夜明け前の空気は、まだ冷たさを残していた。
制御盤の前で、ニッカは瞼を閉じたまま座り続けていた。眠っていたわけではない。ただ、目を開けている力すら惜しいほど、昨夜の緊張が体の奥に染み込んでいた。丘の上に佇んでいた人影の輪郭が、瞼の裏でまだ消えずにいる。
外周センサーの画面には、変わらず平常の数値が並んでいた。振動反応なし。光学センサーに異常なし。通信帯域にも、怪しい波形は見当たらない。それでも、ニッカは画面から目を離せずにいた。何も映っていないという事実そのものが、かえって落ち着かなかった。
工具箱の蓋に、指先をそっと乗せる。冷えた金属の感触が、張り詰めた神経を少しだけ緩めてくれる気がした。
朝日が地平線を淡く染め始めた頃、遠くから低いエンジン音が近づいてきた。
ニッカは反射的に立ち上がり、外周モニターへ視線を走らせた。画面に映るのは、見慣れた形の車両だった。装甲を纏った軍用車両でも、統率された隊列でもない。土埃を巻き上げながら、たった一台だけがガレージへ向かってくる。
「……あの音」
呟きながら、ニッカは搬出口の鍵を確かめた。エンジンの調子には、聞き覚えがあった。焦る必要はない。そう自分に言い聞かせながらも、指先の緊張は簡単には解けてくれなかった。
車両がガレージの手前で速度を落とし、砂埃の中から二つの人影が降り立つ。片方は煙草をくわえたまま、もう片方は端末を胸に抱えていた。
「……キーウィと、ルーシー」
小さく息をつき、ニッカは搬出口の扉を開けた。
「朝早くに、悪いね」
キーウィが煙を吐きながら、片手を軽く上げた。
「別に。どうせ、眠れてなかったから」
「顔に、出てるな」
指摘され、ニッカは思わず頬に手をやった。ごまかしようのない疲労が、そこに刻まれているらしかった。
ルーシーが静かに歩み寄り、端末を持ち直した。
「話しておきたいことがある」
「……何」
「立ち話で済む内容じゃない」
短い言葉を受けて、ニッカは扉を大きく開けた。ガレージの奥へ二人を招き入れながら、彼女は胸の奥で小さく身構えていた。
作業台を囲むように、三人が腰を下ろした。キーウィは煙草の灰を古い缶へ落とし、ルーシーは端末の画面をニッカへ向けた。
「これ」
「……何、この暗号」
「削除された記録の断片。誰かが、正式な手順で調査依頼を出した痕跡」
ルーシーの声は、いつもと変わらず抑揚がなかった。だが、その静けさの奥に、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「依頼主までは、辿れなかった。ただ、これだけ丁寧に痕跡を消して回る相手は、そう多くない」
「ミリテクの、残党ってこと?」
「分からない。ただ、私設回収班の後始末にしては、手口が違いすぎる」
淡々とした説明に、ニッカは唾を飲み込んだ。装甲車両を並べて突撃してきた連中とは、明らかに毛色が違う。目に見える脅威ではなく、輪郭の掴めない何かが静かに動き出している。その感触だけが、じわりと胸に広がっていった。
「交易所の噂も、確かめてきた」
キーウィが、煙草を挟んだ指先で作業台を軽く叩いた。
「情報屋を名乗る連中が、あちこちで聞き込みを続けてる。金の匂いがする話には、鼻の利く奴らがすぐに群がるもんだ」
「……金の匂い」
「あんたの腕は、それだけの値打ちがあるってことだ。喜べる話じゃないだろうがな」
自嘲めいた響きに、ニッカは口をつぐんだ。前世ではただの攻略知識でしかなかったものが、今は誰かの利益のために値踏みされている。その事実の重さに、彼女はまだうまく慣れることができずにいた。
しばらくの沈黙の後、ニッカは工具箱の縁を指先でなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。
「……実は、あんたたちに、話しておきたいことがある」
「言ってみろ」
「昨日の夕方、丘の上に、誰かが立ってた」
短く告げた一言に、キーウィとルーシーが顔を見合わせた。
「装甲車両でも、部隊でもない。ただ一人、バイクに乗った男が、こっちをじっと見てただけ」
「……どれくらいの、距離」
「光学センサーの端で、辛うじて捉えられる程度」
「その後は」
「日が沈む頃、消えてた。エンジン音も、聞こえなかった」
淡々と語りながらも、ニッカの声にはわずかな硬さが残っていた。誰にも打ち明けずに抱え込んでいた感触を、言葉にすることで初めて、その重みを実感しているようだった。
「なぜ、すぐに知らせなかった」
キーウィの声に、咎める響きはなかった。ただ、確かめるような静けさだけがあった。
「……確証が、なかったから」
「確証がなくても、知らせるべき話だ。特に、あんたみたいに一人で抱え込む癖のある人間はな」
図星を突かれ、ニッカは視線を落とした。無線機に伸ばしかけた手を止めた昨夜の自分を、彼女はまだ責め切れずにいた。騒ぎ立てて余計な波紋を広げることと、黙って抱え込んで手遅れを招くこと。どちらを選んでも、後悔だけは残る気がしていた。
ルーシーが端末を操作しながら、静かに続けた。
「その男の特徴、覚えてる限りでいい」
「継ぎ接ぎの上着。首から提げたゴーグル。見た目は、普通のノーマッドと変わらない」
「……それ」
呟いたルーシーの表情が、わずかに強張った。
「交易所で、同じ格好の男を見たって話、聞いたことがある」
「本当?」
「詳しくは分からない。でも、聞き込みをして回ってた男の風貌と、似てる気がする」
二人の視線が重なり、しばらく沈黙が続いた。断片的な情報が、少しずつ一つの輪郭を結び始めている。その輪郭がどこまで大きな影を落とすのか、まだ誰にも見当がつかなかった。
「一つ、確かなことがある」
キーウィが煙草を灰皿代わりの缶へ押し付け、低い声で言った。
「ミリテクの実働部隊は、力任せの馬鹿どもだった。だが、今回の相手は違う。時間をかけて、裏を取ってから動く類の連中だ」
「……それって」
「私が知る限り、そういう周到さを好むのは、決まって一つの企業だ」
言葉を切ったキーウィの表情に、これまで見たことのない硬さが浮かんでいた。
「アラサカ」
短い一言が、ガレージの静寂に重く落ちた。ニッカの喉が、無意識に鳴った。前世の記憶にあるその名前は、ナイトシティという街の暗部そのものだった。神輿と呼ばれる技術、数え切れない犠牲の上に築かれた企業の威光。その名前が、こんな形で自分の日常に触れてくるとは、想像すらしていなかった。
「……あそこは、ミリテクとは根本から違う」
キーウィが、缶に押し付けた煙草の先を見つめながら続けた。
「ミリテクは、力で押し切ることしか知らない連中だ。だが、アラサカは違う。欲しいものがあれば、まず調べ尽くす。相手の弱点も、周りの人間関係も、逃げ道の一つまで洗い出してから、初めて手を伸ばしてくる」
「……随分、詳しいのね」
「詳しくなるだけの理由が、こっちにもある」
そっけなく返したキーウィの声には、それ以上踏み込ませない硬さがあった。ルーシーが横で、静かに視線を落とす。師匠の過去に触れることが、まだ許されていないのだと、ニッカにも察しがついた。
「あの企業が本気で欲しがるのは、道具じゃない。使い潰せる才能だ」
「……才能」
「あんたの腕は、軍用規格を軽々と超える。しかも、本人はそれを自覚すらしていない。そんな人材を、飼い殺しにせず放っておくほど、アラサカは甘い組織じゃない」
抑揚のない説明に、ニッカは背筋が冷えるのを感じた。前世でただの攻略知識として眺めていたその名前が、今は現実の輪郭を伴って、自分の日常のすぐそばまで迫ってきている。
「……確証は」
「ない。ただの勘だ。だが、この手の勘は、大抵外れない」
キーウィの声には、長年裏社会を渡り歩いてきた者だけが持つ、乾いた確信があった。
「まだ、接触するには早いと踏んでるんだろう。だからこそ、今のうちに手を打っておくべきだ」
「……手を打つって、どうやって」
「まずは、あんた一人で背負わせないことだ」
短く言い切られたその一言に、ニッカは何も返せなかった。
ルーシーが端末をしまいながら、静かに付け加えた。
「メインたちにも、伝えておく。今日中に、こっちへ向かうと思う」
「……そこまで、大袈裟にしなくても」
「大袈裟じゃない。あなたが一人でこの場所を守り続けられる規模の話じゃなくなってきてる」
淡々とした声に、ニッカは反論の言葉を見つけられなかった。十八の夏に立てた誓いが、また頭の奥で鈍く響いていた。誰にも深く踏み込ませない。だが、その誓いを守り抜くための力そのものが、もう自分一人の手には収まりきらなくなっている。その事実を、認めるしかない瞬間が近づいているようだった。
昼が近づく頃、キーウィは端末を取り出し、短い文字列を打ち込んだ。
「――今すぐ来い。詳細は着いてから話す」
送信を終えると、彼女は煙を吐きながら小さく呟いた。
「あの図体のでかい男は、こういう時だけは足が速い」
軽口めいた響きに、ニッカはわずかに口元を緩めた。張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がした。
昼過ぎ、外周センサーが車列の接近を告げた。
ニッカは制御盤の画面に映る反応を確かめ、小さく息をついた。三台の車両が、砂塵を巻き上げながらこちらへ向かってくる。エンジン音の重なり方に、聞き覚えがあった。
「……本当に、来た」
呟く声には、呆れと安堵が入り混じっていた。
先頭の車両から飛び降りたのは、レベッカだった。
「よぉ、久しぶり!」
「久しぶり、ってほど経ってない」
「細けえこと言うなよ」
軽口を交わしながら、レベッカは荷台から愛銃のケースを担ぎ上げた。その後ろから、ファルコが車を降り、キャビンの陰からドリオが顔を覗かせる。
「元気そうで、何より」
ドリオの静かな声に、ニッカは小さく頷いた。
最後の車両から、デイビッドとメインが降りてくる。デイビッドは真っ先にニッカのもとへ歩み寄った。
「大丈夫か」
「見ての通り」
「顔色、良くないぞ」
「あんたに、言われる筋合いはない」
そっけない返事に、デイビッドは小さく笑った。以前なら気まずさを覚えたはずのやり取りが、今はもう自然な形で交わされている。その変化に、ニッカ自身が誰よりも戸惑っていた。
メインが、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「聞いた。丘の上の、見張りの話」
「……もう、伝わったんだ」
「キーウィから、詳細は着いてから話すとしか聞いてない。だが、大方の見当はついてる」
低い声には、これまでとは違う張り詰めた響きがあった。ニッカは工具箱の縁を握り直した。
「一人で、抱え込むつもりだったのか」
「……確証が、なかったから」
「確証がなくても、伝える相手は伝えろ。前にも言ったはずだ」
「言われたのは、覚えてる」
「覚えてるだけじゃ、意味がねえだろうが」
強い口調に、ニッカは思わず視線を逸らした。責められているという感覚よりも、心配されているという事実の方が、彼女の胸を静かに締め付けた。
「……悪かった」
ぽつりと漏らしたその言葉に、メインは表情を緩めた。
「分かればいい」
「大袈裟」
「大袈裟でいい。あんたに何かあってからじゃ、遅すぎるんだよ」
低く落とされた声に、ニッカはそれ以上言葉を継げなかった。焚き火を囲んだ夜、震えの消えた右手の重みが、また胸の奥に静かに蘇ってきた。
作業台を囲み、キーウィが改めて経緯を説明していく。ルーシーが見つけた調査依頼の痕跡、交易所で聞き込みを続ける男の存在、そしてニッカが目にした丘の上の人影。断片的な情報が、一つずつ並べられていくたび、円座の空気が少しずつ張り詰めていった。
「アラサカ、か」
呟いたメインの声に、レベッカが眉をひそめた。
「マジかよ。ミリテクだけでも厄介だってのに」
「ミリテクとは、桁が違う」
キーウィは煙草を短く吹かし、言葉を継いだ。
「あそこは、時間をかけることを厭わない。焦って手を出してくる連中よりも、性質が悪い」
低い声に、誰も茶々を入れなかった。
「……どうすればいい」
ニッカが呟くと、ドリオが静かに口を開いた。
「今すぐ答えの出る話じゃない。でも、少なくとも、あなた一人で見張りを続ける必要はなくなった」
「……そう、なるのかな」
「そうする、って決めた。ここに来た全員が」
穏やかな声に、ニッカは何も言い返せなかった。誰かに決められることへの抵抗感と、それでもどこかで安堵している自分とが、胸の中でせめぎ合っていた。
午後、ニッカはメインたちと共に、外周センサーの再点検に取りかかった。振動感知の範囲を広げ、光学迷彩アンテナの出力パターンをさらに複雑な周期へ組み替えていく。前世の記憶が、必要な手順を淡々と示してくれる。だが、それを一人で背負っていた昨日までとは違い、隣にはドライバーを手渡す誰かの手があった。
「ここ、もう少し感度上げた方がいいんじゃねえか」
レベッカが、迎撃タレットの照準機構を覗き込みながら口を挟んだ。
「感度上げすぎると、砂嵐にも反応する。誤作動の方が厄介」
「へえ、そういうもんか」
素直に感心するレベッカに、ニッカは小さく苦笑した。誰かに技術の話を説明することが、これほど自然に感じられる日が来るとは、以前の自分には想像もつかなかった。
作業の合間、ファルコが車両の点検をしながら、静かに声をかけてきた。
「この辺りの地形、逃げ道は把握してるか」
「大体は」
「もしもの時のために、複数の経路を頭に入れておいた方がいい。俺が、いくつか見繕っておく」
「……ありがたい、けど」
「けど、何だ」
「頼りすぎるのは、まだ慣れない」
正直な言葉に、ファルコは口髭の下でわずかに笑った。
「慣れなくていい。使える時に、使えばいいだけの話だ」
飾らない一言に、ニッカは頷き返した。
夕方が近づく頃、作業を一区切りつけたニッカは、格納庫の隅で工具を片付けていた。そこへ、デイビッドがゆっくりと歩み寄ってきた。
「今日、みんなが来たこと。迷惑じゃなかったか」
「……迷惑とは、言ってない」
「言ってなくても、気になった」
正直な問いかけに、ニッカは工具を握る手を止めた。
「迷惑じゃない。ただ、慣れないだけ」
「慣れなくていい。慣れるまで、何度でも来る」
きっぱりとした言葉に、ニッカは目を伏せた。誰かにそう言い切られることの重みを、彼女はまだ言葉で返す術を持っていなかった。
夕食の支度が始まる頃、焚き火が組まれ、簡素な鍋が湯気を立て始めた。円座の空気は、昼間の緊張とは違う、穏やかな温度を取り戻しつつあった。それでも、誰の表情にも、拭いきれない警戒の色が薄く残っていた。
「これから、どうするつもり」
椀を手にしたレベッカが、率直に問いかけた。
「……様子を見ながら、防衛を固める。それしか、今は思いつかない」
「逃げるって選択肢は」
「バートが遺した場所を、そう簡単には手放せない」
きっぱりとした答えに、レベッカは肩をすくめた。
「だろうな。あんた、そういう奴だと思ってた」
軽い口調の奥に、隠しきれない理解が滲んでいた。
火を挟んで向かいに座ったキーウィが、煙草の煙を吐きながらゆっくりと言葉を継いだ。
「アラサカが本気を出すまでには、まだ時間がある。奴らは、確証もないまま動くほど短気じゃない」
「……それが、救いってこと?」
「救いってほどのもんじゃない。ただ、猶予はある。その猶予を、どう使うかが問題だ」
低い声に、円座の空気が引き締まった。誰も、それを軽く受け流すことはできなかった。
「猶予があるなら、その間に固めるだけ固める」
メインが、静かに言い切った。
「防衛システムの強化。逃げ道の確保。それから」
「それから?」
「あんたを、一人にしない。それだけは、譲らねえ」
低く落とされた一言に、ニッカは椀を持つ手を止めた。焚き火の炎が、メインの横顔に静かな影を落としている。その表情には、これまでのどんな軽口とも違う、確かな重みが宿っていた。
「……勝手なこと、ばっかり」
「勝手で構わねえ」
「毎回、そう言う」
「毎回、本気だからな」
短いやり取りに、ニッカはそれ以上何も言えなくなった。誰かに深く踏み込まれることを、長い間恐れてきたはずだった。近づいた分だけ、失う時の痛みも大きくなる。バートを失ったあの夏、その理屈を骨身に刻み込んできたつもりだった。だが今、目の前に並ぶ顔ぶれを前にしている。その理屈だけでは説明のつかない何かが、胸の奥で静かに膨らんでいくのを感じていた。
夜が更けても、焚き火の周りには小さな話し声が絶えなかった。レベッカが愛銃の手入れをしながら軽口を叩き、ドリオがそれをたしなめ、ファルコが車両の燃料残量を静かに確かめている。
ニッカは椀を膝に置いたまま、その光景を少し離れた場所から眺めていた。誰かの笑い声、誰かの軽口、誰かの静かな眼差し。長い間、意図して遠ざけてきたはずのそれらが、今は自然と自分の周りに満ちていた。
「――ニッカ」
隣に腰を下ろしたメインが、低く声をかけてきた。
「何」
「今日、話してくれて、良かった」
「……大したこと、話してない」
「大したことだ。あんたが自分から言葉にするのは、そう多くねえだろう」
図星を突かれ、ニッカは押し黙った。誰かに見透かされることに、彼女はまだうまく慣れていなかった。
夜半を過ぎた頃、見張りの交代が始まった。ファルコが最初の番を引き受け、キーウィも煙草をくわえたまま制御盤の前へ移った。ニッカも自分の持ち場に戻ろうとしたが、その肩を、ドリオがそっと押し留めた。
「今夜は、休んでいい」
「でも」
「見張りは、他の誰かでも回せる。あなたが倒れたら、元も子もない」
静かな声に、ニッカは言い返す言葉を持たなかった。誰かに休むことを許されるという経験に、彼女はまだ戸惑いを覚えていた。
毛布にくるまりながら、ニッカは天井の染みをぼんやりと見上げていた。丘の上の人影も、アラサカという名前も、まだ何一つ解決していない。けれど、隣の部屋から寝息が聞こえてくる。遠くで焚き火が爆ぜる音も届いて、覚えのない安らぎを運んできてくれる気がした。
同じ頃、ナイトシティの高層ビル群の最上階に近い一室があった。窓の外に広がる夜景を背にして、一人の男が報告書へ目を通していた。
「バッドランズの噂、裏は取れたか」
抑揚のない問いに、対面に立つ部下が短く答えた。
「継ぎ接ぎのノーマッドを装った調査員からの報告では、対象の女は本物です。防衛能力も、私設回収班一個を単独で無力化する規模だと」
「……一個人の技量で、それだけのことができるとはな」
男は端末の画面に映る粗い映像を、しばらく眺め続けた。黒髪を一つ結びにした後ろ姿が、そこにぼんやりと浮かんでいる。
「周辺の人間関係は」
「ノーマッドクランの他に、エッジランナーと目される一団が出入りしている模様です。頻度は、増加傾向にあります」
「……厄介な後ろ盾がついてきたか」
低く呟いた声に、部下は何も答えなかった。しばらくの沈黙の後、男は端末を静かに置いた。
「焦る必要はない。裏を取り切り、周辺の抵抗要素をすべて洗い出してから動く。それが、我々のやり方だ」
「では、調査の継続を」
「ああ。ただし、監視の頻度は上げろ。相手が警戒を強めているなら、こちらもそれに応じた慎重さが要る」
短い指示が下されると、部屋には再び機械的な静寂だけが満ちていった。窓の外に広がる夜景の中には、荒野の片隅で交わされている温もりも、積み重ねられていく小さな絆も届いていない。ただ、静かに動き出した意志だけが、確実にその歩みを進めていた。
深夜、外周センサーがわずかな反応を示した。
制御盤の前に座っていたキーウィが、画面を静かに確かめる。丘の稜線、以前と同じ場所に、小さな輝点が浮かび上がっていた。
「……また、来たか」
呟きながら、彼女は隣で見張りに立っていたファルコへ視線を送った。
「あれか」
「ああ。話に聞いた通りの位置だ」
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。丘の上に佇む影は、動かないままこちらを見下ろし続けている。以前と変わらない、静かすぎる佇まいだった。
騒ぎを聞きつけ、格納庫の奥からメインとニッカが駆けつけてきた。画面に映る輝点を見た瞬間、ニッカの喉が小さく鳴った。
「……本当に、いた」
「見えるか、みんなにも」
キーウィが問うと、ニッカは頷いた。
「うん。今度は、私だけじゃない」
短い一言に、彼女はどこか安堵していた。一人で抱え込んでいた不安が、初めて誰かと共有される感触があった。
丘の上の輝点は、しばらくの間、じっと動かなかった。まるで、こちらの反応を試すかのような静けさだった。ニッカは画面を見つめたまま、拳を静かに握りしめた。
「……見てるだけ、なのかな」
「今のところは、な」
メインが低く答えた。
「だが、いつまでもそれだけとは限らない」
「……分かってる」
低い声で応じながら、ニッカは制御盤に手を置いた。振動感度の設定を、さらに一段引き上げる。前世の記憶が、必要な調整を静かに示してくる。今は、それを一人でやる必要がないという事実だけが、彼女の指先にわずかな落ち着きを与えていた。
騒ぎに気づいたルーシーが、寝間着のまま端末を抱えて駆けつけてきた。画面の輝点を一瞥すると、彼女はすぐさま指先を走らせ始めた。
「……信号、拾えるか試してみる」
「無理はしないで」
「分かってる」
端的に応じながら、ルーシーは慎重に電波の帯域を辿っていった。だが、しばらく指を動かした末に、彼女は小さく首を振った。
「駄目。使い捨ての端末経由で、逆探知の防護が厚すぎる」
「……そう」
「相手も、素人じゃない。少なくとも、こちらの技術を軽く見ていない証拠ではある」
淡々とした分析に、キーウィが煙草の灰を落としながら付け加えた。
「侮られていないのは、良いことでも悪いことでもある」
短い一言に、それ以上異を唱える者はいなかった。
やがて、輝点は音もなく画面から消えた。エンジン音は、風にも紛れて聞こえなかった。ただ、丘の稜線に薄く残る土煙の気配だけが、そこに何かがいたことの証だった。
「……行った、か」
ファルコが呟くと、キーウィは指先で煙草の灰を落とした。
「今夜は、な」
短い答えに、誰も反論しなかった。猶予は、まだ続いている。だが、その猶予がいつまで続くのか、この場の誰にも分からなかった。
制御盤の前で、ニッカはしばらくの間、画面を見つめ続けた。隣に立つメインの気配が、これまでにない重みで胸に残っていた。
「……今夜は、ありがとう」
ふと漏れたその言葉に、メインは驚いたように片眉を上げた。
「珍しいな、あんたがそういうこと言うのは」
「一度きりだから、聞き逃さないで」
軽く返すニッカの声に、いつにない柔らかさが滲んでいた。メインは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。
夜明けが近づく頃、見張りの交代が一巡し、焚き火の周りにはようやく静けさが戻ってきた。ニッカは制御盤の前に座ったまま、窓の外に広がり始めた薄明かりを見つめていた。
丘の向こうに消えていった気配は、まだこの場所のどこかを窺い続けているのかもしれない。アラサカという名前が持つ重みも、まだ何一つ和らいではいない。けれど今は、隣に誰かがいるという事実だけが、昨夜までとは違う手触りを彼女の胸に残していた。
一人で背負うつもりだった荷物を、今は分かち合っている。その事実に慣れるには、まだ時間がかかりそうだった。同時に、この重みを分け合える相手がいるということが、思っていたよりずっと大きな支えになっている。ニッカはそのことを、夜明けの薄明かりの中で、静かに噛みしめていた。