金属片が転がっていたあの夜から、三日が過ぎていた。
外周モニターの数値は、依然として平常の範囲に収まっている。振動反応はなく、光学センサーにも異常は見当たらなかった。通信帯域の走査結果にも、怪しい波形は浮かんでこない。それでも、ガレージを包む空気は、以前とは明らかに違う密度を持ち始めていた。静けさそのものが、じわりと重みを増している。
朝の光が差し込む格納庫の中で、ニッカは工具箱の蓋を開けたまま、しばらく手を止めていた。眠りは浅く、途切れがちだった。それでも体は自然と目を覚まし、いつもの手順をなぞろうとする。壊れたものを直す。その動作だけが、今の彼女の輪郭をかろうじて保たせてくれる気がした。
金属片は、作業台の隅に置かれたままだった。ルーシーが持ち帰って詳しく解析すると言っていたが、まだ結果は届いていない。朝日を受けて鈍く光るその欠片を横目に見ながら、ニッカは今日もセンサーの再点検に取りかかった。
指先を動かすたび、昨夜までの緊張が少しずつ形を変えていく気がした。何もしないまま待ち続けることよりも、手を動かしている方が、まだ気持ちを保てる。そのことを、ニッカは長い年月をかけて、身体で覚えていた。
中央キャンプでは、拠点移動の話が、以前よりも具体的な形を帯び始めていた。年長の男と老女が、連日のように顔を出しては、フェンスの補強状況や逃げ道の確保について確かめていく。誰もそれを口には出さなかったが、いつでも動けるように支度を整えておく。そういう空気が、クラン全体に静かに広がりつつあった。
水筒を抱えた少女は、この日も付き添いの母親と共に顔を出した。
「ニッカ姉、これ、お母さんが作ったパン」
「ありがとう。美味しそう」
まだ温かい包みを受け取りながら、ニッカは少女の後ろに立つ母親へ小さく頭を下げた。母親は硬い表情のまま、それでも柔らかく会釈を返してくれた。誰もが、言葉にしない不安を抱えたまま、それでも普段通りの暮らしを続けようとしている。その健気さが、かえってニッカの胸を締めつけた。
その頃、格納庫の隅では、ルーシーが端末に向かい合ったまま、静かに指先を動かし続けていた。裏社会の情報網を丹念に辿っても、新しい書き込みは見当たらない。金属片の組成についても、解析はまだ途中だった。
「……何も、出てこない」
誰にともなく漏らした呟きに、答える者はいなかった。予兆さえ掴めないまま迎える朝ほど、扱いに困るものはない。ルーシーはそのことを、今になって改めて思い知らされていた。
朝のうちに、年長の男と老女が、また連れ立って顔を出した。
「今日も、変わりないか」
「今のところは」
「そうか」
短い挨拶を交わした後、老女がふと声を落とした。
「移住の話、クランの集会でまとまりそうだ」
「……いつ、動くの」
「まだ決まってない。ただ、あんたの返事一つに、みんなが従うわけじゃないってことだけは、覚えておいてほしい」
穏やかな声の奥に、譲れない決意が滲んでいた。ニッカは工具箱の蓋の縁に指をかけ、小さく頷くことしかできなかった。
「あんたを責めてるわけじゃない。ただ、みんなの暮らしを守る責任が、こっちにもあるんだ」
「……分かってる」
短いやり取りの後、二人は静かに踵を返した。その背中を見送りながら、ニッカは自分の存在そのものが、この土地に暮らす人々の運命を左右し始めているという事実を、改めて噛みしめていた。
昼前、レベッカが愛銃の照準機構を覗き込みながら、退屈そうに欠伸をした。
「なあ、あれからもう三日だぜ。次はいつ来んだよ」
「読めない。来なければ、それはそれで構わない」
「肩透かしにも程があるっつーの」
軽口を叩きながらも、レベッカの指先は銃の分解と組み立てを何度も繰り返していた。手を動かし続けることでしか、落ち着かない気持ちを紛らわせられないのかもしれない。ニッカはその様子を見て、あえて何も言わなかった。
「今度こそ、ぶっ放してやる」
「使う機会、ない方がいい」
「分かってるよ、そんくらい」
ぶっきらぼうに返しながらも、レベッカは銃身を磨く手を止めなかった。手入れを終えた愛銃を光にかざし、彼女は満足げに目を細めた。
「いつでも来やがれってんだ」
誰にともなく吐き捨てた声に、隠しきれない緊張が滲んでいた。頼もしさと危うさが、紙一重で同居している。ニッカはその横顔を見ながら、小さく息をついた。
格納庫の奥では、デイビッドがサンデヴィスタンの点検キットを片付けていた。
「調子はどうだ」
「悪くない。数値も安定してる」
「ならいい」
工具を棚に戻しながら、デイビッドはふとニッカの方を振り返った。
「あんた、ちゃんと寝てるか」
「寝てる」
「嘘つけ。目の下、真っ黒だぞ」
図星を突かれ、ニッカは思わず視線を逸らした。誰かに体調を気にかけられることに、彼女はまだ慣れていなかった。
「心配、しなくていい」
「心配するに決まってんだろ。あんたが倒れたら、困るのはこっちだ」
無愛想な物言いの奥に、隠しきれない気遣いが滲んでいた。ニッカはそれ以上何も言い返せず、工具箱の縁に指先を這わせた。
昼過ぎ、ファルコが逃げ道の地図を広げ、キーウィと何事か話し込んでいた。
「三方向のうち、二つは塞がれる可能性がある」
「アラサカなら、そのくらいの手は打ってくるだろうな」
「残る一つも、当てにしすぎない方がいい」
「分かってる。今、四つ目を探ってる」
低い声でのやり取りに、ドリオが静かに耳を傾けている。誰も声を荒げることはなかったが、その静けさの中に、張り詰めた緊張が確かに漂っていた。
「地図、私にも見せて」
ドリオが問うと、ファルコは頷いて地図を差し出した。
「北の岩場は、車高の低い車両じゃ抜けられない」
「なら、そこは選択肢から外す」
「中央キャンプの避難先も、頭に入れておいた方がいい」
「移動先の候補は」
「三つ、絞ってある。どれも、水源から遠くない」
ファルコが淡々と答えると、ドリオは小さく頷いた。地図を照らす作業灯の光だけが、二人の手元をぼんやりと浮かび上がらせている。誰も口には出さなかったが、いざという時に迷わず動けるよう、備えは着実に積み上げられていた。
その脇で、ドリオが焚き火の跡を静かに片付けていた。
「怖い?」
不意に問われ、ニッカは手を止めた。膝に置いていた工具が、かちりと小さな音を立てた。
「……分からない。今度は、何が来るのかも分からないから」
「分からないことを怖がるのは、自然なこと。前にも、そう言ったはず」
「覚えてる」
「なら、いい」
それだけ言うと、ドリオはニッカの肩へそっと手を置いた。
「一人で背負おうとしたら、承知しないから」
「……分かってる」
穏やかな声に、ニッカは小さく頷いた。誰かに気にかけられることの重みを、彼女はまだ完全には受け止めきれずにいたが、それでも拒む理由はもうどこにも見当たらなかった。
昼下がり、外周センサーが新たな反応を告げた。
制御盤の前に座っていたルーシーが、画面を確かめて短く声を上げた。
「……車両、一台」
ニッカは工具を置き、急いで駆け寄った。画面に映るのは、これまでとは明らかに違う動きだった。物陰に隠れるでもなく、速度を落とすでもない。乾いた大地の上を、一台の車が真っ直ぐガレージへ向かって走ってくる。
「隠れて、ない」
呟いた声に、ルーシーが頷いた。
「わざと、見せてる」
その言葉の意味を、ニッカはすぐには飲み込めなかった。だが、画面越しに映る車体の堂々とした走り方が、何よりも雄弁にその意図を物語っていた。
「編隊は」
「一台だけ。後続も、確認できない」
短い応答に、ニッカは唾を飲み込んだ。装甲車両でもなければ、無人機でもない。ただ一台の車が、隠れる素振りすら見せずに近づいてくる。その事実が、かえって不気味さを増していた。
画面の中の砂煙は、少しずつ大きさを増していく。誰も口を開かないまま、その動きだけを見つめ続けていた。
騒ぎを聞きつけ、格納庫にいた全員が制御盤の前に集まってきた。
「ドローンの時とは、違うな」
メインが画面を見つめながら、低く呟いた。
「隠れる気が、まるでない」
「正面から来る気、ってことか」
ファルコの問いに、キーウィが煙草を灰皿代わりの缶へ押し付けながら答えた。
「そういうことだろうな。奴らのやり方だ」
「迎撃、しますか」
ドリオが穏やかに問うと、ニッカは首を振った。
「まだ、しない。相手が何をしに来たのか、それを先に確かめる」
誰も異論を挟まなかった。以前ならすぐに自分一人で確かめに走ろうとしていたはずのニッカが、今は落ち着いて周りへ判断を委ねている。その変化に、メインがわずかに目を細めた。
「動かなくても、いいのか」
「動く。でも、一人じゃない」
短く答えたニッカの声に、迷いはなかった。
「レベッカは、物陰から狙いをつけて。ファルコは車の逃走経路を塞げる位置に。ドリオとキーウィは、私の後ろ」
「あんたは」
「私が、話す」
きっぱりとした指示に、メインはしばらく黙り込んだ。
「危なくなったら、すぐに退け」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ、足りねえんだよ」
低い声に滲む懸念を、ニッカは黙って受け止めた。反論する余地は、自分自身の中にもなかった。
車両は、ガレージの手前でゆっくりと速度を落とした。土埃の中から降り立ったのは、これまで丘の上に佇んでいた男とは、明らかに違う人物だった。
仕立てのいい灰色のコートを纏い、砂避けの装備すら身につけていない。荒野の乾いた風になど、初めから縁がなかったかのような佇まいだった。染み一つない革靴が、乾いた地面の上で不自然なほど浮いて見える。男は車の脇に立ち止まり、両手を軽く広げてみせた。
「武器は、持っていない。確かめてもらって構わない」
落ち着いた声が、静かな午後の空気に響いた。
メインとファルコが、無言のまま男へ近づいていく。手早く身体を検めた二人が、互いに視線を交わし、小さく頷いた。
「……確かに、丸腰だ」
ファルコの報告に、ニッカは工具箱の縁を握りしめたまま、一歩前へ出た。
「何の用?」
「単刀直入で、いいのかな」
「回りくどいの、嫌い」
「結構。単刀直入に言おう」
男は薄く笑い、言葉を継いだ。
「君の腕を、高く買っている者がいる」
「……誰が」
「名前を明かす段階には、まだない。ただ、君が思っている以上に、大きな組織だと言っておこうか」
「アラサカ」
ニッカが言い放つと、男の眉がわずかに動いた。
「……随分と、察しがいい」
「否定、しないんだ」
「否定する理由も、ないのでね」
落ち着いた返答に、格納庫の空気が一段と張り詰めた。レベッカが物陰で銃のグリップに手をかけたのが、気配だけで伝わってくる。
「用件を、言って」
ニッカが促すと、男は懐から小さな端末を取り出した。
「君の技術に、正当な評価と環境を与えたいと考えている。今の暮らしを、無理に奪おうという話ではない」
「……環境って」
「安全な研究施設。潤沢な資材。そして、二度と誰かに命を脅かされない立場」
「それだけの申し出をするからには、何か狙いがあるはずでしょ」
「察しがいいついでに、もう少しだけ教えておこうか。我々が本当に求めているのは、部品を直す技術ではない」
「……じゃあ、何」
「限界を、疑わない発想だ。誰もが不可能だと思っている場所に、平然と手を伸ばす感性。それこそが、我々の抱える最大の課題を解く鍵になり得る」
抽象的な物言いに、ニッカは眉をひそめた。だが、その奥に潜む何かが、ひどく大きな計画の一端であることだけは、はっきりと感じ取れた。
物陰に潜んでいたレベッカが、思わず一歩踏み出しかけた。
「おい、こいつ――」
「動くな」
低く鋭いファルコの声が、それを制した。レベッカは奥歯を噛みしめながら、その場に留まった。
「頼もしい仲間だ」
男が視線だけをそちらへ向け、低く呟いた。
「ここまで育てるのに、随分と手間がかかったのだろうね」
「あんたに、関係ない」
「関係はある。君の周りにいる人間の数だけ、我々にとっての交渉材料も増えるのでね」
冷たい理屈に、ニッカの胸の奥で何かが焦げつくような感覚が走った。
「そこの彼の神経負荷バッファーも、なかなか興味深い仕事だ」
男の視線が、デイビッドへゆっくりと向けられた。
「軍用規格の設計思想からは、大きく外れている。それでいて、実際の効果は上回っている」
「……見ただけで、分かるの」
「専門家を、何人か雇っているものでね」
軽く返された言葉に、デイビッドの表情が険しくなった。自分の体に施された技術の一つ一つまで、既に値踏みされている。その事実が、この場の全員に、改めて相手の底知れなさを突きつけていた。
整った言葉の並びに、ニッカは奥歯を噛みしめた。前世の記憶が、その言葉の裏にある企業の本質を、静かに警告してくる。差し出される甘さの分だけ、失うものの大きさも計り知れないということを、彼女はよく知っていた。
「使い潰す気、でしょ」
「人聞きの悪い言い方だ」
「否定、しないんだ」
同じ言葉を返され、男はわずかに口の端を上げた。
「否定する理由が、今度はこちらにある。だが、君を説得できる材料ではないだろうな」
「……断る」
「理由を、聞いても?」
「理由なんて、いらない」
短く言い切ったニッカの声に、揺らぎはなかった。
「私はここで、ガラクタを直しながら生きていく。それだけ」
男はしばらく、ニッカの表情をじっと見つめ続けた。値踏みするような視線ではあったが、そこに苛立ちの色はなかった。
「バートという名の、老いたメカニックがいたそうだね」
不意に告げられた名前に、ニッカの喉が小さく鳴った。
「……何、知ってるの」
「調べれば、分かることだ。彼が遺したこの場所を、君は手放したくないのだろう」
「関係、ないでしょ」
「関係はある。我々が用意する施設は、君がここで築いたものよりも、遥かに安全だ」
「安全の意味が、違う」
ニッカは静かに、しかしはっきりと言い返した。
「檻の中の安全なんて、いらない」
「……面白い答えだ」
男は呟き、口元をわずかに緩めた。
「檻と呼ぶか。なるほど、悪くない表現だ」
メインが一歩前へ出ようとしたが、ニッカは片手を軽く上げてそれを制した。自分の言葉で、最後まで応じる。その意思が、背中越しにも伝わったのか、メインはそれ以上動かなかった。
「随分な、覚悟だ」
「覚悟ってほどのもの、じゃない」
「では、何と呼ぶ」
「ただの、わがまま」
あっさりとした答えに、男は小さく笑った。侮蔑ではなく、どこか興味深そうな響きだった。
「……そうか」
「それだけ?」
「今日のところは、な」
あっさりとした返答に、ニッカは拍子抜けした。もっと強い言葉が返ってくると、身構えていたはずだった。
男の視線が、ふと横に控えていたキーウィへ移った。
「久しぶりだね」
短い一言に、キーウィの表情が微かに強張った。
「……知り合い?」
ニッカが問うと、キーウィは煙草の灰を見つめたまま、それには答えなかった。
「彼女には、聞かない方がいい過去がある。今はまだ、な」
男はそう言葉を継いだ。キーウィは何も言い返さず、ただ煙を長く吐き出しただけだった。その沈黙の重さに、ニッカはそれ以上踏み込むことができなかった。
「一つだけ、言っておこう」
男はゆっくりと続けた。
「我々は、力任せに事を進める組織ではない。だが、待つことにも限度がある」
「……脅し?」
「事実だ。今は、君の判断を尊重しよう。だが、その判断がいつまでも通用するとは、思わないことだ」
「だったら、勝手にすれば」
「勝手に、させてもらうつもりだ」
軽く肩をすくめる仕草に、感情らしいものはほとんど見えなかった。ただ淡々と、決められた手順をこなす者の静けさだけが、そこにあった。
男は端末をコートの内側へ戻すと、車へ向き直った。
「名乗っておこうか。私は、レイン」
「……レイン」
「覚えておいてもらえると、話が早い」
レインという名前に、ニッカは覚えがなかった。前世の記憶を辿っても、それらしき人物の情報は出てこない。原作の筋書きには存在しない人物だという事実が、かえって彼女の警戒心を強めていた。知っているはずの展開から外れた存在が、これから先をどこまで変えてしまうのか。答えの出ない問いだけが、頭の中を巡り続けていた。
軽く会釈すると、レインは車に乗り込んだ。エンジン音が静かに響き、車体はゆっくりと向きを変えていく。土埃を巻き上げながら、それは来た時と同じ、堂々とした速度で去っていった。
姿が完全に見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。
「……本当に、来た」
ニッカが呟くと、キーウィが煙草に火を点けながら低く答えた。
「言った通りだろう。奴らは、力任せなことはしない」
「思ったより、あっさりしてた」
「あっさり見えるのが、あの企業の恐ろしいところだ」
淡々とした指摘に、円座の空気が引き締まった。
「あの余裕、気に食わねえな」
レベッカが物陰から歩み出て、銃を握り直しながら吐き捨てた。
「あたしらのこと、まるで恐れちゃいねえ」
「恐れる必要が、ないと踏んでるんだろう」
ドリオが小さく頷くと、ルーシーが端末をしまいながら付け加えた。
「レイン、って名前。裏で少し調べてみる。ただ、期待はしないで」
「……お願い」
「キーウィ」
メインが低く名を呼んだ。
「何」
「あの男と、面識があるのか」
キーウィはしばらく答えず、煙草の灰を缶へ落とした。
「昔の話だ。今は、関係ない」
「関係ないなら、あんな顔しねえだろう」
指摘され、キーウィは短く息をついた。
「……いつか、話す。今は、まだいい」
短い答えに、それ以上誰も踏み込まなかった。誰にも触れさせたくない過去があるということを、この場の全員が、それぞれの形で理解していた。
「あんた、よく最後まで一人で応じたな」
メインがニッカの肩に手を置いた。
「よく、断ったな」
「当たり前でしょ。あんな話、乗るわけない」
「乗る奴も、いる話だ。安全と引き換えなら」
低い声に、ニッカは首を振った。
「安全なんて、自分の手で作ればいい。誰かに与えられるものじゃない」
きっぱりとした答えに、メインは口の端を緩めた。
「……あんたらしいな」
「褒めてる?」
「褒めてる」
軽口の応酬に、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
デイビッドが、ふと口を開いた。
「バートさんの名前まで、知ってた。どこまで調べ上げてるんだよ、あいつら」
「……分からない。でも、多分、私たちが思うよりずっと」
ニッカの答えに、円座の空気が沈んだ。見えない相手に日々を覗き込まれているという事実だけが、静かに重さを増していく。誰も、それを言葉にはしなかった。
「中央キャンプにも、伝えておいた方がいいな」
ファルコが低く言うと、ドリオが頷いた。
「今日中に、私が話しておく」
「……お願い」
ニッカが小さく頭を下げると、ドリオは穏やかに首を振った。
「あなたが謝ることじゃない」
少女が母親と共に、遠くから様子を窺っているのが目に入った。ニッカはゆっくりと歩み寄り、屈み込んで目線を合わせた。
「怖かった?」
「……ちょっとだけ」
「もう、大丈夫。ちゃんと、みんなで守るから」
小さく頷く少女の頭を、ニッカはそっと撫でた。安心させるための言葉が、これほど自然に口をついて出てくる日が来るとは、以前の自分には想像もつかなかった。
同じ頃、ナイトシティの高層ビル群、その一室では、抑揚のない声が短い報告を読み上げていた。
「対象、勧誘には応じず。即答での拒絶でした」
「……レインの見立ては」
「揺らぎのない拒絶。脅しにも動じない性質と、報告されています」
窓を背にした男は、しばらく黙り込んだ。
「面白い」
「いかが、いたしましょう」
「今は、それでいい。断られたことに、意味がある」
男は端末を静かに置き、夜景の広がる窓の外へ視線を移した。
「意志の強さは、素材の質を測る、何よりの指標だ」
「あの技術力を、計画に組み込めれば」
「時期尚早だ。今はまだ、外堀を埋める段階にすぎない」
「では、次の段階を」
「急ぐな。断られた直後に畳み掛けるのは、下策だ。少し、時間を置け」
短い指示に、部下は静かに頭を下げた。
「もう一つ、報告が」
「何だ」
「同行していた女が、旧知の人物だった可能性があると、レインが」
男の視線が、わずかに鋭さを帯びた。
「……名前は」
「まだ、確証はありません」
「調べておけ。急ぐ必要はないが、忘れる必要もない」
「レインを、休ませるか」
「いや、引き続き当たらせろ。彼の腕を、無駄にする理由はない」
男の短い返答に、部下はもう一度、深く一礼した。
短い指示を最後に、部屋には再び機械的な静寂だけが満ちていった。窓の外に広がる夜景の中に、荒野の片隅で交わされている温もりも、積み重ねられていく小さな絆も、まだ何一つ届いていない。ただ、静かに動き出した意志だけが、確実にその歩みを進めていた。
夜が更けてから、ニッカは薄闇の中で工具箱に寄りかかり、しばらく身動きが取れずにいた。
レインという名前が、頭の奥に重く残っている。丘の上に佇んでいた輪郭のない影が、ようやく一つの顔と名前を持って現れた。それでも、その正体が明らかになったことは、安堵ではなく、新しい重みとして彼女の胸にのしかかってきていた。
バートのレンチを取り出し、ニッカは刃こぼれた柄をそっと握りしめた。指先に伝わる金属の冷たさだけが、今の自分を現実に繋ぎ止めているようだった。長年握り続けてきたその柄は、いつの間にか彼女の指の形に、わずかに沿い始めている。
「……安全なんて、自分で作る」
昼間、メインに向けて放った言葉を、ニッカはもう一度、誰にともなく呟いた。ナイトシティには関わらない、誰にも深く踏み込ませない――そう誓った十八の夏は、今も胸の底に重く沈んでいる。だが今、その誓いの形は、以前とは静かに変わり始めていた。
関わらないことで守ろうとしていたものが、今は関わり合いながら守るものへと変わっている。バートが遺したこの場所も、隣にいる誰かたちの温もりも、もう手放す気にはなれなかった。
脳裏に、遠い記憶がふと蘇った。十五の頃、初めて廃品から軍用規格を超える部品を組み上げた夜、バートは驚くでもなく、ただ静かに笑っていた。
「怖いのはな、壊れることじゃない。壊れたまま、目を逸らし続けることだ」
低い声が、記憶の底からそのまま蘇ってくる。あの時は意味を掴みきれなかった言葉が、今になってようやく、輪郭を持って胸に落ちてくる気がした。目を逸らさずにいること。それが今の自分にできる、精一杯の誠実さなのかもしれなかった。
制御盤の前に座っていたキーウィが、煙草をくわえたまま、静かに歩み寄ってきた。
「悪いな。あんたを巻き込んだ」
「巻き込まれたのは、お互い様でしょ」
「……そうかもな」
キーウィは、しばらく口をつぐんだ。
「あの男とのこと、いつか聞かせて」
「……ああ。いつか、な」
それ以上、互いに言葉を重ねることはなかった。踏み込んでいい間合いと、まだ踏み込むべきではない間合い。その両方を、ニッカは少しずつ見分けられるようになっていた。
格納庫の隅では、ルーシーが端末を開き、レインという名前を手がかりに情報網を辿り始めていた。表面的な記録には、何も引っかかってこない。それでも、この静けさが長くは続かないという予感だけが、彼女の指先を止まらせなかった。
「……出てこない、か」
小さく呟き、ルーシーは端末を閉じた。今夜はここまでにしておく。無理を重ねれば、判断そのものが鈍る。師匠から教わった鉄則を、彼女はふと思い出していた。
深く息を吐き、ニッカは目を閉じた。名を得た影は、まだ完全に去ったわけではない。丘の上にあった輪郭のなさが、レインという一つの顔に変わっただけで、脅威そのものが薄れたわけではなかった。
それでも、以前とは違う何かが確かにある。誰かが隣にいるという事実だけが、今の彼女を支えていた。たった一人で誓いを背負っていたあの夏とは、もう違う夜を過ごしている。
格納庫の中は静まり返り、外周モニターの光だけが薄闇の壁を淡く照らしていた。扉の外からは、見張りに立つファルコの足音が、途切れることなく規則正しく響いてくる。眠れずにいるのは自分一人ではないと思うと、胸の底に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ和らいでいく気がした。
レインは去っても、事は後戻りしない。それだけは、疑いようもなく確かだった。だが、焦って追いかける必要はない。壊れた場所を一つずつ見つけ、直していくやり方を、彼女はこの荒野で誰よりも知っている。迫りくる影に対しても、そのやり方だけは、きっと変わらないはずだった。
工具箱の蓋に手を添え、ニッカはそっと閉じた。この先いくつの夜を越えることになるのか、まだ見当もつかない。それでも、迎え撃つための支度は、この手で一つずつ整えていける。その確信だけを胸に、ニッカはゆっくりと瞼を閉じた。