換えていく。手順に迷いはなかった。だが、どれだけ手を尽くしても、拭いきれない不安があった。
装備を隠すことはできる。だが、噂という形のないものまでは、隠しようがなかった。
作業の合間、ニッカはメインの言葉をふと思い出した。あんたを一人にしとくのは、もう俺の中でも無理な話だ。あの夜、焚き火の前で告げられた一言が、今になって違う重みを持って蘇ってくる。
無線機に手を伸ばしかけて、ニッカはその手を止めた。まだ、確証はない。丘の上に佇んでいただけの人影一つを理由に、誰かを呼び寄せることが正しいのかどうか、彼女自身にも判断がつかなかった。
騒ぎ立てれば、余計な波紋を広げるだけかもしれない。だが、黙っていれば、取り返しのつかない何かを見逃すかもしれない。どちらを選んでも、心のどこかに引っかかりが残る気がした。
窓の外では、乾いた風が荒野を撫でていた。丘の稜線に、昨日の土煙の跡はもう残っていない。けれど、ニッカの視線は、しばらくの間その方角から離れなかった。
十八の夏に立てた誓いが、また頭の奥で鈍く響いていた。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。だが今、ナイトシティの側から伸びてくる手は装甲車両でも実働部隊でもなく、もっと静かな形をとって近づいてきているようだった。
「……次は、何」
呟いた声に、答える者はいなかった。ニッカは工具箱の蓋を、静かに閉じた。
平穏という言葉の意味が、以前とはもう違って感じられる。誰かを守るということは、目に見える脅威だけを退ければ済む話ではないのかもしれない。その正体の見えない予感を、ニッカは誰にも打ち明けられないまま、また胸の奥へそっとしまい込んだ。
外周モニターの表示は、いつもと変わらない平常の数値を示していた。太陽光パネルの蓄電量、振動センサーの反応、通信帯域の走査結果。何も、異常は検出されていない。それでも、ニッカはその画面をしばらく見つめ続けた。
見えない誰かの視線が、まだどこかからこちらを窺っているような気がしてならなかった。理由のない胸騒ぎほど、扱いに困るものはない。そのことを、ニッカは今この瞬間、改めて思い知らされていた。静かな夜が、これほど落ち着かないものに感じられたのは、久しぶりのことだった。
装甲車両でも、統率された実働部隊でもない。ただ丘の上に立ち、静かにこちらを見ていただけの人影一つが、これほどまでに心をざわつかせる。恐怖の質そのものが、以前とは変わり始めているのかもしれなかった。目に見える脅威になら、まだ立ち向かいようがある。だが、輪郭の定まらない視線を、迎え撃つ術までは持ち合わせていなかった。
工具箱の蓋を撫でながら、ニッカは棚の隅に置かれた無線機へ目をやった。呼びかければ、届く相手がいる。今はそれだけで、以前とは違う支えになっていた。だが、今夜はまだ、その手を伸ばす時ではない気がした。
「……もう少し、様子を見てから」
誰にともなく呟き、彼女は無線機から視線を外した。頼れる相手ができたからといって、何もかもをすぐに預けてしまうことに、まだ躊躇いが残っていた。少しずつでいい。焦らず、確かめながら。バートが教えてくれたやり方を、こんな形で人付き合いにまで応用しようとしている自分に、ニッカは小さく苦笑した。
遠く離れたナイトシティの高層ビル群、その一室に、短い報告が届けられていた。
「――対象、依然として噂の域を出ず。ただし、防衛能力は本物と見て間違いない」
読み上げる声に、抑揚はなかった。粗い解像度の映像には、丘の上から見下ろす角度で撮られたガレージの外観が映し出されている。トタン屋根、崩れかけたフェンス、そして庭の隅に横たわる装甲車両の残骸。
「私設回収班一個を、単独で無力化した女か」
呟いた声の主は、画面に映る映像をしばらく眺め続けた。
「継続して監視を。接触は、まだ早い」
短い指示が下されると、部屋には再び機械的な静寂だけが満ちていった。荒野の片隅で交わされる誰かの温もりも、積み重ねられていく小さな絆も、この部屋にはまだ届いていない。ただ、名もない視線だけが、静かにその機を窺い続けていた。
夜が更けても、ニッカはしばらくの間、制御盤の前から動けずにいた。
窓の外に広がる星空を見上げながら、彼女はバートの言葉を、もう一度胸の中で繰り返した。怖い夜は、遠くを見ろ。近くばかり見てると、影に飲まれる。
丘の向こうへ消えていった小さな影も、いつしか記憶の隅で薄れていくのかもしれない。それでも今夜だけは、その正体を確かめられないもどかしさが、胸の奥に長く尾を引いていた。長い一日が、ようやく終わろうとしている。明日もまた、いつも通りの朝が来るとは限らない。それでも、その予感に急かされるより先に、瞼をそっと閉じることを選びたかった。