三日が過ぎても、丘の上に輝点は現れなかった。
外周モニターの数値は、朝も夜も平常のまま並び続けている。振動反応なし。光学センサーに異常なし。通信帯域にも、怪しい波形は見当たらなかった。それでも、ニッカはその静けさを、素直に喜べずにいた。何も起きないという事実そのものが、かえって重く胸にのしかかってくる。
メインたちは、あの夜以来、代わる代わるガレージへ顔を出すようになっていた。長く居座るわけではない。荷を届け、装備を点検し、短い言葉を交わしてはまた去っていく。その繰り返しの中に、以前にはなかった規則性のようなものが生まれつつあった。
中央キャンプからも、これまでとは違う空気が伝わってきていた。水筒を抱えた少女が顔を出す頻度は変わらなかったが、その後ろに付き添う大人の数だけが、いつの間にか増えている。
「今日は、一人じゃないんだ」
ニッカが問うと、少女は少しだけ気まずそうに俯いた。
「お母さんが、一緒じゃないと駄目だって」
「……そう」
「ニッカ姉、何か危ないことになってる?」
無邪気な問いに、ニッカは言葉を選びながら答えた。
「まだ、何も決まってない。だから、心配しすぎなくていい」
言い聞かせる声は、自分自身にも向けられていた。少女は完全には納得しきれない様子だったが、それ以上は尋ねてこなかった。
少女を見送った後、付き添いの母親が、少し離れた場所で年長の男と何事か話し込んでいる姿が目に入った。声までは届かなかったが、その表情の硬さだけは、はっきりと見て取れた。
拠点を移す話が、また蒸し返されているのかもしれない。ニッカは工具箱の縁を握り直した。バートが遺したこの場所を手放す選択肢は、まだどうしても現実味を持って受け入れられずにいる。それでも、自分一人の想いだけで、クラン全体の安全を左右していいものかどうか。彼女自身にも、判断がつかなかった。
振り返れば、あの丘の上の人影を見つけてから、まだ数日しか経っていない。それなのに、ガレージを取り巻く空気は、以前とは別のものに変わりつつあった。誰もが口には出さないまま、次に何かが起こることを前提に動き始めている。その変化の速さに、ニッカ自身がまだ追いついていなかった。
昼下がり、格納庫の奥では、ファルコが車両の下に潜り込んでいた。
「この足回り、そろそろ限界だな」
「予備の部品、棚の三番目にある」
「ああ、見えてる」
短いやり取りを交わしながら、ファルコは手早く工具を取り替えていく。ニッカはその傍らで、廃材から抜き取った端子を選り分けていた。使えるものと使えないものを見分ける手つきに、迷いはなかった。
「逃げ道の件、地図に起こしといた」
工具を握ったまま、ファルコが付け加えた。
「三方向。どれも、車一台分の幅は確保できる」
「……ありがとう」
「礼を言うほどのことじゃない。備えておくだけの話だ」
素っ気ない答えに、ニッカは小さく頷いた。頼るということに、まだ慣れたとは言えない。それでも、差し出される手を拒む理由も、もう見当たらなくなっていた。
その少し後、荷台からサンデヴィスタンの点検キットを下ろしていたデイビッドが、汗を拭いながら近づいてきた。
「調子、聞かせてくれ」
「反応速度、負荷分散、どっちも問題ない」
「あんたが言うなら、間違いねえな」
軽く笑うデイビッドの表情には、以前の危うさがもう見当たらなかった。かつて頭の奥で鳴り続けていたノイズは、あの日ニッカが組み上げたバッファーによって、今も静かに抑え込まれ続けている。
「あんたのおかげで、俺は今も普通に走れてる」
「もう聞いた、その台詞」
「何回でも言う」
きっぱりとした答えに、ニッカは小さく息をついた。感謝されることに、彼女はまだ慣れていない。慣れないからこそ、その言葉の重みを、素通りさせることができずにいた。
夕方近く、レベッカが愛銃の手入れをしながら、退屈そうに足を投げ出していた。
「なあ、あの気味悪い野郎、もう来ねえのか」
「分からない。来ないなら、それに越したことはないけど」
「肩透かしすぎて、逆に落ち着かねえよ」
軽口めいた言葉の奥に、隠しきれない緊張が滲んでいる。ニッカはその声の質を、聞き逃さなかった。誰もが、平静を装いながら、同じ違和感を抱え続けている。
「見えない敵の方が、ずっと厄介」
ぽつりと漏らした一言に、レベッカは銃身を磨く手を止めた。
「……だな」
それ以上、軽口は続かなかった。
夜、ドリオが焚き火の傍らで、静かに端末を確かめていた。
「中央キャンプの見張りからも、報告は上がってきてない」
「良い知らせ、ってこと?」
「良いとも悪いとも言えない。ただの、空白」
抑揚のない声に、ニッカは口をつぐんだ。空白という言葉の重みを、彼女は今になって初めて理解し始めていた。何もないという状態が、これほど落ち着かないものだとは、以前の自分なら想像もしなかっただろう。
「怖い?」
ドリオが、静かに問いかけてきた。
「……分からない。何が来るのかも、分からないから」
「分からないことを怖がるのは、自然なこと」
穏やかな声に、ニッカはしばらく黙り込んだ。
「あなたは、怖くないの」
「怖い。ただ、怖がるだけで手が止まるほど、この暮らしは甘くない」
短い答えの奥に、荒野を渡り歩いてきた者だけが持つ、静かな覚悟があった。ニッカはそれ以上何も言わず、焚き火の炎を見つめ続けた。
その夜更け、自室の暗がりでルーシーは端末に向かい合っていた。
裏社会の情報網を、彼女は指先一つで丹念に辿っていく。丘の上の男に関する新しい書き込みはなかった。だが、代わりに別の異変が、電子の海の底からわずかに浮かび上がってきていた。
暗号化された通信の断片。宛先も差出人も分からない。ただ、その通信量が、ここ数日で不自然なほど増えていることだけが、数値の上に静かに現れていた。
「……何、これ」
呟いた声が、暗闇に小さく落ちる。監視が、次の段階に移ろうとしている。確証はなかったが、長く裏の世界を渡り歩いてきた者としての勘が、そう告げていた。
ルーシーは端末を握りしめたまま、しばらく動けずにいた。伝えるべきか。まだ判断のつかない情報を、いたずらに膨らませて伝えることの是非を、彼女は静かに天秤にかけ続けていた。
翌朝、格納庫に集まった一同へ、ルーシーは短くその報告を伝えた。
「通信量が、増えてる。中身までは読めない」
「……前より、動きが早いってこと?」
尋ねられたルーシーは、端末をしまいながら頷いた。
「かもしれない。でも、断定はできない」
「断定できなくても、備えておくに越したことはない」
キーウィが煙草を挟んだ指先で、灰皿代わりの缶を軽く叩いた。
「奴らのやり方は、いつも同じだ。裏を取り、周りを固めた後、静かに動く。今の空白は、多分その仕上げの段階だ」
低く落とされた言葉に、円座の空気が引き締まった。誰も、それを軽く受け流すことはできなかった。
「仕上げの、段階って」
問い返すニッカに、キーウィは煙草の先を見つめたまま続けた。
「相手の弱点、逃げ道、周りに付いてる人間関係。そういうものを全部洗い出し終えた後、奴らは初めて手を伸ばしてくる。焦って仕掛けてくる連中よりも、性質が悪い」
「……前にも、聞いた」
「大事なことだから、何度でも言う」
短く返され、ニッカはそれ以上重ねて聞けなかった。
「洗い出す、ってのは、具体的にどこまでだ」
メインが低く問うと、キーウィは灰を落としながら答えた。
「ここにいる全員の顔と名前、それぞれの弱み。逃げ道の数と、それを塞ぐ手段。おそらく、もうかなりの部分まで掴まれてると見た方がいい」
「……あたしらの分まで?」
レベッカが眉をひそめると、キーウィは短く頷いた。
「エッジランナーと目される一団、とだけ報告書に書かれてるだろうな。名前まで割れてるかは分からないが、油断できる話じゃない」
淡々とした分析に、円座の誰もが押し黙った。見えない相手に、自分たちの輪郭が少しずつ削り取られていく。その感触だけが、確かに全員の胸に残った。
その日の午後、ニッカは外周センサーの再点検に没頭していた。振動感知の閾値をさらに一段引き下げ、光学迷彩アンテナの出力パターンに、これまでにない周期のずれを組み込んでいく。前世の記憶が、必要な手順を淡々と示してくれた。
「感度、上げすぎてねえか」
覗き込んだメインが、低く問いかけた。
「上げてる。誤作動のリスクより、見逃す方が怖い」
「……理屈は、分かる」
メインは黙ったまま、傍らで工具を差し出し続けた。その手つきに、ためらいの色はない。かつて一人で抱え込んでいた作業に、今は当たり前のように誰かの手が添えられている。その事実に、ニッカはまだ完全には慣れていなかった。
夕食の支度が始まる頃になっても、外周モニターの数値は静かなままだった。焚き火の準備をする手を止め、ニッカは何度も制御盤へ視線を戻した。何もないという表示が、今日はやけに落ち着かなかった。
鍋の湯気が立ち始めても、彼女はその場を離れなかった。
「飯くらい、座って食え」
メインが椀を差し出しても、ニッカは画面から目を離さなかった。
「……もう少しだけ」
短い答えに、メインはそれ以上何も言わず、椀を隣に置いて自分も腰を下ろした。無言のまま、二人はしばらく同じ画面を見つめ続けた。
日が暮れて間もない頃、外周センサーの一つが、微かな反応を拾い上げた。
制御盤の前に座っていたニッカは、画面の端に浮かんだ小さな点に、思わず息を止めた。振動反応ではない。光学センサーの端に、これまでとは質の違う輝きが、ごく僅かに映り込んでいた。
「……今度は、何」
呟きながら、画面を拡大する。丘の稜線ではなかった。もっと低い位置、乾いた岩陰の辺りに、その反応は浮かんでいた。
バイクの気配はない。エンジン音も、聞こえてこない。ただ、小さな輝点だけが、じっとそこに留まり続けていた。
「キーウィ、来て」
声を張り上げると、煙草をくわえたキーウィが駆けつけてきた。画面を一瞥し、彼女はすぐに表情を険しくした。
「……これは」
「分からない。前の男とは、違う気がする」
「距離を測れ」
短い指示に、ニッカは急いで数値を割り出した。以前の男が佇んでいた丘よりも、明らかに近い。しかも、動く気配がまるでなかった。
「……止まってる。まるで、何かを見張ってるみたいに」
「あるいは」
キーウィが煙草を灰皿へ押し付けながら、低く続けた。
「見張られてるのは、こっちだけじゃないのかもしれない」
騒ぎを聞きつけ、メインとファルコ、そしてルーシーが次々と駆け込んでくる。画面を覗き込んだファルコが、目を細めた。
「これ、生体反応じゃねえな」
「……どういうこと」
「熱源の分布が、おかしい。人間なら、もう少し輪郭が滲むはずだ」
ファルコの指摘に、ニッカは表示を切り替えた。熱源の解析画面に映し出されたのは、人の形を模した、あまりにも均質な輪郭だった。
「無人機」
ぽつりと漏らした一言に、格納庫の空気が凍りついた。
「ルーシー、信号は」
「今、拾おうとしてる」
端末に指を走らせながら、ルーシーは眉根を寄せた。
「……厚い。前より、防護が厚くなってる」
「アップグレードされた、ってことか」
メインの問いに、ルーシーは短く頷いた。
「多分。前回の探りで、私たちの技術を測られたのかもしれない」
醒めた分析に、ニッカは唾を飲み込んだ。試されていたのは、自分たちの方だけではなかった。相手もまた、こちらの反応を測りながら、着実に手札を更新し続けている。
「……近づいてくる」
画面を見つめていたニッカが、掠れた声で告げた。
輝点が、ゆっくりと、しかし確実にガレージへ向かって移動を始めていた。人間の足取りとは違う、機械的な滑らかさを伴った動きだった。
「距離、あとどれくらいだ」
メインの問いに、ニッカは即座に答えた。
「このままだと、十五分」
「迎撃タレット、使うか」
ファルコの問いかけに、ニッカは一瞬迷った。だが、すぐに首を振った。
「使わない。今は、正体を確かめる方が先」
短い判断に、誰も異論を挟まなかった。
「俺が行く」
メインが立ち上がると、ファルコもそれに続いた。
「一人じゃ行かせねえよ」
「……分かってる」
二人の背中を見送りながら、ニッカは制御盤の前で拳を握りしめた。無線機を通じて、その動きを追い続ける以外、今の彼女にできることはなかった。
「私も、行動制御を回す」
「頼む」
短いやり取りの後、ニッカは指先を素早く動かし始めた。光学迷彩アンテナの出力を、二人の進行方向へ集中させる。前世の記憶が、必要な調整を淡々と示してくれた。それでも、指先の震えだけは、簡単には収まってくれなかった。
岩陰に向かって歩みを進めるメインとファルコの姿を、ニッカは画面越しに見つめ続けていた。二人の足取りに、迷いはなかった。だが、その慎重さの奥に、獲物を追い詰める者特有の張り詰めた気配が滲んでいる。
夜風が、砂を巻き上げながら格納庫の壁を叩いていた。制御盤の光だけが、ニッカの手元を照らしている。無線機を握る指先が、いつの間にか白くなっていた。
無人機の輝点は、二人の接近に反応するように、微かに揺れている。
「……止まった」
呟いた声に、答える者はいなかった。無線機の向こうから、メインの低い声が届く。
「見えた」
「何が」
「小型のドローンだ。カメラと、通信アンテナが付いてる。武装は……確認できねえな」
説明を聞きながら、ニッカは画面上の熱源データと照らし合わせた。輪郭の均質さ、駆動音の規則性。前世の知識が、その正体を静かに告げてくる。
「……民生品じゃない」
誰にともなく漏らした一言が、格納庫の静寂に落ちた。
「捕まえられるか」
ファルコの声が、無線機越しに届く。
「試してみる」
メインの短い返事の後、しばらくの沈黙が続いた。画面の中で、輝点がふいに動きを速める。逃走を図ったのか、あるいは自爆機構が働いたのか、ニッカには判断がつかなかった。
「……逃げた」
輝点が、猛烈な速度で岩陰の奥へと消えていく。追おうとしたメインたちの足取りが、画面の端で止まった。
「無理に追うな」
ニッカは無線機に向かって、思わず叫んでいた。
「戻ってきて」
「……分かった」
短い応答を最後に、輝点は完全に画面から姿を消した。
二人が格納庫へ戻ってくると、緊張に張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。だが、誰の表情にも、安堵の色は薄かった。
「逃げ足だけは、一丁前だったな」
ファルコが、砂を払いながら苦笑した。
「……何か、残ってなかった?」
ニッカが問うと、メインは無言で拳を開いた。手のひらの上に、小さな金属片が乗っている。
「岩にぶつかって、これだけ落としていった」
作業台の上に置かれたそれを、ニッカはしばらく見つめ続けた。手に取り、断面を確かめる。指先が、微かに震えた。
「……この加工精度」
「分かるのか」
「うん。民生品じゃ、まず出せない滑らかさ」
ルーシーが端末を近づけ、断面をスキャンした。数値が並ぶ画面を見つめる彼女の顔が、静かに強張っていく。
「……この合金の組成」
「知ってるの?」
「以前、アラサカのセキュリティ端末を解析した時に、似た成分を見たことがある」
短い答えに、格納庫の空気が一段と重く沈んだ。憶測ではなく、物としての証拠が、初めて手のひらの上に転がっている。その事実の重みを、誰もが同時に噛みしめていた。
ニッカは金属片を作業台の照明にかざし、断面をさらに近くで確かめた。加工の継ぎ目がほとんど見当たらない。前世の記憶と照らし合わせても、これほどの均質さを量産できる規格は、ごく限られた組織にしか存在しなかった。
「……これ、多分試作段階のものじゃない」
「どういうことだ」
メインが問うと、ニッカは断面を指先でなぞりながら答えた。
「量産ラインに乗ってる証拠。行き当たりばったりで作ったものじゃない。最初から、こういう仕事のために設計されてる」
「本気の道具、ってことか」
「うん。おもちゃじゃない」
短い答えを最後に、誰も口を開かなくなった。
「カメラの中身は」
ファルコが問うと、ルーシーは端末を操作しながら首を振った。
「壊れてる。自爆機構が働いた後らしくて、記録は残ってない」
「……何も、分からないってことか」
「一つだけ、分かることがある」
ルーシーは端末の画面を皆へ向けた。解析途中のログの片隅に、微かな痕跡が残っている。
「観測目標の座標が、複数記録されてた形跡がある。ここだけじゃない」
「……他にも、見てる場所があるってこと?」
ニッカの問いに、ルーシーは頷いた。
「多分、中央キャンプの周辺も含めて。私たちだけじゃなく、周りごと洗われてる」
乾いた報告に、誰も言葉を返せなかった。自分の腕一つが原因だと思っていた脅威が、いつの間にか、周囲の人々の暮らしにまで影を伸ばし始めていた。
「もう、勘違いじゃ済まされねえな」
キーウィが煙草を灰皿へ押し付けながら、低く呟いた。
「周辺まで洗われてるとなると、中央キャンプの連中にも、いずれ話しておく必要がある」
「……巻き込みたく、ない」
ニッカが小さく漏らすと、キーウィは首を振った。
「巻き込むも何も、もう巻き込まれてる。知らせないことの方が、後々もっと大きな禍根を残す」
冷静な指摘に、ニッカは反論の言葉を見つけられなかった。誰かを守るということは、都合の悪い事実まで含めて、正直に伝えることでもあるのかもしれなかった。
キーウィは煙草の煙をひとつ吐き出してから、静かに言葉を継いだ。
「アラサカが、直接動き出してる」
「……確定、ってこと」
ニッカの問いに、キーウィは短く頷いた。
「ああ。奴らは、証拠を残すような真似はまずしない。それでも、こうして尻尾を掴ませたということは」
「それは」
「焦り始めてる、ってことかもしれない。あるいは、もう隠す必要がないと判断したか」
どちらであっても、良い兆候ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。
同じ頃、ナイトシティの高層ビル群、その一室では、抑揚のない声が短い報告を読み上げていた。
「観測機、信号途絶。回収も不能と判断されます」
「……見つかったか」
窓を背にした男が、静かに問い返した。
「はい。対象側の対応速度は、想定を上回るものでした」
報告を受け、男はしばらく黙り込んだ。粗い解像度の映像には、岩陰を検分する二人の男の姿が、辛うじて映し出されている。
「……観測だけでは、埒が明かないか」
部下が、静かに次の指示を待っていた。
「防衛能力、対応速度、いずれも報告以上のものと見て間違いないかと」
「後ろ盾の規模も、拡大している」
男は端末の画面を消し、しばらく窓の外に広がる夜景を見つめ続けた。
「潮時だな」
短い呟きに、部下は反応を待った。
「次の段階へ進める。ただし、力任せのやり方は取らない」
「……接触、ということでしょうか」
「ああ。まずは、対話の形を取る。相手の性質を、直接この目で見定めてからでも遅くはない」
冷静な声に、部下は短く頷いた。
「準備を」
「畏まりました」
「対象への接触は、いつ頃を」
部下の問いに、男はしばらく考え込んだ。
「急ぐ必要はない。だが、悠長にもしていられない。後ろ盾が増えるほど、条件は不利になる」
「では」
「一週間、いや、それより早くてもいい。相手が油断する頃合いを見計らえ」
「油断、でしょうか。あの様子では」
「油断とは限らない。だが、警戒し続けることに疲れる瞬間は、どんな人間にもある」
冷静な分析に、部下は短く頷いた。人の心理の隙を突くやり方は、この男が長年培ってきた流儀そのものだった。
「もう一つ、伝えておく」
「はい」
「今回は、力で押さえ込むための人員は必要ない。交渉ができる人間を用意しろ。荒事は、最後の手段だ」
「畏まりました」
短いやり取りを終えると、男は再び窓の外へ視線を戻した。夜景の中に散らばる無数の光の一つ一つが、ナイトシティという街を形作っている。その光の届かない場所で、荒野の片隅に灯る小さな温もりのことを、この男はまだ何も知らなかった。
「面白い」
その呟きは、静かな執務室に落ちて消えた。恐怖でも、苛立ちでもない。値踏みするような、乾いた興味だけがそこにあった。
ガレージでは、夜が更けても、緊張の解けない時間が続いていた。作業台を囲んだ一同の間に、これまでとは違う重さの沈黙が横たわっている。
「……これから、どうなるの」
ニッカが呟くと、キーウィが煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「分からない。だが、監視だけの段階は、もう終わったと見た方がいい」
「次は」
「接触してくるか、あるいは強引に手を出してくるか。どちらの目もある」
淡々とした答えに、円座の空気が一段と張り詰めた。
「どっちにしろ、あたしらがいるだろ」
レベッカが、努めて明るい声を上げた。
「ドローン一機に、びびってどうすんだよ」
「……ドローンだけの話じゃない」
ニッカが小さく返すと、レベッカは肩をすくめた。
「分かってるさ。それでも、暗い顔してたって始まんねえだろ」
軽口の奥に、隠しきれない気遣いが滲んでいた。ニッカはそれ以上何も言い返さず、ただ小さく頷いた。
ドリオが静かに、金属片を作業台の隅へ置き直した。
「これは、預かっておく。何かの手がかりになるかもしれない」
「……お願い」
「怖がる必要はない、とは言わない。ただ、備える時間はまだある」
穏やかな声に、ニッカは頷いた。備える、という言葉が、以前よりずっと現実味を伴って響いていた。
ルーシーが端末をしまいながら、静かに付け加えた。
「通信の防護、こっちも見直しておく。向こうが本気で動くなら、まず情報を絶やさないことが先決」
「……頼りにしてる」
素直な一言に、ルーシーはわずかに目を見開いた。それから、いつもの平静さを取り戻すように端末をしまい直した。
「素直に言われると、調子が狂う」
「じゃあ、次からはやめとく」
「……別に、今のままでいい」
小さく零された返事に、ニッカはふっと口元を緩めた。
「ニッカ」
メインが、低く名を呼んだ。
「何」
「今日、無理に一人で行こうとしなかったな」
「……当たり前でしょ。あんな機械、素手でどうにかできる相手じゃない」
「それだけじゃねえ。前なら、あんたは自分で確かめに行こうとしただろう」
指摘され、ニッカは口をつぐんだ。以前の自分なら、確かにそうしていたかもしれない。誰かに任せるという選択肢を、初めから持ち合わせていなかった。
「……少しは、学習した」
小さく漏らした答えに、メインは口の端を緩めた。
「上出来だ」
夜半を過ぎ、見張りの交代が始まる頃、ニッカは工具箱の蓋に手を置いたまま、しばらく動けずにいた。手のひらに乗せた金属片の感触が、まだ指先に残っている。
バートのレンチを、彼女はそっと取り出した。欠けた柄を握りしめる。壊れた場所を叱っても、直りはしない。まず、どこが痛んでいるのかを見つけてやれ。育ての親の教えを、こんな夜にまで頼ろうとしている自分に、ニッカは小さく息をついた。
「……次は、何をしてくるつもり」
誰にともなく漏らした問いに、答える者はいなかった。窓の外に広がる夜空を見上げながら、ニッカは静かに目を閉じた。
制御盤の光だけが、静まり返った格納庫を淡く照らしている。見張りに立つファルコの足音が、遠く扉の外から規則正しく響いていた。眠れずにいるのは、自分だけではないのかもしれない。そう思うと、胸の底に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなる気がした。
棚の奥に置かれた金属片が、照明の下で鈍く光っている。ただの部品として扱うには、あまりに冷たい光だった。けれど、壊れたものを見過ごせない性分は、相手が敵の持ち物であっても変わらない。いずれこれを解体し、正体をもっと深く暴いてやる。そう思う自分の中に、恐れとは別の、確かな闘志が芽生え始めていることに、ニッカは気づいていた。
十八の夏に立てた誓いは、まだ胸の底に沈んでいる。ナイトシティには関わらない。誰にも深く踏み込ませない。だが、丘の向こうから伸びてくる手は、もう静観するだけの段階を過ぎようとしていた。牙を隠していた影が、その輪郭をわずかに剥き出しにし始めている。
隣には、確かに誰かがいる。震える指先を支えてくれる手のひらが、今の彼女にはあった。一人で誓いを抱え込んでいたあの夏とは、もう何かが違っている。その違いだけを頼りに、ニッカは静かに次の夜へと向き合おうとしていた。
窓の外で、風が乾いた音を立てて通り過ぎていく。その音に紛れて、遠くの尾根の向こうから、まだ何かがこちらを窺い続けているような気がしてならなかった。理由のない胸騒ぎほど、扱いに困るものはない。そのことを、ニッカは今この瞬間、改めて思い知らされていた。
牙を剥いた影は、まだその全貌を見せていない。だが、動き出したものはもう止まらない。そのことだけは、誰の目にも、はっきりと見え始めていた。
工具箱の蓋を、ニッカは静かに閉じた。次の朝がどんな形で訪れるのか、今の彼女にはまだ分からない。それでも、迎え撃つための備えだけは、一つずつ確かに積み重ねられている。その事実だけを支えに、彼女は長い夜へと身を委ねていった。