サイバーパンク:ジャンク・アルケミー   作:たこ焼き 龍月

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第9.1話 ネットの深淵を覗いたら深淵から覗き返された

 

 レインと名乗った男が去ってから、十日が過ぎていた。

 

 外周センサーの数値は、あの日から変わらず平常の範囲に収まっている。振動反応もなく、光学監視にも不審な影は映っていない。通信帯域を洗う走査結果にも、怪しい波形は浮かんでこなかった。それでも、ガレージを包む空気には、以前とは違う張り詰め方が根を張り始めていた。誰かが油断した瞬間を狙って、何かが静かに忍び寄ってくる。そんな予感だけが、日々の底にじわりと沈殿していた。

 

 静かなままの十日間が、かえって不気味だった。力任せに事を進める組織ではないと、レイン自身が言い残していた。だとすれば、この静けさもまた、次の一手のための助走にすぎないのかもしれない。そう考えるたび、ニッカの胸の奥で、小さな棘がじくじくと疼き続けていた。

 

 朝の光の中で、ニッカは外周タレットの照準機構を分解し、埃を払い落としていた。手順は体に染みついている。だが、いつもより丁寧に、いつもより時間をかけて、彼女は同じ作業を繰り返していた。手を止めれば、余計な想像が入り込んでくる。それを避けるための儀式のようなものだった。

 

 組み上げ直した部品を光にかざし、動作を確かめる。異常はない。分かりきった結果だとしても、彼女は何度も指先で確かめずにはいられなかった。バートから受け継いだ習慣の一つだった。疑わしいものを疑わしいままにしない。その積み重ねが、これまでこの場所を守り続けてきた。

 

 レインが去った翌日から、ニッカはガレージの防衛設備をひそかに見直し続けていた。既存の迎撃タレットに加え、廃棄された監視カメラの基板を繋ぎ合わせ、死角を減らすための補助センサーをいくつも増設した。誰かに頼まれたわけではない。ただ、あの男が浮かべていた薄い笑みを思い出すたび、今のままでは足りないという焦りが胸の奥から湧き上がってきた。

 

 外周の配線を辿り、接続の緩みがないかを確かめる。単調な点検作業の中に、ニッカは自分自身の不安をそっと押し込めていた。手を動かしている間だけは、余計な想像に呑まれずに済んだ。

 

 工具の並びを確かめながら、ニッカはふと視線を上げた。格納庫の隅で、ルーシーが端末に向かい合ったまま、じっと画面を見つめている。ここ十日というもの、彼女がガレージに顔を出す頻度は明らかに増えていた。以前なら数日に一度だったものが、今ではほとんど毎日のように現れる。

 

  

 

「今日も、来たんだ」

 

「悪い?」

 

「悪くはないけど。あんたの仕事、そんなに暇なの」

 

「暇じゃない。むしろ、今が一番忙しい」

 

 端末から目を離さないまま答えるルーシーの声には、いつもの余裕がわずかに欠けていた。ニッカは工具を置き、彼女の背中越しに画面を覗き込んだ。並んだ文字列の羅列は、裏社会の掲示板らしきものと、暗号化された通信記録の断片だった。

 

「レインの、続き?」

 

「それと、依頼主の方。名前も組織名も出てこない。表の記録には、痕跡一つ残ってない」

 

「そんなに簡単に見つかるなら、最初から化け物企業なんて呼ばれてない」

 

 突き放すような言葉に、ルーシーは小さく肩をすくめた。

 

「分かってる。それでも、何もしないよりはまし」

 

 その一言に滲む頑なさに、ニッカはそれ以上何も言わなかった。誰かに任された仕事ではない。ルーシー自身が背負い込んだものだった。

 

  

 

 水筒を抱えた少女が、いつものように付き添いの母親と共に顔を出した。

 

「ニッカ姉、お水」

 

「ありがとう。今日も助かる」

 

 包みを受け取りながら、ニッカは少女の頭を軽く撫でた。少女はしばらくその場に立ったまま、格納庫の奥にいるルーシーへ興味深そうな視線を向けていた。

 

「あのお姉ちゃん、最近よく来るね」

 

「そうだね」

 

「仲良しなの?」

 

「……さあ、どうだろう」

 

 答えに迷うニッカの様子を見て、少女は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は聞かずに母親と共に去っていった。誰にも言葉にできない距離感というものが、確かにこの場所には存在していた。

 

  

 

 昼前、格納庫の入り口でレベッカが銃の手入れをしながら、退屈そうに足を投げ出していた。

 

「なあ、ルーシー。毎日ここに入り浸ってて、あんたの本業は大丈夫なのかよ」

 

「これも本業のうち」

 

「情報屋が聞いて呆れらあ。もっと稼げる仕事、山ほどあんだろ」

 

「稼ぐことより、大事なことがある時もある」

 

 素っ気ない返事に、レベッカは口をへの字に曲げた。

 

「そういう真面目な顔、あんたには似合わねえよ」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 軽口の応酬が続く傍らで、デイビッドが工具棚の整理を手伝いながら、二人のやり取りに耳を傾けていた。彼の視線は、時折ルーシーの横顔へ向けられる。以前より頬がわずかに削げているように見えるのは、気のせいではないはずだった。

 

「あんた、ちゃんと寝てるのか」

 

「寝てる」

 

「嘘つけ。目の下、隈がひどい」

 

 図星を突かれたルーシーは、答えの代わりに端末の画面へ視線を戻した。誰かに気にかけられることへの戸惑いが、その仕草の端々に滲んでいた。

 

「心配しなくていい。仕事の一環だから」

 

「仕事だからって、体を壊してどうすんだよ」

 

「壊れる前に、終わらせる」

 

 きっぱりとした答えに、デイビッドはそれ以上何も言えなくなった。頑なさの奥に隠れた焦りのようなものを、彼はうまく言葉にできずにいた。

 

  

 

 少し経って、デイビッドはサンデヴィスタンの点検キットを片付けながら、ニッカが増設したばかりのセンサー配線へ興味深そうに目を留めた。

 

「これ、また増やしたのか」

 

「念のため」

 

「念のため、にしちゃ数が多すぎる気がするけどな」

 

「多いくらいで、ちょうどいい」

 

 素っ気ない返事に、デイビッドは小さく苦笑した。だが、その苦笑の奥には、彼女の警戒が決して大げさなものではないという理解が滲んでいた。

 

「あんたも、レインのことが気になってるんだな」

 

「気にならない方が、おかしいでしょ」

 

 短い答えに、デイビッドは黙り込んだ。誰の胸にも、同じ緊張が静かに巣くっているという事実だけが、確かにそこにあった。

 

  

 

 午後になると、ファルコが逃走経路の地図を広げ、キーウィと低い声で言葉を交わしていた。

 

「南の岩場、あそこも抜け道として使えそうだ」

 

「悪くない。ただ、雨が降ると泥濘む」

 

「乾季の間限定、ってことだな」

 

 淡々としたやり取りの奥で、キーウィの視線はしばしば格納庫の隅へ向けられていた。端末に張り付いたままのルーシーの背中を、彼女はそのたびに眺めていた。

 

「ファルコ。少し外す」

 

「ああ」

 

 短く応じると、キーウィは煙草をくわえたまま、ルーシーの傍らへゆっくりと歩み寄った。

 

  

 

「毎日、随分と根を詰めてるな」

 

「見ての通り」

 

「私が聞いてるのは、根拠の方だ。何をそんなに急いでる」

 

 問いかけに、ルーシーはしばらく答えなかった。指先だけが、変わらず端末の上を動き続けている。

 

「レインを送り込んできた組織、正体が分からないままだと落ち着かない」

 

「落ち着かないから、寝る間を削ってるのか」

 

「そう」

 

 短い返答に、キーウィは煙草の煙をゆっくりと吐き出した。

 

「私が教えたことを、忘れたわけじゃないだろう。無理を重ねれば、判断そのものが鈍る」

 

「分かってる」

 

「分かってる人間の目じゃないな、それは」

 

 鋭い指摘に、ルーシーは初めて手を止めた。だが、視線を上げようとはしなかった。

 

「師匠には、関係ない」

 

「関係はある。あんたが潰れたら、困るのはこっちだ」

 

 低く重ねられた言葉に、ルーシーは小さく息をついた。反論の材料が、すぐには見つからないようだった。

 

「……もう少しだけ」

 

「もう少し、が積み重なって今の隈になってるんじゃないのか」

 

 キーウィの声には、責める響きはなかった。ただ、長年連れ添ってきた弟子の危うさを見透かすような、静かな確信だけがあった。

 

「昔から、そうだったな。誰かに何かを言われる前に、自分で先回りして片をつけようとする」

 

「悪い癖だってのは、分かってる」

 

「分かってるだけで、直った試しがない」

 

 皮肉めいた響きに、ルーシーはようやく小さく笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「レインのことがあってから、ずっと考えてる。あの男が知っていた情報の量。バートさんの名前まで調べ上げていた執念。それが、ただの偶然だとは思えない」

 

「だから、自分の手で先に潰しておきたい、ってわけか」

 

「潰せるなら」

 

 短い言葉に滲む決意を、キーウィはしばらく黙って見つめていた。

 

「無茶をするなとは言わない。だが、体を壊してまで急ぐ理由が、本当にあるのか。それだけは、自分に問い直しておけ」

 

 答えの代わりに、ルーシーは端末の画面へ視線を戻した。師の言葉は、確かに届いている。だが、指先を止める気にはなれなかった。

 

「今日だけ、付き合おう」

 

 思いがけない申し出に、ルーシーは初めて顔を上げた。

 

「珍しいこと言うんだ」

 

「珍しいのは、あんたの意固地さの方だ。一人で潜らせて、何かあったら寝覚めが悪い」

 

「監視のつもり?」

 

「保険のつもり、と言っておく」

 

 軽口めいたやり取りの後、キーウィは煙草の火を消し、格納庫の奥へ視線をやった。ちょうどその時、外周の警報端末が短く鳴り、彼女はそちらへ呼ばれていった。

 

「……すぐ戻る。それまで、無茶はするな」

 

「分かってる」

 

 短く応じたルーシーの声を、キーウィはどこまで信じていいものか、最後まで測りかねているようだった。それでも仕事の呼び出しを無視するわけにもいかず、彼女は後ろ髪を引かれる思いで持ち場へと戻っていった。この時のわずかな判断が、後になってどれほど重い意味を持つことになるのか、まだ誰も知らなかった。

 

  

 

 格納庫の奥では、ドリオが焚き火の跡を片付けながら、二人のやり取りを遠目に見守っていた。誰かが誰かを気にかける光景が、この場所ではもう珍しいものではなくなっていた。けれど、ドリオの胸には小さな引っかかりが残っていた。ルーシーの根の詰め方は、単なる警戒心では説明のつかない何かを孕んでいるように見えた。

 

「あの子、何をそんなに焦ってるのかしら」

 

 独り言のような呟きに、傍を通りかかったニッカが足を止めた。

 

「焦ってる、って」

 

「レインの一件があってから、ずっとああ。まるで、自分だけが何かを知ってるみたいな顔をしてる」

 

 ドリオの指摘に、ニッカは黙って頷いた。前世の記憶を辿っても、ルーシーという少女に纏わる情報は断片的にしか残っていない。アラサカの施設から逃げ延びた過去があるという事実だけは知っていたが、その先の詳細までは分からなかった。分からないことの方が多い相手だからこそ、今の焦りの正体を測りかねていた。

 

「本人が話したがらないことを、無理に聞く気はない」

 

「それでいいと思う。ただ……」

 

 言葉を濁したドリオの視線が、簡易ブースの方角へ向けられた。

 

「無理をしてる人間は、大抵、境目を見誤る。どこまでなら大丈夫か、その線引きが分からなくなる」

 

 その言葉に、ニッカは何も返せなかった。心当たりが、自分自身の中にもあったからだった。

 

  

 

 同じ頃、中央キャンプから年長の男と老女が連れ立って顔を出した。移住の話し合いは、まだ結論を出せずにいるらしい。ただ、二人の表情には以前ほどの切迫感がなくなっていた。

 

「今日も、変わりないか」

 

「今のところは」

 

「そうか」

 

 短い挨拶の後、老女がふと格納庫の奥へ視線を向けた。

 

「あの青い髪の娘、随分と入り浸ってるようだが」

 

「……気にしないで。仕事の一環らしいから」

 

「あんたらの仲間が増えるのは、悪いことじゃない。ただ、あの娘の顔色は、あまりよくないように見えるがね」

 

 指摘に、ニッカは口を噤んだ。誰の目にも分かるほど、ルーシーの疲労は隠しきれなくなっていた。それでも、本人が止まる気配を見せない以上、外から強引に止める術はなかった。

 

「私からも、言っておく」

 

「そうしてやってくれ。若い者を潰しちまうのは、見ていて気持ちのいいもんじゃない」

 

 老女の言葉に頷くと、二人は静かに踵を返した。その背中を見送りながら、ニッカは胸の奥にわだかまる不安を、うまく振り払うことができずにいた。

 

  

 

 日が傾き始めた頃、ルーシーは格納庫の隅にある簡易ブースへ移動していた。外部からの視線を遮るための古い金属板を組み合わせただけの、粗末な作りの空間だった。とはいえ、ネットへ深く潜る作業には、これくらいの静けさが必要だった。

 

 金属板の隙間から漏れる夕日を見つめながら、ルーシーはしばらく端末を握りしめたまま動かなかった。キーウィの言葉は、確かに胸の奥へ届いている。それでも、ここで手を止めるという選択肢は、彼女の中にはなかった。

 

 守りたいものが増えるほど、恐れも比例して膨らんでいく。以前の自分なら、月へ行くことだけを支えに、この街の全てを切り捨てて構わないと思っていた。だが今は、切り捨てられないものが増えすぎていた。デイビッドの背中、ガレージの温もり、そしてこの荒野に根を張り始めた奇妙な家族のような繋がり。それらを守るためなら、多少の無理くらい飲み込んでみせる。そう自分に言い聞かせながら、ルーシーは端末を握る手に力を込めた。

 

 端末を膝に置き、ルーシーは首筋のポートにケーブルを繋いだ。深呼吸を一つ挟んでから、意識を沈めていく。

 

 視界が、現実とは違う色に染まっていく。無数の光の粒子が、格子状に広がる空間の中を流れていた。表層のネットワークは、いつも通りの静けさを保っている。だが、その奥へ進むにつれ、空気そのものが変わり始めるのを、ルーシーは肌で感じ取っていた。

 

 深層へ向かう道は、以前より険しくなっているように思えた。かつて幾度となく行き来した経路のはずなのに、今日は妙な抵抗が指先に絡みついてくる。裏社会の記録を辿り、レインという名前の残滓を探すつもりだった。だが、探るほどに、周囲の光の流れが不自然に濁っていくのが分かった。

 

 濁りは、最初のうちはただの雑音のように見えた。いつもの深層に紛れ込む古いゴミデータの一種だと、ルーシーは軽く受け流していた。だが、進むほどにその濁りは輪郭を持ち始め、やがて一つの流れとして彼女の周囲を取り囲んでいった。逃げ道を塞ぐように、光の壁が静かに閉じていく。

 

 濁った流れの先に、見覚えのある文様が浮かび上がった。

 

 それは、以前どこかで目にした構造だった。記憶の奥底に沈めていたはずの図形が、光の粒子の隙間から静かに輪郭を現していく。ルーシーの指先が、一瞬だけ止まった。

 

「……これ」

 

 誰にも届かない呟きが、暗がりの中に溶けていった。

 

 図形の輪郭は、彼女がまだ幼かった頃に見た施設の記章と、驚くほどよく似ていた。アラサカという名の巨大な影が、まだ現実の脅威として立ちはだかる前の記憶だった。硝子張りの部屋、規則正しく響く機械音、そして自分と同じ姿をした幾つもの影。忘れたはずの光景が、脳裏の奥で唐突に息を吹き返した。

 

 ルーシーは慌てて経路を切り替えようとした。だが、遅かった。

 

 周囲の光が、一斉に色を失っていく。穏やかだった格子状の空間が、軋むような音を立てて歪み始めた。古びた追跡プログラムが、彼女の接続を検知したのだと、ルーシーは直感的に悟った。何年も眠り続けていたはずの何かが、彼女の指先の動きに反応して目を覚ましたのだった。

 

 視界の端に、無数のノイズが噴き出し始めた。断片的な映像が、脈絡もなく明滅していく。幼い頃の記憶、逃げ延びた夜の暗がり、そして今この瞬間の光景が、境目もなく混ざり合っていった。耳の奥で、甲高い音が反響する。それは警報にも、悲鳴にも聞こえた。

 

 遠い記憶の底から、白い廊下の光景が浮かび上がってくる。裸足のまま走った床の冷たさ。背後から追ってくる足音の数。振り返れば捕まると、幼いなりに理解していた恐怖。あの夜に感じたものと同じ質の冷たさが、今この瞬間、指先から這い上がってきていた。

 

 ルーシーは接続を切ろうと、指先を動かした。だが、思うように力が入らない。データの奔流が、意識の隙間へ容赦なく流れ込んでくる。古い施設の記憶が、まるで今起きていることのように鮮明さを増していく。逃げ場のない部屋、冷たい床、遠ざかる足音。忘れていたはずの恐怖が、そのまま現在の感覚として蘇ってきた。

 

「……っ」

 

 喉の奥から漏れた声は、ほとんど息だけの音だった。

 

 押し寄せるノイズの向こうから、無機質な信号が繰り返し届いてくる。捕捉、確認、追跡。機械的な響きのはずのその言葉が、なぜか懐かしさすら伴って脳裏を叩いた。かつて、同じ響きを聞きながら暗い廊下を走った記憶がある。あの夜も、逃げ場はどこにもなかった。

 

 光の壁がさらに狭まっていく。閉じ込められる感覚が、比喩ではなく実感として彼女を締めつけた。逃げ場を探す意識が、幾重にも重なった障壁に阻まれ続ける。壁の隙間から、見覚えのある数列が漏れ出てきた。かつて自分に割り振られていたはずの識別番号。忘れたつもりでいた羅列が、今も色褪せることなく彼女を呼び続けていた。

 

 頭の芯が、焼けるように熱を持ち始めた。視界が二重に、三重に歪んでいく。現実の感覚が、遠く霞んでいくのが分かった。指先の震えを止めようとするほど、震えは大きくなっていくようだった。

 

 逃げなければ、という思いだけが、薄れゆく意識の中で唯一はっきりとした輪郭を保っていた。だが、逃げるための出口が、どこにも見当たらない。かつて幼い体で潜り抜けた非常口の記憶が、今の彼女には残されていなかった。あの時は誰かが手を引いてくれた。今は、誰の手も届かない場所にいる。

 

  

 

 簡易ブースの外では、誰もまだ異変に気づいていなかった。夕暮れの支度で、格納庫の中は普段通りの喧騒に包まれている。レベッカが夕食の鍋を運びながら軽口を叩き、ファルコがそれに素っ気なく応じていた。ドリオは焚き火の準備を整え、デイビッドは工具の片付けを終えたところだった。

 

 誰の耳にも、金属板の向こうから漏れる小さな呻き声は届いていなかった。

 

 ブースの中で、ルーシーの体がゆっくりと傾いだ。膝の上に置いていた端末が、床へ滑り落ちる。鈍い音が響いたが、それに気づく者は、まだ誰もいなかった。

 

 彼女の指先が、宙を掻くように震えた。ケーブルの向こうから流れ込むノイズは止まらない。むしろ、彼女がもがくほどに、その勢いを増していくようだった。まるで、逃げようとする獲物を逃すまいとする罠のように。

 

「……や、め」

 

 声にならない呟きが、金属板の隙間から漏れた。今度は、その音が確かに外へ届いた。

 

  

 

「……今、何か聞こえなかったか」

 

 鍋を運んでいたレベッカが、ふと足を止めた。

 

「気のせいだろ」

 

「いや、確かに聞こえた。あっちの方から」

 

 レベッカが指さした先は、ルーシーが籠っている簡易ブースの方角だった。異変を察したデイビッドが、真っ先にそちらへ駆け出した。

 

「ルーシー?」

 

 呼びかけに、返事はなかった。金属板を押し開けた瞬間、デイビッドの表情が凍りついた。

 

 ケーブルを首筋に繋いだまま、ルーシーが床に崩れ落ちている。顔からは血の気が引き、額には玉のような汗が浮かんでいた。閉じた瞼の下で、眼球だけが激しく動き続けている。

 

「――ルーシー!」

 

 叫び声が、格納庫全体に響き渡った。

 

  

 

 異変を聞きつけ、周囲にいた全員が駆け寄ってきた。真っ先に飛び込んできたキーウィが、崩れ落ちた弟子の姿を見て、一瞬だけ言葉を失った。

 

「……いつからだ」

 

「分からない。今、見つけたばかりだ」

 

 デイビッドの答えに、キーウィは即座にケーブルへ手を伸ばした。だが、繋がった接続を無理に外せば、意識そのものを傷つけかねない。長年の経験が、その手を寸前で止めさせた。

 

「くそ……」

 

 珍しく苛立ちを露わにしたキーウィの声に、ファルコが即座に外周モニターへ駆け寄った。

 

「外からの侵入は」

 

「反応なし。センサーにも、光学にも」

 

 短い確認の後、ファルコの表情がわずかに強張った。

 

「つまり、外からじゃない。中からってことか」

 

「そういうことだ」

 

 目に見えない場所から仕掛けられる攻撃ほど、荒野を渡り歩いてきた男にとって厄介なものはなかった。銃を構えても、狙う相手さえ見当たらない。その事実が、彼の焦燥を一層深くしていた。

 

 駆けつけたメインが低く問うた。

 

「何が起きてる」

 

「ネットの深層で、何かに捕まってる。無理に切ったら危険だ」

 

 短い説明に、格納庫の空気が一気に張り詰めた。レベッカが銃を握りしめたまま立ち尽くし、ファルコは険しい顔で周囲を見回した。目に見える敵など、どこにもいない。それでも、確かに何かがルーシーを蝕んでいる。その事実だけが、全員の背筋を凍らせていた。

 

「あたしらに、できることはねえのかよ」

 

「今は、待つしかない」

 

 キーウィの声には、苛立ちと同じだけの無力感が滲んでいた。長年ネットの世界を渡り歩いてきた彼女にとっても、目の前の光景は初めて見る類のものだった。弟子の危うさに、もっと早く気づくべきだったという後悔が、今になって重く胸を突いていた。

 

 ドリオが崩れ落ちるようにルーシーの傍らに膝をついた。震える指先で、彼女の額の汗をそっと拭う。

 

「大丈夫、大丈夫だから」

 

 届くはずのない言葉を、それでもドリオは繰り返し呟き続けた。誰かにそうしてほしかった夜を、彼女自身も知っていたからだった。

 

 少し離れた場所で、レベッカが握りしめた銃の重みを持て余していた。相手の姿が見えない戦いほど、彼女が苦手とするものはなかった。撃ち込む的があれば、迷いなく引き金を引ける。だが今、目の前で苦しんでいる仲間を救う術は、どんな銃口にも見当たらなかった。

 

「クソが……こういう時に、役に立たねえのかよ、あたしは」

 

 誰にともなく吐き捨てた声が、いつもの威勢を失っていた。

 

  

 

 工具箱を抱えたまま、ニッカが人垣をかき分けて駆け込んできた。

 

「――何があった」

 

 問いかける声に答える余裕は、誰にもなかった。床に横たわるルーシーの様子を目にした瞬間、ニッカの表情から一切の余裕が消え去った。震える瞼、荒い呼吸、そして端末の画面に流れ続ける異常な信号の羅列。

 

 視線を落とした先で、端末の表示が異様な速度で書き換わり続けているのが見えた。見慣れたはずの通信ログの形式ではない。もっと古い、もっと深いところから浮かび上がってきた何かの残骸だった。

 

 喉の奥で、彼女は小さく息を呑んだ。

 

「……嘘でしょ」

 

 膝をつき、ニッカはルーシーの首筋のポートへ視線を走らせた。前世の記憶にある知識を総動員しても、目の前の症状をすぐには言い当てられなかった。ただの過負荷ではない。何か、もっと根の深いものが、この体を内側から侵し続けている。そのことだけは、はっきりと感じ取れた。

 

「メイン。今すぐ、作業台の上へ運んで」

 

「……大丈夫なのか」

 

「分からない。でも、ここに寝かせたままより、ずっといい」

 

 迷っている時間はなかった。判断を誤れば、取り返しのつかないことになる。その予感だけが、ニッカの背筋を冷たく貫いていた。

 

 短い指示に、メインは黙って頷いた。太い両腕でルーシーの体をそっと抱え上げ、作業台へと運んでいく。その足取りは、いつもの豪快さとは似ても似つかないほど慎重だった。

 

 誰も口を開かないまま、ケーブルに繋がれたままの体が、静かに横たえられた。端末の画面には、なおも異常な信号が流れ続けている。その光を見つめながら、ニッカは奥歯を強く噛みしめた。

 

 外周の持ち場から駆け戻ってきたキーウィが、作業台に横たわる弟子の姿を目にした瞬間、足を止めた。

 

「……すぐ戻る、と言ったはずだったんだがな」

 

 自嘲めいた呟きが、誰にも届かないほど小さく漏れた。呼び出しに応じたほんの数分の判断が、これほどの結果を招くとは、彼女自身も予想していなかった。悔恨の色が、いつも冷めた表情の下に確かに滲んでいた。

 

「私が、目を離さなければ」

 

「今、それを言っても仕方ない」

 

 ニッカの短い一言に、キーウィは口を噤んだ。責任の所在を探ることよりも、まずやるべきことがある。その優先順位だけは、誰の目にも明らかだった。

 

 ニッカは指先を通信ログへ滑らせ、書き換わり続ける羅列を一つずつ手早く辿り始めた。頭の中の攻略知識をどれだけ漁っても、この種の症例に行き当たったことはない。だが、ただの偶然でないことだけは、画面の向こうから確かに伝わってきていた。何か古い、根の深いものが、ずっとこの少女に纏わりついていたのだ。

 

 ケーブル越しに繋がれたままの意識の奥で、今この瞬間も何かが軋み続けている。その正体を突き止めるまで、誰も安心して眠ることはできそうになかった。

 

 トタン屋根の隙間から差し込んでいた西日は、いつのまにか完全に沈みかけていた。格納庫の中に、誰の言葉もない静寂が広がっていく。その静寂の重さだけが、これから起きることの大きさを、はっきりと物語っていた。

 

 誰も動けないまま、時間だけが緩やかに過ぎていく。横たわるルーシーの胸が、浅く上下を繰り返している。その呼吸の一つ一つを、格納庫にいる全員が、息を潜めて見つめ続けていた。

 

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